うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『America's War for the Greater Middle East』Andrew Bacevich その1

 ◆著者について

 著者ベースヴィッチは元米陸軍大佐で、引退後国際関係や歴史学に関する著作を発表している。特にイラク戦争以後、一貫して合衆国の軍事政策に反対している。

 息子のベースヴィッチ中尉はイラク戦争に従軍しIEDにより殺害された。

ja.wikipedia.org

 

 ◆メモ

 「大中東」The Greater Middle Eastという枠組を核として、アメリカの軍事政策をたどる本。副題に「a Military History」とあり、主題となるのは米軍である。

 非常にわかりやすく書かれており、カーター大統領のドクトリン以降、アメリカが誤った認識の下に大中東への軍事的関与を続けてきたことを指摘する。

 なぜアメリカが中東を重視するのか、どのように権益を保持しようとしたのか、そしてなぜ失敗しているのか、をベースヴィッチはっきりと示す。

 合衆国は当初、石油権益保持の為にペルシア湾安定政策を実行した。しかし介入範囲の拡大にあわせて目的も拡散し、いまは明確なゴールもなしに軍事活動を続けている。

 根本的な原因は、アメリカ自身の誤った万能感と、他者……特に中東への無理解にある。

 混沌とし、理解に苦しむアメリカの中東・アフリカ政策だが、著者の解釈によれば、そもそも当人たちの頭も混乱しているのである。

 ベースヴィッチが下す結論は、米国の利益(主にエネルギー確保)の急所でなくなった以上、中東からは撤退すべきというものである。それが実現までまだ遠い点は本人も巻末で指摘している。

 

  ***


 1部 前書きpreliminaries

 1980年4月に失敗したテヘラン人質救出作戦イーグル・クローOperation Eagle Clawについて。この作戦では、救出部隊はイラン首都テヘランに到着さえできず、途中の給油地で事故を起こし、8人の隊員が死亡し失敗した。

 

 1 選択の戦争

 アメリカが中東権益を維持する根本的な動機は石油である。石油とは何かといえば、「アメリ生活様式」の原動力である。

 70年代中盤まで、一部のタカ派が中東を軍事的に掌握することで石油供給を安定化させよと主張していたものの、中東政策の優先度は低かった。

 パーレビ2世政権Pahlaviのクーデタ支援や、アフガンの反政府勢力支援、イスラエル支援等、秘密介入・間接支援はあったものの、これまで中東には軍のプレゼンスはほぼ無く、外交官とスパイにほぼ一任されていた。またアメリカは平和利用として核開発支援を行っていた。

 1979年、イラン・イスラム革命の発生によって湾岸諸国の石油危機問題が浮上した。当時イランには5000人を超える退役軍人と契約業者がおり、ロッキード、ベル・ヘリコプター、レイセオン等の軍事企業が進出する一大権益拠点となっていた。

 カーターJimmy Carterは平和の使者として登場したが、したたかさや決断力に欠けていた。このため皮肉にも、大中東戦争の契機をつくることになった。

 1979年の演説において、カーターはペルシア湾The Persian Gulfの安定が、石油の安定、そして国家安全保障に不可欠であることを宣言した。

 冷戦末期に、アメリカは新しい軍事政策を始動させ、それは現在まで継続しているのである。

 このカーター・ドクトリンは、トゥルーマン・ドクトリンTruman Doctrineと共通点がある。

 

・重要な決定であると同時に、これまでの政策がうまくいかなかったことを示す降伏文書でもある。

・際限のない関与につながる曖昧性

 しかし、封じ込め政策Containmentとは異なり、ペルシア湾の明確な保護領化を示唆している。

 

 1979年12月のソ連によるアフガン侵攻は、一部論者から、ソ連ペルシア湾侵攻の一端だと解釈された。

 

 2 加速

 カーター・ドクトリン――合衆国によるペルシア湾権益の保持――に基づき軍事政策が実施された。

 本章では、ドクトリンに続く軍の中東戦略整備の過程をたどる。

 1980年 緊急展開統合軍RDJTFRapid Deployment Joint Task Forceの編成、海兵隊リー将軍Kerryによる具体化。

 後任者キングストン陸軍中将Kingstonは、RDJTFを中央軍CENTCOMに改変した。

 キングストンは中東各国における基地・飛行場の設置、部隊や装備の拡張を行った。

 中央軍の担任地域Area of Responsibilityは、リビアスーダン、エジプトからアフガン、パキスタンにまでいたる広範なものだった。

 中東では、いまや軍が常駐し、主導権をとり、外交がその後ろに位置するようになった。

 当初の作戦計画OPLAN1002は、ソ連ペルシア湾侵攻を阻止するというものだった。

 海兵隊大将クリストCristに続く陸軍大将シュワルツコフは、1988年着任後、作戦計画の見直しに着手した。

 1985年、ゴルバチョフの登場に伴うソ連軍のアフガン撤退、イラン・イラク戦争終結により、ソ連の侵攻に備えるという計画は、現実味のないものになっていた(空想的な計画に基づき大規模予算を獲得するという意義はあった)。

 シュワルツコフは、大中東の不安定要因をイラクの暴君フセインと定義し、イラクによるサウジアラビア侵攻を作戦計画の核とした。

 

 冷戦が終結すると、欧州で余った兵力や戦車が大量に中東に転換された。

 

 ――……冷戦の終結は、通常重要な出来事として記述されるが、米軍の編成や態様にはほとんど変化を与えなかった……新しい敵に方向変換させただけである。

 

・現在の軍首脳の指摘……中東に関しては、そもそも軍事的解決を選択したのが間違っていたのではないか。

・政策決定者や軍の作戦立案者たちに欠けていた認識が2つある。それは、歴史と宗教である。

 帝国主義時代の統治や国境画定をめぐる混乱に関する配慮がなかった。また、中東は神がまだ大きな力を持っている場所であること、宗派対立があること、近代性modernity(つまり、西洋的世界観)と相いれない面があること、に関する認識が欠けていた。

 

 こうした認識ミスの原因……冷戦時代は、核兵器開発が最重要事項であり、数学者、政治学者、ゲーム理論学者がもてはやされ、歴史学者神学者は冷遇されていた。

 

 3 神権政治の武器庫

 以後、カーター政権末期からレーガン時代を通じた中東への軍事政策を検討する。

 アフガニスタンでのサイクロン作戦Operation CyclonはCIAが主導で行った。ソ連ベトナムと同様の泥沼に引き込むために、合衆国はパキスタン経由でムジャヒディンに対する軍事支援を行った。

 特に、中盤以降に導入された対空兵器スティンガーは目覚ましい効果を発揮した。

 1989年、ソ連軍が撤退したとき、CIAの現地本部は「われわれは勝利した」と電報を送った。

 

 しかし、当時ほとんどのアメリカ人は気が付いていなかったが、この軍事支援は深刻な問題を残した:

 

アメリカが支援した勢力のなかで軍閥が台頭し、1992年から内戦が勃発した。

・難民の大量発生、都市への流入に伴う農業の崩壊、アヘン栽培の隆盛

・腐敗した社会情勢のなかから、抑圧的なタリバン政権が誕生した。

 

 アフガニスタンはテロの温床となった。当時CIA工作員だったロバート・ゲーツRobert Gates(後の国防長官)は、「対ソ戦後、アフガンは醜いものになると予測していたが、ここまで有害になるとは思っていなかった」とコメントしている。

 ムジャヒディン支援の成功は、合衆国に対し、誤った2つの教訓をもたらした。

 

・幸運は勇者に味方するFortune Favors The Bold。大胆な作戦は推奨される。

・スティンガーが示すように、ハイテク兵器は万能であり、敵を圧倒できる。

 [つづく]

 

America's War for the Greater Middle East: A Military History

America's War for the Greater Middle East: A Military History

 

 

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その3

 3代目イマームであるシャミールは1832年のギムリの戦いを生き延びた後、チェチェンおよびダゲスタン(岩山の多いダゲスタンと、森の深いチェチェン)のイマームとなった。かれはスパイを各地に潜ませ政敵や反逆者を摘発・処刑した。

 かれの名前はユダヤ人のものであり非常に珍しいがその由来は諸説ある。

 1859年、ロシア軍指揮官バリャチンスキーBaryatinskyは諸部族を懐柔しシャミールを追い詰め、グニブGhunibにおいて降伏させた。

 シャミールはサンクト・ペテルブルクで英雄として迎えられ、その後モスクワ近郊のカルーガKalugaで家族とともに生活した。シャミールの世話人を命じられた軍人ラノフスキーRanovskyは、信心深く穏和な老人であるシャミールとの生活を克明に記録した。

・シャミールの家族(妻3人、息子と娘たち)の不和

 故郷のチェチェン人、イングーシ人、ダゲスタン人の不信仰への批判

 「ロシアで育った息子が山の生活に馴染めず死んだ理由がわかった」

・シャミールの時代には、チェチェン人のトルコへの移住が始まっていた。ムスリムにとってカリフ制をとるトルコは名目上、理想の国だったからだ。

 イラクに移住したチェチェン人の中には、イラク軍の将軍に出世した者もいる。

 

ロシア革命後、ソ連赤軍コーカサスに対し異質な制度と慣習を強要した。このためチェチェン・ダゲスタンでは反乱が頻発し、1944年にはカザフスタンのアスタナ近郊に追放された。

 ロシア帝国と同じ方法でコーカサス民族を弾圧し、歴史を捻じ曲げたのは、グルジア出身のスターリンである。

 ここではヴィス・ハジVis Hajと呼ばれるスーフィーの導師が非暴力・不服従に似た教えを説き、チェチェン人の団結の中心となった。

 チェチェンは、正統イスラームではなくカーディリー運動The Qadiri(ターリカの1つ)などのスーフィーが主流となった珍しい領域である。

 今でもクラスナヤ・ポリヤナKrasnaya Polyanaの住民はほぼすべてチェチェン人であり、著者は歓迎を受けて貴重なズィクルZikrの踊りを見物することができた。

 

チェチェン紛争においてロシア軍は無差別の爆撃をおこなった。このため数十万人の民間人が死んだ。

 強制移住後、カザフスタンやクラスノヤルスクKrasnoyarskでマフィア活動をおこなったあるチェチェン人は、紛争時、グロズヌイ近郊でロシア兵の捕虜になった。列車が捕虜収容所・拷問センターに使われた。2人の息子は射殺され、自身は歯を折られ、全裸の状態で逆さづりにされ殴打された。

 

  ***

 4 ベスランBeslan、2004

・2004年9月1日、チェチェン独立派のテロリスト、シャミル・バサエフShamir Basaevの刺客が南オセチア、ベスランの第1小学校を襲撃した。ロシア特殊部隊による鎮圧作戦により400名程度の人質(主に子供)が死亡した。

バサエフは1995年にブジョンノフスクbudyonnovskの病院で人質をとり、ロシアから停戦交渉への譲歩を引き出すことに成功した。

 以来、バサエフイスラム過激派は無差別テロに依存するようになった。

 バサエフは第1次紛争終結時には英雄となったが、やがてマスハドフmaskhadov政権と袂を分かち、過激なテロリストとして悪名をはせたため人心は離れていった。

プーチンによる第2次チェチェン侵攻の原因は、モスクワやヴォルゴドンスクVolgodonsk、ブイナクスクBuynakskでの爆弾テロと、バサエフおよびアミル・ハッターブAmir Al-Khattabによるダゲスタン侵攻である。

・2002年のモスクワ劇場占拠事件、その後のモスクワ爆弾テロなどにより、ロシア社会は恐怖で覆われた。また、プーチンがテロに譲歩するようにも思えなかった。

バサエフは社会的弱者である女性を自爆テロの装置に利用していた。

 

・ドゥダエフが生きていた時代からすでに、チェチェン共和国は腐敗し始めていた。

 政府は単に権力を持つ部族グループでしかなくなった。テロと誘拐、過激派の流入が蔓延し、生まれ育った子供のほとんどは身心に障害を負っているか精神に重いトラウマを抱えた。

 かれらは過激派や暴力的な思想、自爆テロに容易になびいてしまう。

・テロリスト集団のただ1人の生き残りとして訴追されたヌルパシ・クラエフNurpashi Kulayevは、自身の弟に巻き込まれただけでありテロ行為に関係していないと主張した。この裁判は明白な政治的意図に基づいて行われ、手続きには不公平な要素が含まれていた(弁護士の非協力、通訳の不在、検察に不利な証拠や証言の不採用など)。

アフマド・カディロフAkhmad Kadyrovは1995年にムスリム指導者のムフティMuftiに選ばれた。カディロフと、大統領マスハドフは、過激派や厳格主義、ワッハーブ派流入に反対した。かれらはチェチェンの伝統的なスーフィーと思想的に対立していたからである。

 バサエフやハッターブの過激主義は、若者たちから強い支持を受けていた。

 チェチェンは内部分裂を起こしていた。武器を持ったまま職にあぶれた若者が、マフィアや過激派に吸収された。

 1999年、バサエフによるダゲスタン侵攻に対し、プーチンはロシア軍を送り込んだ。このときカディロフはロシア軍と協力したため、マスハドフバサエフから反逆者と認定された。

 グロズヌイを徹底爆撃する連邦軍の作戦によりチェチェン側は敗北した。

・バイカル人のある若者は、レスリングを生かして仕事につくためにウズベキスタンに渡ったが、その後アフガンで戦っているところを米軍に拘束された。ロシアが若者を引き取った後は、故郷のカバルダバルカルで、警察による嫌がらせと拷問が続いた。

 かれはテロの容疑により監獄に入れられ、拷問により廃人となった。

 

チェチェンを独自取材しようとした記者はロシア軍に拘束され、さらにその後、ロシア警察の雇ったチェチェン人マフィアに引き渡された。

 連邦政府の公式発表に従わないマスメディアを、プーチンは敵とみなす、という明白なメッセージだった。

チェチェン人難民の大半はオーストリアポーランドなどに向かったが、受け入れは停滞しており、特にオーストリアでは市民との摩擦が生じた。

 オーストリアでは移民排斥を掲げる極右が台頭した。チェチェンの若者は学校にも行けず、戦闘しか経験していないため、「もし雇ってくれればその国のために戦う」と話した。かれらには祖国や奉仕する対象がなかった。

 かつての独立主義者、分離派たちは国外に逃亡し、現在のチェチェンとまったく隔絶していた。チェチェンは再び家族主義に分割していった。

 

  ***

 著者の同僚だったチェチェン人は、戦い以外の生き方を選び、ロイターのカメラマンとして働いていた。しかしアフマド・カディロフの暗殺に巻き込まれ、式典中に爆殺された。

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

 

 

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その2

 ◆メモ

 本書は、コーカサス各地域に住む民族の歴史を説明する。このとき、ソ連時代からロシア帝政時代へと記述がめまぐるしく変化する。

 

 2 山岳トルコ人The Mountain Turks、1943~4

 スターリンの民族政策について。

スターリンは、ドイツ軍に一度占領されたカラチャイ人を、敵性分子として強制追放した。カラチャイ人は、ロシア帝国に早くから服属したため、チェルケス人と異なり自由を謳歌していた。

 仏教徒カルムイク人Kalmykや、直接占領されていないチェチェン人、イングーシ人も追放された。

 速やかな追放を達成するため、僻地の村では、人びとを家に閉じ込め焼き殺して処分する方法がとられた。老人や足の悪い人間はその場で射殺された。

 

コーカサス山脈の最高峰エルブリュスElbrusや、ダイキタウDykhtauの麓には峡谷gorgeが連なり、トルコ系のバルカル人が住んでいた。

 19世紀中頃には英国人ダグラス・フレッシュフィールドDouglas Freshfield等が登山探検に訪れた。その他、少数の訪問者が、革命以前のバルカル人の生活に関する貴重な記録を残している。

 ロシア帝国の統治は大変非効率的であり、役人は民族について何も知らなかった。このため峡谷では統治が行き届かず、山賊や盗賊が跋扈した。

 

 バルカル出身の革命家イスマイル・ザンキシエフIsmail Zankishiev、通称フタイKhutaiについて。

 1917年の革命と同時に、コサックと高地人、高地人同士の紛争が勃発した。

 フタイは戦闘員として富裕層を追放、殺害し、地方のソヴィエト政権を打ち立てた。かれは支配者の地位につくと、かつての腐敗役人のように振舞ったため恨まれた。

 その後一度追放されるが、スターリン時代に再び峡谷に戻ってきた。今度は、かれは山に潜伏する盗賊となった。

 フタイらバルカル人は民族政策に反対し、峡谷にやってきた赤軍を攻撃したため、スターリンは1942年11月、NKVDを派遣した。これがチェレク峡谷の虐殺The Cherek Massacreであり、数千人の非戦闘員が殺害された。

・ベリヤ率いるNKVDは、この虐殺を隠蔽するために、その後進駐したルーマニア軍が虐殺を行ったと報告を書き換えた。

 フタイは山に潜み続けたが、NKVDの野砲部隊に包囲され死亡した。かれは抵抗の象徴となった。


 中央アジア、主にカザフスタンに追放された民族は酷寒のなかで多くが死亡した。

ソ連は敵性民族を「非民族化」Unnationし、歴史から抹消しようとした。バルカル人、カラチャイ人、カルムイク人チェチェン人、イングーシ人は百科事典から削除された。

 

 フルシチョフスターリン批判以後、徐々に名誉回復がなされ始めた。

 ゴルバチョフとそれに続くエリツィン時代には、強制移住をめぐる訴訟が行われ、チェレク峡谷虐殺を実行したNKVDナーキンNakin大尉、コズロフKozlov少将らが訴追された。

 ところが、1994年以後のチェチェン紛争ムスリムコーカサス民族に対する社会の反感が増大し、プーチン政権では、再び虐殺を隠蔽する動きが目立ち始めた。

 虐殺を生き延びた人びとは、チェチェン侵攻はドイツが再びポーランドを侵略する行為と変わらない、と非難する。

 

  ***

 3 グロズヌイGrozny、1995

 ソ連の崩壊とともに、衛生諸国と同じように、チェチェンでも独立運動が盛り上がった。

 空軍少将ジョハル・ドゥダエフDzhokhar Dudaevは、エストニア独立運動を目の当たりにして、チェチェン共和国独立の指導者となった。かれはチェチェンでの生活実績がほとんどなかったが、未来の英雄として迎えられた。

 二枚目のパイロットというイメージとは裏腹に、かれは強硬な分離主義者だった。

 1994年末、エリツィンはロシア軍を派遣するがみじめに敗退した。しかし、戦争と治安の悪化は収まらず、中央アジアから帰ってきたチェチェン人も再び戻らざるを得なかった。

 

 チェチェン・ダゲスタンの反抗について。 

・1721年、ピョートル1世の時代、ロシアのダゲスタン侵攻が始まった。それまでも黒海沿岸にコサックを住ませてはいたが、ペルシアとトルコが弱体化した隙をついて、ロシア軍はカスピ海沿岸のデルベントDerbentを占領した。しかし、その後の山岳部侵攻はうまくいかなかった。

 ダゲスタンはアヴァール人Avar、ダルギン人Dargins等、40を越える民族が居住し、また言語も無数にあった。かれらは険しい山間に住み、独自の風習を守った。

 チェチェン人の間ではコーランの教えどおり、女性はラクダのように荷物を運ぶ機能しか持たない。あるチェチェン女性いわく「いまだに男が何のために存在しているのかよくわからない」。

 

 18世紀末、ウシュルマUshurma、通称シェイク・マンスールSheikh Mansurがイスラーム預言者を名乗り、ロシアに対する抵抗を呼びかけた。かれは一度ロシア部隊を全滅させたがその後捕縛され死亡した。かれは英雄となった。

 西方のチェルケス人と異なり、ダゲスタン、チェチェンの人びとは、イスラームを媒介として団結した。マンスールと前後して、スーフィー神秘主義が普及し、ナクシュバンディー教団Naqshbandiを基盤とした師弟関係が確立した。

 ギムリGimry出身のナクシュバンディー指導者シェイク・ジャマル・エディンSheikh Jamal-Edinは、ロシアへの抵抗戦争を呼びかけた。ナポレオン戦争後、コーカサス平定にやってきたエルモーロフYermolovは、グロズヌイをはじめとする要塞を多数建設し、また山岳部族の絶滅を掲げた。

 

・1854年、ダゲスタンの指導者イマーム・シャミールThe Imam Shamilの軍……シャミールの息子とシャミールの後継者ガジ・ムハンマドGazi-Muhammad部隊が、カラタKarataから南下し、グルジアに侵攻、ダヴィド・シャヴシャヴァッゼDavid Chavchavadzeの王女たちを誘拐した。その後、ロシア軍にさらわれ育てられていた息子のジャマル・エディンと捕虜交換を行った。

 この息子はコーカサスの風習に馴染めず間もなく病死した。

 [つづく]

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

 

 

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その1

 イギリス出身、モスクワ在住歴の長い著者が、コーカサス地方や、コーカサスディアスポラの集落等、様々な場所を見分しながら、「まつろわぬもの」たる北コーカサスの民族の歴史をたどる。

 

 ◆メモ

 著者はコーカサス地方や、コーカサス人の移住先を訪問し、現地の人びとから話を聞いて回る。コーカサス人の苦境は歴史から忘れさられてしまっていた。

 ロシア帝国時代から現代まで、チェルケス人、カラチャイ人、バルカル人、チェチェン人、その他コーカサスの部族は、常に迫害され続けてきた。

 追放されてからも人びとの苦難は続く。

 どんな国も異民族迫害・虐殺という負の歴史を抱えているが、ロシアはそうした記憶を葬り去ろうとしている。

 

  ***

 導入

 アゾフ海東岸に広がる草原地帯には、モンゴル人の末裔であるノガイ族Nogaisが住んでいた。1783年、エカテリーナ皇帝の派遣したスヴォーロフSvorov将軍がかれらを服属させ、このとき多数のノガイ族が虐殺された。ロシア人はノガイ族を追放し、そこにコサックCossackを定住させた。

 ステップSteppeが遊牧民の支配から解放されると、南にはコーカサス山脈があった。

 ナルト叙事詩Nart Sagaは、コーカサス地方に根付いた神話である。この神話のなかの英雄やエピソードは、コーカサス人の心性を表すものとして今も生きている。

 

  ***

 1 チェルケス人The Circassians、1864

・著者はイスラエルのチェルケス人集落を訪問した。1864年のチェルケス人虐殺は30万人の犠牲を生んだが、アルメニア人虐殺やホロコーストと異なりほとんど認知されていない。

・チェルケス人はイスラエル、シリア、ヨルダン、コソヴォ等広範囲に離散した。トルコには200万程度のチェルケス人が生活している。

 チェルケス人は、12のアディゲ人Adygeの氏族を指す。ここにカバルダ人Kabardaやウビク人Ubykhが含まれる。

・かれらにはハブツェHabzeと呼ばれる行動規範がある……その根本は敬意Respectである。男性は泣かない、老人を敬い、老人も誠実であるべきである、女性を理由なく攻撃してはいけない、客をもてなす等。

・チェルケス人は移住した国で忠実な兵隊となった。第1次大戦時、アラビアでトルコ軍と戦った英軍将校は、チェルケス人部隊の優秀さを称え、イギリスも反共防衛のため雇うべきだと主張した。

・チェルケス人が故国――ロシア連邦内のかつてのチェルケス人領土(チェルケシアCircassia)――に帰還しても馴染めず、再び移住先に戻ることが多い。

・部族のつながりが強いこと、特に若い世代は銃文化に染まっていることから、マフィアとみなされることもある。

・1830年代、対露政策のためにデヴィッド・アークハートDavid Urquhartの知人2名がチェルケス地方を旅し、歓待を受けた。

 

 チェルケス人の緑と黄の旗は、アークハートによってデザインされた。

 喜捨の習慣について。

 

・ロシアがトルコからチェルケス地方を割譲された後、ヴェリャミノフ将軍General Velyaminovはゲレンジク要塞Gelendzhikはじめとする地中海沿岸に要塞を構築し、チェルケス人討伐を開始した。

 カバルダ人Kabalda等は貴族制であり、買収により部族を平定することが容易だった。しかしチェルケス人は合議制を主とする、比較的平等な社会であり、個別に討伐していくしかなかった。

 ロシア兵は疫病や狙撃、襲撃により何度も甚大な被害を被った。一方、チェルケス人も、指揮系統の不在、統一戦線の不在から、ロシア人に圧倒され続けた。

 ロシア軍要塞の孤立した様子、劣悪な環境、地中海の過酷な気象について。

 

クリミア戦争時、ロシアに対しトルコ、英仏が敵対したにも関わらず、北コーカサスは機会を活用せず、何もしなかった。これは部族の内紛で手いっぱいだったからとのことである。

 

 英外交官ロングワースLongworthがチェルケシアを再訪したところ……コーカサス人の貴族制は崩壊し、かれらの中には、対ロシアのために部族を統合する者がいなかった。ロシア要塞による貿易封じ込めが功を奏し、ロシアとの交流を基盤にした経済が定着していた。

・武器、火薬を入手するため、チェルケス人は自ら進んでトルコとの奴隷貿易を行った。特に幼い女児は、故郷の貧しい暮らしを嫌い、トルコのハーレムに送られることを喜ぶことが多かったという。

プーシキンの作品『コーカサスの俘虜』は人気を博し、ロシア人の中にコーカサスへのイメージを植え付けた。

 その他、コーカサスの異国的なイメージを形成した作家たちについて……デカブリストの乱首謀者のベストゥージェフAleksandr Bestuzhev、レールモントフについて。

 

・1864年、ロシア軍がチェルケス人の大規模強制移住を行った。このときの惨状を、フランス人ド・フォンヴェイルDe Fonveileが記録している。

 チェルケス人は殺害、追放され、黒海沿岸から悲惨な難民となってトルコに逃亡した。トルコの沿岸都市サムスンSamsun、トラブゾンTrabzonには大量の難民が漂着し、そこで餓死者、病死者が発生した。

・ロシアはチェルケス人虐殺について黙殺している。現チェルケシアの人間はほとんど虐殺について知らない。ソチはチェルケス人追放の拠点となったリゾート地だが、虐殺から150年後にオリンピックが開催されることで一部のチェルケス人は抗議を行った。

 しかし、虐殺行為は忘却されたままである。

  ***

 [つづく]

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

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