つづき
徳のある情念及び行為とは、それらが随意的(アクシオン)である場合に限る。すなわち、自覚的になされたものであるということ。
――……大いなるうるわしきことがらに対する代償として何らか醜悪な苦痛的なるものに耐えるのであれば、ときとしては、このような行為が賞賛されることさえある。
しかし、その判定は困難である。
――……うるわしい行為の因はこれを自分に帰して、醜悪な行為の因はこれを快適なものごとのせいにするというごときは滑稽である。
――ところで、すべて悪しき人は、何をなすべきか、何をなすべきでないかを知らない人なのであり、こうした過ちのゆえに人びとは不正な人となり、総じて悪しき人となる。
「選択」はことわりを持つ人間にしかできないものである。われわれは目的について願望を抱き、目的達成のために思量して選択する。
――かくして、身体に関するもろもろの悪しき「状態」のうち、われわれの責任に基づくものは非難され、そうでないものは非難されない。然りとすれば、魂の場合にあってもまた、そのいろいろの非難される悪徳はわれわれの責任に基づくものでなくてはならない。
勇敢
勇敢(アンドレイア)は恐怖ならびに平然に関しての中庸である。恐ろしいものごとには、不評、貧乏、病気、無友、死などがある。勇敢がこれらすべてに対して平然としているということではない。たとえば不評を恐れないのは恥知らずである。
勇敢とは、戦いにおいて死を恐れない人のことをいう。
強要されるもの、憤激からくるもの、楽観とおごりからくるもの、無知からくるものはいずれも勇敢ではない。
勇敢とは、「人間にとって恐ろしく見えるところのことがらであっても、これを耐えるのはうるわしく、耐えないのは醜悪であるがゆえに耐える」という選択に由来する。
ただし、勇敢な人間が最も強い軍人というわけではない。
節制
節制(ソーフロシュネー)は肉体的な快楽に関しての中庸である。獣的な快楽、すなわち触覚と味覚が関連する。
その他の徳
――徳の徳たる所以は、よくされることよりもむしろ他に対してよくすることに存し、また、醜悪な行為をしないことによりもうるわしき行為をすることに存している。
金銭、おしゃべり、怒りに関する中庸の徳については、当時の価値観を強く反映したものであり、わたしの感覚とは隔たりがある。
しかし、羞恥については参考になる文がある。
羞恥は情念に属するが、情念に振り回されることの多い若者にとっては羞恥は役に立つ。しかし、羞恥は、あしき行為について生じるものである以上、よき人に属するものとはいえない。羞恥に感じる行為をしてはいけない。
アリストテレスは、本当にみにくくなくても世間の臆見がそれをみにくいと感じるならやってはいけない、と言っている。これは世間体を気にする精神ではないだろうか。
正義
正義(ディカイオシュネー)とは、人びとをして正しきを行わしめ、願望せしめるような状態をいう。
アリストテレスの解釈では、正義とは適法であり均等的であること、不正義とは違法であり不均等的であることをいう。
適法である行為は正しい行為である。つまり、「国という共同体にとっての幸福またはその諸条件を創出し守護すべき行為」が正しい行為である。支配者は、構成員に利益のあることがらを行う。
徳はもっぱら自分に働きかけるものであるが、正義は他人に関連付けられるものである。
正義とはまた、比例的であり、不正とは比例背反的である。すなわち、不正は過多または過小が伴う。より小さい悪はより大きい悪よりも好ましいが、やはり好ましいのは善である。
正義は、利得と損益に関わる。不正とは過大に得ることを言う。
知性的な徳
(略)
各論
学が関わるのは必然的なもの、永遠的なものである。永遠的なものは不生で不滅である。また学は教えることができる。学は帰納と推論を用いる。
技術はものを生ぜしめるものである。
知慮は「人間にとっての諸般の善と悪に関しての、ことわりを具えて真を失わない実践可能の状態」である。
智慧(ソフィア)とは、もっとも尊貴なものに関しての学である。
実践の領域に属するその他の知性的な徳
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下巻省略。
個別の徳についてはほとんど読み飛ばした。