本書は近世江戸の被差別民社会を考察する。
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1 弾左衛門のはじまり
長吏は関西では「かわた」と呼ばれる皮革業等に従事した被差別民である。かれらは当時の差別語である「えた」と呼ばれることを嫌った。
後北条氏の滅亡とともに江戸にやってきた徳川幕府は、武器製造の要である長吏を統治するために、新たな支配者として弾左衛門を置いた。
弾左衛門は正式には穢多頭弾左衛門といい、江戸町奉行の支配をうけた。各被差別民を支配し、刑場業務、歌舞伎などの興行(江戸中期まで)、市中警備、金融業で強い力を持った。
また筬(機織り機の部品)、灯心、皮革製品の専売で利益を得た。
弾左衛門は後北条氏時代に長吏をたばねていた太郎左衛門に代わって幕府から地位を得たが、支配体制を確立させたのは1725年頃、六代目集村(たねむら)の頃である。
2 弾左衛門体制の確立にむけて
弾左衛門は自らの権益拡大のために度々訴訟争いをおこなった。
享保非人出入とは、享保の時代に、非人勢力との間で行われた勢力争いをさす。
浅草非人頭車善七は、非人の増大に伴って弾左衛門からの独立を目指し訴訟した。六代集村は車善七との主導権争いに勝利し、逆に非人を自身の勢力下におさめるとともに、車善七の死後、非人頭7人を逮捕させ、3人を処刑させた。
その後、弾左衛門による被差別民支配の正統性を確立するため、『弾左衛門由緒書』を作成し、幕府に提出した。
歌舞伎については、逆に訴訟に敗れ権益を手放すことになった。
非人を勢力に従えた後も、増大する野非人の問題は残った。野非人は飢饉や失業で江戸にやってきたものが主であり、数を減らすのは困難だった。
3 被差別民の町、浅草新町
浅草新町は幕府によって定められた非人の町であり、町民からは穢多村といわれた。
長吏、猿飼は新町に住まなければならなかったが、非人は江戸一円に散在していた。
長吏の仕事……――刑吏、町の警備、斃牛馬の処理、革製品や履物、灯心の製造販売、被差別民自治機関職員
雪駄をはじめとする革製品は江戸でとくに愛好された。また長吏は斃牛馬解体や刑場業務から、医学知識も備えており、杉田玄白らの『解体新書』制作に寄与した。
猿飼……猿回し、猿舞は馬の守り神としての猿による健康祈願として、武士にとっては不可欠の要素だった。
4 江戸の非人たち
非人の分類……抱非人と野非人(無宿)
非人頭(浅草、深川、品川、代々木)―小屋頭―抱非人という組織系統。
非人は清掃、溜(病院刑務所、病院施設)の管理、刑吏の補佐等に従事したが、最大の仕事は物乞いだった。物乞いは乞胸にも認められていた。
無宿者や犯罪を犯したものは非人にされて非人頭の指揮下に入ることが多かった。
抱非人が逃げ出すことを「欠落」かけおちといった。
……「何らかの世話が必要だが、それをする者がいない」人が、抱非人に編入されている。
社会保障のない江戸時代には、野非人が増大し、百万都市江戸において1万人が野非人という時期もあった。非人という身分制度が、こうした行き場のない貧民を管理する役割を担っていた。
松平定信の非人政策については、現実を無視しイデオロギーを重視したものとして、著者は否定的である。
5 大道芸を生業とした乞胸と願人
乞胸(ごうむね)は、身分が町人であり職業が被差別であるというユニークな存在、近世的被差別民である。
願人(がんにん)は鞍馬寺に属する僧侶でありながら、乞胸と同じく大道芸を生業とする住民だった。
松平定信や水野忠邦は、儒教的世界観に基づき身分の固定化を命題としたが、実際には身分は流動的であった。
6 弾左衛門体制
弾左衛門体制は集村の時代に最盛期を迎えたが、その後は幕府の不安定化に影響を受けた。
幕府は弾左衛門に権力が集中しないよう、その権限を抑制しようと試みた。
経済状況が悪化するにつれて、弾左衛門の独占体制に不満を持つ農民や町民が現れた。
また、「鼻緒騒動」では農民と非人との対立が起こったが、幕府は農民に有利な裁定を下した。
弾左衛門自身の権勢が弱まり、弾左衛門役所の機構は強化されていった。
7 自主的開放を求めて
明治維新の際は、最後の弾左衛門集保が、身分解放を求めて旧幕府に加勢した。新政府が勝利すると、今度はかれらに対し身分の解放と、既得権益の保持を訴えた。
貧民の溢れていた江戸を統治するために、当初、明治政府は弾左衛門の支配体制を認めざるを得なかった。
しかし新政府は、弾左衛門体制や被差別民は近代国家にそぐわないとして、1871年、解放令を発し、同時に弾左衛門の特権をすべてはく奪した。
13代弾左衛門である弾直樹は皮革製造業に乗り出すが失敗した。
弾左衛門を中心とした近世被差別民の自治社会は、これから目指す近代国家日本には、存続を許されないものだったのだ。やがて国家は、……歴史の主役の1人であった被差別民を、あたかも「周辺の民」へと押しやり始める。