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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ジョゼフ・フーシェ』シュテファン・ツワイク ――政治家のあるべき姿

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  フランス革命から帝政、王政復古時代にかけて権力闘争を生き延び、黒幕として権力を保持した人物の伝記。

 

 ロベスピエールやナポレオンといった指導者が失脚していくなかで、フーシェは「無性格」、「無道徳」によって危機を回避した。

 フーシェは表舞台に立たない存在だったが、バルザックはかれを「もっとも興味深い精神」と評した。

 現実の政治・歴史を動かすのは多くの場合、すぐれた英雄ではなく、価値で劣る狡猾な人物である、とツワイクは述べている。

 

 パトロクロスはすでに倒れ、ヘクトルアキレウスまた倒れたが、ただ一人生き残っていたのは策謀家オデュッセウスのみであった。彼の能才は天才を凌駕し、彼の冷血性はあらゆる情熱に打ち勝って生き延びたのである。

 

 ◆メモ

 フーシェはただ自己の権力保持にのみ力を注いだ極端な裏切り者、マキャヴェリ主義者だが、本書に描かれるフーシェをはじめとする政治家たちの行動は、いま現在でも確認できる普遍的なものである。

 権力の本質や、人間の弱さはいつの時代でも変わらないものである。

 


  ***

 1

 フーシェは1759年、ナントの平民(商人・船乗り)の家に生まれた。当時は軍や官僚といった地位のほとんどを貴族が占めていたため、船乗りの適性がなかったフーシェは、比較的平民にも開かれている教会……オラトワール教団に入り、僧となった。

 かれは終生、特定の対象に忠誠を誓うということがなかった。

 学校での教育と教会業務に取り組む一方で、社交場に出入りし、当時弁護だったロベスピエールと信仰を結んだ。

 

 フランス革命が勃発し、国民公会が開設されると、フーシェはナント市民の要望を汲んで議員として立候補し、1792年に当選した。

 議会はジロンド派(穏健派)と山岳派(急進派)に分かれていたが、フーシェは目立たぬように情勢をうかがった。

 

 けっして表向きには権力の所有者にはならぬが、しかも完全に権力をおさえていること、あらゆる糸を引きながらもけっして当の責任者にはならないことが、それである。いつでも第一人者の背後にかくれて猫をかぶり、この人を矢面に立たせること、そしてこの人が敢然躍り出て行き過ぎたときには、時を移さず決定的な瞬間にするりとこの人に背を向けてしまうこと、これが彼の大好きな役であった。

 

 元国王ルイ・カペーを助命するか死刑するかの投票において、かれは急進派と暴徒の勢いをみて、寝返って死刑に投票した。

 かれの特徴は鉄面皮をもって裏切ること、常に勝者の側につくことだった。

 

 その後、ナント州の総督となり、私有財産と教会特権を否定する過激な訓令を出し、パリの公安委員会やジャコバン派の機嫌を取った。

 

 

 2

 1793年、工業都市リヨンで王党派・穏健派の叛乱が発生し、急進派のカリスマ的人物シャリエを処刑した。その後、叛乱は共和国軍によって鎮圧された。

 担当者クートンの穏健な処罰に不満を持った急進派は、中央から「悪評高いジャコバン党員で極左テロリスト」ジョゼフ・フーシェと、コロー・デルボワ(俳優時代にリヨンで野次られたという伝説)を派遣した。

 

 フーシェはもともと血が好きというわけではなかった。

 

 かれは大多数の人間の臆病なことを知り抜いていて、猛烈な強硬なテロルの風を吹かすだけで、たいていの場合はテロルをやらないですむということを心得ていた。

 革命家の大半は生来の殺人者ではなかったが、かれらが「血なまぐさい言葉」をもてあそんだために、後に実行しなければならないはめになった。

 

 残念ながら世界歴史は、ふつう叙述されているような人間の勇気の歴史であるだけでなく、また人間の臆病の歴史でもあるのであり……危険な言葉を弄し国民の熱情をあおりすぎるところから、常に戦争が勃発するように、政治的犯罪もまた然りである。

 


 人間の臆病ほど、多くの血を流したものはないという。

 リヨンでの大量虐殺後、ロベスピエール国民公会で権力を握るさまを見て、今度は穏健派を味方につけるため、恩情処置を行い、リヨン虐殺の責任をコローになすりつけた。

 

 

 3

 ロベスピエールフーシェを非難し、かれをジャコバン・クラブから除名した。しかしフーシェは大多数の者とは違い独裁者に怯まず、陰で議員たちの不満を煽り、反ロベスピエールの空気を醸成した。

 フーシェの目論見どおり、ロベスピエール国民公会の場で多数から罵倒され、そのまま捕えられ処刑された。

 左派が凋落し再び反動派が主導をとったが、フーシェはタリアンやバラーといった新しい指導者には加わらず、下野した。

 

 

 4

 クーデタ後の総裁政府時代

 恐怖政治時代に幅を利かせた残虐な派遣議員らが逆に追放されたが、フーシェはうまく逃れ、表舞台から消えた。

 クーデタ後、フーシェは極貧の中で生活したが、この間、バラーの密偵として働いた。かれは最も泥くさい、賤しい仕事に従事したという。このときに、将来の警務大臣としての能力を磨いたという。

 

 時代は再び金がものをいうようになっていたが、フーシェは、バラーとのつながりを利用し、軍隊の装備調達や入札などで商人の便宜を図ることで力をつけていった。

 フーシェパトロンであったバラーは、ルイ18世を利用しようと考えていた。

 

 

 それにはただ一つ邪魔になることはカルノーのような端正な共和主義を奉ずる同僚たちが控えていることで、かれらは依然として共和政体を信じており、理想などというものは、それを種に儲けるために掲げるものにすぎないということを、どうしてもわかろうとしないのである。

 


 バラーがクーデタで総裁政府の君主となり、フーシェフランス共和国使節に取り立てられ、その後1799年に警務大臣となった。

 かれは国内のあらゆる場所に工作員や諜報員を配置し、自らの上司たちをも監視した。後の皇后ジョゼフィーヌや、ナポレオンの秘書も買収されていた。

 

 

 なぜなら戦時でも平時でも、政治でも財政でも諜報がすべてである。もはやテロルではなくして、知るということが、1799年のフランスでは力なのだ。

 
 かれは八方に対し賄賂や汚職の便宜を図り人気を博した。まもなく総裁政府の崩壊を察知し、ジョゼフィーヌ夫人(浪費・浮気癖で金を必要としていた)から、ナポレオンがエジプトから戻ってくるという秘密を知らされた。

 パリに凱旋したナポレオンとフーシェは意気投合し、以後、フーシェはナポレオン一派の陰謀に目をつむった。一方で、クーデタ計画者らをパーティーに招き、政府総裁とともにもてなすなど、悪戯にも興じた。

 クーデタが成功するとみると、フーシェは恩人バラーを裏切りナポレオン側についた。ナポレオンもバラーに取り立てられたため、バラーは2人から裏切られたことになる。

 

 風見鶏のフーシェに対するナポレオンの反感は強まっていたが、ナポレオン暗殺未遂(爆弾テロ)が発生した際、フーシェが犯人を突き止めるとその功績を認めざるをえなくなった。

 

 なぜなら専制君主というものは、自己の欠点過誤を注意してくれた人間に対して感謝するものではなくて、戦場で殺されそうになった王の命を救った兵士が、賢者の正しい忠告に従ってただちに逃げ出すことはせずに、王の恩返しを期待していたところ、かえって首をきられたというプルタルクの話は、永遠に真実だからだ。

 

 帝王は、自己の弱点を暴露した瞬間に自分を見た人間を愛さないものだ。

 
 ナポレオンの立場は、一回の敗戦で失脚しかねない不安定なものだった。かれは自己と自分の一族がフランスを所有できるよう、専制君主になろうと決心した。同時に、フーシェに多額の報酬を与え元老院に入れることで、厄介払いを済ませた。

 

 

 5

 ナポレオンが皇帝になり、多くの憎悪を買い、敵をつくったことで、フーシェは統治のために再び警務大臣に登用された。お互いに敵対してたが、フーシェはナポレオンやその親族の醜聞を多数握っていたため、職にとどまることができた。

 1808年のスペイン遠征は、ナポレオンが兄ジョゼフに王冠を与えるために行った無益な戦争だった。これに不満をもったフーシェと、外交官タレーランは同盟を組んだ。もともと、平民出身のフーシェと貴族出身のタレーランは、お互いを憎みあっていた。

 その後、ナポレオンが遠征中に英軍の上陸作戦を阻止したことでフーシェは功績をあげ、オトラント公(領地は南イタリア)に任ぜられ、貴族となった。

 

 

 6

 再びナポレオンと対立したため、フーシェは警務大臣の職を解かれ、地方に蟄居させられた。この頃には、皇帝ナポレオンの権力欲は留まるところを知らず、人びとはかれが始める戦争に嫌気がさしていたという。

 ナポレオンはフーシェの秘密資料を差し押さえ、自身に関する記録をすべて抹消した。フーシェ都落ちしていたが、引き続き密偵ネットワークを保持し、情報収集に努めた。

 

 

 7

 ロシア遠征に失敗すると、各国が反攻に出た。ナポレオンはライプツィヒの戦いで完敗し、失脚した。

 

 王政復古によりルイ18世が再び権力の座に立ったが、時代錯誤の専制を行ったためただちに不満を集め、ナポレオンがエルバ島から復活することになった。

 ルイ18世は変節漢フーシェに対する逮捕命令を出すが、王政が早晩崩壊することを知っていたフーシェは逃亡した。

 この逮捕命令は、皇帝ナポレオンに対してフーシェの(一時的にすぎない)忠誠を示す結果になった。

 

 

 8

 百日天下

 ナポレオン皇帝は復帰したものの、腹心の部下や将軍たちはそばにはおらず、また国民も戦争と徴発が再び始まるとして反感を抱いていた。

 皇帝は議会や大臣たちに独裁を制限されていた。諸外国もナポレオンを相手にせず、代わって、警察大臣となったフーシェが外交を取り持った。

 

 ナポレオンは既に戦争狂、フランス国民の命を自分の欲求の為に犠牲にする男に変貌していた。

 

 

 伝説というものは、自分が直接痛い目に合う必要がないところから、あらゆる徳目を格安に求めるものである。たとえば、むやみやたらに人間が犠牲にされたり、英雄的妄想であっても絶対的に帰依したり、他人の英雄的末路を、他人の無意味な忠誠を、安価に求めるものなのだ。

 


 ワーテルローから逃げかえってきて、6万人のフランス兵を死に追いやってもなお、ナポレオンは権力の座にしがみつこうとしていた。フーシェと、長く冷遇されていたラファイエットが、かれを失脚させるために活動した。

 ナポレオン追放とともに、フーシェは自らの警務大臣の役職を得て、ルイ18世を迎え入れた。

 

 

 9

 フーシェの失脚と死について。

 警務大臣であるフーシェは、ルイ18世から、ナポレオンに協力した者を処罰する追放者名簿を作成するよう命じられた。

 

 そういう追放者名簿を作るとなれば、それに第一にのせるべき名前はなんといっても当然オトラント公爵(フーシェ)の名だ。ナポレオンの下に警務大臣だった自分の名こそ、一番先に書かねばならぬ。

 


 やがてルイ16世のギロチンに賛成票を投じたフーシェは、ルイ18世ら王族から国王弑逆者として疎まれ、オーストリアリンツの閑職に追いやられた。

 

 一切の理想や道徳を信じず、ただ時の権力だけに随っていたフーシェは、だれからも見捨てられた。

 

 かつての権威を失っても、かれは役職にしがみついた。フーシェが死んだときはほとんど話題にもならなかったという。