3 終盤
クリミア戦争の結果、ロシアでは反英論(Anglophobe)が高まっていた。
1858年、アレクサンドル2世は、若い軍人イグナティエフ(Ignatiev)をヒヴァ、ブハラに派遣した。かれはその後北京に向かい、アロー戦争中の清国と英国との仲介になり、1860年、北京条約によって清国北方の国境付近を手に入れた。
ロシアの主要な反英論者……戦争相ミリューチン(Milyutin)、東シベリア総督ムラヴィエフ(Muraviev)、コーカサス総督バリアチンスキー(Baryatinsky)。
ロシア政府は南北戦争の影響を受け、綿の輸入を求めてフェルガナ進出を決めた。また、1864年、ゴルチャコフ(Gorchakov)外相の覚書は、ロシアの植民地主義を告げるものとなった。
1865年、チェルニャエフ将軍はコーカンド・ハン国の領土タシケント(Tashkent)を占領した。将軍は「タシケントの獅子」と呼ばれ、タシケントには新たにトルキスタン総督府(総督カウフマン(Kaufman))が設置された。
1868年、カウフマンはサマルカンドを占領し、続いてブハラ・アミール国を保護国化した。
東トルキスタンは山脈によって孤立しており、カシュガル、ヤルカンドといった都市は、歴史的に中国の支配を受けてきた。
1865年、コーカンド・ハン国出身のヤクブ・ベク(Yakub beg)が乗り込み、新たにカシュガル王国を建てた。
英国人探検家ロバート・ショウ(Robert Shaw)と、ジョージ・ヘイワード(George Hayward)はお互いに対抗しつつ東トルキスタンに潜入した。さらに、英領インド軍モントゴメリーが訓練したインド人工作員(the Pundit)も当地に潜入した。
ショウはヤクブ・ベクと親交を結び、ヤクブ・ベクは対露政策として英国との同盟を望んだ。ヘイワードはその後、カシミール北部に乗り込んだところ地方のボスに殺害された。
1873年、カウフマンは3つの軍団を率いてヒヴァに侵攻した。ハンは逃亡し、ヒヴァはロシアに占領された。
バーナビー大尉(Frederick Gustavus Burnaby)は、ロシア勢力下の中央アジアに乗り込むため、サンクトペテルブルクの戦争相ミリューチンに直接申し出た。かれは許可を得て、ヒヴァからカラクム砂漠(Karakum)を通り、メルヴ(Merv)を目指した。
イギリス軍元帥の命令で途中で引き返したが、かれの探検記は反露主義を盛り上げ、ベストセラーとなった。
1877年、オスマン帝国領内のヘルツェゴビナの反乱と、ブルガリアでの虐殺に対し、ロシアが戦争を開始した。露土戦争はロシアの勝利に終わったが、逆に列強はロシアへの警戒を強めた。
イギリスがオスマン帝国を支援した場合に備えて、カウフマンはロシア軍を出動させ、アフガンを経由しインドに侵攻させるつもりだった。
戦争終結後、カウフマンはストリエトフ(Stolietov)将軍をカーブルに派遣し、対英戦での協力を要請した。
インド総督(副王Viceroy)のリットン卿(Lord Lytton)は、この動きを許さず、アフガンの君主シール・アリー(Sher Ali)に最後通牒を送り、宣戦布告した(第2次アフガン戦争、1978~1979)。
ロシア軍は約束を破り援軍を送ろうとせず、シール・アリーは逃亡先で死亡した。代わって、摂政ヤークブ・ハーン(Yakub Khan)がイギリスに降伏した。
カーブルに駐留していた英軍将校が再び反乱により殺害され、ヤークブ・ハーンも逃亡した。インド反乱鎮圧の名将フレデリック・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)がアフガンに再侵攻し、アイユーブ(Ayub)を破った。
その後、アブドゥル・ラフマン(Abdur Rahman)が王位に就いた。かれは英国に逆らわなかったため、イギリスは再びアフガンを勢力圏に治めた。
ロシアは次の一手としてトランスカスピアン地方……トルクメンに進出した。イギリスがスーダンでの反乱に手を焼いている間に、スコベレフ(Skobelev)将軍が1881年にジョクテペ要塞(Geok Tepe)を占領し虐殺を行った。その後1884年、ロシアはメルヴを併合した。
1885年、ロシア軍がパンジェ(Pandjeh)に進出したため、英露戦争の危機となったが協議により回避された。その後も、ロシアはアフガン近辺に進出した。対抗してイギリスもロシア領内に偵察者を送り、またインド国境の警備を強化した。
中国の支配に戻った東トルキスタン(カシュガル、ヤルカンド)や、パミール高原に接するチトラル(Chitral)、フンザ(Hunza)にも、ロシアは軍を派遣しようとした。イギリスはヤルカンドの部族軍と同盟し、ロシアに対抗することを検討したが、部族軍の練度の低さを見てあきれた。
ロシアは中央アジアに鉄道を敷設し、イギリスの将校カーゾン(George Curson 後のインド総督)は鉄道や保護国を偵察した。
1889年、1890年、イギリス軍将校フランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband, 後の王立地理学会会長)や文官ジョージ・マカートニー(George Macartney)がフンザ地方を探検した。パミール高原とヒンドゥークシュの麓は、英露清の領土が交わる要衝だった。ヤングハズバンドは、1889年、1890年双方において、進出していたロシア軍将校とテントで会談した。
インドへの道をめぐる最後の紛争……
・フンザ・ナガル戦役(Hunza=Nagar Campaign)……僭主サーダーフ・アリ(Sadaf Ali)追放、デュランド(Durand)大佐の活躍
・チトラル包囲……ウムラ・カーン(Umra Khan)の蜂起、ロバートソン(Robertson)将軍の籠城戦と、ロウ(Low)将軍やケリー(Kelly)大佐による救援
チベットは名目上清の支配下にあったが、ラサ(Lhasa)を目指して英露は再び進出した。
大佐となったヤングハズバンドは兵を連れてラサ手前の都市に向かった。かれはチベット進軍の過程で、虐殺事件を起こしてしまう。その後、ラサを制圧した。しかし、結局、宗主権は清国に残した。
1904年、ロシアは極東で日本に敗北し、政治的・経済的に大きな打撃を被った。イギリスのチベット進出に対抗する余裕はなかった。
1907年、新たな危険分子であるドイツの拡大を阻止するため、英露協商が結ばれた。中央アジアをめぐる長年の対立は解消された。
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The Great Game: On Secret Service in High Asia
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