2 中盤
中央アジア、特にアフガニスタンを傘下に入れようと、英露の対立が強まり、紛争が各地で勃発した。
1831年頃、ベンガルインド軍のアーサー・コノリー(Arthur Conolly)は、モスクワからインドにかけて探検し、コーカサス地方~カイバル峠間、カスピ海東岸、カラクム砂漠(Karakum Desert)の情報を収集した。
かれは、ロシアがインド侵略をするならカーブル(Kabul)とカイバル峠のルートか、もしくはヘラート(Herat, ペルシアに隣接する豊かな都市)を目指すに違いないと考えた。
砂漠そして攻撃的なトルクメン(Turkoman)部族以上に、中央アジア最大の障害は、アフガニスタンだった。
アフガニスタン人はロシアの傘下にあるペルシアを憎悪しており、また戦闘的だった。
イギリスは、ロシアに対抗するため、アフガニスタンを制し、またヘラートをカムラン・シャー(Kamran Shah)王朝(暴君、反ペルシア)に保持させておく必要があった。
続いて、シク王国のランジート・シングに贈り物(馬)を運ぶ名目で、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes)中尉はインダス流域の偵察を命じられた。
バーンズはインダス川を越えてシク王国の都ラホール(Lahole)、カーブル、ブハラを訪れた。
カーブルの君主ドスト・ムハンマド(Dost Mohammad)は統治に長け、狡猾だった。バーンズは、かれがアフガンを安定させておくにふさわしいと判断した。ブハラでは、宰相(Vizier, ワズィール)の歓迎を受けた。
1833年、オスマン帝国領内エジプトで、ムハンマド・アリー(Muhammad Ali, エジプト建国の祖)が反乱を起こした(第1次エジプト・トルコ戦争)。オスマン帝国を救済するため、英露双方が介入し、ムハンマド・アリー朝がおこった。
トルコ情勢に加えて、コーカサスでもグレート・ゲームが展開された。まだロシアに征服されていないチェルケス(The Circassians)とダゲスタン(Daghestan)……ムスリムの山岳部族たちに対して、反露主義者であるデイヴィッド・アーカート(David Urquhart)が支援しようとした。
この時期、ペルシア、ヘラート、アフガニスタンの各君主に対し、ロシアが使者を送り込んでいることがわかり、イギリスは危機感を抱いた。
ロシアはカーブルにヴィトキエヴィチ(Vitkevich)を派遣したが、これを英軍将校ローリンソン(Rawlinson)が察知した。インド総督は、対抗してバーンズを派遣した。
ドスト・ムハンマドを引き入れようと英露は互いにけん制した。しかし、英領インド総督(Governer-General India)のオークランド卿(Auckland)は、ペシャワールを要求する王ドストを脅迫し、英国から離反させた。バーンズは交渉に失敗しカーブルを脱出した。
同時期、ペルシアのシャーがロシア人顧問シモニッチ(Simonich)のもとヘラートに侵攻した。ヘラートではポッティンジャーの甥が防御戦を指導し活躍した。その他、イギリス人の東インド会社関係者マクニール卿(McNeill)も関与していた。
ヘラート攻撃は失敗し、ロシアは手を引いた。ヴィトキエヴィチは政府から切り捨てられ、サンクトペテルブルクで不審死した。
◆第1次アフガン戦争
1839年、イギリス軍(インド総督マクナーテンMcNagten, ベンガル総督キーンKeane, バーンズ中佐)がシク王国の支援を受けて、アフガニスタンに侵攻した。
従順でないドスト・ムハンマドを追放し、シャー・シュジャー(Shah Shujah)を傀儡に据えるためだった。
ガズニ(Ghazni)要塞での抵抗の後、ドスト・ムハンマドは亡命し、英軍はあっけなくカーブルに入城した。
ところが間もなくカーブルで暴動がおこりバーンズは死亡した。ドースト・ムハンマドの息子アクバル(Akbar)の軍がイギリス駐屯軍を包囲し、マクナーテン将軍は惨殺された。残されたエルフィンストーン(Elphinstone)将軍らも窮地に追い込まれ、雪のカイバル峠を撤退する過程で虐殺された。
1842年、アフガンの傀儡君主シュジャーは暗殺され、ドースト・ムハンマドが復位した。
◆ヒヴァへの探検
英露はヒヴァを勢力下に収めようとお互いに進出した。しかし、中央アジアの砂漠は極めて過酷な環境だった。
ペロヴスキー(Perovsky)将軍は5000の兵を率いてオレンブルクから出発したが、冬の気候で全滅寸前となり、途中で引き返した。
イギリスのアボット大尉(Abbott)、シェイクスピア(Shakespear)がヒヴァのロシア人奴隷解放に尽力し、ロシアの進出の口実をつぶした。アボットの名はアボッタバード(Abbottabaad、パキスタンの都市)に残されている。
探検の途中でブハラのハーンに拘束されていたストッダート(Stoddart)とコノリー(Conolly)は、斬首された。
その後しばらく、中央アジアでのグレート・ゲームは小康状態となった。
1846年から48年にかけて、2度のシク戦争でイギリスはシク王国を植民地化した。
1853年からクリミア戦争が勃発した。ロシア対トルコ・英仏のこの戦争で、ロシア軍は敗北し、ニコライ皇帝は失望し死亡した。
クリミア戦争に乗じてペルシアがアフガンのヘラートに侵攻したが、イギリス海軍がペルシアを艦砲射撃したことで退散した。
イギリスは、ロシアの劣勢を見て、ダゲスタンのイマーム(指導者)たるシャミル(Shamyr)を支援しようとしたが、ムスリムとの関わりを嫌う政府によって見送られた。
1857年、インド大反乱が起こり、イギリスは対応に追われた。鎮圧後、イギリス東インド会社は解散し、インドは女王直轄領となった。
[つづく]
The Great Game: On Secret Service in High Asia
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