うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『非公認版聖書』フォックス その2 

・追加と削除

 

 ――……キリスト教のテクストは、それが誕生した最初の100年間は、いわばテクストの入れ替えと書き直しの戦場のようなものだった。

 

 ――こうした問題はたしかに、ある人たちを除けばそれほど重要ではないのかもしれない。ある人たちとはどんな人たちなのかというと、聖書は神の言葉であるために、そこには一点のあやまちもないとなお言い張っている人たちである。

 

 しかし、中には信仰そのものに関わる例もある。

 イエスは本来「新約聖書」のなかで、一度も「神」と呼ばれたことがないのではないか。

 

・巻物から書物へ

 ユダヤ教における巻物(スクロール)の使用に対抗し、キリスト教徒ははじめパピルスを、その後写本(コデックス)の使用を進めた。

 「新約聖書」の正典が定められたのは3、4世紀以降とされる。「旧約聖書」に至ってはさらに後世である。

 

  ***
 3

・歴史

 ヘロドトストゥキディデスは、本人は意識していなかったが、事実の相互関係を明らかにするという歴史学者の姿勢を持っていた。

 旧約聖書の「事実」には、そういった観点はあるのだろうか。

 編纂される前の伝承部分には、当時のユダヤ人王朝の歩みを批判的に記述した箇所がみられる。しかし、モーセ五書編纂者(D)によって、このような歴史的な視点は消されてしまった。

 

ダビデからパウロ

 Dの記述する「列王記」から、ダビデは理想化され、事実は後退していく。

 

 ――われわれの目に映るユダヤ人は、あやまった歴史をたくさん書いたほどには、それほど頻繁に正確な歴史は書かなかった。しかし、事実ではないその物語が圧倒的な効力をもったのだ。

 

 「使徒言行録」の作者もまた、神のはからいという世界観に従って物語を作り上げている。

 

・発掘と探査

 イエスの死後、ペトロ、ヨハネパウロが布教を進めた時代には既に、聖地の名所旧跡を巡る旅行が行われていた。

 ただし、福音書には洞窟の記載は存在せず、イエスベツレヘム出身ではない。当時の人びとはカフィー(頭巾)をかぶっていなかった。

 聖書考古学の進展により、聖書の物語を証明することはできなかったが、聖書の起源や成立を検証することが可能になった。

 

・第五の福音書

 聖書の物語と現実に発掘された遺物との交点はごくわずかである(一部の都市の移転や、下水道整備の記述など)。

 ソロモン王の財宝や、黄金神殿の証拠は探しても見つからない。

 新約聖書ギリシア語で書かれているが、イエスやその信徒たち、ユダヤ人たちがギリシア語を話したという記録は残っていない。

 

・異教徒たち

 「列王記」等のユダヤ人史と、同時代の他民族の歴史(アッシリア人バビロニア人、ペルシア人)とを比較することで、聖書がどの程度史実に基づいているかを判断できる。

 「列王記」は、史料をもとに編纂しているだろうが、事実は「神の恩と報復」という世界観によって歪められている。

 「エズラ記」、「ネヘミヤ記」は、ほぼ同時代人が書いたため史実に近いが、編纂者は2書の前後を間違った。

 「エステル記」はペルシアの慣習や文化に詳しいが、内容は完全なフィクションである。

 

・イエス

 イエスが実在の人物である限り、それは史学、考古学の対象となる。

 屍体の埋葬場所はこれまでに何度も探索されてきたが見つかっていない。トリノの聖骸布は、14世紀につくられたものである。

 ローマの歴史資料(ヨセフス)によれば、人心を惑わしたとして磔刑にされた人物の記録が残っている。

 イエスユダヤ人によって死に追いやられたとされているが、史料ではユダヤ教のサンヘドリン(最高法院)がイエスを罰した可能性は低い。また、ポンティウス・ピラトは実際は粗暴な人物だった。

 マルコ、マタイ、ルカの福音書は、ユダヤ人がイエスを殺そうとしてピラトに圧力をかけたことが強調されている。一方、ヨハネ福音書では、イエスは捕らえられる前から既にお尋ね者である。

 ヨハネはもっとも事実に近いだろうが、それでもイエス処刑の原因を明らかにはしてくれないという。

 

預言者

 預言者は当時の中東のあらゆる宗教において存在した。

 現在、我々は預言者のことを急進主義者、反体制派とみなしがちだが、実際は、体制側……祭祀階級や律法・伝統に近い位置に立っていた。

 

・「旧約」と「新約」との照応

 「旧約聖書」がイエスの出現を予言しているという考えは広く支持されているが、多くはこじつけである。

 「ヨハネの黙示録」は、成立当時のネロやドミティアヌス帝治世を描いたものであるという。黙示録は、「堕落した現世の権力と天の完全なイメージ」を表そうとしている。

 

  ***

 4

・物語としての聖書

 

 ――したがって聖書は、実際に起きた出来事をならべて記したものではない。しかしそれはなお書物の形態をしていて、読む人びとに深い影響を与え、新しい読者をさらに獲得していく。事実の問題として、聖書が真実であろうとなかろうとそれにかかわりなくである。

 

 聖書は、イスラエルの作者とその自称後継者である教会が、神についての信念を書き記したものだった。

 果たして、聖書はつくり話と歴史と文学が混ざったものなのだろうか。

 

 ――物語のもつ力はその神性にあるのではなく、むしろ人間性にあるといってよいのではないだろうか。

 

 沈黙……説明・描写の省略が、聖書の物語に力を与えている。読者は、書かれなかった空白について深く考えるようになる。

 聖書の多くは物語でありフィクションだが、そこから人びとの物の見方を知ることができる。

 物語の中では、多くの人間が神の幻を見たり、声を聴いたりする。

 神の顕現……アブラハムは神に食事をふるまった。ソドムの挿話では、付き人を連れた神の姿が目撃される。一部の高位の人間が神に会うことがあった。

 神の御使い=天使は様々な場面で登場する。

 旧約から新約まで、「あらゆるところで神と出会える」世界観が貫かれている。

 

・神の文書

 古代には、聖書と文学(ラテン語による異教徒たちの古典)とが峻別されていた。聖書のスタイルはあまりに粗野でぶっきらぼうに思われた。

 文学として聖書を読むこともまた解釈の1つである。

 

・人間の真実

 聖書において、女性は明らかに低い地位に置かれている。当時のユダヤ教における認識を反映したものである(そしてこれは後世の教会が原始キリスト教の男女平等志向を改変したものである)。

 神の名のもとに、異民族を虐殺することがよしとされている。異教徒の作品であるギリシア悲劇ホメーロスにはない感覚である。

 聖書の出来事はほぼすべてが必然であり、神の意志・意図である。

 律法と、律法では解決できない事柄に関する善悪を提示する(タマルと義父ユダの話)。

 ヘブライ聖書において、人びとは自分たちの神が必ずしも正義を行うわけではないこと、攻撃性を持っていることを認識していた。

 聖書は、人間のあやまちと邪悪さを記した本である。そして、神はジェノサイドを推進する存在である。

 

 ――(聖書の真理とは)……イスラエルの人びとや最初のキリスト教徒たちが、あれやこれやをこんなふうに信じていたのだという真理である。

 

非公認版聖書

非公認版聖書

 

 

『非公認版聖書』フォックス その1

 「旧約聖書」および「新約聖書」を歴史家の視点から検証した本。

 

 聖書の成り立ちや、そこに含まれる事実誤認、フィクション、改変の要素について大変細かく説明する。聖書を通読したことがないと、個々のエピソードの検討を完全に把握するのは難しい。

 元々、聖書の内容に詳しい人間であればもっと理解できるだろう。

 

 本書の結論は次のようなものである。

 聖書は正確な歴史や事実を並べたものではなく、その多くの出来事や言行はフィクションか、後世の追加である。しかし、聖書を読むことで、ユダヤ人と原始キリスト教の世界観を知ることができる。

 

  ***

 1

・創世記と、キリスト生誕について

 創世記は複数の異なるテクストから成り立つ。

 7日間の天地創造物語は紀元前6世紀に書かれたが、その焦点は安息日の存在である。アダムとイブの物語はより古い紀元前8世紀由来である。

 創世記をめぐる言説の多くは、後世に定着したものである。アダムと原罪を結び付けたのはアウグストゥスである。

 アダムとイブは性欲を認識したためではなく、生命の実(永遠の命)から遠ざけるために追放された。元々、土から生まれた人間は死にゆく存在だった。

 創世記とエデンとの矛盾を解消するため、アダムとイブの子孫がユダヤ人、それ以外は別の人間の子孫であるという説が流行した。

 キリスト生誕の物語は4つの福音書で差異があり、生誕年と歴史的事実が食い違っている。おそらくヘロデ王は既に死んでいた。

 イエスはおそらく定説よりも年をとっており、50歳手前で布教を始めた。

 東方三博士はおそらく創作された存在である。正確には占星術師(マギ)の人数は定かではない。

 

 ――聖書とは、ふたつの相矛盾する物語や、ときと場所を偽った物語ではじまる異常な本といってよいだろう。何百年のあいだ、この本は信仰の源泉、信仰の基準、それに「聖典」として読まれてきた。

 

ファンダメンタリズム

 聖書を「精霊が書いたもの」と考える見方はかつて主流であった。内容の矛盾を無視できない人びと……オリゲネス等は、聖書は何かを象徴していると考えた。

 聖書が科学的・歴史的に事実に他ならないと主張する人びと……ファンダメンタリストが、現代の西洋において増加している。

 著者は、こうした聖書理解を歴史家の観点から評価することを義務と考える。

 

  ***
 2

旧約聖書の起源

 聖書は、紀元前8世紀から2世紀のあいだに作られたテクストをつなぎ合わせたものである。また、各テクストは後世の改変を受けている。

 われわれは「正典」、すなわち、聖書は特別な本であるという概念から脱して、個別のテクストを歴史的事実によって検討していかなければならない。

 

 最初のモーセ五書(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)は、J(「ヤハウェ」という言葉を使う者)やE(「エロヒム」という言葉を使う者)等、別人たちの制作物がまとめられて成立した。

 

 ※ 文書仮説(Documentary hypothesis)

 モーセ五書の4種の原資料は、J(ヤハウィスト資料)、E(エロヒスト資料)、D(申命記史家)、P(祭司資料)からなるとする説。

 

 聖書の時代には、ヤハウェは唯一の神ではなく、ユダヤ人たちは実際には他の神をも信仰していた。

 「旧約聖書」の特徴……ヤハウェによる約束、契約、選択といった概念。一神教の特徴である「契約」……ヤハウェに忠誠を誓い、ほかの神を認めないこと……の概念が登場するのは、紀元前7世紀になってからである。

 北のイスラエル王国が滅亡したことで、ヤハウェの信徒たちは危機感を抱いた。間もなく、神からイスラエル人への戒律である「申命記」(=律法)の元となる資料が生まれた。

 

 ――自分が選んだ神からすべての愛を要求する、この嫉妬深い唯一の神学は、はっきりとした現世的な価値観をもっていた。……自分の民を愛するヤハウェは不信心な隣人に対して皆殺しの指令を発した。

 ――神は気まぐれで身勝手である。

 

 紀元前539年、ペルシア王キュロスがバビロニアを攻略し、ユダヤ人たちのバビロン捕囚が終わった。亡命していた過激な司祭たちは、ユダヤ人を他の民族から分離する強力な教義を広めようとした。

 ユダヤ人の教義や生活様式を強く規定したのは「レビ記」である。

 食べ物に関する禁忌は、現在と同じく、かれらの文化的な好みや嫌悪感に基づく(蹄があり、反芻する動物は食べていい。豚は汚い。鳥は、死肉や禁忌動物を食べないものなら食べてよい。虫はイナゴだけは食べてよい)。

 

 モーセ五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)はばらばらの作者によって作られたものであるため、首尾一貫していない。

 紀元前4世紀から、「ヨブ記」、「コヘレトの言葉」、「ダニエル書」等が徐々に書かれた。その過程で除外された書物が多数あり、聖書の整理が行われていた。

 

・匿名の作者

 ユダヤ教の展開……パリサイ派エッセネ派サドカイ派の成立。

 ヤハウェエルサレムの神殿でのみ犠牲を捧げて礼拝されなければならなかった。このため、紀元前250年ごろから、エジプト在住ユダヤ人たちはシナゴーグををつくりそこで祈りの礼拝を始めた。

 紀元前2世紀頃、最古のヘブライ聖書のギリシア語訳である「七十人訳聖書」(セプトゥアギンタ、LXX)が成立した。

 物語や預言の作者は長い間伏せられてきたが、これは偽予言が当時は死罪とされていたからである。書物に権威を与えるため、偽りの作者名が与えられた。

 イザヤ書の後半部分はイザヤより数世紀後の無名の作者によってつくられている。「雅歌」、「コヘレトの言葉」は、ソロモン王の手によるように偽装された。

 かつては、1000年ごろ成立した「レニングラード写本」……「マソラ(伝統)本」が最も権威あるヘブライ聖書であるとされていた。

 しかし、死海文書の発見から始まる研究によって、聖書のテクストは多様性をもっていたことが明らかになった。ギリシア語訳聖書は、翻訳によって歪められたのではなく、そもそも当時から無数のヘブライ語文書が存在していた。

 ユダヤ人たちはギリシア哲学とは反対の方向、つまり、テクストを批判的に検討するのではなく、より宗教的な方向を選んだ。かれらは解釈や発見を行ったが「ほとんどすべては完全ないつわり」だった。

 

 ――(こうした行為は)ユダヤ人たちの、テクストを聖なるものとして尊敬する心からなされたことだった。

 

 YHWHヤハウェ)の文字は次第に隠されるようになった。

 イエスの生まれる前には、22(ヘブライ文字の数)の特別な文書が定められ、それぞれ「律法(モーセ五書)」、「預言者」、「諸書」に分類された。

 しかし、この時代にはまだ「正典」、「公認版」という概念はなかった。

 

・イエスと聖書

 イエス自身や、その弟子たち、またイエスの死後……紀元100年以降の人びとは、皆好き好きに「旧約聖書」を引用した。そのときは、ユダヤ人が定めた22の特別文書という概念は考慮されず、偽書外典も引用された。

・偽名のキリスト教

 4つの福音書はいずれもその当人が書いたものではない。

 偽の手紙の出現は、パウロの生きていた時代から認識されていた。

 「テモテへの手紙」の作者がパウロであるというのは疑わしい。「ペトロの手紙1、2」はおそらくペトロ作ではないだろう。

 手紙の作者が伝承どおりなのか、そうでないのかは、ギリシア語の文体、歴史観、史実との比較等により検討される。

 [つづく]

 

非公認版聖書

非公認版聖書

 

 

『シベリア出兵』麻田雅文 その2

  3 赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立

 イギリス:チャーチル戦争相はデニーキンに肩入れしたが、デニーキン軍がモスクワ総攻撃に失敗するとイギリス軍は撤兵を開始した。

 干渉戦争の発端となったチェコ軍団は、チェコスロヴァキア成立後も英仏の駒として使われ、内戦に巻き込まれていた。しかしチェコ軍団は反旗を翻し、コルチャークをイルクーツクのソヴィエト政権に引き渡した。軍団はその後ソ連と休戦し、1920年9月に帰還した。

 

 アメリカも撤兵を進めるなか、日本は権益確保のために1920年1月、さらに半個師団(5千人程度)の増派を決定する。一方、議会では将来的な撤兵を考えていると答弁した(原首相と田中陸相)。

 

 ――原内閣は……沿海州ならびに中東鉄道沿線に軍を駐留し続けることを、3月2日に正式に閣議決定した。これらの地域に「過激派」の影響が及ぶのは、「自衛上黙認し難き」という理由である。日本が自衛したいのは「帝国と一衣帯水」のウラジオストク、「接壌地」の朝鮮、北満州である。 

 

 日本軍は中立を命じられていたが、1920年2月、3月にかけてウラジオストクハバロフスクハルビンに次々と革命政権が樹立した。

 ところが4月に大井成元率いるウラジオ派遣軍は沿海州を武力制圧し、沿海州臨時政府と停戦協定を結んだ。

 南ロシア軍やポーランドとの戦争に苦しんでいたレーニンは、日本との対決を避けるため、ザバイカル州に、緩衝国家として極東共和国を樹立した。7月、原内閣はセミョーノフへの支援を打ち切りザバイカルからの撤退を決定した。

 ポーランドと共闘したウランゲリの白軍は1920年秋には支援を失って敗北し、ウランゲリは亡命した。セミョーノフは極東共和国の攻撃により3日で拠点チタを失い、満州を経由し沿海州に逃亡した。

 セミョーノフは1945年に大連で逮捕され処刑された。

 

 4 北サハリン、間島への新たな派兵

 日本は撤退を進める一方、北サハリンに出兵するという不可解な行動を行った。

 1920年1月、アムール河口の金鉱・漁業拠点であるニコラエフスク(尼港)を、トリャピーツィン率いる4千名のパルチザンが包囲した。

 白軍やロシア人がパルチザンに処刑されるのをみて、日本軍は武器の引き渡しを拒否、3月に戦闘が発生した。

 しかし、日本軍が航行を妨害していると考えていた中国艦隊、また多数居住していた朝鮮人パルチザンに味方したため、日本人は全滅した。

ja.wikipedia.org

 

 ――尼港事件は、現地の日本軍が、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇であった。それだけに、事件は日本の国際的な孤立を際立たせていた。

 

 国内では尼港虐殺への怒りが盛り上がり、また北洋漁業権益者による世論の操作も行われた。与謝野晶子や憲政会の加藤高明石橋湛山は報復政策に反対したが、原内閣はサハリン州派遣軍による占領を決定した。

 元々日本には北サハリンの石油資源に対する野心があり、この事件を機に保障占領しようと考えたのだった。

 北サハリンでの軍政が始まり、さらに北のカムチャッカ半島に対しても、漁民保護のため艦船派遣を始めた。

 山縣はシベリアからの撤退を提案するが原は拒否した。原はウラジオストク権益の重要性を主張した。

 

 ――……ウラジオストクに日本軍が駐留していればこそ、ロシアの過激主義者と朝鮮人運動家が結びつくようなことを防ぐことができる。

 

 1920年秋、日本は中朝露国境の間島(かんとう)地方に軍を派遣していた。これは、朝鮮人運動を鎮圧するためである。

 日本軍は400名弱を射殺したが、間島地方での討伐は中国の非難をあびた。日本は、中国政府ではなく満州軍閥張作霖と協調する方針をとっていたため意に介さなかった。

 

 5 沿海州からの撤兵

 世間では出兵への非難が強まるが、原は権益保護、自衛、過激派からの防衛を理由に決心しなかった。

 1921年11月、原は尼港事件を恨む中岡昆一に東京駅で刺殺された。間もなく裕仁が摂政に就任、翌年山縣は病死した。

 ワシントン会議で日本は撤兵の圧力にさらされた。高橋内閣に続く首相加藤友三郎は無条件での撤兵に合意した。加藤は撤兵と軍縮を断行した人物として、英米では非常に評価の高い人物である。

 このときウラジオ派遣軍と極東共和国軍が交戦しており、全面衝突間近だった。10月に派遣軍は撤退を行った。

 

 6 ソ連との国交樹立へ

 その後、後藤新平を中心にソ連との協調路線が模索された。

 1923年8月、政府は在中ソ連大使ヨッフェを日本に招待し交渉を行った。この交渉は決裂し、また直後の関東大震災で日ソ交渉も停滞した。

 1925年10月、加藤高明内閣のものとで日ソ基本条約が締結された。日本は北サハリンの開発権を獲得し、また同地からの撤兵を約束した。

 一方、共産主義の脅威に備え、同年、治安維持法を施行した。

 

・シベリア出兵犠牲者について……靖国神社によれば正式な軍人の戦死は2643人、病死690人、計3333人である。

 

 ――しかしここには、尼港事件の民間人犠牲者は含まれていない。……民間人でも在郷軍人は、日本軍の指揮下で行動して戦死した証拠があるので合祀されたい、との請願があったものの、認められなかった。ほかにも義勇兵として戦闘に参加したものや、巻き込まれた民間人の事例も含めれば、その犠牲者数は増えるだろう。

 

・病死の割合は日露戦争を上回った。

ソ連側の死者は8万人に上るという。

・シベリア出兵の教訓は生かされなかった。出兵に関する資料を、陸軍は秘密文書扱いにした。

 

 終章 なぜ出兵は7年も続いたのか

 長期における派兵の原因について著者は次のとおり推測する。

統帥権の独立

親日政権樹立に失敗……ソ連を交渉相手として認めていなかったため、交渉相手がいない。

・死者への債務……「出兵しても何も得ずでは兵を引けないという、指導者たちの負い目」

 

 ジョン・ダワーの言葉。

 

 ――人が死ねば死ぬほど、兵は退けなくなります。リーダーは、決して死者を見捨てることが許されないからです。この『死者への債務』は、あらゆる時代におきていることです。犠牲者に背を向けて、『我々は間違えた』とはいえないのです。

 

・敵と戦闘地域の拡散

 

 



 

『シベリア出兵』麻田雅文 その1

  ◆所見

 シベリア出兵Siberian Interventionは日本の歴史を学ぶ上で非常に興味深い事項である。

 出兵の顛末は、その後の日中戦争だけでなく、歴史上の様々な失敗戦争と共通する点が多い。

・どのように撤退するかの見通しが甘いまま派兵する

・ゲリラ戦に引きずり込まれ決定的な勝利が不可能となる

・既に兵と予算をつぎ込んでいるため、すごすごと撤退することができない

・人道的理由や、自衛を掲げながら、実際は権益や国際的発言力の確保が動機となっている

 ロシア内戦や中国軍閥における日本の関与を知る上でも大変わかりやすい本である。

 さらに特務機関の活動、内戦中の白軍との協力について調べる必要がある。

  ***

 

 

 序章 ロシア革命勃発の余波

 第1次大戦前夜、日露は協約関係を結んでありもっとも良好な関係にあった。

 1917年10月の革命によってソ連臨時政府が崩壊し、レーニントロツキーらによるボリシェヴィキ政権が誕生した。

 ドイツとソヴィエトの単独講和は英仏に衝撃を与えた。英仏はソヴィエト政府打倒と東部戦線の再構築を計画した。

 

 1918年3月、英軍がムルマンスクに上陸しロシアへの干渉が始まった。同時に、日米に対しウラジオストク占領と港の物資確保を提案した。

 ウィルソン大統領はメキシコ革命干渉の失敗から極東出兵に反対した。日本も、寺内首相、元老山縣らが「連合国全体の協調を待つ」とし同意しなかった。

 一方、本野一郎外相と「出兵九博士」は、シベリア治安維持と帝国の自衛、日本の発言権拡大、領土獲得を理由に出兵を主張した。もっとも、九博士は出兵後のヴィジョンを共有していなかった。

 与謝野晶子中野正剛石橋湛山吉野作造らは出兵に反対した。

 海軍は、3月に居留民保護のため戦艦を寄港させ陸戦隊を上陸させた。

 最大の出兵派である陸軍参謀本部は、田中義一を中心に、中国軍との共同行動によるシベリア進出と親日政権樹立、指導を掲げた。

 陸軍、海軍の特務機関がシベリア・ロシア、満州各地で諜報活動を行った。中露国境において日本軍工作員義勇兵は、ハルビンのホルヴァート、アムール・コサックやセミョーノフ軍などを支援した。

 

 1 日米共同出兵へ

 チェコスロヴァキア人からなるチェコ軍団(規模3万8千人程度)は、マサリクの指揮の下、ロシア帝国軍に協力していた。革命後、かれらはシベリア鉄道ウラジオストクに向かい、そこから船で西部戦線に合流しようと考えていた。

 しかしシベリアで赤軍と対立すると、装甲列車を占領しソヴィエト政府に反旗を翻した。

 チェコ軍団がシベリアで孤立しているといううわさが広まると、救出のため、アメリカは日本を誘い共同出兵を決定した。

 

 1918年8月、日本は1万2千人をウラジオストクに派遣した。続いて米国、英仏も出兵を開始した。

 出兵に連動して米騒動が発生し、約9万の軍が鎮圧にあたった。軍は機密費を新聞社につぎ込み、出兵肯定の世論工作を行った。また政府は、出兵に反対する新聞社に対し検閲や発行禁止の処置を行った。

 出兵の際、日本はアメリカとの合意を破り、7万2400人を動員した。これは他国に比べて群を抜く規模だった。

 日本軍はウスリー(沿海州)、ザバイカル州までの進出したため、アメリカとの摩擦が生じた。

 武藤信義陸軍少将は、組織効率化のため、ハルビン特務機関をウラジオ派遣軍司令官統括・参謀本部統制に改変した。

 革命勢力撃退と合わせて、沿海州を根拠としていた朝鮮人移住者、民族運動勢力の鎮圧も行った。

 

 1918年9月、寺内を継いだ原敬内閣は、出兵の抑制を目指した。原は田中義一、山縣らと協調し、兵力を2万6千人に減らすと決定した。

 しかしアメリカの不信はぬぐえず、指揮権の問題、鉄道の管理をめぐって紛糾した。

 

 ――シベリアでの内戦は、シベリア鉄道沿線に点在する都市と、それを結ぶ鉄道の争奪戦だったともいえる。……鉄道こそが内戦の行方を左右しただけに、どの国が管理するかは重要だった。

 

 シベリア東部鉄道と中東鉄道は、1919年2月、連合国管理委員会のもとに置かれることになったが、そこでも日米の摩擦が生じた。

 1918年11月には第1次世界大戦が終結し、チェコ軍団の救出も終わった。しかし連合国はシベリアから撤退せず、迷走を始めた。

 

 2 広大なシベリアでの攻防

・8月には氷点下になるため、日本軍は凍傷や酷寒に苦しんだ。

・ロシア人民を守る人道的派遣と謳われたが、パルチザンとの戦いの過程で農村集落への報復が相次いだ。

・特にアムール州は激戦地で、1919年2月、田中大隊が次々とパルチザンに包囲され約300名が全員死亡した。

 

 ――責任は兵士にはない。そもそも、第12師団は担当する地域が広すぎ、兵力が分散していたからだ。

 

・報復として日本軍はイワノフカ村を襲撃し、ゲリラと村民あわせて100名から290名が殺害された。

 

 ――パルチザンは、日本軍がシベリア全土に散ったところを狙って、ひそかに兵力を集中させた上で、施設を破壊したり、日本軍が少数なら奇襲をしかけた。勝利すると、ただちに撤退してしまうので、捕捉するのは難しい。

 

・各駐屯地や市街に売春宿がつくられ、梅毒などの性病が蔓延した。

・1918年11月、オムスクの全ロシア政府でクーデタが発生し、アレクサンドル・コルチャーク海軍中将が全ロシア軍最高総司令官となった。

 当初ブリヤート系のセミョーノフは反発したが、やがてコルチャーク指揮下に入った。

・コルチャーク政権は列強の承認を受けたが、圧政により基盤は間もなく崩れた。

 

 ――厳しい統治で民心が離れた。1919年3月中旬から、シベリア鉄道沿線に戒厳令が施行されたほか、検閲はむろん、令状なしの逮捕、裁判抜きの銃殺は日常茶飯事となる。なかには、日本軍を真似て、パルチザンに協力的とみられた村落を焼く部隊もあり、徴兵と合わせて住民の反感を買った。

・フルンゼ率いる赤軍の進軍により、1920年1月、コルチャークは司令官称号を南ロシア軍デニーキン陸軍中将に、ロシア東部の全権をセミョーノフ陸軍中将に譲った。

 首都イルクーツクで反乱が起こりコルチャークは捕らえられ処刑された。3月には赤軍イルクーツクに入城したため、各国は撤退を急いだ。

 [つづく]

 

 

 

『だから、国連はなにもできない』リンダ・ポルマン

 ◆所感

 国連の平和維持活動の実態について報告する本。

 理想とかけはなれた現実や、悲惨な事例を、実体験、報道記事を交えて紹介する。また、随所で紹介される細かい事実がおもしろい。

 国連は加盟国……つまり国際社会のリソースと意思決定によって成り立っている。国連に力がないということは、各国が、国連活動に協力する意思がないということである。

 

 日本は建前上、日米同盟と国連中心主義に基づき外交活動を行っている。

 日本国憲法には軍事行動・軍事同盟の法的根拠がない。そこで国連憲章集団的自衛権に関する規定を根拠とし、日米安保条約を締結した(『日本の外交は国民に何を隠しているのか』河辺一郎)。

 イラク開戦時には合衆国に追随して国連決議を無視する一方で、イラク特措法は国連決議に基づいている。

 建前では国連中心主義を謳いつつ、外では露骨な対米追従・国連軽視を実践しているのが特徴である。

 

 本書を読むと、国連の今の姿が、各国による振る舞いの結果であることがわかる。

 

  ***
・国連加盟国の191ヶ国のうち144ヶ国が貧困国に分類されている。

 NYの賃貸物件では「ペットと国連外交官お断り」の文言が散見される。

マダガスカルの新聞は、読者が少ないためビニール袋一束で全国分を賄える。

 

 ――世界各地に派遣されている国連平和維持軍に最も多くの兵士を送っている十か国のうち、九か国は貧困またはそれ以下と格付けされている。

 

 平和維持軍に白人がいないのは、ソマリアでの米軍兵士殺害や、スレブレニツァでの失敗(オランダ軍)、ルワンダ虐殺等に原因がある。

 

 ――「西側加盟国は第三世界が送ってきた兵士たちが最後の一兵になるまで、ここの反乱軍と戦うつもりだからな」

 

 1 ソマリア

 国連は加盟国の主権を神聖とし、内政干渉を否定する。このため、国連の青いヘルメットは、当事国の許可によってのみ存在する。

 国連は、加盟国が許可する行動しかとることができない。許可権限を持つのは常任理事国のみで、かれらでさえも加盟国に対する強制力は持たない。

 平和維持軍は「たとえ当事国の官憲が虐殺を始めても」、通常、自衛以外での発砲は許可されない。

 国連の失敗は加盟国の失敗である。国連は独自の組織ではなく、加盟国の意思の結果である。

 

 著者は国連最大の欠陥を「加盟国の主権尊重と内政不干渉の原則」と考えている。

 また、国連の運営は加盟国の分担金によって成り立つが、完全に支払っている国は本書の時点でわずか9ヶ国のみである。

 

 ――世界の平和と安全を維持するための機関は、いまやアメリカ人が毎年花屋に使う金額に相当する予算で、運営せざるをえなくなった。

 

 合衆国のソマリア撤退は次のように評される。

 

 ――この活動を提案し、実行する命令を出したアメリカは、まず船に穴をあけ、まだそれに乗っている者たちを、ノーと言えない役立たずだと非難し、次いで船を捨てた。

 

 1993年10月、モガディシュの戦いで18人の死者を出したクリントン大統領は、(アメリカ特殊作戦軍が作戦計画・実行を担ったことは棚に上げて)国連を非難した。ブトラス・ガリ事務総長はこれに反論した。

 

 ――「何事に対しても、ノーとかイエスと答えるのは国連ではない。ソマリアに平和維持軍を送ることに、イエスと言ったのは加盟国だ。国連の仕事は、そのために必要な兵士と費用をかき集めることだけだ」

 

・カナダ軍はソマリアの若者を拷問殺害し対立を悪化させていた。

イタリア軍は、平和維持軍の統制を離れ独自に活動した。

フランス外人部隊イタリア軍は、米軍の攻撃目標であるアイディード派に肩入れしていた。

・「第三世界の軍隊」は、装備を先進国から借りなければならない。兵士が死んだ場合の保証金は先進国と途上国とで差がある。

湾岸戦争以来、軍の後方業務を民間業者に委託する傾向が拡大した。

 

 ソマリアの国連基地の横には、請負業者たちが村を築いていた。そうした業者の社員は、ほとんどが元軍人だった。

 

 ――平均的な元軍人がつける仕事はきわめて少ないし、給料も悪い。銃器の扱いに慣れた、殺すために訓練された彼らがありつけるのは、せいぜいよくてもデパートや銀行の現金輸送車の護衛くらいなものだ。おまけに彼らが戦った戦争が間違ったものだったということになれば、社会的にも孤立する。

 

 ――「とにかく撃つ。質問はそれからだ」

 

 ソマリアから米軍が撤退すると、請負会社も他の紛争地域、「稼げる場所」に移動した。

 

 2 ハイチ、ルワンダボスニアソマリアその他

 アメリカはハイチへの軍事介入によって当時の軍事政権を転覆させた後、安保理において、国連に平和維持業務を引き継がせることにした。

 1991年、ハイチでの(米軍介入による)クーデタ以降、難民がフロリダに流れ込み問題となっていた。

 

 ――クリントンが国連にノーと言うべきだと助言した二日後、アメリカはハイチを包囲するため、国連艦隊の出動を要請した。

 

 ハイチは経済制裁のために国民の大半が飢餓状態にあり、10%の貴族たちは民主主義の導入に反対していた。

 アメリカ、ロシアは、ルワンダはリスクが大きいとしてフランスの増派要請を却下し、かわりにハイチに途上国の青いヘルメット部隊を差し向けるよう勧めた。

 

 3 ハイチ

 以下、ハイチに軍事介入しつつ後処理を国連に押し付ける合衆国の行動が説明される。

 米軍は極貧のハイチに上陸し、クーデタの首謀者である軍人3名を追放した。ハイチ住民は、民主主義を導入しに来た米軍を歓迎し、ハイチ兵を殺害し屍体を米兵に差し出した。

 アリスティード大統領が帰還したが、大統領官邸には水道、電気、いっさいの家具がなく、便器も盗まれている状態だった。

 クリントン大統領は、民主主義導入業務を国連に引き継ごうとしたが、ブトラス・ガリ事務総長は治安の問題を理由に平和維持軍派遣を渋った。

 

 アメリカが民主主義をハイチに植え付けたかどうかは非常に疑わしかった。

 

 ――「ここには民主主義のかけらもない。どこにもないよ。電気もないから、ブトラス・ガリにファックスで伝えることもできない」

 ――人口の75パーセントが住む残りの町村に向かったのは、特殊部隊のわずか100人だけだ。ひとにぎりのエリート兵士がそこに民主主義の種を植えたか、ましてやそれを復活させたかどうかは大いに疑わしいところだが、アメリカ人はそうしたと主張している。

 ――「いいか、わたしは言った。わたしはここに民主主義を復活させるために来た。協力しないものは撃ち殺す。われわれは特殊部隊だ。逆らうな。逆、ら、う、な! 決して!」

 ――「二十五歳以上で健康? 警察官になろう」このオープンな誘いはたちまち何万人という失業者をひきつけ、アメリカ軍は彼らを催涙ガスで採用オフィスから追い払うはめになった。

 

 4 ルワンダ 

 フランスが軍事介入し、ルワンダ愛国戦線が勝利した後の混沌状態について。

 民族浄化による虐殺を被ったツチ族の政府軍が、一転して、今度はフツ族難民を迫害していたが、国連のザンビア軍は手出しをせずにただ監督しているだけだった。

 ルワンダは、マウンテン・ゴリラを見学する観光地として有名だったが、内戦によってほとんどの自然公園職員が殺害され、戻ってきたツチ族は、ルワンダに初めて足を踏み入れる者も多かった。

 国境なき医師団(MSF)も難民キャンプでの活動を行っていたが、治安が悪く、できることは限られていた。

 1996年、ルワンダキガリからの平和維持軍の撤退が、ロイター通信によって報じられた。

 

 ――「家に帰れ! 二度と戻るな!」という叫び声に追われるように、インド兵、ガーナ兵、マラウイ兵からなるルワンダの平和維持軍は国連旗を下ろした。

 

だから、国連はなにもできない

だから、国連はなにもできない