うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ポル・ポト伝』デーヴィッド・チャンドラー

 「ポル・ポト」は政権奪取時につくられたペンネームであり、どこにでもある平凡な名前である。彼の秘密主義は徹底しており、ポル・ポトの正体がカンボジア共産党書記サロト・サルだと判明するのに一年が費やされた。

 

 一九二八年、王家の遠縁として生まれたサロト・サルは幼少時に僧院で数年の教育をうけたあと、フランス式学校にうつり、その後フランスに留学する。彼を知る人間はみな、ポル・ポトは「上品で物柔らか」だったと語り、その後の所業をまったくうかがわせることがない。クメール・ルージュの残虐性が彼の人格のどこからやってきたのかがわからないのである。

 カンボジアはフランス植民地となっており、役人にはベトナム人が登用されていた。一九四〇年の仏タイ戦争でカンボジアは北部領土をタイに譲渡する。まもなく日本軍が進駐し、フランスがどん詰まりの状態になるなか、サロト・サルはフランス高等学校(コレージュ)に入学する。

 彼がフランスに留学していたとき東南アジアは激しい変革の地となっていた。インドシナ共産党傘下のベトナムラオスカンボジア共産党が反植民地闘争を決議した。欧州はスターリン体制の絶頂期であり、中国では毛沢東が政権をとった。サルが共産主義者となり、フランス共産党に加入したのも、この華やかな時代のことだった。

 五二年にカンボジアに帰国したとき、サルは「政治アニマル」に変身していた。彼はスターリン主義共産党史などを読んで、権謀術数、奸智、秘密主義を身につけたという。帰国後しばらくは教師と共産党員の二重生活をつづけ、シアヌークの弾圧の手がせまるとジャングルに隠遁する。

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 大戦後のインドシナ情勢は各国が密接につながっており、ベトナム戦争単体、カンボジア内戦単体で考えることはむずかしい。

 ベトナムは同盟国である中ソの対立のあいだで自身の立場を調整することに苦心していた。カンボジアでは、シアヌークが専制をおこなって以来、対外的にはインドシナ紛争からの中立不干渉、対内的には共産勢力の弾圧を方針としていた。だが北ベトナムと米軍はカンボジア領内でも戦闘をおこなうようになり、シアヌークは紛争に巻き込まれた。共産勢力に対する弾圧や、米国からの軍事支援は、カンボジア国民の多数を左翼に走らせる原因となった。

 シアヌークがフランスに行くと、ロン・ノル将軍がクーデターをおこし政権を奪った。

 ポル・ポトカンボジア共産党の幹部として地下活動をおこない、北ベトナムと連絡をとっていた。このとき彼はまだ親ベトナムの姿勢を表明していた。ロン・ノル打倒という目標の元に、ポル・ポトシアヌークを担ぎ上げ、北ベトナムの軍事支援を得ることに成功した。

 プノンペンを制圧すると、ポル・ポトは都市民の集団移動を決定した。ゲリラは彼ら都市住民を「敵」と定めた。プノンペンに集まっていた人間は「四月十七日の人民」と呼ばれ、「人間以下であり、特典も権利も何もない存在」とされた。

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 ポル・ポトは政権をとると「四ヵ年計画」を発表した。これはポル・ポトの書いた夢物語のかたちをとっており、米の生産があらゆる問題を解決できると主張していた。具体的な方策には触れておらず、クメール・ルージュに統治能力がないことは一目瞭然だった。

 一方、スターリンと同様ポル・ポトは被害妄想にとりつかれた。彼の粛清を恐れる幹部は、業績をあげるため、多数の人間にスパイ疑惑をかけた。容疑者はS21という収容所に送られ、拷問による自白を強要されたのちに処刑された。容疑者の嘘自白に基づいて、容疑者の知り合い、家族も同様に処刑された。

 ポル・ポトはCIAやベトナム共産党のスパイ、ソ連の情報機関などがカンボジアに巣食っていると考え、これらを根絶しなければならないと何度も主張した。

 民主カンプチアポル・ポト政権時の国名)はベトナムと敵対関係にあったため、同じくベトナムと敵対していた中国・米国の支援を受けることができた。七九年、ベトナム軍がプノンペンを制圧しポル・ポト派がふたたびジャングルに舞い戻った後も、米国、中国の支援はつづいた。隣国タイは軍政・資本主義国だったが、ポル・ポト派の逃げ場を提供するかわりに、タイ共産党の支援を中止させるという協定を中国と結んだ。こうしてポル・ポト派の秘密基地はカンボジアの国境付近やタイ国境付近に建設され、その後も存続した。

 完全な共産主義国、独立支配という言葉を頻繁に用いたポル・ポトだが、彼の活動は一貫して大国に依存していた。

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 晩年のポル・ポトは「森の僧」のような存在になった。彼はジャングルの奥深くで空想的な国家建設計画を語りつづけ、幹部や兵士はこの説教を聴いて涙を流した。米中タイの支援があったからこそ生き延びたのだろうが、このような人物があたかも十二イマーム派の伝説のごとき存在になったのは複雑怪奇である。

 本書を読む限りポル・ポトは狂信的宗教家といった印象を受ける。

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 カンボジアの伝統的「反英雄主義」とは、謙虚で静かな態度を重んじることをいう。僧侶の態度が世間で尊敬されるので、ポル・ポトはこれにしたがってふるまった。

 

ポル・ポト伝

ポル・ポト伝