うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

粘土人形 道具と計画

 粘土人形を作りはじめたので、今後はこれもブログに投稿していきます。

 完全な素人のため、いまは練習のために原始ハニワを生産中です。

 次回以降、人形の制作過程を投稿します。

 

 ◆粘土の夢

 フェーズ1 人形の制作:

  単純人形、パペット、球体関節

 フェーズ2 人形劇による自作劇撮影:

  クエイ兄弟シュヴァンクマイエル人形劇三国志プリンプリン物語

  サイレント映画

  デジカメ撮影とソフト編集

  8ビット音楽

 

 ◆いま使っている道具

・ラドール・プレミックス

 石粉粘土です。これをこねて形をつくります。他にも種類があるようです。

パジコ ラドールプレミックス

パジコ ラドールプレミックス

 

・へら

 粘土を加工して形をつくります。

 ・ターナー アクリル

 塗装します。 

ターナー色彩 アクリルガッシュ 13本(12色)スクールセット AG13C 11ml
 

ジェッソ

 絵具を塗る前に、全体に塗っています。

リキテックス アクリル絵具 リキテックス ジェッソ 300ml

リキテックス アクリル絵具 リキテックス ジェッソ 300ml

 

・絵具の筆

 パレットもついているので便利です。

 ・工作マット

 机が汚れないようにしています。

デビカ 工作マット 090205

デビカ 工作マット 090205

 

・ 紙やすり

 塗装の前に磨いたり、細かい形を調整します。

 ・アルミ線

 人形の骨組みに使います。

アルミ線 シルバー

アルミ線 シルバー

 

・アルミホイル

 針金に巻いて、人形の素体をつくります。

 ・スケッチブック

 人形の設計図を書きます。

マルマン スケッチブック 図案シリーズ A3画用紙 S115

マルマン スケッチブック 図案シリーズ A3画用紙 S115

 

・スケッチ用鉛筆

 鉛筆です。

三菱鉛筆 鉛筆 ハイユニ 2B 1ダース HU2B

三菱鉛筆 鉛筆 ハイユニ 2B 1ダース HU2B

 

・のし棒

ホームベーカリー倶楽部 シリコンローラー SJ1456

ホームベーカリー倶楽部 シリコンローラー SJ1456

 

・スポンジ

 

 ◆参考書など

・吉田式球体関節人形制作技法書

 非常にレベルが高いので、まだパーツのコネ方くらいしか読んでいません。

吉田式球体関節人形制作技法書

吉田式球体関節人形制作技法書

 

・その他

 Youtube動画や人形制作ブログを参考にしています。

 参考資料はグーグル画像検索等

 

『The Great Game』Peter Hopkirk その3

 3 終盤

 クリミア戦争の結果、ロシアでは反英論(Anglophobe)が高まっていた。

 

 1858年、アレクサンドル2世は、若い軍人イグナティエフ(Ignatiev)をヒヴァ、ブハラに派遣した。かれはその後北京に向かい、アロー戦争中の清国と英国との仲介になり、1860年、北京条約によって清国北方の国境付近を手に入れた。

 ロシアの主要な反英論者……戦争相ミリューチン(Milyutin)、東シベリア総督ムラヴィエフ(Muraviev)、コーカサス総督バリアチンスキー(Baryatinsky)。

 ロシア政府は南北戦争の影響を受け、綿の輸入を求めてフェルガナ進出を決めた。また、1864年、ゴルチャコフ(Gorchakov)外相の覚書は、ロシアの植民地主義を告げるものとなった。

 

 1865年、チェルニャエフ将軍はコーカンド・ハン国の領土タシケント(Tashkent)を占領した。将軍は「タシケントの獅子」と呼ばれ、タシケントには新たにトルキスタン総督府(総督カウフマン(Kaufman))が設置された。

 1868年、カウフマンはサマルカンドを占領し、続いてブハラ・アミール国を保護国化した。

 

 東トルキスタンは山脈によって孤立しており、カシュガル、ヤルカンドといった都市は、歴史的に中国の支配を受けてきた。

 1865年、コーカンド・ハン国出身のヤクブ・ベク(Yakub beg)が乗り込み、新たにカシュガル王国を建てた。

 英国人探検家ロバート・ショウ(Robert Shaw)と、ジョージ・ヘイワード(George Hayward)はお互いに対抗しつつ東トルキスタンに潜入した。さらに、英領インド軍モントゴメリーが訓練したインド人工作員(the Pundit)も当地に潜入した。

 ショウはヤクブ・ベクと親交を結び、ヤクブ・ベクは対露政策として英国との同盟を望んだ。ヘイワードはその後、カシミール北部に乗り込んだところ地方のボスに殺害された。

 

 1873年、カウフマンは3つの軍団を率いてヒヴァに侵攻した。ハンは逃亡し、ヒヴァはロシアに占領された。

 

 バーナビー大尉(Frederick Gustavus Burnaby)は、ロシア勢力下の中央アジアに乗り込むため、サンクトペテルブルクの戦争相ミリューチンに直接申し出た。かれは許可を得て、ヒヴァからカラクム砂漠(Karakum)を通り、メルヴ(Merv)を目指した。

 イギリス軍元帥の命令で途中で引き返したが、かれの探検記は反露主義を盛り上げ、ベストセラーとなった。

 

 1877年、オスマン帝国領内のヘルツェゴビナの反乱と、ブルガリアでの虐殺に対し、ロシアが戦争を開始した。露土戦争はロシアの勝利に終わったが、逆に列強はロシアへの警戒を強めた。

 イギリスがオスマン帝国を支援した場合に備えて、カウフマンはロシア軍を出動させ、アフガンを経由しインドに侵攻させるつもりだった。

 

 戦争終結後、カウフマンはストリエトフ(Stolietov)将軍をカーブルに派遣し、対英戦での協力を要請した。

 インド総督(副王Viceroy)のリットン卿(Lord Lytton)は、この動きを許さず、アフガンの君主シール・アリー(Sher Ali)に最後通牒を送り、宣戦布告した(第2次アフガン戦争、1978~1979)。

 ロシア軍は約束を破り援軍を送ろうとせず、シール・アリーは逃亡先で死亡した。代わって、摂政ヤークブ・ハーン(Yakub Khan)がイギリスに降伏した。

 カーブルに駐留していた英軍将校が再び反乱により殺害され、ヤークブ・ハーンも逃亡した。インド反乱鎮圧の名将フレデリック・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)がアフガンに再侵攻し、アイユーブ(Ayub)を破った。

 その後、アブドゥル・ラフマン(Abdur Rahman)が王位に就いた。かれは英国に逆らわなかったため、イギリスは再びアフガンを勢力圏に治めた。

 

 ロシアは次の一手としてトランスカスピアン地方……トルクメンに進出した。イギリスがスーダンでの反乱に手を焼いている間に、スコベレフ(Skobelev)将軍が1881年にジョクテペ要塞(Geok Tepe)を占領し虐殺を行った。その後1884年、ロシアはメルヴを併合した。

 1885年、ロシア軍がパンジェ(Pandjeh)に進出したため、英露戦争の危機となったが協議により回避された。その後も、ロシアはアフガン近辺に進出した。対抗してイギリスもロシア領内に偵察者を送り、またインド国境の警備を強化した。

 中国の支配に戻った東トルキスタンカシュガル、ヤルカンド)や、パミール高原に接するチトラル(Chitral)、フンザ(Hunza)にも、ロシアは軍を派遣しようとした。イギリスはヤルカンドの部族軍と同盟し、ロシアに対抗することを検討したが、部族軍の練度の低さを見てあきれた。

 ロシアは中央アジアに鉄道を敷設し、イギリスの将校カーゾン(George Curson 後のインド総督)は鉄道や保護国を偵察した。

 

 1889年、1890年、イギリス軍将校フランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband, 後の王立地理学会会長)や文官ジョージ・マカートニー(George Macartney)がフンザ地方を探検した。パミール高原ヒンドゥークシュの麓は、英露清の領土が交わる要衝だった。ヤングハズバンドは、1889年、1890年双方において、進出していたロシア軍将校とテントで会談した。

 

 インドへの道をめぐる最後の紛争……

・フンザ・ナガル戦役(Hunza=Nagar Campaign)……僭主サーダーフ・アリ(Sadaf Ali)追放、デュランド(Durand)大佐の活躍

・チトラル包囲……ウムラ・カーン(Umra Khan)の蜂起、ロバートソン(Robertson)将軍の籠城戦と、ロウ(Low)将軍やケリー(Kelly)大佐による救援

 チベットは名目上清の支配下にあったが、ラサ(Lhasa)を目指して英露は再び進出した。

 大佐となったヤングハズバンドは兵を連れてラサ手前の都市に向かった。かれはチベット進軍の過程で、虐殺事件を起こしてしまう。その後、ラサを制圧した。しかし、結局、宗主権は清国に残した。

 

 1904年、ロシアは極東で日本に敗北し、政治的・経済的に大きな打撃を被った。イギリスのチベット進出に対抗する余裕はなかった。

 1907年、新たな危険分子であるドイツの拡大を阻止するため、英露協商が結ばれた。中央アジアをめぐる長年の対立は解消された。

  ***

 

The Great Game: On Secret Service in High Asia

The Great Game: On Secret Service in High Asia

 

 

『The Great Game』Peter Hopkirk その2

 2 中盤

 中央アジア、特にアフガニスタンを傘下に入れようと、英露の対立が強まり、紛争が各地で勃発した。

 

 1831年頃、ベンガルインド軍のアーサー・コノリー(Arthur Conolly)は、モスクワからインドにかけて探検し、コーカサス地方カイバル峠間、カスピ海東岸、カラクム砂漠(Karakum Desert)の情報を収集した。

 かれは、ロシアがインド侵略をするならカーブル(Kabul)とカイバル峠のルートか、もしくはヘラート(Herat, ペルシアに隣接する豊かな都市)を目指すに違いないと考えた。

 

 砂漠そして攻撃的なトルクメン(Turkoman)部族以上に、中央アジア最大の障害は、アフガニスタンだった。

 アフガニスタン人はロシアの傘下にあるペルシアを憎悪しており、また戦闘的だった。

 イギリスは、ロシアに対抗するため、アフガニスタンを制し、またヘラートをカムラン・シャー(Kamran Shah)王朝(暴君、反ペルシア)に保持させておく必要があった。

 

 続いて、シク王国のランジート・シングに贈り物(馬)を運ぶ名目で、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes)中尉はインダス流域の偵察を命じられた。

 バーンズはインダス川を越えてシク王国の都ラホール(Lahole)、カーブル、ブハラを訪れた。

 カーブルの君主ドスト・ムハンマド(Dost Mohammad)は統治に長け、狡猾だった。バーンズは、かれがアフガンを安定させておくにふさわしいと判断した。ブハラでは、宰相(Vizier, ワズィール)の歓迎を受けた。

 

 1833年、オスマン帝国領内エジプトで、ムハンマド・アリーMuhammad Ali, エジプト建国の祖)が反乱を起こした(第1次エジプト・トルコ戦争)。オスマン帝国を救済するため、英露双方が介入し、ムハンマド・アリー朝がおこった。

 

 トルコ情勢に加えて、コーカサスでもグレート・ゲームが展開された。まだロシアに征服されていないチェルケス(The Circassians)とダゲスタン(Daghestan)……ムスリムの山岳部族たちに対して、反露主義者であるデイヴィッド・アーカート(David Urquhart)が支援しようとした。

 

 この時期、ペルシア、ヘラート、アフガニスタンの各君主に対し、ロシアが使者を送り込んでいることがわかり、イギリスは危機感を抱いた。

 ロシアはカーブルにヴィトキエヴィチ(Vitkevich)を派遣したが、これを英軍将校ローリンソン(Rawlinson)が察知した。インド総督は、対抗してバーンズを派遣した。

 

 ドスト・ムハンマドを引き入れようと英露は互いにけん制した。しかし、英領インド総督(Governer-General India)のオークランド卿(Auckland)は、ペシャワールを要求する王ドストを脅迫し、英国から離反させた。バーンズは交渉に失敗しカーブルを脱出した。

 同時期、ペルシアのシャーがロシア人顧問シモニッチ(Simonich)のもとヘラートに侵攻した。ヘラートではポッティンジャーの甥が防御戦を指導し活躍した。その他、イギリス人の東インド会社関係者マクニール卿(McNeill)も関与していた。

 ヘラート攻撃は失敗し、ロシアは手を引いた。ヴィトキエヴィチは政府から切り捨てられ、サンクトペテルブルクで不審死した。

 

 ◆第1次アフガン戦争

 1839年、イギリス軍(インド総督マクナーテンMcNagten, ベンガル総督キーンKeane, バーンズ中佐)がシク王国の支援を受けて、アフガニスタンに侵攻した。

 従順でないドスト・ムハンマドを追放し、シャー・シュジャー(Shah Shujah)を傀儡に据えるためだった。

 ガズニ(Ghazni)要塞での抵抗の後、ドスト・ムハンマドは亡命し、英軍はあっけなくカーブルに入城した。

 ところが間もなくカーブルで暴動がおこりバーンズは死亡した。ドースト・ムハンマドの息子アクバル(Akbar)の軍がイギリス駐屯軍を包囲し、マクナーテン将軍は惨殺された。残されたエルフィンストーン(Elphinstone)将軍らも窮地に追い込まれ、雪のカイバル峠を撤退する過程で虐殺された。

 1842年、アフガンの傀儡君主シュジャーは暗殺され、ドースト・ムハンマドが復位した。

 

 ◆ヒヴァへの探検

 英露はヒヴァを勢力下に収めようとお互いに進出した。しかし、中央アジアの砂漠は極めて過酷な環境だった。

 ペロヴスキー(Perovsky)将軍は5000の兵を率いてオレンブルクから出発したが、冬の気候で全滅寸前となり、途中で引き返した。

 イギリスのアボット大尉(Abbott)、シェイクスピア(Shakespear)がヒヴァのロシア人奴隷解放に尽力し、ロシアの進出の口実をつぶした。アボットの名はアボッタバード(Abbottabaad、パキスタンの都市)に残されている。

 

 探検の途中でブハラのハーンに拘束されていたストッダート(Stoddart)とコノリー(Conolly)は、斬首された。

 

 その後しばらく、中央アジアでのグレート・ゲームは小康状態となった。

 1846年から48年にかけて、2度のシク戦争でイギリスはシク王国を植民地化した。

 1853年からクリミア戦争が勃発した。ロシア対トルコ・英仏のこの戦争で、ロシア軍は敗北し、ニコライ皇帝は失望し死亡した。

 クリミア戦争に乗じてペルシアがアフガンのヘラートに侵攻したが、イギリス海軍がペルシアを艦砲射撃したことで退散した。

 イギリスは、ロシアの劣勢を見て、ダゲスタンのイマーム(指導者)たるシャミル(Shamyr)を支援しようとしたが、ムスリムとの関わりを嫌う政府によって見送られた。

 1857年、インド大反乱が起こり、イギリスは対応に追われた。鎮圧後、イギリス東インド会社は解散し、インドは女王直轄領となった。

[つづく]

 

The Great Game: On Secret Service in High Asia

The Great Game: On Secret Service in High Asia

 

 

『The Great Game』Peter Hopkirk その1

 グレートゲームThe Great Gameとは、中央アジアを南下するロシア帝国と、インドを拠点とする大英帝国との紛争を示す言葉である。

 なお、この言葉の生みの親とされるイギリス東インド会社のコノリー(Conolly)大佐は、1842年、ブハラ・ハン国(現在のウズベキスタン・ブハラ)でハンに捕らえられ斬首刑になった。

 本書は、中央アジアの覇権をめぐるイギリス、ロシア、中央アジア諸王朝の動き、また多くの探検家や冒険家、軍人たちの活動をたどる。

 

 著者のホップカーク(2014年死去)はイギリス出身のジャーナリストで、中央アジアだけでなくアルジェリアキューバなど様々な地域を取材した。本書の他にも多数の中央アジアに係る著作がある。

 

 ◆所見

 植民地戦争の一舞台であるコーカサス中央アジアでの、帝国と現地国家・部族との抗争を時系列でたどる。著者は「序盤、中盤、終盤」に分けて英露の対立を記述する。

 イギリス軍・ロシア軍双方において、準大尉(Subaltern, 下級将校)に高度の裁量が与えられていたのが特徴的である。

 かれらは、砂漠や山脈、氷に覆われた無人の土地を探検し、地理情報を集めると同時に、専制君主たちをだまし、現地人を殺害した。同時に自分たちも、盗賊や、専制君主、反乱の危険にさらされた。

 グレート・ゲームにおける軍人たちは、現代の官僚化した軍人とはまったく異質の業務を行っていた。

 イギリス軍の編成……東インド会社軍や、英領インド軍は、大部分が外国人傭兵……セポイ(傭兵)、シク教徒、パンジャブ人、パシュトゥン人、グルカ兵等からなり、イギリス人は将校ら一部に過ぎない。

 植民地戦争は、帝国の指揮の下、大半は現地人対現地人によって戦われていたことを示す。

 日露戦争は、勢力拡大を目指すロシアに対し、現地国家日本が抵抗した稀有な例である。しかし、日本もまた大陸・朝鮮半島権益保持のために戦ったのであり、帝国主義入れ子構造となっている。

 ※ 旅順攻略戦はBattle of Port Arthur、奉天会戦はBattle of Mukden、日本海海戦はBattle of Tsushimaとして有名である。

 

  ***

 1 序盤

 英仏露の抗争の起源はナポレオン時代にある。ナポレオンがインド侵攻を企画しているとのうわさが広がり、英露は警戒した。その後、ナポレオンが姿を消し、英露がそれぞれ大国として中央アジア権益をめぐり対立を強めたことが、グレート・ゲームの契機となった。

 

 ロシアは、モンゴルと黄金のオルド(Golden Horde, ジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)に侵略され、タタールの軛といわれる長期間の服従を強いられた。

 イヴァン大帝(Ivan the great)によって、ロシアは遊牧民から土地を奪回した。続いて、イヴァン雷帝(Ivan the terrible)は東方・南方への拡大を進めた。

 

 ナポレオン時代:

 ロシア、フランス、イギリスは、お互いにペルシアを同盟に引き込もうとした。

 グレート・ゲームの前哨戦:

 英領インド軍クリスティ(Christie)とポッティンジャー(Pottinger)の冒険により、イギリスは中央アジアの地理情報を集めた。

 ロシアはペルシアを侵攻したが、ペルシア軍の屍体の中から英国の軍事顧問クリスティを発見した。これは外交問題にはならなかったが、イギリスではクリスティの死を受けて、ロシア脅威論が勃興した。

 

 インドへの道:

 英領インド軍キニア(Kinneir)大尉による、インド防衛についての分析。

 ナポレオン没落ののち、イギリスにとって、ロシアが最大の脅威となった。

 海路は閉ざされているため、ロシア軍の進路は、コーカサスから東方に向けての侵攻、あるいはオレンブルク(Orenburg、沿ヴォルガ連邦管区カザフスタン国境)からの南下が考えられた。

 アフガニスタン中央アジアの要衝となった。なぜならインドへのすべての道は、アフガニスタンを経由するからである。

 カイバル峠(Khyber Pass)はインドへの入り口、つまり侵入者の道となるだろう。

 

 ロシアの先駆者:

 ムラヴィエフ(Muraviev)は、イェルモロフ(Yermolov)将軍の命を受け、トビリシ(Tiflis, ティフリス)からヒヴァ(Khiva)・ハン国へ派遣された。ロシアは、交易と技術協力を餌に、やがては中央アジアの緩衝国家を併合しようとしていた。

 ムラヴィエフはヒヴァの太守とうまく交渉し、返礼の使節トビリシまで連れていった。併せて、かれはヒヴァへの経路や戦力・防御分析を報告し、後のロシア南下政策の基礎となった。

 

 1820年代初め、東インド会社所属のイギリス人ムーアクロフト(Moorcroft)が、ロシア脅威論者としての信念から、北インドのラダック王国(Ladakh)と交易関係を結ぼうと探検を行ったが、うまくいかなかった。ラダックには、すでにロシア人が進出していることが判明した。

 ランジート・シング(Ranjit Singh)率いるパンジャブ(Punjab)のシク王国は当時イギリスと同盟関係にあり、宿敵ラダック国とイギリスが関係を深めることを許さなかった。ムーアクロフトに対して刺客が送り込まれたが、かれは生き延びた。

 

 続いて、ロシアの学者エヴァースマン(Eversmann)が、ブハラ・ハン国(Bokhara)にやってきて、ロシアとの交流を創始させた。一方、ムーアクロフトはオクソス(Oxus)(アムダリヤ)河流域で不審死した。

 

 ロシアとペルシアの戦いは再燃しつつあった。1828年、ロシアの大使がペルシアにおいて群衆に殺害される事件も起きたが、皇帝はトルコと戦争中であり、ペルシアとの戦線を開くことを躊躇した。

 さらに、ロシアはトルコ領内に進軍し、コンスタンティノープルまで迫った。しかし、英仏がロシアの拡大を警戒したため、皇帝は停戦させた。

 

 イギリスにおけるロシア脅威論が高まり、ジョージ・ド・レイシー・エヴァンス大佐(Colonel George de Lacy Evans)はロシアのインド侵略を警戒した。

 1830年、これに影響を受けたウェリントン公爵(Arthur Wellesley, the Duke of Wellington)内閣のエレンバラ卿(Lord Ellenborough)はインド統括委員として情報収集を開始した。

 

 これがグレート・ゲームの始まりである。

[つづく]

 

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game#/media/File:Map_of_Central_Asia.png

The Great Game: On Secret Service in High Asia

The Great Game: On Secret Service in High Asia

 

 

『戦艦武蔵』吉村昭

 戦艦武蔵の建造から撃沈までを題材にした記録文学。取材を基につくられてはいるがあくまで文芸作品のようだ。

 特に建造過程が詳細に説明されており、秘密保全や、軍と会社のやり取り等、現代にも受け継がれている要素がありおもしろい。

 

・秘密保全……武蔵の外観が見えないように、造船所に棕櫚の幕を垂らす。丘の上に住宅街を憲兵保全隊員が巡視し、怪しい者を片っ端から捕まえて厳しい尋問を行う。領事館から目視できないよう、途中に市の倉庫を建設し戦艦を隠す等。設計図についても、流出しないよう厳重な対策を行った。

・軍と民間の関係……当時はまだ海軍に技術者がおり、造船将校が設計図等にも関わった。海軍から受け取った図面等に基づき三菱の技術員が建造をおこなった。会社には主席監督官以下、会社の作業を監督する軍人がおり、進捗を管理した。

 

  ***
 大和と武蔵は、存在自体が秘密とされていた。

 大和は国営の呉海軍工廠で、武蔵は三菱の長崎造船所でそれぞれ建造されたが、この計画は当時の大蔵省や政府に対しても秘匿されていた。

 予算要求の際は、大型戦艦ではなく雑多な装備品に項目を偽装したという。

 無事完成した大型戦艦だが、既に艦隊決戦の時代が終わりつつあり、目ぼしい活躍をすることなく沈没した。武蔵は重油の消費が激しく、また敵の主力にぶつけるためになかなか実戦に用いられず、他の舟からは「御殿」と揶揄された。武蔵乗組員は穴掘りや施設作業に使われた。

 沈没した武蔵の乗組員は存在を隠され、生き残った者は軟禁されるか、または決死隊として使い捨てられた。特攻から生還した搭乗員の末路を連想した。

 

  ***

 巨大な戦艦を秘匿するために、長崎市内の中国人を訊問したり、窓の方向を見るな、と各戸に通達したりと、だいぶ強引な保全対策をやっていたようだが、米軍の話では大和、武蔵の諸元は戦後までわからなかったという。

  ***

 造船担当者や技師たち、また乗組員たちは与えられた作業に必死で取り組んだ。司令塔である軍や政府がなぜ適切な指示を出せなかったのかが問題である。

 

戦艦武蔵 (新潮文庫)

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