◆メモ
ナポレオンはフランス、ヨーロッパ史に大きな影響を残しており、政治的にも、正確な評価を行うのに苦労する対象のようである。
本書はナポレオンが作り上げた制度や社会システムに関して、刊行当時最新の研究成果をまとめたものである。
ナポレオン研究の本場はヨーロッパであり、フランス語・ドイツ語による研究をアメリカが追いかけつつ、アメリカでも独自の成果が出ているようだ。
まとめとしては、これまで普及してきたナポレオン伝説――ナポレオンが社会・政治システムの根本的な変革者であり、ナポレオン帝国がヨーロッパの国家システムを変えた――を否定し、その実態を明らかにするものとなっている。
ナポレオンには当初からヨーロッパ帝国を築くという大計画があったわけではなく、その場その場で征服戦争を進めていった感が強い。また、かれの征服はフランス革命が生んだ平等や中央集権といったシステムの普及が目的ではなく、優先されたのは軍事・財政上の収奪だった。
ナポレオン評価はその立場によって様々である。著者が言うように、報道の自由や平等、人命尊重といった価値観からナポレオンを完全否定するのは不公平だが、同時にナポレオンが近代的価値観のために戦ったと単純化するのも不自然である。
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1章 序論
欧州で20世紀後半以来進んできたナポレオン研究と、英語圏における普及について述べる。
様々な観点からの研究によって、ナポレオンの実像は常に更新されている。
ナポレオンはこれまで言われていたほど抜本的な改革者ではなく、その社会システムは、既存の制度に多くを負っていた。ナポレオンはヨーロッパの支配者となったが、同時にヨーロッパにとらわれていた。ナポレオンの野心は世界帝国などではなく、カロリング朝の模倣だった。
ナポレオン自身は、軍人君主というよりは啓蒙専制君主だった。
2章 受け継いだ遺産
1 軍隊の出世システム
コルシカの下級貴族の家に生まれたナポレオンは、陸軍幼年学校、陸軍士官大学校を出て砲術将校となった。フランス革命が起こり、1793年までに貴族階級の将校70%が亡命した。このためナポレオンら下級士官、下士官の出世が可能になった。売官制の蔓延する旧体制下では想像できないことだった。
1793年12月には24歳で准将となった。イタリア戦役やオーストリア戦争、エジプト遠征、また王党派蜂起の鎮圧等を経て、ナポレオンの名声が高まり、軍が政治・外交でも主導をとるようになった。
1799年ブリュメールのクーデタにより、かれは政権を設立した。
ナポレオンと同様、身分や階級の低い有能な兵士たちが急激に出世していき、やがてナポレオンの将軍たちとなった……オージュロー、ベルナドット、ベルティエ、ベシエール、ブリュン、ダヴー、グーヴィオン、サン=シール、ランヌ、ルフェーヴル、マクドナル、マルモン、マッセナ、モルティエ、ミュラ、ネイ、ウディノ、スルト、スーシェ、ヴィクトルなど。
2 革命国家の変革
革命を通じて確立された制度……財政新規則、標準直接税、新司法制度、行政枠組改変などを、ブルジョワ革命と呼ぶのは不適切である。革命前に封建制はほとんど崩壊しており、平民も特権身分を買うことができていた。また革命は、商工業・金融分野を停滞させた。
最大の事象は、教会と亡命貴族から没収した土地を売却することで生じた「不動産所有個人主義」とでもいうものである。
また、フランスの領土拡大はブリュメール以前、共和国時代から始まっていた。特に、フランスが手に入れたベルギーとラインラントは先進工業地域だった。一方、ナポレオンが受けついだフランス軍はドイツ、イタリアで略奪を続け、またイギリスによって海上貿易を封じられた。
3章 文官組織
ブリュメールのクーデタでナポレオンは統領政府を確立し、共和歴8年憲法を設置した。
1 政治機構
憲法は「人間と市民の権利」を反映したものではなかった。ナポレオンの終身統領や帝政開始をめぐっておこなわれた人民投票は、既成事実の追認か反対かの意味しか持たなかった。
立法・行政の各機関が設置されたが、概ねナポレオン支持者と富裕層が牛耳るように設計されていた。
内政を掌握したのは内務省と警察省(フーシェが2度大臣を務めた)で、組織は肥大していった。またパリ警視庁はナポレオンのための秘密警察として機能した。その長たる警視総監にはルイ=ニコラ・デュボワとエティエンヌ=ドニ・パスキエがついた。
他にも分割統治の観点から憲兵隊など複数の警察組織が存在した。
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ナポレオンのフランスは警察国家であった。……しかしナポレオンが統治の道具として恐怖心を利用することは、けっしてなかった。
県知事は中央政府が任命し、中央政府に従属した。県の下の郡を統括したのは、県の副知事だった。
ナポレオンによる行政システムの特徴は、画一化、中央集権化、地位・指揮権・報酬の階層化である。役人については、年功序列の傾向が強かった。
2 参集者(rallies)と反対勢力
ナポレオンは追放されていた王党派やジャコバン派にも恩赦を与え、政治抗争を収束させ基盤を固めた。ナポレオン体制を支えたのは、法曹・行政官僚・軍人であり、かれらは共和国時代からその職に就いていた。
ナポレオン統領政府の初期は非常に不安定で、各地での山賊行為や暗殺事件に悩まされた。
最大の敵であったリベラル・共和派知識人は追放された。また新聞の検閲も厳しくなり、政府広報がナポレオンの軍功を称揚した。国家公認の芸術が大手を振るい、反主流は反抗しなければならなかった。
3 財政・金融
フランス革命直後、アッシニア通貨はハイパーインフレに陥った。貨幣改革は不人気な総裁政府によって行われた。その後、ナポレオンの統領政府がシステムを継承し、中央銀行を整備した。
4 コンコルダート
ナポレオンはまた、革命期に追放・投獄されていた聖職者を呼び戻した。ローマ教皇とは、フランス国内の司教らを国家が任命することを条件にキリスト教復権の協定を結んだ。
ナポレオンは教会を国家のコントロール下に置き、聖職者を公務員の一部門のように取り扱おうと試みたが、皮肉なことに再び復職した司教らは教皇に対し服従するようになった。
ナポレオンの離婚を認めないなどトラブルの後、ナポレオンは教皇領を占領・併合し、さらにピウス7世がナポレオンを破門すると、かれを幽閉した。
結局、ナポレオンがロシア遠征によって失脚するとローマカトリックは勝利した。
とはいえコンコルダートは、教会と王党派勢力を切り離し、またプロテスタント諸派やユダヤ教を合法化し、統治の役に立った。
5 司法・法典・教育
これらの分野でも中央集権化、画一化が進められた。これは秩序を好むナポレオンの兵隊精神を反映したものである。
ナポレオン民法典は、地方ごとにばらばらだった法律を整備したもので、刑法とともに他国の模範となった。
教育制度では、国家エリートを養成するために理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を再建した。ナポレオンは国家運営のための教育を重視し、女性教育や小学校には無関心だった。各学校は、国家の統制下におかれた。
6 まとめ
ナポレオンの行政システムは、中央集権的近代官僚制度を確立させた。王政時代の世襲や官職購入を一掃したものの、人事システムは必ずしも能力主義とはいえない。
文官組織の背後にあるのは、やはり軍隊的な志向――階級制度、皇帝への忠誠、厳格な服務規程――だった。
4章 大帝国と大陸軍(グラン・ダルメ)
1 拡大
領土拡大を支えたのは大陸軍だった。
2 軍
ナポレオン軍と過去の軍との最大の違いは、皇帝が軍と文官組織双方の最高指揮官となった点にある。こうして文官組織と軍隊との対立は解消された。
陸軍省は、従来任務を担う陸軍省と、兵站を専門とする陸軍経営省に分離された。
軍の構成においても画一化が進み、将官の大半はブルジョワ出身で、貴族、労働者階級も多かった。こうして軍人名士という階級が誕生した。。
ナポレオンは軍人の昇進や指揮官職の指名にあたり、部隊歴や功績、勇敢さを重視した。
軍は徴兵制度によって主に貧困層から兵隊を充足させた。徴兵免除対象は妻帯者、扶養家族を持つ者だった。
また金銭で「当選くじ」を売買できたため、富裕なブルジョワ層は徴兵逃れが可能だった。
統領政府時代と帝政時代を合わせた総徴兵数は260万人程である。
兵力確保のソースは「古いフランス」、非フランスの県、衛星国・併合国の外人部隊、そして外国人脱走兵・志願兵だった。
徴兵忌避と脱走は常に大きな問題だった。徴兵は、ナポレオンの標榜する管理国家と地域社会が直接対決する場所だった。また脱走はフランス各地での山賊行為とも結びついた。
国家憲兵隊は徴兵忌避や山賊対策、広い範囲での治安維持に導入され、後のフランスや他国にも影響を与えた。
3 ナポレオン戦争
ナポレオンは旧来の軍事技術と戦術を整理し統合した。最大の革新は軍隊編制であり、兵站機能を持つ師団を中心としたシステムが確立した。騎兵、散兵が重用され、従来の密集横隊に対し縦隊が活用された。
師団の上には、機動性を持つ軍団があり元帥がそれを指揮した。
帝国衛兵は古参兵や外国人からなる精鋭部隊であり、実体よりも大きな伝説を残した。
ナポレオンの最大の敵は常にイギリスだった。また最大の失敗は、スペインとロシアに攻め入ったことだった。
フランス大帝国は、ロシアを攻めるのに十分な資源がなく、また従属国の忠誠心も低く、ロシアでの敗戦から1年経たずに帝国は瓦解した。
5章 帝国エリートの編成と贈与
1 貴族と名士
帝政時代、亡命貴族のほとんどは表舞台には立たなかった。また旧貴族の7、8割は、表立った反抗こそしなかったもののナポレオン体制の参集者ではなかった。軍人や官僚として活躍した旧貴族はごく一部に過ぎない。
2 併合地と従属国
ナポレオン帝国は併合地(ピエモンテ、ライン川西岸)、従属国、同盟国と様々なレベルでの拡大を行ったが、共通点は、侵略前のエリートが引き続き登用されたということである。
ナポレオン帝国の制度……民法典や行政システムがどの程度、征服した国々に浸透したかは程度の違いがあり、一概に論じるのは難しい。教皇に忠実な地方では、コンコルダートに対する激しい反発が起きた。
従属国では、近代化や脱封建化よりも、軍事・財政上の収奪が優先された。こうした国では、ナポレオンは封建勢力と妥協し、資源を吸い上げた。征服した土地は、自分の一族や新貴族に対し与える地代の糧となった。
したがってナポレオンは、介入先がどこであろうと、抜本的な社会改革を目指した人間だとみなされるべきではない。
フランス本国における封建制廃止の多くはブリュメール以前に既に行われていた。
結論としては、ナポレオンがヨーロッパを統合したという命題は疑わしい。
6章 帝国の経済
1 農業
19世紀初頭のフランスは農業国であり、それはナポレオン以後も続いた。
2 大陸封鎖
1806年、イギリスの海上封鎖に対抗し、フランスはベルリン勅令によって大陸封鎖を開始した。その目的は、イギリス海軍力に対抗することと、フランス商工業による支配を大陸全体に広げることだった。端的にいえば、イギリス商品ボイコットの強制だった。
あくまでフランス産業をイタリア、ドイツ等に押し付けることが目的であり、従属国、衛星国の産業を考慮したものではなかった。
3 影響
1810年から1811年にかけて大陸は不況に見舞われたが、それは生産過剰、仕入れ過剰によるものだった。
1813年に大陸封鎖が崩壊したが、フランスの海上貿易部門は退行し、「フランスは、約40年間分の商業成長を犠牲にした」。
海軍、商業、金融、工業いずれの分野でも、イギリスがフランスに勝っていた。
7章 遺産
ワーテルローでナポレオンが敗北したとき、フランスには多額の賠償金が残され、領土は削られた。1792年から1815年までのフランス軍の死者は140万人にのぼった。
適齢期男性が多数死亡したことで男女比バランスが崩れ、出生率の減少につながった。
帝国貴族(帝政期に貴族にされた者)は、旧貴族から相当下に見られたが、土地収入は保持した。
帝政崩壊後にフランスに残った遺産は、法制度、県制度、金融・通貨改革、コンコルダート、リセである。
ナポレオン自身に対する評価は、人びとの価値観や思想によって二分される。
すくなくとも民衆にとって、帝国の遺産は好ましいものだったのであり、フランス愛国主義のパンテオンのなかでナポレオンの右に出る者はいなかった。
◆参考
the-cosmological-fort.hatenablog.com
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