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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ヒンドゥー教』森本達雄 その2

本メモ ◆歴史の本

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 インドの浄・不浄観には、日本をはじめとする他の文化と共通する点もある。

 ヒンドゥー教は死、血、屍を特に忌み嫌う。女性に対する蔑視は、生理、月経、出産等の血を伴う現象にも由来するという。

 インドにおいて清浄とされるのは水、火、クシャ草、牛等である。水に対する価値観の例としてガンジス河と沐浴の慣習をあげている。牛の信仰は牛だけでなく牛糞や牛の尿にも及ぶ。

 牛の信仰を司るクリシュナは、ヴィシュヌの化身とされる。しかし、クリシュナは元々バラモン教と対立する存在である。この神は牛飼いの身分で生まれ、シュードラ、原住民に支持されていた。やがてヒンドゥー教の大衆化に併せて吸収され、庶民に親しまれる存在となった。

 なお、神聖視される牛はコブウシのことを言い、街中をうろついている水牛は不浄な動物、死神ヤマの乗り物として逆に忌み嫌われるという。

 牛の殺害はバラモン殺害に等しいが、水牛は外国人やムスリム向けの食糧として屠殺されている。

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 ヒンドゥー教は人生における通過儀礼を定めており、厳格な家は今でも実践する。

 女性は、ヴェーダの供犠や学習から除外されるため、宗教的にはシュードラである。男尊女卑の伝統はこの規定から生まれた。

 女性から離婚することはできず、また離婚した女性、寡婦となった女性は穢れとして生殺しにされるため、殉死の慣習が生まれた。

 夫の火葬に飛び込んで焼死するサティの風習はインド近代化の過程で禁止された。

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 ヒンドゥー教では人生を4つの時期に分割し、家長として活動した後に森の賢者になり、解脱すべきであると説く。この教えが実践できるものはまれだが、それでも社会的地位を得た人間がやがて乞食となって聖地に向かう例があるという。

 家長として自分に与えられた職務を果たす上で、3つの人生目的……法(ダルマ)、実益(アルタ)、愛欲(カーマ)の追求が行われる。

 タゴールは林住・遊行期における境地を次のように表現する。

 ――こうしてついに、肉体の衰弱と、欲望の凋落が来る。魂はいま、豊かな経験をつんで、狭い生命から普遍的な生命へと旅立ち、普遍的な生命に自分の蓄積した叡智をささげ、自らは永遠の生命との関係に入る。それゆえに、最期に衰弱した肉体に死の時が訪れようとも、魂は無限なるものへの期待にふるえつつ、別離をいとも自然なことと観じ、悲嘆にくれることはない。

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 サードゥ(出家苦行者)は各地を放浪し、または聖地の宿舎に寝泊りして生活する人物のことである。

 かれらの多くはインチキ霊能師や詐欺師だが、中には信念を持っているものもいる。巷で見かけるサードゥは俗物ばかりというが、それでもヒンドゥー教徒たちは、かれらに対し一定の敬意を払ってきた。

 ヒンドゥーは多様な信仰形式を許容する。

 アゴール派は様々な破戒行為で名をはせた。

 

 ――N・チョウドリーによると、「大反乱中、この派の行者たちが軍隊の後に付き従い、戦死した兵士たちの死肉を食っていたという記録も残っている」そうである。

 

 以後、本章では悟りにいたるためのヨガの教義について説明される。ヨガとは本来解脱するための方法を意味する。

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 再生族と一生族……再生族にはバラモンクシャトリヤ、ヴァイシャが該当する。かれらは輪廻転生を定められている。

 シュードラや不可触民は一生族であり、かれらの命は一回きりである。

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 ヒンドゥー教を検討するにあたり、ガンジータゴールが多く引用されている。ヒンドゥー教は寛容性や柔軟性を持つとともに、身分制度や女性蔑視等の深刻な悪習も存続させてきた。

 現代のヒンドゥー教を取り扱う上で、2人の思想家は避けて通れないようだ。

 

 本書は宗教に焦点をあてたものだが、インドの政治、インドとパキスタンとの対立についても関心がわいた。

 

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)

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たとひわれ死のかげの谷を農王系 11 塔の建設 カメラ・ゲヘナ

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『ヒンドゥー教』森本達雄 その1

本メモ ◆歴史の本

 ヒンドゥー教について説明する本であり、素人にもわかりやすかった。

 

 ヒンドゥー教一神教仏教から見ても異質な面がある。しかし、ヒンドゥーの神々、儀礼、思想等は、日本にも受け継がれている。

 七福神の半数はヒンドゥーの神々由来であり、輪廻(サンサーラ)や業(カルマ)の概念もヒンドゥーが発祥である。

 

  ***
 ヒンドゥー教は、インド人口の8割を信徒とする宗教であり、かれらの生活の中枢となるものである。ヒンドゥー教は人びとの考え方、生活、組織、社会を強く規定するものである。

 信仰様式は多岐にわたり、また神々も多様である。ここでは、おぞましい女神カーリーを祀るカーリガート寺院における生贄の儀式、ホーリー祭り等が取り上げられている。

 

 ――ヒンドゥー教は、キリスト教イスラーム教のように宗教を貫く教義・信条が信仰を導くのではなく、……なによりも信仰がすべてに優先します。言いかえると、信仰が教義や信条をいかようにも自在に解釈していきます。ですから問題は尊師(グル)です。

 

 ヒンドゥー教は何でもありの宗教であるという。

  ***

 ヒンドゥー教は永遠の相を重視するため、これまで歴史的記録がほとんど残されてこなかった。その起源は、インダス文明アーリア人、『リグ・ヴェーダ』とたどることができる。

 『リグ・ヴェーダ』の信仰はバラモン教に姿を変えたが、ヒンドゥー教の発展を通して、生贄や火(アグニ)信仰等、古い形式や信仰がそのまま残っていることが多い。

 紀元前2~5世紀の『マヌ法典』には食事制限への言及はない。アヒンサー(不殺生)の教えはジャイナ教仏教に由来するからである。

 シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーといった神々の物語『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』はいまでも広く知られており、神々への信仰も継続している。

  ***

 アーリア人はインドを征服すると「ヴァルナ」(肌の色、色)制度を定めた。肌の白いアーリア人に対して、卑しい存在として原住民を奴隷の地位に落とした。これがカースト制度の原型である。

 バラモンは司祭として身分制度の頂点に立った。かれらには職業選択の自由があるが、祭祀はバラモンでなければできなかった。

 かれらの多数が、徳性も知性もない俗物であった一方、知識と哲学を重んじる文化は現代にまで継承された、とネルーは書く。

 一般的に、自分より低カーストの者の手による料理を嫌うことから、料理人になるバラモンも多かった。

 4つのヴァルナは、肌の白いバラモンクシャトリヤ、ヴァイシャと、肌の黒い先住民であるシュードラからなる。

 さらに職能別に分化した世襲身分がジャーティである。

 不可触選民は、身分差のある婚姻に関わった者や、血、屍体、肉に触れる職業の者等からなり、「アウトカースト」、「アンタッチャブル」とも呼ばれ、カースト制度から除外されている。

 

[つづく]

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)

 

 

その後の磁場

とりでポエム


 窓をあけた先に

 八方に

 ひきのばされた

 わたしの皮フがある。

 白色の

 弾力のある膜となり

 太陽風を受けて

 音を鳴らす。

 なぜなら、何もないために

 振動するからである。

 電気の帯が

 8の字をなぞって

 数字を記録する。

 朝、住民が働きにでた後、

 わたしは100本の足を動かした。

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『茶道の歴史』桑田忠親

本メモ ◆歴史の本

 茶道が時代とともに変化してきた歴史を解説する。

 著者は、村田珠光や武野紹鴎、千利休が打ち立てた茶の精神に価値を置く。すなわち、万人を救済する仏の精神に基づき、身分の分け隔てなく茶の道を説くこと、客をもてなす精神をもっとも重要であると考えることである。

 

 江戸時代には、武家の茶道は「身分相応」を重んじ、封建的秩序を重んじるものとなった。町人の茶道は家元制度により形式化、保守化していった。

 明治維新以降は、茶道の普及が進められる一方で形骸化が進み、一部のエスタブリッシュメントたちの道具自慢も露骨になった。

 弟子を増やすノルマに追われる関係者たち、マンネリのお茶会等は、茶道が直面している問題を浮き彫りにする。

 茶道の前では万人が平等であるという精神、客をもてなすという利休以前の精神に再び立ち戻るべきである、と著者は主張する。

 

  ***

 茶道は中国からやってきたが、日本において創始したのは武士出身の能阿弥である。その後、村田珠光が茶道を確立した。

 珠光は「仏法も茶の湯の中にあり」と悟った。

 ――珠光の茶の湯は、草庵の侘茶といわれております。精神本位なお茶です。人間の心を尊ぶお茶のやりかたです。能阿弥の茶の湯は、いかめしいが、形式主義だった。それと比べると、珠光のは、もっと、ぐっと奥深い道を説いています。

 珠光は人間平等の思想を茶の湯に取り入れ、また、酒・女・賭博を禁じる「三戒」を説いた。

  ***

 戦国時代、町民の町として栄えた堺において、武野紹鴎と千利休が茶道を大成させた。

 紹鴎は名人とされており、茶道具等の改革を行った。

 千利休は茶道から身分や権力を排除し、万人が平等に向き合う姿勢を重視した。

 ――要するに、お客様を心からもてなすということ、これが茶の道なんです。

 しかし、天下統一と兵農分離によって身分制度が固定化されると、町人である利休の振る舞いは傲慢ととらえられ、秀吉によって切腹させられた。

 彼の弟子である山上宗二が著した『山上宗二記』は、現在でも利休とそれ以前の茶道に関する貴重な記録である。

  ***

 戦国大名古田織部小堀遠州は利休の茶道を大成させた。

 江戸時代に入ると、千宗旦は主に町人たちの間に茶道を普及させ、また表千家裏千家等、家元制度を築いた。

 片桐石州は主に諸国の武士階級に茶道を広めた。大名たちの間では石州流と遠州流が学ばれた。この時代には茶道も封建的秩序にならい、「分相応な」茶道が主流となった。

 身分や階級に拘泥しない利休や紹鴎のような思想は危険視され、茶道の中身も形式化、煩雑化していった。

 

 武野紹鴎は朝鮮茶器等を積極的に取り入れ、また千利休は、自分のスタイルを弟子が猿真似することを好まなかった。

 

 一方、そうした慣習から離れて自由に茶をたしなもうとした運動が煎茶である。

 ――……利休の茶道の本当の理想は、どうだったのかということを考えてみますと、大変、何か漠然とした感じを受けますけれども、それは、実にはっきりしたものでして、乱世でありながらも、そこに世間の無秩序な状態に抵抗して、お茶の世界だけの、ひとつの平和な秩序を立てようということにあったのです。そして、その秩序を立てるために努力してきたのが、珠光・紹鴎・利休だったのです。

 

 仏教の要素を強く持つ茶道は、江戸時代の国家思想である儒教が持つ、「人間は身分相応であれ、分際に過ぎたことをするな」という考えとは相いれなかった。

  ***

 維新によって家元は困窮したため、海外や平民に積極的に茶道の普及を進めようという運動が始まった。

 

茶道の歴史 (講談社学術文庫)

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