アウシュヴィッツ否定論に対抗するための本。
事実の説明や、否定論や修正主義的言説の経緯が紹介される。
1 アウシュヴィッツ概要
・1920年に制定されたナチ党綱領には、「ドイツ国民にユダヤ人は含めてはならない」とする規定が既に存在した。
・1935年のニュルンベルク法において、ナチ党綱領は法的拘束力を獲得した。
・1938年、ポーランド国籍ユダヤ人がポーランドに移送されたことに反発し、ユダヤ人少年がパリのドイツ人外交官を射殺する。これを受け、10.27の「水晶の夜」により全国のシナゴーグが破壊され、91人のユダヤ人が殺害され、3万人のユダヤ人が強制収容所に連行された。
・ユダヤ人迫害は、政権と国家によって計画的に行われた。また、それは公然と行われ、ドイツ国民はその様子を間違いなく認識していた。
・1939年から、T4作戦により障害者の殺害(約8~10万人)が行われた。
・1941年~43年 ラインハルト作戦(ポーランド総督府でのユダヤ人絶滅作戦)
・ヘウムノ……ガストラック
ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ……ガス施設
・最終的に、各収容所は解体され、絶滅収容所はアウシュヴィッツに集約された。
・1933年に作られた強制収容所を、突撃隊に代わって監督するようになったのが、親衛隊髑髏部隊である。
開戦前……ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーヒェンヴァルト、フロッセンビュルク、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック
開戦後……ベルゲン・ベルゼン、その他
・収容所には当初の政治犯の他、同性愛者、エホバの証人、反社会的分子、浮浪者、労働忌避者等も拘留されていった。
・水晶の夜と戦争の影響により、収容所システムは大規模拡大された。
・IGファルベンなどの企業に、収容者を奴隷労働力として貸し与える制度が確立した。その運営を担当するのが親衛隊経済管理本部だった。
・収容所で殺害された400万人のうち120万人程度が、アウシュヴィッツによるものである。
・アウシュヴィッツ収容所の親衛隊員は、解体時には4500人近くにのぼったが、大半が40歳以下、半分が35歳以下の「相当に若い集団」だった。
平均的に教育水準は低く、中東欧・バルト三国の民族ドイツ人が主体となり、西欧諸国出身者はいなかった。
・アウシュヴィッツでの人体実験……カール・クラウベルク博士、ホルスト・シューマン親衛隊少佐、ヨーゼフ・メンゲレ。
2 大量虐殺の否定
アウシュヴィッツ博物館には次のような史料が保管されている。
・国家命令書、書面、「ガス殺」の文言
――アドルフ・ヒトラーも、アウシュヴィッツの親衛隊歩哨部隊も、他で起きた戦争犯罪によって「免責される」などということは決してないのである。
種々の裁判を通じてアウシュヴィッツの実態が明らかになった。
1985年の刑法改正により、ナチ支配下での犯罪を否定することは侮辱罪として処罰されることになった。
それでも、アウシュヴィッツを否定する「修正派」は多数存在する。
・『ロイヒター・レポート』……著者はエンジニアではなく、初めからガス室否定のために出版された。
デマや捏造には、同じレベルで、つまり証拠による反論で対抗する必要がある。
――……いくら道徳的・政治的な主張をふりかざしても、こちら側の論拠が薄弱なのではないかという印象を植え付けるだけである。
――「ドイツ人は正義よりも秩序を愛する」とゲーテは言った。アウシュヴィッツは、虐殺によって確保された、おぞましい秩序の勝利であった。
修正主義者や、過去を覆す者、移民に対する殺人に賛同する者はたくさんいる。
・写真の間違いからすべてを否定する
・犠牲者数のゆらぎを問題視する
・元親衛隊員や活動家による確信的な否定
3 解説
修正主義者や極右急進主義者の主張は、70年代まではガス室そのものを否定するものではなかった。しかし、やがて存在そのものを否定する論調が主流となった。
「アウシュヴィッツの嘘」法について。
・侮辱罪、民衆扇動罪での適用
・「相殺メンタリティー」……東側や連合国の悪事によってナチ犯罪を相殺するという意識
日本の「マルコ・ポーロ」事件について。