うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『弾左衛門とその時代』塩見鮮一郎 ――江戸から明治にかけてのえた頭と被差別民の歴史

 本書では江戸時代の穢多頭弾左衛門の実態を検討する。

 最後の弾左衛門である集保・弾直樹の人生に特に焦点をあてている。

 

 1

 皮革は家光の頃までは輸入していたが、鎖国と同時に、国内の死牛馬を使うようになった(屠殺は禁じられていた)。

 捨場に置かれた死牛馬を定期的に点検する役回りが穢多の仕事だった。

 明治以降、農民は反近代的運動の一環として穢多村をたびたび襲撃した。

 

 部落の責任ある組織でもって地名を段階的に公表して、それでも差別がおこらないのが、わたしたちの目標になる。

 

 

 2

 弾左衛門町奉行の配下であり、その本来任務は警察・司法の補助だった。

 江戸時代は身分を外見で示したため、非人は散切り頭、渋染か藍染の服を着なければならなかった。

 乞胸や猿飼といった大道芸人は維新とともに姿を消し、文化は地方に追いやられていった。代わりに下級武士たちが西洋から芸術文化を輸入した。

 

 

 3

 弾左衛門集司は摂津国住吉村中之町(現在の神戸市東灘区住吉宮町)から連れてこられ襲名した。中之町も被差別部落であり集司はその頭の家の子だった。

 天保の時代1843年、埼玉県越生で「鼻緒騒動」が発生した。農民たちが、被差別民による鼻緒の専売に反抗し、これに対し近隣の部落民が抗議を行った。

 このとき集司は被差別民に対し冷淡な対応を行い、また自身も監督府行き届きとして押込め、弾左衛門を引退させられた。

 

 最後の弾左衛門である弾直樹(弾左衛門集保)の時代に幕府は崩壊しつつあった。

 このとき弾左衛門町奉行とかけあい、身分の引き上げを懇願した。同時に、薩長討伐のために非人たちを作業員として差し出した。

 非人からなる部隊は幕府から銃を与えられ浅草田原で訓練を行ったが、幕府軍が早々と全滅したため出番はなかった。

 新選組等の幕府軍が京都に向かったとき、非人部隊は大阪で荷役作業員に従事している。

 こうした貢献もあり、明治維新前に弾左衛門は武士と同格にまで引き上げられた。

 

 明治新政府に対し弾左衛門は挨拶に伺い、引き続き非人の管理と、江戸の警察・警備任務を任された。これは処分された大名や武士に比べて格段にましな待遇といえた。

 

 大久保利通天皇が上京する際に、弾直樹に対し非人や浮浪者の取り締まり、警備情報収集を指示している。

 

 弾左衛門と非人の関係は継続するかにみえたが、明治政府が身分解放令において穢多非人身分を消滅させたため、弾左衛門の特権も失われた。

 非人や乞胸、猿飼らが解放後まもなく離散し消滅したのに対し、長吏すなわち穢多身分の部落はその後も残存した。

 弾直樹は革靴製造業を始めたがうまくいかず倒産し、三井が経営の実権を手に入れた。

 

 弾直樹は1889年(明治22年)死亡した。

 

 

 4

 弾左衛門は江戸開府とともに徳川に認定された制度だが、非人を統治する制度そのものは中世から存在した。

 

 

 5

  ***

 頼朝御証文において、長吏に従うとされた身分たち。

 頼朝御証文は『弾左衛門由緒書』に添付された史料で、頼朝が弾左衛門にたいし賤民の頭となることを認めたもの。

 『由緒書』が偽書の疑いが濃厚であるためこの史料の真偽も怪しい。

 

 長吏:穢多・かわた身分のこと

 座頭:盲人、琵琶、筝曲、四弦や針灸、按摩に携わる

 舞々:踊る人

 猿楽

 陰陽師

 壁塗:左官や泥工

 土鍋師

 鋳物師

 辻目蔵:盲人の雑芸人。当道座に属していない

 非人:

 猿曳:猿飼ともいう

 弦差(つるさし):弓をつくる。京都では犬神人(いぬじにん)とよばれ、八坂神社に隷属、屍体処理を行った

 石切:

 土器師:かわらけしともよむ

 放下師(ほうかし):僧形の雑芸人

 傘縫

 渡守

 山守

 青屋(藍屋):藍染めの仕事

 坪立(つぼだて):壺に係わる

 筆結(ふでゆい):筆を作る

 墨師:

 関守:

 獅子舞:

 蓑作り(みのつくり)

 傀儡師

 傾城屋:遊女屋のこと

 鉢敲(はちたたき):念仏踊りの一種

 鐘打(かねうち):一遍上人の付き人、埋葬の仕事

 盗賊

 湯屋

 人形舞

 

  ***

 

 

 

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これから買いたい本 ――コソヴォ、モンゴル、日本軍

 2カ月弱読んでいたジュール・ヴェルヌ海底二万海里』が終わったので、『バスクバスク人』を読んでいます。

 『海底二万海里』は、ノーチラス号の冒険や、ネモ艦長と主人公との関わりがおもしろく、久しぶりに読み通しました。

 

 

 トゥキディデスの『戦史』は、ようやく半分を過ぎたところです。

 戦争をめぐる国や人びとの動きは、紀元前も現代も共通しているところが多いと感じます。

 

 

 

 いま買おうと思っているのは次の本です。

 

・ドイツ兵による第二次世界大戦回想録

 

コソヴォ戦争に関する数少ない通史

 

 

・モンゴルに関する歴史書で評価が高い

 

 

・日本軍に関するエッセイは多数出ているが、この伊藤氏の本は全体的に価格が高く後回しになってしまう

 

 

 

 

『日本残酷物語2』 その2 ――ブラックとしか言えない昔の生活

 

 山の騒動

 大坂冬の陣と同時に発生した紀州北山の一揆には、熊野の山伏たちも多く参加したが、浅野家により鎮圧され、発起人や参加した村人たちが数百人処刑された。

 宮崎県(日向)椎葉村におけおる土豪らの抵抗について。

 

 石徹白騒動

 越前石徹白(いしとろ)には社家山伏が居住しており、代々神祇白川氏の統治下にあった。室町になり吉田(卜部)氏が進出し勢力争いが始まった。社家の合議体制で成り立っていた村では、吉田家の後ろ盾を得た上村豊前が支配者となった。

 豊前寺社奉行所の判決を用いて96家族500人強を追放した。そのうち72人の社人が餓死し、その後訴状によって豊前らは死罪となった。

 山の住民たちはまた、検地や隠し田の摘発に対抗して一揆をおこした。

 

 北上山地

 日本のチベットと呼ばれる北上山地は、兵役甲種合格者を多数出すことで知られていた。

 

 しかし乳幼児死亡率がもっとも高かったこの北上山地から、兵隊の甲種合格者をいちばん多く出したとは、何という皮肉な事実だろうか。その甲種合格者たちも、多くは非道な戦争で死んでしまった。

 

 以下は戦後の風景である。

 稗の生産……人糞尿と種子を樽で混ぜ、手桶にくんで素手でまく「ボッタまき」を行った。

 雇われ労働者型の炭焼きは「やきこ」と呼ばれ、失敗者や土地を持たない者が従事した。

 山林地主はやきこを働かせ、悠々と暮らした。

 生活の厳しさから、主な楽しみは濁酒と性行為だった。濁酒は村内の融和がないとつくれなかった。警察の摘発は主に密告によるものだからである。

 

 ハンセン病患者について……山地に一定数患者がいるが、村の恥とみなされ幽閉されていた。市役所の担当職員はうまく村に溶け込み、患者を療養所に案内することを職務としていた。

 

 伊那谷の山村……味噌を重宝し、動物性たんぱく質をとるために虫やヘビを食べた。村にはオヤカタと呼ばれる領主に近い百姓と、ヒカンと呼ばれる小作人がおり、領主と家来の関係に近かった。

 

 むかしから獣害を避ける鉄則として、「熊山騒げ、犬山黙れ」といわれている。――犬山、狼のいる山では、物音をたよりに狼がよってくるから、静粛にしてじぶんの存在を気づかれないように、ふるまえというのである。

 

 猪狩りのため、ウツ鉄砲やフミハズシといった鉄砲罠を獣道に仕掛けた。

 

 夜這いは通常3人で行い、外に待機した2人が見習い兼補助者である。夜這いの風習は徐々に廃れたが、代わりに売春業が多くなった。

 

 砂丘は不毛の地だがそれでも人が住み、塩田を作った。砂の飛散を防ぐため、防潮林、防風林形成のための植林が江戸時代以前から行われていた。

 鹿児島県のシラスは不安定な土壌であり、台風や長雨などによって崩壊を起こす。

 

 

 3 北片の地

 蝦夷

 北海道の開拓者たちは、行きの舟でコレラが蔓延したため、腐乱死体とともに目的地まで運ばれた。

 泥炭地の開拓は過酷であり、子供はよくくる病にかかった。

 耕作に向いていない火山灰地では酪農がおこなわれたが、資本が必要だった。

 凶作により集落に対して救済米が配給されたとき、処分に困り学校の給食となった。しかし集落では米を食べることなどめったになかったので副食は一切与えなかった。

 

 第二次大戦中、国民精神作興のためとのふれこみで、日を決めて梅干し入りの握り飯でがんばろうという指令が中央から流れてきたときに、怒ったのはこの地方の人びとであった。

 

 「おれたちにそんなぜいたくなまねはできない。そんなぜいたくなことを耐乏生活と考えている政治家の顔が見たい」

 

 北海道の土地の多くは泥炭地、重粘土地であり、開拓には困難がつきまとった。

 

 虫

 アイヌや開拓民は無数の吸血虫……蚊、ヌカカ、アブ、ブユに苦しめられた。毒虫の大群は雪解けから11月まで消えることがなく、農夫はいぶすものを口にくわえて作業するか、顔に手ぬぐいをまいた。

 ヌカカの大群は煙のように襲いかかり皮膚はさされて腫れ、口と鼻に入りこみ呼吸困難になったという。

 トノサマバッタによる蝗害や、ブランコケムシの大量発生による鉄道運行停止について。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

 クマ

 クマは開拓が進み集落ができてからも、人間や家畜を襲い続けた。石狩沼田村では家族とアイヌクマ狩り銃士らが惨殺された。大正14年、三毛別部落では10人がクマに殺された。

 

ja.wikipedia.org

 

 山火事

 明治44年、山火事のために稚内・宗谷の市街地がほぼ全焼した。

 

 虹別原野の移民

 本州や四国から移民してきた人々の体験談では、春の雨霧や6月の霜で凶作に苦しみ、また黄金虫が作物を食い尽くす被害が語られる。冬が近づくと夜逃げ、逃亡が相次いだ。

 

 戦災疎開移民団

 空襲被害を逃れて東京から移民してきた人びとは、貧しい資本で作物を育てていかなければならなかった。

 

 おわり

 

 

 

『日本残酷物語 2』その1 ――ブラックとしか言えない昔の生活

 ◆所感

 貧困や過酷な自然環境の下で生きてきた日本人の歴史について。

 

 1

 対馬

 対馬は古来から朝鮮貿易の中継所として使われてきたが、土地は非常に狭く平地も少なかった。江戸時代には鎖国政策にも関わらず、他国(上方や九州)の密貿易業者たちは7千人規模で滞在していた。

 対馬自体が離島であるため、犯罪者は拝領奴という底辺下男として武家の家等で働かされた。しかしほとんどは逃げ出し、最底辺の人間として一生を終えた。

 住人の生業は漁業と小規模の畑で、漁民は朝4時から夜中の1時まで働いた。食糧不足のため、部外者を受け入れないよう村のしがらみは強固だった。

 対馬のさらに離れ島で妻と2人で生活した老人の話。

イカ釣りとスルメ製造

コレラの流行による大量死

 

 薩南十島

 薩南諸島は九州から奄美、沖縄、そして台湾に続く飛び石に似ており、古来、東南アジアとの交通路として用いられてきた。薩南十島への定住の歴史は古く、言葉は薩摩方言より関西に近い。

 薩南諸島奄美は、鎖国によって外界から閉ざされ、明治以降は技術や交通の発達から取り残されてきた。十島村トカラ列島自治体)の役場は島にはなく鹿児島市にある。

 昔、島には船が停泊する港がないため、島民が舟を出して物資や郵便を受け取る必要があった。

 各離島……鼠が作物を食い荒らした。アブ、蛭、蚊が大量におり裸でいるとすぐに体中を刺された。

 漁業や作物栽培も明治以降行き詰まり、生活扶助(生活保護)を受ける者の割合は本土よりも多かった。

 長い間医師がおらず、貿易船が疫病を持ち込むたびに大量に島民が死んだ。

 

 先島諸島

 奄美大島以南はアジア大陸の影響を古来から受けてきた。明治26年、南方を探検した青森県士族笹森儀助について。

 先島……石垣島西表島与那国島は、琉球王朝沖縄本島)から搾取されていた。与那国では美人の娘を接待に利用するため、来訪者が子供を妊娠させる事例が多かった。

 那覇には売春宿が栄え、多くの島民が性病にかかっていた。

 西表島には三井組の経営する炭鉱があり、懲役囚や、内地からだまされて連れてこられた炭鉱夫(老人、子供ふくむ)が監禁状態で働かされていた。

 カタツムリの使用法……飢饉のときに食べる、土に混ぜてこねて器にする。

 沖縄諸島はたびたび大型台風に襲われ、そのたび飢饉に苦しんだ。宮古島では軍政時代、多くの島民が蘇鉄を食べて中毒になった。

 奄美大島は1604年、薩摩藩琉球入りのとき征服され、沖縄本島とは異なり直接統治されることになった。薩摩藩は恐怖政治を敷き、旧体制の士族らを没落させた。

 大島には家人(やんちゅ)とよばれる奴隷制度があった。これは古代の家人(けにん)の変種とされている。家庭で使役される奴隷身分は明治政府による廃止令後もしばらく残った。

 薩摩藩は大島に対し黒糖を年貢米の代わりに納めるよう指示し、島民は藩庁と代官(横領が多かった)とに苦しめられ、自分たちは少しの砂糖を使うことも許されなかった。

 維新後も大蔵省の警告を無視・隠蔽し、商社をたて奄美諸島に対する砂糖黍の買い上げ制度を続けたが、西南戦争後ついに廃止になった。しかし自由取引解放後は、砂糖業者に騙される例が多かった。

 

 沖縄の離島苦

 沖縄は字(あざ、村に相当)を中心とする極度の村社会であり、部外婚は許されなかった。平和な時代の後、1606年の薩摩の支配が続いた。琉球は表向き清朝の柵封国家だったが、薩摩は自分たちの存在を清国からは隠すよう命じた。実態は、琉球は薩摩の植民地に等しかった。

 明治維新後、薩摩出身の奈良原繁は、教員、警察、管理を鹿児島出身者で固めた。

 戦争中は、二級市民としての汚名を晴らそうと積極的に戦争協力したものの、戦後は米軍による婦女暴行や略奪に苦しんだ。この時期までには、沖縄は村社会の集まりを脱し県・国としての意識に目覚めていた。

 

 世十年前には、ある村に、何かの不幸があっても、それは、その村だけの不幸であり、他村の人びとは、そのことについて何の関心も示さなかったものだ。……沖縄人は、この四十年のあいだに、とくに戦後の十五年のあいだに、完全に近代人になり、権利意識と相互連帯の意識を身に着けている。

 

 伊豆七島

 青ヶ島について

 

 

 2

 山の住民

 サンカとは、里に住まず山で生活していた人々を指す言葉だが、実態は不明確である。かれらは村里と隔絶していたわけではなく、里に下りてきて取引なども行った。

 他に鉄の生産に従事するタタラ者や鍛冶屋も山で生活していたが、かれらは原料である鉄や燃料材木が尽きると場所を移動していった。

 木地屋は木工を特技とする人びとで、滋賀県を拠点にしていたが、その生活レベルは非常に低かった。

 

 便所はところかまわずそのあたりを利用した。壺などへしておくと、夜半、狼などが塩気のあるものをもとめて飲みに来たといわれる。狼がこないにしても野獣は多くて、夜間戸外へ出ることは危険であり、いろりでは火の気を絶やすことはゆるされなかった。すべてが深い警戒と用心の中で生きていかなければならなかったのであるが、それにしてもその生活は絶えず脅かされていた。良材がなくなれば居住をうつし、凶作があればまず死絶を余儀なくされた。

 

 山の人びとは、貧しさのために里から軽蔑されていた。天竜川上流の人びとは、川を下った里よりも、さらに北上した信濃の奥山と交流を持っていた。

 

 [続く]

 

 

 

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