うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

南から北 その1 アトランタ(ジョージア州)~ジャクソン(ミシシッピ州)

 ◆アトランタからニューヨークにかけての旅行

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大まかな経路

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チャタヌーガ(テネシー州) ロックシティの展望台 複数の州境が見渡せる

 アメリカ本土に行ったことがなかったので、今回、東部旅行に行った。

 大部分はレンタカーを借りて移動したため、長時間運転し疲れた。グーグルマップで確認したところ、合計2300マイル以上運転していた。

 運転時間が長く、あまり体を動かさなかったが、脂ぎった食事でだいぶ脂肪が増えてしまった。

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レンタカー DODGE RAM とても燃費が悪かった気がする

 

 行先:

 ジョージア州

 アラバマ州

 ミシシッピ州

 ルイジアナ州

 テネシー州

 ヴァージニア州

 ワシントンDC

 ペンシルベニア州

 ニューヨーク州

 

 主な観光場所

南北戦争の史跡・戦場

・軍事博物館

・その他の博物館・美術館

独立戦争関連施設、建国の父関連施設

 

 ◆道路状況

 道はほぼすべて州間高速道路を使った。荒地のなかの、ぽつぽつと廃屋が並ぶ汚い道路という先入観とは違い、どの道もきれいに整備されており、中央分離帯が広く確保されていた。

 どこでも15~30分走ると、サービスエリア(ファストフード店)やモーテルがあった。

 また、ほぼ毎日、交通事故と事故渋滞に遭遇したが、グーグルマップが優秀なので迂回できることが多かった。

 

 ◆アトランタ市内

 Hartsfield-Jackson Atlanta International Airport空港を下りた後、レンタカーを借りてウォルマートに向かった。

 

 空港からウォルマートにかけて、店員や通行人、客も含めて99パーセントが黒人だったのが印象に残った。ふだん自宅警備しているハワイ州は、黒人がそこまで多くないからである。実際に本土に行ってみて比率の違いに最初はぎょっとしたがすぐに慣れた。

 

 ※ アトランタ市とハワイの住民構成(ウィキペディア情報)

 アトランタ市:

  黒人 約60%

 ハワイ:

  先住ハワイおよびポリネシア 6%

  アジア人 38.6%

  ヒスパニック 8.9%

  黒人 1.6%

  白人 24.7%

  上述人種の混合 23.6%

 

 人種といえば、ホノルル市内のバーで現地人と話したとき、その多くは日本、韓国、中国、またフィリピンなど複数の由来を持っていた。日本の名字を持っていても、片親や親戚が中国系や韓国系だったりするので、日本の感覚で「中国人・韓国人は~」等と気軽に悪口を言うと怒りを買うに違いない。

 ハワイの入門書に、ハワイはハワイ人という融合したアイデンティティを持つようになったという趣旨の内容が書かれていたが実際に接してみて納得した。

 

 日系人は第一にアメリカ人であり、必ずしも全員が日本人という起源を意識しているわけではない。わたしが勝手に同胞意識を感じて、当初はよそよそしいと感じることもあった。日本人を特にひいきすることがなく、日本語で話しかけてくることもないからである。ハワイ州兵には日系人がたくさんいるが、「へー、日本から来たの、あ、そう」という薄い反応が通常である。

 ハワイでは、日系人向けに日本企業で研修させる制度も存在したらしく、とある人物は日本の製造会社に派遣されたものの、日本語が下手で外人扱いされ、窓際に追いやられたと話した。これを聞いて、かれらはかれらで寂しい思いをしたのかもしれないと感じた。

 わたしの知る限りでは、日系人で日本語を話せるのは10人に1人程度である。親が熱心に日本語を学習させるか、本人も意識的に学ばなければバイリンガルになるのは困難なようである。アメリカ市民であれば日本語を話す必要性もあまりないので、徐々に話せる人は減っていくのではないか。

 なお、ハワイには明治時代に設立された日本海軍墓地の保存に努め、日本語や日本文化を保持するために活動している日系の方たちもいる。

ハワイの歴史と文化―悲劇と誇りのモザイクの中で (中公新書)

ハワイの歴史と文化―悲劇と誇りのモザイクの中で (中公新書)

 
ゴー・フォー・ブローク!―日系二世兵士たちの戦場 (光人社NF文庫)
 

 

 アメリカに引っ越してから約1年半経ったが、表立った人種差別的な行為は受けなかった。陰口や遠回しな差別はあったのかもしれないが、わたしの英語能力では理解できなかったのだろう。

 ネオナチ集団や白人至上主義者が殴りかかってくるというような、直接的な攻撃も受けたことがない。今回の旅行中も、そういった差別はまったく経験しなかった。

 しかし、自分は運が良かっただけで、人種差別はもっとも深刻な問題の1つであると考える。

 

 

 ◆ミシシッピ州オックスフォードへ

 ウォルマートで激安ドーナツを買った後、I-20とI-22を通ってミシシッピ州オックスフォード(Oxford)に向かった。

 運転には6時間程度かかり、途中でアラバマ州を通過した。

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アラバマ州の入り口

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ハイウェイの脇にあったミシシッピ州ビジターセンター

 

 オックスフォードはミシシッピ州立大学の所在地で、町の名前はイギリスの大学からとられたそうである。

 大学近辺は庁舎や宿舎が立ち並んでいるが、それ以外は森と緑地(すべて私有地)だった。州道沿いの家はどれも広大な庭や山、森をもっていて、道路脇に郵便ポストはあるが住宅が見えなかった。

 

 この町における目的地は小説家ウィリアム・フォークナーの自宅「ローアン・オーク(Rowan Oak)」だった。

 フォークナーの小説は高校生の時に翻訳を読んで、その後は短編だけ原文で読んだ。非常に読みにくいが、わたしにとって南部のイメージとはフォークナーと「ミシシッピー・バーニング」だった。

・没落し腐敗した白人地主

・リンチにかけられる黒人

・KKKがたいまつを掲げて夜な夜な襲撃をおこなう

 これはとても偏った世界観である。

 

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ローワン・オーク

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屋敷は撮影禁止だった

 フォークナーは昔、日本でも全集が出され、大江健三郎中上健次などが影響を受けている。邸宅の展示コーナーでは「Big in Japan」というコーナーがあった。

 

 庭の奥に進むと厩舎や召使小屋があった。さらに進もうとしたところ、足元の草むらからへびが出てきたので走って逃げた。

 

 ◆州都ジャクソン

 さらに車で2時間程度南下し、ミシシッピ州都ジャクソンに到着した。最大都市だが人口は17万程度でのどかな雰囲気だった。

 

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州庁舎

 州庁舎を見物するため駐車場を歩いていると、清掃員にアロハと声をかけられた。わたしたちが珍しくアジア人で、カウアイビールのTシャツをきていたのでハワイ人だと勘違いして声をかけたとおもわれる。なのでマハロと返事しシャカサインをした。

 

 州庁舎は1903年建設の古いもので、議会や知事室、地下などは良い雰囲気だった。

 日本からの見学者もたまにいるらしく、日本語訳パンフレットをもらった。

 

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上院か下院どちらか

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州庁舎内部

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州の紋章とは図柄が違う紋章

 この日はハイウェイ沿いのモーテルに宿泊した。

 受付の若者、何の用でミシシッピに来たのかと聞かれて、ただ楽しむためにきた(Just for Fun)と返事したが、「ここに何か楽しみでもあるのか」と笑われた。

 モーテルの周囲には大抵ファストフード店があり、ハンバーガー、フライドチキン、ワッフル(ワッフルケーキ+肉・ポテト)など、様々な肥満養成料理を選ぶことができる。

 

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南部のソウルフード? ワッフルハウス


 [つづく]

『私は負けない』村木厚子ほか

 ◆概要

 障害者団体用郵便料金制度の悪用に絡む、大阪地検による冤罪事件とその後の証拠改ざん事件に関して、当事者となった厚労省官僚が回想・説明する本。

 村木氏は大阪地検の見立てによって首謀者に仕立て上げられ、虚偽の自白を迫られた。

 本書は、検察による異様な取り調べや司法制度の欠陥、冤罪の生まれる土壌について問題提起する。

 

 事件の実態は、業務で追い詰められた村木氏の部下が、課長の公印を無断で使用し悪質団体に証明書を発行したというものである。

 検察はこの事件を、「民主党議員とキャリア官僚が、ノンキャリアに汚い仕事をやらせようとした」というストーリーに仕立てようとした。

 後半では村木氏の配偶者や、周防監督、公印無断使用の張本人である上村氏のインタビューも掲載されている。

 

  ***
 ◆経緯

 障害者団体「凛の会」は、障害者団体向け郵便料金割引制度を悪用し、ダイレクトメールを格安で発行しようと考えた。

 団体は、証明書の発行を担当者である上村氏に催促した。証明書発行のためには、課長である村木の決済が必要だった。しかし上村氏は異動間もない時期で不慣れなこともあり、業務で追い詰められたため、合議と決済の手続きをせずにこっそり証明書を出してしまおうと考えた。

 かれは朝早く出勤し無断で課長公印を使い文書を作成、直接「凛の会」に手渡した。

 数年後、「凛の会」の不正な制度利用が明らかになると、大阪地検はこの事件を、「民主党議員石井一がキャリア官僚村木に命じ、村木がノンキャリア上村に命じた」というストーリーで起訴することに決めた。

 取り調べの過程で多くの厚労省職員が虚偽の自白を迫られ、検察が作成した調書にサインをさせられた。村木氏は事実ではないとして反論したため、長期間拘留されることになった。

 検察は事実の収集には関心がなく、石井一議員と「凛の会」役員が面会した、という事件の発端となるはずの日付さえでたらめで、裏取りもしていなかった。

 その日に議員が「凛の会」役員と会ったかどうか、実際に議員事務所に問い合わせたのは、裁判が始まってからだったという。

 その後、検察のシナリオに合致しない証拠が次々と出てくるが、かれらは自分たちの筋書きに不利な証拠を開示しなかった。また、フロッピーディスクの更新日時がストーリーと矛盾するためにそれを書き換えた。

 村木氏と弁護人たちが無罪を勝ち取った後間もなく、フロッピーディスクの改ざんがマスコミにリークされ、大阪地検に所属する3人の検事が逮捕された。

 逮捕された検事たちは驚くべきことに、自分たちが受ける取り調べ過程の可視化を希望した。

 

  ***
 ◆問題点

 検察による冤罪・でっち上げの被害を受けた村木氏は、現在の司法制度の問題点をあげる。

・取り調べの可視化

 取り調べでは、検察は自分たちのストーリーを最初から決めており、真実を追及すること、事実を明らかにすることには関心がない。

 かれらは容疑者を精神的に追い詰めることで虚偽の調書、作文にサインさせる。

 精神的に耐えられない者、交渉に慣れていないものは虚偽の自白をしてしまう。

 こうした過程は密室で行われるため、尋問が正当なものかどうかが裁判ではわからない。

・証拠開示

 検察は自分たちに不利な証拠を隠しておくことができる。また、被告や弁護人が開示を請求した場合は反対する。

・身柄拘束

 「人質司法」とは、検察の言う通りにしない場合に身柄を拘束されることをいう。精神的な圧力をかけることで検察は容疑者の証言を操作することができる。

 

  ***

 ◆NKVD?

 単純な疑問は、「事実の追求ではなく裁判での勝利だけを目標とする」という方法で、果たして不正を減らすことができるのかということである。

 検察は自分たちのシナリオを作って無実の人間を犯人に仕立て上げ、裁判では勝利する。しかし、真犯人は逃げてしまい、また事件の根本原因も特定されないままである。

 検察のインセンティブはただ「裁判で勝利すること」、「裁判で負けないこと」のみにあるのであって、犯罪や不正の取り締まりについてはどうなろうとしったことではない、ということだろうか。

 ソ連初期の秘密警察(チェーカーやNKVD)は、冤罪と捏造で容疑者を逮捕・拷問し処刑していたが、かれらには、「正義と真実の追求」ではない別の目的――政敵の抹殺や恐怖による威嚇――があった。

 本来の目的である違法行為や不正の追及を達成するなら、当然、いまのような検察の制度は間違っている。

 「有罪率99パーセント」の旗を掲げて、警察・検察には逆らえないぞと国民を暗に威嚇するのが目的ならそうともいえないだろうが。

 

  ***
 ◆司法制度改革

 2016年に司法制度改革関連法案が成立したが、その内容には賛否両論がある。

 本書では、制度改革審議会に参加した村木氏や周防監督が、一様に失望のコメントを述べている。

・取り調べの可視化

 裁判員裁判対象事件と、特捜部の事件のみを対象とする。これは全事件の3パーセントにすぎない。

 余談として、裁判員制度の目的に「国民の司法への理解を深めるため」とされているが、本来であれば「裁判の公平性を高めるため」でなければならないはずである。裁判員制度は、どちらかといえば広報・教育・啓蒙といった文脈で用いられがちである。

・身柄拘束理由の明確化

・司法取引

・通信傍受法の対象拡大

・証拠開示の拡充

 被告人側が要望した場合、検察は証拠一覧を開示しなければならない。

 

  ***

 ◆変化を阻むもの

 ――ところが、ここに出席されている警察・検察関係者の方たちは、なるべく少ない改革で済むようにがんばるのです。

 

 ――法制審の議論だって、村木さんが無罪になってから2、3年くらいすると事件の印象が薄まって、もう「可視化? まあほどほどでいいんじゃないの」という感じになっていないでしょうか。それが怖いんですよね。検察は国民がこの教訓を忘れること、嵐が過ぎ去るのをしたたかに待っています。

 

 ――人が人を裁く制度が、どういう経緯を経て、今のような形になってきたのか、もっと学ぶ必要があるんじゃないか。人間には限界があって、どこで間違いが起こるか分からない。

 

 ――もちろん、人びとの安全を守ったり、犯罪の摘発は大切です。そのために、通信傍受や司法取引的なことが必要だということも、法制審で議論されています。私は、きちんとしたルールを作り、手続きが透明化されるのであれば、新しい手法を取り入れてもいいと思います。

 

 ――……検察は常に巨悪と戦うことを期待され、また、常に「間違うことは許されない」というプレッシャーの下で仕事をしています。警察もまた同じです。どんなに1人ひとりがモラルを高く保とうと努力しても、こうしたプレッシャーの下、今の制度のままでは、無理な取り調べをし、事実とかけ離れた供述調書をつくり、間違いに途中で気づいても、けっして引き返さない、そんなことがまた繰り返されるでしょう。

 

 

ロシアンルーレット

 ◆怪文書レンジャー

Russian Roulette: The Inside Story of Putin's War on America and the Election of Donald Trump

Russian Roulette: The Inside Story of Putin's War on America and the Election of Donald Trump

 

 

 今読んでいる『Russian Roulette』は、アメリカ大統領選へのロシアの介入を細かく説明しており、非常に面白い。

 先般の特別検察官ムラーの報告書では、トランプ大統領とロシアとの共謀は認められなかったとされたが、本書にあるとおり、トランプ陣営の多数がロシア政府関係者と接触し、工作活動を認識していたことが明らかになっている。

 

 ロシアがトランプ陣営を利用できたのは、トランプのロシア・ビジネスへの執着が原因のようだ。

 

 ロシア側の情報戦(Information Warfare)は、ソ連時代からの古い手法とサイバー戦技術を組み合わせたものである。

・SNS上で偽アカウントを大量に作り、世論を誘導する

民主党本部やヒラリー選対本部、州投票システムをハッキングし情報を窃取

 

 亡命KGB工作員オレグ・カルーギンOleg Kaluginへの言及があり、こうした情報工作が冷戦時代にも用いられていたことが示される。

 

 ――オレグ・カルーギンは現役時代、アメリカの評判を落とすため、アメリカ人になりすまし、国連の有色人種職員に向けて人種差別・誹謗中傷の手紙を送り続けていたと証言している。

 

 お国のためにこのような作業をおこなうとき、人はどういう気持ちになるのだろうか。案外、国家が命じたことなら特にやましい気持ちもなくやれるのかもしれない。

Spymaster: My Thirty-two Years in Intelligence and Espionage Against the West

Spymaster: My Thirty-two Years in Intelligence and Espionage Against the West

 

 

 『Russian Roulette』の中で米国政府高官も認めているように、ロシアが行った活動とほぼ同じことは米国も行っている。

 

 全く他国のことをいえる義理ではないが、トランプか、子ブッシュとほぼ変わらないタカ派のヒラリーかしか選択肢のない選挙は非常に不幸に見える。

 

 

 ◆買い物

 『On Tyranny』の中で言及されていたナチス・ドイツ研究者(当事者)クレンペラーの本を買った。

 ヒトラー政権時代の日記と、ヒトラーや党が用いた言葉の使い方を分析した本とのことである。

I Will Bear Witness, Volume 1: A Diary of the Nazi Years: 1933-1941 (Modern Library (Paperback))

I Will Bear Witness, Volume 1: A Diary of the Nazi Years: 1933-1941 (Modern Library (Paperback))

 
The Language of the Third Reich: LTI -- Lingua Tertii Imperii: A Philologist's Notebook (Continuum Impacts)

The Language of the Third Reich: LTI -- Lingua Tertii Imperii: A Philologist's Notebook (Continuum Impacts)

 

 

 トクヴィルの『アメリカの民主主義』が大変面白かったので、『旧体制と革命』も買った。トクヴィルの本を今まで読んでいなかったのは損失であると感じた。

 

Ancien Regime and the Revolution (Penguin Classics) (English Edition)

Ancien Regime and the Revolution (Penguin Classics) (English Edition)

 

 

 ゴールディング『蠅の王』を、高校生のとき以来久しぶりに読みたくなった。ゴールディングは『尖塔』もおもしろかった。人間が無意識のうちに残虐性や欲望などに支配されていく様子が描かれている。

Lord of the Flies

Lord of the Flies

 
Darkness Visible: With an introduction by Philip Hensher (English Edition)

Darkness Visible: With an introduction by Philip Hensher (English Edition)

 

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

『Yugoslavia: Death of a Nation』Laura Silber その3

民族浄化

 民族浄化は、戦争の副産物ではなく、根幹をなした。

 6月にはマッケンジーや国連の尽力により、サラエボ空港が国連軍に引き渡された。

 サラエボにマスメディアの関心が集中している状態は、カラジッチやセルビア人勢力にとって好都合だった。

 1992年の夏を通じて、ボスニアの北西部、東部において、計画的な民族浄化が行われた。

 混住の進む都市部では、特定民族に対する嫌がらせ、解雇、車両運転禁止、焼き討ち等による追放が行われた。

 村や町ではムスリムの名士や有力者たちが処刑され、男性は収容所に入れられ、残虐な看守たちから暴行や拷問を受けた。

 

・ロンドン会議

 ジョン・メージャーJohn Major英首相の主催する国際会議では、ユーゴスラヴィアが非難され、経済制裁が強化されたものの、空爆や武力介入は回避された。

 会議においてミロシェヴィッチと、パニッチPanicセルビア首相、チョシッチCosicユーゴ大統領が仲違いし、2人はミロシェヴィッチによって排除された。

 

・スレブレニツァSrebrenicaの陥落

 1992年4月以降、スレブレニツァではムスリム人ナセル・オリッチNacer Oricの民兵セルビア人勢力を追い出し、数少ないムスリム人優位を保持していた。

 しかし、セルビア人勢力の増強によってスレブレニツァは降伏した。国連は、スレブレニツァを安全領域Safe Areaに指定したが、実態は、セルビア側の制圧と民族浄化を手助けしたに過ぎなかった。

 国連には、安全を確保する手段がなかった。1995年7月に、セルビア人はスレブレニツァの民族浄化を完了する。

 

・ヴァンス・オーウェン・プラン

 国連によって示されたこのプランは、ボスニアを民族ごと10のカントンに分ける案だった。クロアチア人勢力とボスニア人勢力は賛成したが、セルビア人勢力は、自分たちが占領した地域の大半を失うことになるため、反対した。

 一方、それまでボスニアセルビア人勢力を監督指導していたミロシェヴィッチは、これ以上の経済制裁を回避するため、カラジッチらに対しプランを受け入れるよう要求した。

 しかし、説得にも関わらず、カラジッチ、ムラジッチ、ビリャナ・プラヴシッチBiljana Plavsic(スルプスカ共和国副大統領)そしてクライシュニクは国会で提案を拒絶した。

 ミロシェヴィッチは自分の代理人proxyのコントロールを失った。

 ――「ある日、かれのおもちゃが勝手に動き出した」

 

 ヴァンス・オーウェン・プランはボスニアセルビア人によって拒否され、続いてセルビアクロアチア主導のボスニア3分割案が提起された。

 

ムスリムクロアチア紛争

 1993年11月、ネレトヴァNeretva河畔の町モスタルMostarの橋が崩壊した。

 ボシュニャク人とクロアチア人の同盟関係は表面的なもので、ボスニア紛争間もなく、両勢力の戦闘と追放・虐殺行為が始まった。クロアチア人とセルビア人は、お互いに前線で接することなく、ボスニアの領土を切り取ろうとたくらんだ。

 ムスリムクロアチアの対立は、クロアチア紛争時から始まっていた。トゥジマンはボスニアの主権を認めず、クロアチア人地域を併合しようと考えていた。

 ヘルツェゴヴィナ地方のクロアチア人は伝統的に過激な民族主義者が多く、中部・北部のクロアチア人は他民族社会に対し理解があった。

 マテ・ボバンMate Bobanはヘルツェグ・ボスナ地域を設立した。

 1992年10月以降、プロソルでのマフィア対立をきっかけに、ボスニア軍(Army of Bosnia-Herzegovina)とクロアチア防衛評議会(HVO, Croatian defense council)との紛争が始まった。

 クロアチア人はかれらの土地から他民族の追い出しをはかった。

 トラヴニクTravnik、ヴィテスVitez、キセリャクKiseljakではクロアチア人による民族浄化が行われた。

 

 1993年春には、スレブレニツァの陥落と同時に、ムスリムの反撃が始まった。収容所生還者で作られた第3軍団や、厳格なムスリム集団である第7旅団が台頭した。かれらはサラエボモスタル、トゥズラTuzlaの三角地帯を拠点化し、ゼニツァZnicaではクロアチア人を排除した。

 3つの勢力が互いに追放・虐殺を行い、収容所を設置した。過激な部外者(民族主義者や、追放された難民)が共同体を恐慌状態に陥らせ、憎悪が拡大した。

 

セルビアクロアチア関係

 ミロシェヴィッチとトゥジマンは、常に連絡をとりあっていた。前線の兵士たちが殺しあう一方で、両首脳は、ボスニアの分割について協力しようとしていた。

 クロアチアにとって、強力なセルビアと組むことは有利である一方、従属的な立場に甘んじることでもあった。

 

サラエボ市場の虐殺

 1994年2月、サラエボのマルカレ市場に砲弾が落ち、60人以上が死亡した。攻撃者がだれかを特定するのは困難で、カラジッチは、「ボスニア勢力による自作自演だ」と批判した。

 しかし、サラエボ包囲によって既に1万人近くが死亡しており、特に合衆国はセルビア人への武力行使を主張した。

 UNPROFORのローズ将軍gen. roseの仲介により、サラエボでの砲撃が停止した。

 

・ワシントン合意

 同月、合衆国チャールズ・レドマンCharles Redmanの仲介により、クロアチアボスニアが同盟を結んだ。クロアチアは、ボスニアクロアチア人が収容所を作り迫害を行っていることについて欧米から非難を受けており、道徳的な支持を失う恐れがあった。

 トゥジマンは、このまま「侵略者」セルビアと同類になるよりも、ボスニア分割併合をあきらめる代わりに、クロアチア本国の国際的承認を受けるほうを選んだ。

 ボスニアクロアチア人は、トゥジマンから、以前とは正反対の指示を受けた。すなわちボスニア人を殺戮するのではなく、ボスニア人と協力せよと命じられた。

 

・ゴラジュデGorazdeの戦い

 スレブレニツァ、ジェパzepa等とともに東部の包囲地の1つだったゴラジュデにおいて、セルビア人勢力が大規模攻撃を開始した。

 1994年4月、国連の承認によりNATO空爆を行ったが、小規模であり効果は薄かった。空爆を主張する合衆国と、地上軍を置いている英仏の間には意見の不一致があった。また、ゴラジュデ攻撃はカラジッチとベオグラード、ロシアとの分裂を決定づけた。

 

セルビア人の分裂

 米英仏独露からなる交渉グループ(the Contact Group)は、新和平案を携えて当事国と接触した。スルプスカ共和国は、この案ではセルビアが手に入れた地域を手放すことになるとして反対した。

 ミロシェヴィッチモンテネグロ大統領も、カラジッチらの強硬意見の巻き添えを食って経済制裁を続けられるのはこりごりだった。ミロシェヴィッチは、カラジッチらを批判し、統一セルビア人国家を否定した。

 

 5 ゲームの終わりThe Endgame

・勢力図の変化

 セルビア勢力の分裂とクロアチアの台頭は戦況を変えた。1995年7月のスレブレニツァ虐殺を境に、欧米は完全にセルビア勢力を敵と認定した。

 一方、クロアチアは夏に「嵐作戦」を開始した。クライナ・セルビア共和国の戦力は完全に崩壊し、町が次々とクロアチア軍に奪取された。西側諸国はクロアチアの攻勢に目をつぶったため、大規模なセルビア人の避難が生まれ、その過程で数百人が殺害された。

 マルティッチ大統領や、バビッチ等のセルビア地域勢力首脳はどこかへ逃亡した。

 8月にはクライナが陥落し、ボスニアセルビア人勢力も同じ運命を辿ることが予想された。

 

パクス・アメリカーナPax Americana

 ミロシェヴィッチ、トゥジマン、イゼトベゴビッチらは、オハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地Wright-Pattersonに集まり、和平案について話し合った。このとき、合衆国の働きかけによりサラエボ砲撃は中止した。

 国務長官ウォーレン・クリストファーWarren Christopherとその補佐官リチャード・ホルブルックRichard Holbrookeが仲介を務めた。

 旧知の仲であるミロシェヴィッチとトゥジマンはすぐに意気投合した。ボスニア外相シライジッチSilajdzicに対しても、ミロシェヴィッチは譲歩し、サラエボを譲った。かれはサラエボムスリムに渡すことでカラジッチの権力基盤を崩そうとしたのだった。

 ミロシェヴィッチは実際に接するとユーモアがあり魅力的な人物だった。かれはシライジッチに、「きみはサラエボにおいてトンネルを使い狐のように出入りした。一方、臆病者たち(カラジッチら)は丘の上からきみを殺そうとした」と言い、ボスニア側の奮闘を認める発言をした。

 かれは、セルビア経済制裁を解除するために和平に乗り気だった。

 イゼトベゴビッチの強硬な主張により、北東部のブルチコBrckoが共同の行政区画となった。

 和平案の成立に際し、ユーゴスラヴィア崩壊の張本人であるミロシェヴィッチは、まるで自分のしたことを忘れたかのように楽天的だったという。

 クロアチアとトゥジマンの勝利は、軍事力の勝利を象徴していた。合衆国は、武力と外交の併用が、紛争解決に効果を発揮したことを痛感した。

 

・結論

 平和は、民族浄化を通して達成された。追放と虐殺によって、各勢力の領土が明確化され、和平案がそれを固定化したからである。

 セルビア人、クロアチア人、ボスニア人は教訓を学んだ。

 

 ――冷戦後の世界においては集団安全保障は機能せず、また強者から弱者を守る意思も欠如している。自由と安全を手に入れるためには議論や理屈は不要であり、ただ大規模な兵力だけが重要である。ユーゴスラヴィアにおいては、小リアは正義ではなく強者に味方するだろう。

 

Yugoslavia: Death of a Nation

Yugoslavia: Death of a Nation

  • 作者: Laura Silber,Allan Little
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
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『Yugoslavia: Death of a Nation』Laura Silber その2

・1991年3月

 セルビアの野党ヴク・ドラシュコヴィッチVuk Draskovicは、ミロシェヴィッチの独裁に反対し、ベオグラードにおいて大規模なデモを扇動した。

 ミロシェヴィッチとヨヴィッチは、警察にデモを阻止させた。このとき17歳の学生が殺害された。これに反対する学生デモが発生すると、ミロシェヴィッチらはJNAを動員した。

 JNAはユーゴスラヴィアの統一と安定を目的としており、あくまで憲法に基づいて行動することを理念としていた。ミロシェヴィッチは、JNAをセルビアの拡大に利用しようと考えた。

 ミロシェヴィッチの敵……コソヴォアルバニア人クロアチア人、スロヴェニア人、セルビア人の反対派。

 国家の非常事態state of emergencyを宣言するかどうかが、連邦幹部会の争点だった。

 クライナ地方のセルビア反乱軍は独立を宣言した(Serb Autonomous Province of Krajina)。

 

クロアチアセルビア

 1991年の春までに、ミラン・バビッチ、ミラン・マルティッチMilan Marticらを指導者として、クライナ・セルビア反乱が拡大した。

 セルビア人勢力は、西スラヴォニアSlavonia(クロアチア東部)のパクラッチPakrac、イストリア地方IstriaのプリトヴィツェPlitviceを立て続けに制圧し、クロアチア警察軍がこれを攻撃した。

 ミロシェヴィッチの指示により、JNAはセルビア人勢力を保護するために出動した。プリトヴィツェの戦いが、本格的な最初の交戦となった。

 一連の闘いは各地のセルビア人勢力による蜂起を招いた。サラエボのSDS(Serbian Democratic Party)指導者ラドヴァン・カラジッチRadovan Karadzicはセルビアによるクライナ自治区併合を主張した。また、スラヴォニア地方のセルビア民主党員もセルビアへの併合を唱えた。

 

 過激派の台頭……5月上旬、ヴコヴァルVkovar近郊のボロヴォ・セロBorovo Seloでクロアチア人警察とセルビア民兵の交戦があり、クロアチア人12人が死亡した。かれらは目をえぐられる等の拷問を受けて死んでいた。

 HDZ(クロアチア民主同盟)の過激派ゴイコ・シュシャクGojko SuSakや、セルビア超国家主義者ヴォイスラフ・シェシェリVojislav Seseli等が活動を始め、自民族の穏健派をもまた殺害した。

 ミロシェヴィッチもトゥジマンも、既にユーゴスラヴィアに見切りをつけていた。そして両者とも、ボスニアを自国へ分割編入しようと考えていた。

 

・聾者の対話

 連邦幹部会は機能不全に陥った。クーチャンとトゥジマンは、お互いに分離独立に向けて協力することに合意したはずだった。しかし、いざスロヴェニアが独立するときに、トゥジマンは相互防衛を拒否し、怒りを買った。

 スロヴェニアに比べ、クロアチアは独立の準備がまったくできていなかった。

 合衆国のベイカ国務長官James Bakerは、どっちつかずの態度を示すだけだった……独立は認めないが民族自決は尊重する、しかし武力の使用は懸念する。

 

 3 勃発

スロヴェニアのまやかし戦争Phoney War

 1991年6月25日、スロヴェニアクロアチアは独立を宣言した。JNAは当初、スロヴェニアの国境地帯の安全を確保する名目で2000人程度が出動した。指揮官はスロヴェニア人のコンラート・コルシェクKonrad Kolsek将軍だった。

 スロヴェニアとJNAは国境付近で対立し、その後、スロヴェニア軍がJNAのヘリコプターを撃墜し、乗員は死亡した。

 EU首脳は、ミロシェヴィッチとクーチャンとの間で仲介を務めたが、EUには事態を一時停止させる力しかなかった。

 7月にはJNAが44人の戦死者を出して撤退し、スロヴェニアの独立が確定した。これはスロヴェニアと、死に体のユーゴとの戦争であり、後に続く2つの戦争とは異質だった。

 

 ――(スロヴェニアの勝利は)和平仲介者が決して思い至らなかった教訓をヨーロッパに教えた。戦争は、時にきわめて合理的なだけでなく、特に勝利が確実なときには、目的を達成する唯一の手段でもある。

 

 仲介者たちは戦争の愚かさを訴えれば説得できるだろうと考えていた。

 

クロアチアのJNA

 1991年夏から、宣戦布告なしにクロアチアセルビア戦争が始まった。

 ミロシェヴィッチは、ユーゴスラヴィアの領域を、セルビア系住民の居住地を含むと解釈した。こうしてJNAは、大セルビア主義のための軍隊に変質した。

 トゥジマンは最後まで武力行使に反対したため、国防相シュペゲリは辞任した。

 クライナ・セルビアでは、マルティッチの民兵と、JNA中佐ラトコ・ムラディッチRatko Mladicが共同で民族浄化を開始した。セルビア勢力とJNAは、キリェヴォKijevoやヴコヴァル等で砲撃を開始し、クロアチア人の追い出しと占領を始めた。

 クロアチアも反撃を開始し、ゴスピッチGospicではJNAの駐屯地を制圧し指揮官を殺害した。各地でJNAに対する包囲と重火器の鹵獲が行われた。

 アントン・トゥスAnton Tusはクロアチア参謀総長として軍を建て直した。

 9月からヴコヴァルを中心に戦闘が続いたが、JNAは、装備の貧弱なクロアチア防衛隊を破れなかった。新指揮官パニッチPanicが現場を確認したところ、セルビア・ユーゴ側の指揮系統が混乱しており、兵隊たちはだれが自分の上官かもわからない状態だった。

 また、JNAの徴募兵の士気が低いため、民兵と志願者だけを残して後送した。

 

 11月にクロアチア側が撤退し、JNAがヴコヴァルを占領した。その際に多くのクロアチア人男性が拉致・殺害された。JNAは、「解放された町」において海外メディアを案内した。

 路上には虐殺されたクロアチア人と思しき市民の屍体が並んでいたが、セルビア側はこれはセルビア人だと主張した。

 

 ――(並べられた屍体を)どうやってセルビア人であると知ったのかと聞かれて、かれ(JNA将校)は肩をすくめた。


 10月、モンテネグロ方面のJNAが観光都ドゥブロヴニクを攻撃した。城壁やボートへの砲撃は国際的な非難を浴びた。

 1992年9月、JNAはクロアチア人地域から撤退した。そのときにはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まっており、セルビアクロアチアはお互いにボスニアを分割する点で意気投合していた。

 11月、国連平和維持軍の駐留が決まり、トゥジマン、ミロシェヴィッチ双方が同意した。トゥジマンは紛争を国際化することに成功し、ミロシェヴィッチクロアチアの三分の一を占領した状態を維持することができたからである。

 

・キャリントン卿の計画

 EC(欧州共同体)から派遣されたキャリントン卿は、ユーゴ和平案を提案した。それは、各独立共和国によるゆるやかな連合であり、少数民族の権利を認めるというものだった。

 しかし、セルビアはキャリントン案に同意しなかった。ミロシェヴィッチは、セルビア国外のセルビア人区域を併合し、またユーゴスラヴィアの継承国家となろうと考えていた。

 また、かれはクロアチア内のセルビア自治を認めることが、セルビアコソヴォアルバニア人自治を認めることになるとも考え、これを許容しなかった。

 コソヴォセルビア人のナショナリズムによって権力基盤を固めたミロシェヴィッチに、アルバニア人自治を認めるような案は許容できなかった。

 国連のヴァンスVanceはPKOによるクロアチア領内の治安維持を提案し、セルビアはこれに賛成した。

 モンテネグロのブラトヴィッチ首相Bulatovicは、戦争を終わらせるためにキャリントン案に賛成したが、ミロシェヴィッチモンテネグロ国民は激怒し、間もなく首相の座を追われた。

 

 和平を目指す動きの中、ドイツのコール首相Helmut Kohlとゲンシャー外相Hans-Dietrich Genscherが、他の欧州諸国の合意なしにスロヴェニアクロアチアの独立を承認したために、キャリントン提案は崩壊した。

 独立を求める国がそのまま承認されたことで、独立した者勝ちの状況が生まれた。

 ボスニアは、独立を選択し内戦になるか、コソヴォかヴォイヴォディナのようにセルビアに隷属するかのどちらかを選ぶしかなくなった。

 クロアチアをめぐっては、セルビア人支配地域を国連保護地域UNPA(United Nations Protected Area)にし、JNAを一時撤退させる案に、クライナ・セルビア自治区のバビッチが反対したため、ミロシェヴィッチによって失脚させられた。代わって、ヴコヴァルのSDS幹部ゴラン・ハジッチGoran Hadzicが大統領となった。

 

 4 ボスニア

・洪水delugeの前

 ボスニアでは1991年以降、各民族間の緊張が高まっていた。共産主義政党が敗北し、イゼトベゴビッチのSDA、カラジッチのSDS、クリュイッチKljuicらのHDZボスニア支部が各民族の票を争った。

 セルビア人はユーゴ残留、つまりセルビアとの統合を望んだ。ボスニアクロアチア人は伝統的に過激主義的であり、大クロアチアの達成あるいは自治共和国の成立を望んだ。ムスリムは、ボスニアにおける中上流階級を占めており、セルビア支配の下での二級市民となることを拒否した。

 1991年10月、イゼトベゴビッチが独立を決定すると、カラジッチはムスリムを殺すと議場で脅迫した。

 ミロシェヴィッチボスニアのJNAをボスニア出身者で固め、ボスニアセルビア人の軍隊に変質させた。

 

地獄の門

 (民族を問わず)多くのサラエボ市民は、カラジッチをモンテネグロ出身の田舎者セルビア人であると見下していた。

 1992年4月5日、比較的民族融和の文化が浸透していたサラエボで、内戦に反対する市民がデモ行進を行った。セルビア民兵がこのデモに発砲し死者が出た。ボスニアの内戦が開始された。

 6日、ボスニア独立がEUに国家承認されると同時に、カラジッチはスルプスカ共和国Republika Srpskaの独立を宣言した。

 サラエボにおいて、セルビア民兵は丘の上の警察学校・武器庫を占拠し、高層ビルには狙撃兵を配置した。

 セルビア国境のズヴォルニクZvornikにはJNA、セルビア内務省の特殊部隊、シェシェリのさそり部隊、アルカン・タイガー(アルカンの民兵)が侵攻し、制圧とムスリム人の追放・殺害を行った。

 カラジッチとクライシュニクkrajisnikはサラエボの分割計画を立てた。

 

・イゼトベゴビッチの誘拐

 1992年5月2日、サラエボ空港でイゼトベゴビッチがJNAに拉致された。この凶行は失敗し、大統領は解放された。しかし、かれはJNAが中立でないことを痛感した。

 JNA参謀総長アジッチAdzicは、非セルビア系の将校をボスニアから退去させ、ベオグラードに忠実でないボスニア師団のクカニャチKukanjacを更迭し、ムラジッチを配置した。

 JNAの一部は、セルビア人勢力に装備を引き渡して撤退した。

 国連の司令官マッケンジーMacKenzie将軍はサラエボが凄惨な戦場と化していることに気が付いた。

 [つづく]

 

Yugoslavia: Death of a Nation

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