うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『天安門文書』張良

 本書は天安門事件発生前後の情勢と中国首脳部の動向を記録した内部告発文書である。告発者はアメリカの中国研究者に記録の編纂を託し、刊行までかこつけたという。序章と、天安門事件の四年ほどまえからの情勢、および一九八九年四月からの学生運動の推移と「六・四」当日までの記録からなる。

 序章で全体が要約されている。共産党は派閥争いの場である、地方は独立を保っているがそれでもなお最終権限は中央にある。そのことは、軍の存在感の大きさが示している。

 

 毛沢東が自分に都合のいい報告だけを受け入れ、自らも欺いていたのとは違って、鄧小平は情報を偏見なく受け入れることを信条としていた。ところが軍および共産党首脳は情報は受け入れたが分析が得意でなかった。天安門事件は回避できる可能性があったが、学生側と政府の誤解や判断ミスが重なり、最終的に虐殺となった。

 鄧小平の裏には緊急時の決定をゆだねられた八老といわれる長老たちがいた。彼らは毛沢東の側近からなる。天安門以後共産党の頂点にのぼりつめたのが上海市長だった江沢民である。胡錦濤は事件当時西蔵を担当していたため直接の責任や関与はなかった。新華社はマスメディア兼情報機関であり、事件当時も各国の報道などを共産党および人民解放軍の情報部に報告していた。

 共産党が独裁党であり、国務院は内閣にあたる。中央軍事委員会は軍の統帥権をもつため、中央軍事委員会の代表の役職をもつものが実質的な実力者である。

 事件の当事者はほとんど死亡しているか引退しているが、首脳部の派閥は争いが生まれるのをおそれて事件の見直しをおこなおうとしなかった(江沢民時代)。

 鄧小平の改革開放時代から一貫して変わらないことは、国民の生活向上や経済発展が共産党統治の強化のための手段にすぎないということである。

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 改革開放経済は七十年代末よりはじまったが、これにともない政治の自由化要求も頭をもたげてきた。八六年当時の総書記胡耀邦および首相趙紫陽は政治改革に肯定的だったが保守派の長老陳雲、李先念、彭真は反対した。鄧は胡耀邦を辞職させ趙紫陽総書記の座にすえ、副首相には李鵬を置いた。

 経済発展に比例して犯罪(経済犯罪を中心とする)の数も激増した。金銭をめぐるあらゆる犯罪が増加し、また労働改造所(通称労改=刑務所)での暴動も頻発した。

 中央に寄せられた報告によれば学生、大卒者、高学歴者、経営者のあいだに「思想の混乱」が見られ、とくに学生は共産主義を否定するもの、TOEFLTOEICで海外脱出だけを目指すもの、マージャンかブリッジに金と時間を費やすものであふれているという。

 八九年四月十五日、胡耀邦が心臓発作で死亡すると、学生たちは追悼の意をあらわした。胡耀邦は学生たちにとって自由化の象徴だったので、この追悼集会をきっかけに自由化デモがはじまり、要求と行動は激しくなった。

 学生の非難にさらされたもののひとつに共産党幹部の汚職がある。官倒とは、幹部が国営から安く仕入れたものを自由市場で高値で売りさばくことをいう。

 幹部の学潮(学生運動)解釈は、学生たちの要求は愛国心憂国心から出たものだが、一部のやから、敵がこの運動を利用しようとしている、というものだった。自由化や海外の目、ソ連の動向などがあるため、露骨に弾圧することはできなかった。政府は治安機関に武力を用いないことを命じ、学生との対話をおこなうなど自体の収拾につとめた。政府内でも、政治自由化を肯定する穏健派の趙紫陽らと、秩序維持を第一目標とする李鵬や八老などの意見の相違があった。「世界経済導報」を廃刊にした江沢民は、手柄をたてたとして鄧小平ら八老から賞賛され、次期総書記への一歩を踏み出す。

 五月に入ると、若干歩み寄りの姿勢が見られるが、すぐに事態は悪化する。趙紫陽アジア開発銀行での演説は学生たちに運動の口実を与え、一方趙紫陽李鵬、鄧小平ら八老とのあいだに深刻な対立をもたらした。学生たちは官僚の汚職、インフレに不満を抱きハンストを開始した。北京でのデモの盛り上がりに全国でもデモがおこり、またイスラム系住民などの直接かかわりのない騒擾も発生した。趙紫陽は健康の悪化とともに自説を曲げず学生に理解を示す行動をたてつづけにおこしたため、失脚は免れなくなった。

 鄧小平らは五月半ば、戒厳令人民解放軍の出動は不可避であるとの考えに達しつつあった。五月十九日、上層官僚(公務員は政府・党・軍にかかわらず統一の階級がある)たちの会議で戒厳令の発動が発表された。

 全国から軍団が戦車・軍用車両で出動したが、「情勢を理解しない民衆」らの人間の壁によって目標地点である北京中心部に到達できないでいた。北京の三十八軍の司令官は出動命令に背いたため「健康の回復のため」病院に送られた。

 市民たちのあいだにはデモにたいする嫌悪も広まっていた。これまでは支持していた大衆だったが、文革の再来をおそれる気持ちが生まれはじめていたのだ。

 五月二十一日の八老会議で、次の総書記をだれにするかが議題にのぼる。ここでは江沢民や万里などの名があがるが、李鵬はほとんど相手にされなかった。八老は李鵬の能力に疑問を感じており、また李鵬があまりに国民から敵視されているため総書記は勤まらないだろうとみていた。

 つづく八老の御前会議で、江沢民総書記になる手はずがととのえられた。五月三十日、江沢民は鄧小平、陳雲、李先念ら超級長老(最有力八老)と接見する。一方デモは月末に入り下火になっていたが、一部の学生は抵抗をつづけていた。

 六月二日、私服の解放軍ジープが北京市内で歩道にのりあげ三人の通行者が死亡した。軍人は逃げたが、ジープにナンバープレートがなかったことから、深夜にもかかわらず五千人ほどの市民がかけつけた。ほかの地区でも孤立した部隊を市民が包囲するなど、険悪な雰囲気がつくられつつあった。

 三日から四日未明にかけて掃討と広場の排除がおこなわれた。

 

天安門文書

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