第2巻より……この本は、われわれが善き人となるためのものであり、純粋な研究ではない。
何をなすべきか、なさないべきかを知らなければ、人間は自然に悪い方向に流れていく。そういう人間は自分の生活がうまくいかず惨めな状態に陥ることになる。
◆メモ
古代ギリシアの人間だが、道徳観念については今の生活にも通じるものが多々ある。
本当はもっとまじめに読むべきだろうが、わかりにくいところは飛ばし読みになった。
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序説
あらゆるものごとを行う際の目的を「善」(タガトン)とする。政治の究極目的は、人間というものの善である。善とは何かを明らかにすることが必要である。
政治は実践のための学問である。年少の者、情念(パトス)に従いやすいものには効果が薄いだろう。ことわり(ロゴス)に即して行動する者のみその効果が得られる。
幸福
――いかなる知識も選択も、ことごとく何らかの善を欲し求めている。
それは、よく生きている、よくやっているという意味での「幸福」である。では、幸福とは何か。一般的には快楽(ヘードネー)と解釈されがちである。または、政治的な人間は名誉を幸福と考える。
人はそれぞれの活動領域、学問領域で善を追求する。それぞれの領域での善とは、「そのためにその他の万般のことがらがなされるところのもの」である。
善は、「いかなる場合にも決して他のもののために追求されることのないもの」、「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」である。
そうした性質をもっとも多分に持つのが「幸福」(エウダイモニア)である。幸福は究極的であり自足的なものである。
人間の善とは、人間固有の機能である魂の活動をよくなすことにある。
――人生におけるうるわしき善の達成者となるのはその能力を正しい仕方で働かせるところのひとびとなのである。
卓越性(アレテー)に基づく働きは、卓越性を愛する人びとにとって快適である。うるわしい行為に悦びを感じない人は善き人ではない。
幸福はもっとも善くもっともうるわしく、もっとも快適なものである。
しかし、幸福の実現には友、富、政治力が必要であるので、ある人びとは幸福を卓越性ではなく好運(エウテュキア)と同一視する。
悲惨な死に方をした者を幸福とは言えない。しかし、卓越性に基づく活動をしている人間はどんなに不運でもみじめではない。
倫理的な徳(卓越性)についての概説
徳には知性的徳と倫理的徳とがある。倫理的徳は習慣付けによって習得される。善い行為によりわれわれは善い人間となる。勇敢な行為をすれば勇敢な人間となり、臆病な行為をすれば臆病な人間となる。
――つとに年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。
節制も勇敢も、「中庸」(メソテース)によって保たれる。
徳の行為については、行為者が一定の状態にありつつその行為を選択することが不可欠である。
実際に行為をしない人間は徳のある人間、善い人間であるとはいえない。
――……実際はかかる行為をなさないで言論に逃避し、そして、自分は哲学(フィロソフェイン)しているのであり、それによってよきひととなるであろうと考えている人びとが多いのであって、彼らのかかるやりかたは、いわば注意して医者の言葉を傾聴しながら少しもその命令を守らない病人に似ている。
情念(パトス)、能力(デュナミス)、状態(ヘクシス)について。
情念には、欲情、憤怒、恐怖、平然、嫉視、歓喜、愛、嫌悪、憧憬、意地、憐憫、快楽苦痛などがある。
徳は状態である。何事にも「中」(メソン)が称賛される。たとえば金銭については、放漫とケチが両極にある。名誉と不名誉に関しては、倨傲と卑屈等。怒りについては、怒りんぼと意気地なし。
超過と不足は悪徳(カキア)に、中庸は徳に属する。
[つづく]