うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

イワンとフリッツ

 ◆買い物

 Catherine Merridale『Ivan's War』(邦訳『イワンの戦争』)は独ソ戦を戦った赤軍兵士たちの実態を、証言や報告資料をもとに明らかにした本であり、非常に面白い。

 赤軍兵の死者は推定800万人~1300万人であり、これだけで第二次世界大戦における日本の軍・民間人を合わせた死傷者(約300万人)を超えている。想像しがたいスケールの戦場だったことがうかがえる。

 メモ抜粋……

・開戦時の装備・物資不足……前線への輸送手段なし、ライフルが行きわたらず、19世紀のライフルで銃剣突撃、ヘルメットで塹壕を掘る、4分の3の旧式戦車が使用不能かつ部品枯渇、貧弱な通信、平文で無線を使う技師たち。

・ドイツ軍の占領地ではどこでも大量射殺がおこなわれたが、その大半はアインザッツグルッペンではなく国防軍が実施した。

・1942年春までに、赤軍は200万人程の死者を出していたが、士気に影響しないよう、この数字は隠された。

・前線兵士となった女性は、後方勤務女性に比べ偏見にさらされた。女性兵士は将校に性的サービスをすることで勲章を受けるのだと陰口を言われた。

・懲罰大隊出身者や囚人が通常部隊に混ざるにつれて兵士たちの文化は変質していった。リンチ殺人、けんか、放火、酒のトラブルが頻発した。ある将校は「この飲酒癖がなければ我々は2年前にドイツを倒していただろう」と書いた。

 将校や秘密警察自身が加担する大規模窃盗・横領や賄賂ネットワークが流行し、公式の報告だけでも、1割の兵士が犯罪に関わっていた。

Ivan's War: The Red Army at War 1939-45 (English Edition)

Ivan's War: The Red Army at War 1939-45 (English Edition)

 

 

 ソ連軍の組織制度や歴史に興味を持ち、西側に亡命したGRU将校であるスヴォーロフ(Viktor Suvorov)という人物の著作をまとめ買いした。冷戦時代の、一種の暴露本ということで安く手に入れることができた。

Spetsnaz: The Inside Story of the Soviet Special Forces

Spetsnaz: The Inside Story of the Soviet Special Forces

 
Inside the Soviet Army (Panther Books)

Inside the Soviet Army (Panther Books)

 
The Liberators

The Liberators

 

 

 

 ◆スミソニアン記念日

 9月22日がスミソニアン記念日であり、美術館・博物館等を無料で観覧できるということだったので、ハワイ日本文化センター(Japanese Cultural Center of Hawaii)に行ってきた。

 常設展示は40分もあれば回れるが、施設では他にも柔道や剣道、その他の習い事を開催しており、私が行ったときには子供たちの空手教室をやっていた。

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 外国人労働者としてやってきた後、定住、組合運動や第二次世界大戦への協力等を経て、徐々に市民としての権利を獲得していく過程をパネル展示でたどることができる。

 太平洋戦争中の強制収容(the Internment)は日系人にとって非常に重大な出来事であり、人種に基づく隔離と強制移住、財産没収は、アメリカ史においても過ちの1つと認識されている。

 日系人部隊がヨーロッパ戦線で活躍した後も、強制収容された人たちの資産や家は戻ってこず、また雇用における差別待遇もすぐには改善されなかった。こうした状態が徐々に変わっていったのはかれらが自発的に活動して訴えたからである。

 自分たちの要求を実現するには自らがまず動かなければならないと感じる。

 

 ――自分の権利があからさまに軽視され蹂躙されるならばその権利の目的物が侵されるにとどまらず自己の人格までもが脅かされるということがわからない者、そうした状況において自己を主張し、正当な権利を主張する衝動に駆られない者は、助けてやろうとしてもどうにもならない。 (『権利のための闘争』イェーリング

 

 ――日本では、権利とはどこかほかから与えられたもので、権利の侵害があればお上がなんとかしてくれると考える傾向がないわけではない。ところが、英米にとっては、権利とは、本来それぞれの人間が主張し、実現すべきものと観念される。そして、そのために相応の手間と金をかけなければならないということは、当然だと考えられている。(『英米法総論』田中英夫

 

 

 

 ◆本来の姿

 政治とは元々、放っておけば腐ってくるものであり、それは日本だろうと他の国だろうと同じことである。政治家の嘘や責任回避は、権力の本来の姿であり、それがまかり通っているのは私たちが容認しているからである。指摘し責任をとらせる者がいなければ権力を持つ人間・組織は必ず好きなように行動する。

 

 シュテファン・ツヴァイクツワイク)は『ジョゼフ・フーシェ』において、王政・革命期・帝政時代を生き延びた権力者の姿を描く。

 現実の政治・歴史を動かすのは多くの場合、すぐれた英雄ではなく、価値で劣る狡猾な人物である、とツワイクは述べている。

 

 ――パトロクロスはすでに倒れ、ヘクトルアキレウスまた倒れたが、ただ一人生き残っていたのは策謀家オデュッセウスのみであった。彼の能才は天才を凌駕し、彼の冷血性はあらゆる情熱に打ち勝って生き延びたのである。

 

 権力者の横暴や不正を許すのは多くの場合、人間の臆病さである。

 

 ――かれは大多数の人間の臆病なことを知り抜いていて、猛烈な強硬なテロルの風を吹かすだけで、たいていの場合はテロルをやらないですむということを心得ていた。

 

 ――残念ながら世界歴史は、ふつう叙述されているような人間の勇気の歴史であるだけでなく、また人間の臆病の歴史でもあるのであり……危険な言葉を弄し国民の熱情をあおりすぎるところから、常に戦争が勃発するように、政治的犯罪もまた然りである。

 

 かれはその時々の状況に応じて理念を変えたが、それはかれに理念がなかったからである。

 

 ――それにはただ一つ邪魔になることはカルノーのような端正な共和主義を奉ずる同僚たちが控えていることで、かれらは依然として共和政体を信じており、理想などというものは、それを種に儲けるために掲げるものにすぎないということを、どうしてもわかろうとしないのである。

 

 民主制や官僚制についてのヴェーバーの分析は、システムの本来の姿を示すものである。

 

・代議制は貴族制・金権制として始まった。代議士は本来、民衆の主人であった。

・官僚制は、民衆の社会的階層を平準化させるが、官僚自体は民衆に対して絶対的な優位を持つ、強固な権力となる。

・専門知識を持つ官僚をコントロールするのは君主や首長であっても非常に困難である。

・大規模な民主社会では、民衆は支配される存在であり、世論を通じて巧妙に操作される。かれらは指導者選出に際し若干の選好を示すに過ぎない。

・19世紀半ばまで、英国では議員は特権身分とされ、国会は傍聴禁止、議事録を流出させた際には刑罰が科せられた。

 

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)

 

 

権力と支配 (講談社学術文庫)

権力と支配 (講談社学術文庫)

 

 

 

 ◆見えないものは見えない

 とある部隊の隊長が「認識していない物事には対処できない、なので問題や改善点があれば必ず報告してほしい」と部下の人びとに話していた。

 ちょうどそのころ野中広務についての本を読んでおり、かれら政治家が相手にしている「国民」とは何者なのかについて考えさせられた。

 政治家が見ているのは身内や後援団体、土建業者、宗教団体である。

 政治家の半生をたどった本のなかに、名もない国民の姿はほとんど登場しない。私のような、特定の宗教団体の信者でもなく、団体の長でもない国民など、代議士は眼中にない。

 政治家(や官僚)が私の方向を向いておらず、逆なでするような言動ばかりとっているというのは、わたしがまず国民として認識されていないからだろう。

 何者かとして統治者に認識されないうちは、ただ都合のいい、大人しい群衆でしかない。そういう個人は投票でも不利である。

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

 

『元禄時代』児玉幸多 その2

 6 殉死の禁

 家綱の代は、江戸時代には珍しい集団指導体制が敷かれた。保科正之松平信綱らの死後は、酒井忠清が権勢を誇った。

 政治的には安定していたが、火事や災害が絶えなかった。

 

・家綱はあまりものをいわず、老中らの言いなりだったため「さようせい様」といわれた。家綱は病身で、幸若舞平家琵琶などを好んだ。

・家康の時代に殉死が流行したため、幕府は厳しく弾圧した。殉死は美徳ではなくなりやがてすたれた。

 殉死の3種……義腹(純粋に義によって切腹)、論腹(殉死しないととやかくいわれるので切腹)、商腹(殉死しておけば子孫は安泰)

・証人……各大名の人質制度の廃止

・役料……旗本貧困救済策

 

 7 東廻りと西廻り

 幕府は全国から年貢を徴集しなければならない。このため角倉了以は河川を開発し、また河村瑞賢は東廻り航路(東北太平洋から江戸へ)と西廻り航路(東北日本海から江戸へ)を開拓・整備した。

 かれは商才にも長けており明暦の大火後は木曽の山を買い占め材木販売により巨額の富を得た。

 海運の発達により日本は全国規模の経済ネットワークを確立した。

・菱垣廻船と樽廻船

北前船

 

 8 天下の台所、大坂

 

 ――……大坂の中之島・北浜こそ、全国の経済の心臓であった。諸国の産物は多くこの地に集まり、ここの問屋の手を通して、また諸国へ流通した。

 

 大坂城には大番と呼ばれる警備当番があり旗本の最上級職だった。しかし、大番衆は幕府の権力を振りかざし道中で庶民を苦しめたため嫌われていた。

 江戸が武士・幕府権力と結びついた商人の都だったのに対し、大坂はより町民の才覚に基づいていた。このため、経営がつまづけば没落も早かった。

 

 9 犬公方

 1860年、家光の第4子、綱吉が5代将軍となった。将軍は奢侈を禁じ、農民の負担を軽くしようと努めた。

 綱吉は当初、自らを推挙した大老堀田正俊を重用したが、堀田はやがて疎んじられるようになった。正俊の死後(かれは若年寄稲葉正休ともめて刺殺された)、その一門は排除された。

 綱吉は気まぐれかつ偏執的なところがあり、越後のお家騒動(越後騒動)では厳しい処分を科した。他にも、改易などの厳罰を頻発したため、下々はおびえるようになった。

 

 ――これによってみれば、封建専制君主には、偏執狂になりうる条件が存していたとみることもできよう。

 

 老中が城内で力を失い、代わって御側や御側用人が実権を握った。有名な人物は柳沢吉保、牧野成貞である。

 綱吉には3代家光と同様同性愛の傾向があった。

 生類憐みの令は何度か改正され、徐々に厳格、偏執的になっていった。なぜ綱吉がこの法令にこだわったのかにはいくつかの説がある。1つは、綱吉に子ができず、その原因が前世で動物を殺生したため、ととある仏僧(隆光僧正)に言われたからというもの。

 

・頬についた蚊をはたいた小姓が流罪となった。

・病馬を捨てた者、犬を斬った者が流罪

 

 ――犬目付という役人が諸所をまわって歩き、犬を打つとか、邪険にあつかう者があれば、その者をしらべ、そのために所払や牢に入れられる者もでた。

 

・野良犬を世話すると捨てることができないので放置したところ、飢えた犬が江戸を徘徊し人を噛み捨て子を食い殺すようになった。犬を叩くと処分されるので水をかけるようになり、その水を番する者は「犬」と描かれた羽織を着た。

・その後、幕府は税を徴収し江戸内に1000か所を超える犬小屋を建てた。

 

 ――綱吉は死ぬまでこの悪法をやめようとはしなかった。人間は生類のうちに入っていなかったのかもしれない。

 

 ――綱吉が死ぬと、中野その他の犬は分散させられたが、数万頭の犬が追い放たれて、どういうことになったか、はっきりしたことはわからない。犬小屋の管理にあたっていた御徒や小人も用がなくなり、犬医者が失業したことは事実である。

 

 ――見渡せば犬も病馬もなかりけり御徒小人のひまの夕暮

 

 10 湯島の聖堂と貞享暦

 綱吉は学問振興に熱心だった。

 家康の代に藤原惺窩が招聘され、門人林羅山が儒官となる。

 徳川義直による上野孔子堂建設

 1688年、綱吉は孔子堂を神田台に移転、儒学と仏教を切り離し朱子学を興す
 学者……池田光政保科正之徳川光圀大日本史』(朱子学の名分論、水戸学・尊王思想の起源)、前田綱紀(室鳩巣、木下順庵など招く、尊経閣(そんけいかく)文庫本)

朱子学

 武功が用をなさなくなり、学問が出世の近道となった。朱子学は徳川政権の正当性を支えるイデオロギーとなった。

 

 ――朱子学者はことにその立場をとるが、これは、幕府権力が安定を失って崩壊に向かうときに弱点をあらわすようになる。権力の交代や社会の変革を天命として認めるときには、現状を支える力となることができない。

 

 松永尺五……在野の儒家だが、その門下に新井白石、室鳩巣、雨森芳洲

 谷時中の南学……野中兼山、小倉三省、山崎闇斎

 闇斎の門下……浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎

 闇斎は後に神道に転換し垂加神道を創始した。

陽明学……中江藤樹、熊沢蕃山、

 陽明学は幕府の御用学者からは疎まれた。蕃山は、貨幣経済の抑制と自給自足世界を理想として掲げた。

 

 ――朱子学者のように、帝王となるのは天命と考え、ただそれに従順であるというのではなくて、帝王が徳を積み、仁政を施すことをなすべきであるという主張をするのである。

 

 荻生徂徠(町人無用説)、山鹿素行(『聖教要録』にて朱子学を否定、『中朝事実』での日本第一主義)、伊藤仁斎

・活字は日本語の特性のため普及せず、木版印刷が主流となった。書籍、仏書、儒書、国文学や浮世絵版画の発展を促した。

・碁家……本因坊、井上、安井、林

 碁は天平時代にやってきた。碁家の業務は将軍家の指南、碁士の統制など。

・将棋……室町時代の小将棋が今日の将棋の原型となった。

 大橋宗桂、伊藤宗看、

 詰将棋、盤上心得の出版

 将棋や碁は日本人の娯楽でももっとも息の長いものの1つである。

・貞享暦の採用……安井算哲は日食の予測が外れたのを証拠として当時の宣明暦(せんみょうれき)を廃し授時暦採用を主張したが却下された。

 今度は大統暦が用いられたがこれも反対した。最終的に1685年、算哲の作成した貞享暦が採用となった。

 中国は臣下の国に自らの暦を授けたので、日本が独自の暦を採用することは政治的な意味もあった。

・時間

 1日を日没と日の出で分割し、さらに6分割したため、時間の長さが一定でなかった。

 洋式時計は使えず、日本式時計(昼間用振り子と夜用振り子)を使用した(和時計)。

 老中や若年寄も正確な時刻を計れないので、面倒な方法で登庁時間を調整した。

 

 11 忠臣蔵

 1701年、江戸城内における、浅野内匠頭長矩による、吉良上野介義央への斬りかかり事件が発生した。

 吉良上野介は傲慢さから嫌われており、浅野内匠頭はかれから侮辱されたのだという。

 浅野内匠頭切腹を命じられ、赤穂城は明け渡しとなった。浅野家の再興もないようなので、城代家老大石内蔵助良雄は敵討ちを決心した。

 赤穂浪士たちは12月14日、吉良の屋敷に討ち入りし首を打ち取った。かれらはその後切腹となった。

 

・処分案:

 内匠頭家来は、忠孝は守ったが「徒党を組み、誓約を成す」に違反しているのではないか。

・賛成と反対

 激賞:室鳩巣、浅見けいさい、伊藤東涯など

 反対:荻生徂徠、佐藤直方、太宰春台

 荻生は、長矩は殿中で暴れたため処罰されたのを、家来は吉良を仇として、公儀の許可なく騒動を起こしたので違法である、と主張した。

赤穂浪士事件と『仮名手本忠臣蔵』はまったく別物である。

 

 ――かれらの行動を非難するものの多くは、法を破ったという点に集中する。しかし一般の民衆は法よりも情を重んじた。

 

 ――義士論にしても、義士の行動の善悪は論じるけれども、その処罰については表立って議論はなされないのである。将軍の行為は絶対であり、その判決は動かすことができないものであった。

 

 12 窮乏する財政

・幕府の財政は綱吉の代には極端に悪化した。金銀の算出が減った。

・大名・旗本の困窮が目立つようになった。

・綱吉は諸大名邸への御成り(訪問)を頻繁に行ったため民衆を苦しめた。

・財政無視の寺院造営

勘定奉行荻原重秀による元禄金銀への改鋳

 単に幕府財政の不足分を補うのが目的であり財政難は改善されなかった。

・災害の多発……地震・雷・火事・噴火

 宝永の噴火

 

 13 元禄模様

・元禄の奢侈……着物や小物など

衆道の全盛……若衆や陰間

・女たちの伊達比べ、奢り者

・三井の越後屋呉服店

・大名貸は不良債権になることが多く敬遠された

 

 ――江戸封建制度の大きな矛盾は、この租税制度の欠陥にあって、重圧をかけられた農業部門の発達はいちじるしく抑えられ、都市の消費生活のみが異常な発達をとげて、それが元禄期にもっとも華麗な面を示したといえよう。

 

 14 絵の世界と侘の境地

 俵屋宗達尾形光琳尾形乾山

 浮世絵……菱川師宣、鳥居清信

 戸田茂睡、契沖による和歌の再興

 松尾芭蕉

 

 15 一代男と曽根崎心中

 井原西鶴……『好色一代男』、『世間胸算用

 近松門左衛門……『曽根崎心中』道行

・歌舞伎の変遷……出雲阿国による阿国歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へ

 京都の坂田藤十郎と江戸の市川団十郎

 

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

 

 

『元禄時代』児玉幸多 その1

 中公「日本の歴史」シリーズの1つ。

 江戸成立直後の、野蛮と暴力が残る時代、また江戸の発展や文化について知ることができる。

 

 ◆メモ

 綱吉の評価、柳沢吉保、荻原重秀らの評価は学者によって幅があるようだ。

 度々火災に見舞われる江戸、人の命の軽さ、綱吉の支配、赤穂浪士に熱狂する民衆など、大変興味深い。

 

  ***

 1 由井正雪の乱

 1651年(慶安4年)、3代将軍家光が死に、幼い家綱が跡を継いだ。家光の弟たる保科正之を筆頭に、大老井伊直孝酒井忠勝、老中松平信綱らが合議制により幼将軍を補佐することになった。

 同年、江戸在住の軍学者由井正雪は、槍使い丸橋忠弥、金井半兵衛らとかたらって、江戸に騒乱を起こし、久能山に籠城する反乱計画を立てた。

 密告によって稚拙な計画は暴露し、かれらは自害または処刑になった。首謀者の一族郎党は皆磔や斬罪となった。

 動機ははっきりしないが、当時、改易処分によって増大していた牢人の不満をくんだものであるという疑いが濃厚だった。

 

 ――牢人は失業者とはいえ、身分は武士であり、当時の知識層である。そういうものを大量に作り出すことは、実は社会秩序の上からいえば、はなはだ危険なことであったにもかかわらず、幕府や諸藩では、そのうえに牢人にたいしてきびしい統制を加えてきた。

 

 新井白石由井正雪を、時代が時代であれば漢の高祖になっただろうと高く評価した。

 幕府は牢人への過酷な取締を緩和したが、その後も類似の反乱計画は相次いだ。

 日本におけるクーデタはそのほとんどが未熟な計画に過ぎず、成功したのは大化の改新くらいであるという。

 

 2 明暦の大火

 火事を警戒するお触れや規則について。

 火事の見物禁止、見張り中の転寝(うたたね)はさらし者にするなど。

 1657年(明暦3年)1月18日、大火発生によって多くの住民が江戸湾に飛び込んだが9600人ほどが焼かれるか凍死した。

 

 ――……井水に逃げ込み、溝に逃げいったが、下の者は水に溺れ、中の者はおされ、上の者は焼かれ、ここでも450人が死んだ。

 

 浅草門では人びとが堀に次々と飛び込み屍体の山で溝が埋まった。

 

 ――死者はいたるところに横たわり、京橋あたりは男女死人の山で、橋は焼け落ちたが流れる死人を踏んで渡ることができた。

 

 死者総計10万2000人程度とされる。

 オランダ商館長ワグナールも火事に巻き込まれ避難を強いられた。

 火災の原因……強風、乾燥、牢人やあぶれ者たちによる物取り放火、

 「車長持」という台車に財産を入れて逃げ惑ったため、避難が遅れ、死者が増える一因となった。

 

 その後、防災都市計画に基づいて市街の再編成が行われた。幕府は、道路の拡張、火避け地の造成、瓦葺の禁止、郊外(武蔵野市三鷹市)への町民の開拓移住を命じた。

 

 浅野内匠頭長直は、奉書火消(大名に火消しを命じること)で度々活躍した。浅野内匠頭が出動すると、迅速に火を消し、また自ら火のついた小屋に飛び込んで建物をつぶし延焼をとめたりしたため、英雄のような扱いを受けていた。

 

 ――のちに赤穂義士のでたのも、こういう英傑が主君にいたからであろうという評判であった。

 

 3 旗本奴と町奴

 由井正雪の乱に前後して、幕府はかぶき者の取り締まりを行った。

 かぶき者……びろうどの服、総髪、立髪、大髭、太刀と大脇差

 平行して、町奴や男伊達と称する者も横行していた。

 かぶき者の発生はもっと古く、家康の代に京都をたむろする不良武士たちが徒党を組んだのがおこりである。かれらは町民をからかったり、喧嘩をしかけたりして治安を乱した。

 

 ――かぶき者が横行して善良な市民を苦しめたのは、戦国の余燼がくすぶり、いつまた戦乱になるかもしれないときで、力のはけ口を求める者たちが、落ち着きを取り戻そうとする都市生活に溶け込むことができずに、反抗的な行動をとったのであろう。歴々の武士たちのあいだにさえ殺伐な風潮が残っていた。

 

 織田有楽の親類を殺害したかぶき者と、その棟梁、大鳥居逸兵衛(いつべえ)ら、捕えられたかぶき者たちの逸話について。この事件では300人程が処刑された。

 

 1615年の大坂の陣後も、殺伐とした悪事はおさまらなかった。

 1628年、江戸城下で辻斬りが横行し、1000人斬りに及ぶかとおもわれたので、辻番制度が設けられた。

 特権を持つ武士のなかには放縦と悪事にふけるものも現れた。かれらは容姿の整った小姓や草履取を武装させて従え、また衆道(しゅどう)の対象とした。

 かれらは徒党を組み、抗争を行うことがあった。武士に雇われる若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)にも奴があった。

 旗本奴は六法ともいわれたが、6つの暴力団が江戸を跋扈したことが由来とされる。

 

 旗本奴の水野十郎座衛門と町奴の幡随院長兵衛について。

 水野は異様な姿で出座したため不作法のいたりとして切腹を命ぜられた。

 

 ――これはおそらく誇張があろうが、異様の姿であったにはちがいなく、さもなければ急に切腹となり、二歳の子まで殺されることはなかったであろう。

 

 江戸だけでなく上方……大坂や京都にも多くの奴がいたが、かれらは後に芝居の題材となった。

 

 4 江戸八百八町

 江戸は間もなく世界有数の巨大都市となった。外国人の記録によれば、スペインの町よりも清潔で道も整っていたという。

 職種ごとに居住区が分けられていた。

 江戸は城下町であり城塞防衛の役割を担った。武家地は6割、寺社地は2割、町地が2割だった。人口では商工業者が半分を占めた。

 寺社地は寺社奉行、町地は町奉行が支配した。町奉行は南北2人おり、相互に上番した。それぞれ与力25人、同心100人を指揮した。裁判は与力の、警察・捜査は同心の仕事だった。

 同心の巡回……定町廻り(じょうまちまわり)、臨時廻り(りんじまわり、祭りなどイベント警備)、隠密廻り(おんみつまわり、武家や商人に対する諜報活動)

 前科者や手先を使わなければならなかった。かれらは小者、目明し、岡引(おかっぴき)という。

 町奉行の指令を受けて江戸市民に通達するものが町年寄という。その下に町名主がいる。

 

・地主は借主の糞尿を契約して農家に売った。

・自警組織として辻番が設置されたが老人や病人、弱者がおかれたり、勝手に上番中に物を売ったりした。

・江戸時代は税は土地に課された。公役・国役は町人が負担した。

 五人組の承認なしに家を借りることはできなかった。

・奉公人の種類……日雇人足も含まれる。奉公人は主人に逆らうことはできず、刑罰も重かった。

・水道の整備……家康家臣大久保忠行による神田上水、その後つくられた玉川上水

・床屋や商人は厳しい徒弟制の下で働いた。かれらは、20年間ほどは給料ももらえなかったため、結婚できなかった。このため遊び歩くことが当たり前だった。家にこもって出歩かないことは「野暮(家暮)」とされた。

 

 5 夜の世界、新吉原

 門と廓で囲まれた傾城街の成立について。吉原は当初日本橋人形町にあったが、明暦の大火後、浅草に移転した。

 

・遊女の格式……太夫、格子(京都では天神)、端女郎、雑用少女である禿(かぶろ)

揚屋……太夫など高級遊女を呼ぶ店

 新造(しんぞう)……禿から遊女に上がること

 引舟……客の接待等

 鑓手(やりて)……やりてババア

 太鼓持、末社

・吉原で遊ぶには金がかかった。ただ金やステータスを自慢する者は野暮といわれた。金を持っており皆をよろこばせる者は京都では粋(すい)、江戸では通り者(とおりもの)といった。

 「だいじん」……紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂座衛門

・その他の傾城町……京都島原、大坂新町、伏見夷町、全国の宿場町など

・暗者女(くらものおんな)、惣嫁(そうか)、私娼(京都では辻君、江戸では夜鷹)

・1635年ころには、幕府に管理されていた吉原の外に、湯屋がつくられた。ここで働く湯女(ゆな)がやがて売春婦となったが、1656年の新吉原移転時にすべて移転させられた。

 しかしその後は茶屋と茶立女(ちゃたておんな)が盛んになったため1668年に吉原に移転し、「散茶女郎」となった。

 

 ――こうして吉原は、唯一の公認の遊郭として、非公認の遊女の発生を抑える努力をしたのであるが、根絶させることは不可能であり、ことに江戸後期には、多くの社寺門前を中心にした岡場所の繁栄をみたのである。

 

・遊女はほとんどが貧しい家から買われた少女であり、それは人身売買(建前上禁止)や奴隷と同等だった。

 

 ――飯盛女が多くいたので知られていた中山道追分宿でも、藪の中や畑の畔に、遊女の墓というのが、「幻泡禅定尼」「芳艶禅定尼」などと、あわれな戒名をつけて、草にかくれて残っている。それでも墓を建ててもらったのは幸いとしなければならないであろう。

[つづく]

 

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

 

 

『極秘特殊部隊シール・チーム・シックス』ワーズディン

 ◆メモ

 「ビンラディン暗殺!」と表題に書かれているが、冒頭の数ページのみであり、出版の際に急きょ付け足された感が強い。セイモア・ハーシュの報道で八百長と噂になった、疑惑の作戦を解説する。

 本の大部分は著者の自叙伝である。SEALでの勤務内容や、著者の半生が書かれている。本人の素朴な人間性がうかがえる。

   ***

 米海軍SEAL(海・空・陸特殊作戦部隊)の中のエリート、SEALチーム6に所属していた兵隊による本。

 SEALは陸軍のデルタ・フォースと同種の部隊で、対テロリズム・反政府活動鎮圧を目的とする。

 チーム6はSEALの中でも存在秘の部署で、現在はDEVGRUと呼ばれ、SEALからは独立したようである。 

  ***

 1

 著者はフロリダで生まれ、ジョージア州で育った。良心は敬虔だったが家は貧しく、義理の父からは体罰を受けた。

 大学に進んで1年半後、学費が払えなくなり、SAR(捜索救難員)を目指して海軍に入隊した。

 捜索救難課程を修了し、航空機搭乗員として勤務した。除隊前にSEAL隊員たちと出会い、薫陶を受けた。かれは再入隊しBUD/S(Basic Underwater Demolition/SEAL)訓練のための試験に合格した。

 訓練の冒頭で必ず教えられる劣等生トーマス・ノリスのエピソード……ノリスは訓練で常に劣等だったが、ベトナム戦争において勇気を発揮し、仲間の救出を行った。かれは名誉勲章Medal of Honor)を授与された。

 精神と肉体を鍛えるBUD/S訓練では、特にメンタルが重要となった。

 著者は子供時代の厳しいしつけが、不屈の精神を養ったと回想する。

 

 ――しかしながら、降伏は戦いをやめることであり、戦いをやめるという選択肢はないというのが、SEALの考え方だ。アメリカに対する政治取引の材料に使われるのは、まっぴらごめんだ。檻に入れられて餓死したり、インターネットで世界中で流すために首を斬られるのもごめんだ。敵がおれを殺したいのなら、いまここで殺せというのが、私の心構えだ。

 

・戦術訓練……BUD/S修了後の、具体的な戦闘・工作技術のトレーニン

・他国の特殊部隊との交流訓練

湾岸戦争……砂漠の楯作戦、砂漠の嵐作戦への参加。

 

 シュワルツコフ将軍は、英国のSASばかりを使い、SEAL等特殊部隊を使わなかったとして批判されている。「かれはイラク軍の石油放火能力を見くびっていた」。

 特殊部隊員は、自分たちの乗り越えた訓練や経験を誇りに思っているため、どうしても天狗になりがちである。しかし、他の職種や軍種の協力がなければ何も成し遂げることはできない。

 

 ――おなじ軍隊にいる人間を粗末に扱えば、いずれその報いがわが身に返ってくる。

 

 SEALチーム6は、SEALの中でも存在を秘匿されているエリート部隊である。SEAL隊員たちは、皆チーム6に行きたがっていた。

 著者はチーム6に志願し、訓練課程に送られることになった。

 

  ***
 2

 かれはチーム6のメンバーになるための訓練を修了した後、ソマリア内戦に派遣された。

 

・チーム6での訓練

海兵隊スナイパー学校への入校

ソマリア内戦

 クーデター後、アイディード率いる民兵と対立部族が戦争を続けていた。

 

 イタリアは、ソマリア旧宗主国である。本書では、イタリア軍はアイディード派を陰で支援し、米軍をだます卑怯者として描かれている。

 国連も、無能であり、また民兵と陰で通じているとして非難される。

 SEALチーム6は、JSOC(統合特殊作戦コマンド)の指揮下に編成され、CIAや他軍種特殊部隊との協同作戦、パキスタン軍との共同作戦を行った。

 CIAは現地に秘密基地を作り、「アセット」と呼ばれる現地協力者を活用し情報収集に努めていた。

 著者は陸空軍の特殊部隊に対抗意識を燃やしているが、同時に高く評価している。

 

 ――CCT(戦闘統制班Combat Control Team)は空軍の特殊作戦地上誘導班で、戦域にパラシュート降下して、地上で、偵察、航空交通管制、火力支援、指揮・統制・通信を行う。……おなじく空軍の特殊部隊であるPJ(Palarescue Jumper)は、敵地に墜落した航空機の搭乗員を救出して医療を施すことに重点を置いていた。

 

 ――空軍のCCTやPJは、建物強襲の技量は身につけていないが、それぞれの特技では専門家で、SEALやデルタの戦闘員よりも技量のレベルが高い。

 

 ――SEALでは、下士官が士官といっしょに訓練を受けるのは、先祖である第二次世界大戦のフロッグメン以来の伝統だ。

 

 3

 モガディシュの戦いは、1993年10月3日に行われた。米軍はアイディード派の幹部を捕えようと陸軍・デルタフォースを降下させたが、民兵に包囲され、さらにヘリコプター2機を撃墜された。

 SEALチーム6は地上からの援護を任されていた。著者も参加し、レンジャー隊員を救出しようと輸送車(Humvee)で市街を走行した。かれは足を撃たれ後送された。

 著者は生還し、勲章を授かった。

 しかし作戦は失敗とされ、クリントン政権は政治的な理由(支持率の低下、世論の反発)を受けてソマリア内戦から撤退した。

 

 かれは、内戦に派遣された兵隊としてクリントンを非難する……途中で逃げ出すことは、協力してくれた現地人を裏切ることである。やめるくらいなら最初から介入するべきではない。いったん手を出したなら最後までやるのが責任である。

 以前のような運動能力を失った著者は部隊に残ることができず、軍を去った。

 警察、セールスマン、防弾ベストのアドバイザー、警備員、訓練アドバイザー等、様々な職を転々とする。

 その後、軍の援助により4年制大学に通い、カイロプラクティック医師として生計を立てることになった。

 

  ***

 著者の戦闘員らしい性格が随所に見られる。

・警官と殴り合いになったが、良い時代だった。

・訓練中に裏切った卑怯者を非難する。


 特殊部隊は家族よりも仲間との付き合いの方が長く、プライベートも一体化している。

 もう1点印象に残ったのは、著者の除隊後の人生である。軍歴を生かして様々な職に挑戦しており、大学にも通うことができた。

 

 ――いまにして思えば、神は私が人間であることを思い知らせ、SEALであるのはひとつの職業にすぎないと教えたのだろう。……おまえはスーパーマンじゃない。おまえが特殊作戦の天与の才を持てるのは、私がそれを認めているあいだだけだ。おまえは私のおかげでそこにいる。自分の力ではない。……おまえは完成品ではないのだ。神は私を謙虚な気持ちにさせて、現実を直視させた。

 

ビン・ラディン暗殺! 極秘特殊部隊シール・チーム・シックス あるエリート・スナイパーの告白

ビン・ラディン暗殺! 極秘特殊部隊シール・チーム・シックス あるエリート・スナイパーの告白

 

 

『トルコのもう一つの顔』小島剛一

 トルコの少数民族とその言語を調査する日本人の紀行報告。

 トルコ共和国は成立以来一貫して少数民族や少数言語を抑圧し、同化政策を進めてきた。

 例えばクルド人は「山岳トルコ人」とされ、またクルド語はトルコ語の方言であると定められ、公の場でクルド人と名乗ったり、クルド人の存在を認めることは逮捕と投獄につながった。

 本書は70年代から80年代にかけての、トルコの同化政策や、少数民族、少数言語話者らの生活を紹介する。

 著者はヒッチハイクや野宿でフランスからトルコまでを移動し、またトルコ内の各地で住民と交流する。旅人に親切な住民とのやりとりが印象的である。一方、秘密警察や憲兵たちの監視、弾圧、異民族への横暴についても詳しく書かれている。

  ***

・トルコにはクルド人、ザザ人、チェルケズ人、アラブ人をはじめ多数の少数民族が存在する。しかし、政府に公認されているのは一部である。イスタンブールギリシア人、アルメニア人、チェルケズ人は、歴史的経緯によりその存在を許されている。

少数民族と少数言語が必ずしも一致するとは限らず、既に言語を失った人びともいる。また、少数民族であることを主張すると私服刑事らに見つかり逮捕されるため、素性を隠す民族もいる。長い間、潜伏することで、自分たちの本来の言葉と民族を忘れた人びともいる(隠れ民族と忘れ民族)。

トルコ人クルド人の多数はスンナ派である。アレヴィー教徒はイスラム教の一種だが、あまりに習慣が異なるため、深刻な差別と迫害を受けている。

クルディスタンの独立は難しいだろう。クルド語も東西でまったく意味が通じず、隣国のクルド人とも意思疎通が難しいからである。

・当時のトルコでは、少数民族・少数言語話者すなわち共産主義者であるとのレッテルが貼られていた。

  ***

 著者は調査旅行の途中からトルコ政府・外務省に目をつけられ、監視随行員とともに旅行することになる。

 トルコ政府は「トルコは一民族一言語」という立場であり、著者の調査や、目の前の少数民族、言語を否定した。最終的に著者は国外追放となった。

 

トルコのもう一つの顔 (中公新書)

トルコのもう一つの顔 (中公新書)