うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Hitler』Joachim C. Fest その2

 3 長い待機

 ランツベルク刑務所に収監された期間を、ヒトラーは「国費による大学」と形容した。かれは『わが闘争』を執筆し、ヘスらの編集を経た後出版された。この本にはゴビノーの人種理論を曲解したドイツ民族主義、反セム主義が強く反映されている。

 1924年に解放されたヒトラーは、党の再建にとりかかった。

 かれはリーダーシップのないローゼンベルクを代行者にあてており、また党員が議会選挙に出ることを禁じていた。意図的に党の統率を弱め分裂状態にすることにより、党の掌握を容易にした。

 北ドイツではグレゴール・シュトラッサー、ゲッベルスらがナチス左派を形成し、社会主義的な方針を打ち出していた。かれらは親ソ的であり、ヒトラーの思想とは相いれなかった。

 いとこのゲリと交際を重ねた後、1926年になりヒトラーは集会と演説をこなし、間もなくナチス左派を孤立に追い込んだ。

 ヒトラーは議論や理論そのものを軽蔑しており、権力の掌握と指導者への無条件服従こそが重要であると考えていた。

 1928年まではナチス左派との闘争、レームら突撃隊との意見の相違をのぞいて、比較的穏やかな状況が続いた。

 

ヒトラーボリシェヴィキ政権を「ユダヤ人の政府」とみなしていた。

・『わが闘争』の印税で別荘を買い、またメルセデスのオープンカーを購入した。かれは所得を隠していた。

 

 4 闘争のとき

 1929年の世界恐慌と、賠償金をめぐるヤング案の締結は、国民の間に、社会民主党に対する強烈な不満を引き起こした。ナチ党は宣伝攻勢を進め、支持者を増やしていく。

 ナチ党員は若年層、没落した中産階級が中心だったが、特定の階級に限らず幅広い支持を得ており、それが共産党に対する優位となっていた。

 1930年の選挙でナチ党は107議席を獲得し、社会民主党に続く第2政党となった。ヒトラーは全国的に有名となり、さらに多くの支持層を集めた。

 ヒトラーの個人崇拝が進み、突撃隊、親衛隊の規模も拡大した。ナチ党員や突撃隊、親衛隊の平均年齢は若く、英国の外交官もナチ党の躍進を「若者の運動だ」と評していた。

 ブリューニングに続くパーペン内閣は貴族中心の閣僚が多数であり、国民からの支持は皆無だった。

 1932年の大統領選において、ヒトラーは現職ヒンデンブルクに次ぐ票を集めた。

 同時期、姪のゲリ・ラウバルが自殺したことはヒトラーの精神、特に女性に対する態度に大きな影響を及ぼした。

 ナチ党は自家用機をチャーターしての演説旅行、ポスター、映像等を駆使して宣伝を行った。

 同年7月の選挙では第1党となった。しかし、11月の選挙ではSAによる共産党員リンチ殺人、ストライキへの支持等により議席減となった。

 ドイツは、ヒンデンブルクを核とする権威主義政府、民主主義を掲げる社会民主党、独裁を掲げるナチ党と共産党とに分裂していた。

 1933年1月、ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に指名する。ヒンデンブルク、首相シュライヒャー、前々首相パーペンは、ヒトラーの力を甘くみており、手なずけることができると考えていた。

 社会民主党は長い間与党だったが、必ずしも首相を輩出していない。この点で、反共和制、反立憲主義を掲げるヒトラーを指名したことは軽率だった。

 ナチ党が第1党となった原因として、著者は抵抗勢力の分裂をあげる。社会民主党、保守勢力、共産党は、お互いに一致して共通の敵を倒そうとしなかった。

 ヒトラー誕生の土壌:東方拡大主義はドイツに伝統的に存在し、また反ユダヤ主義はヨーロッパ全土に普及していた。ドイツ人は現実政治を忌避し、極端な思弁と哲学に逃避する傾向があった。ヒトラーロマン主義を政治に持ち込み、政治を芸術にしようとした。

 

 5 権力掌握

 ヒトラーは自身の革命に合法性の枠組みを与えた。よって、共和国時代の法や規則はその後も名目上残った。

 首相指名後、ナチ党は国費を使って総選挙宣伝戦を行った。プロイセン州内相ゲーリングは秘密国家警察(ゲシュタポ)を創設した。間もなく警察人事はSAとSSで独占された。

 1933年1月の国会議事堂放火事件にかこつけて、ヒトラーは大統領緊急令を公布させると、政敵の逮捕拘禁が自由に行えるようになった。

 同年3月の授権法(全権委任法)制定時には、共産党議員は拘禁・逃亡・逮捕で全欠席となっており、一連の法制定により立憲体制は崩壊した。

 法に基づく統治をヒトラーがうたいながら、SAやSSには国家テロを遂行させた。

 

ヒトラーは政府機関や組織を乱立させ、互いに抗争させたため、「権威主義無政府状態」とも形容される。

・ナチ党の権力掌握に際し、知識人や学者、芸術家たちは驚くほど従順だった。

ヒトラーは具体的な経済政策を何も持っていなかった。

・レームら突撃隊の粛清について。

 1934年6月の「長いナイフの夜」により、ヒトラー潜在的な敵対勢力を排除し、また共和国軍を手なずけた。国民はならず者たちが粛清されたことで安定感に満たされた。

 著者は、ナチによるシュライヒャーらの粛清に対し、軍自身が非難しなかったことで、軍の独立性が失われるきっかけになった、と批判する。

 突撃隊に代わって、ヒトラーの私兵に近い親衛隊が組織拡大を始めた。
 なお、レームら旧友の粛清にヒトラー本人は心を痛めており、逆にヒムラーゲーリングらは平然としていたという。

 

[つづく]

 

Hitler (Harvest Book)

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