アントナン・アルトーはフランスの演劇・映画関係者、作家で、「残酷劇」を提唱するなどの業績を残している。この翻訳と『神の裁きと決別するため』しか読んだことはないが、奇妙な文章を書くのでよく記憶に残る。
「タラウマラ」、「アルトー・ル・モモ」、評論、詩、手紙、ルイス・キャロルの翻訳等、雑多につめこまれている。若干、精神状態に異常をきたしていたらしく、子供のいたずらかと思うような文章も多い。
「タラウマラ」……メキシコ北部の少数民族を訪問したときの記録。かれらはペヨトルというサボテン麻薬をのんで、儀式をおこなう。この儀式について、アルトーはいろいろと意味づけをしているが、全体的に何を言っているのかわからない。
「ロデーズからの手紙」……精神病院にブチこまれたアルトーが出版社の人らとやりとりをする。毒を盛られた、陰謀によって精神病院に送られた、等の妄想があちこちで見られる。
ルイス・キャロルの翻案の中に、ハンプティダンプティとおぼしき登場人物が出ているとおもったら、アルトーの訳で「ドデュ・マフリュ」という名に変わってはいたが、やはりハンプティダンプティだった。
別の手紙では、ルイス・キャロルの「ジャバウォッキー」をけなして、偽物だとわめいている。かれによれば、ボードレールやポーの作品こそ真なるものである。
――私はこの詩を一度も好きになったことはありません。子供っぽくてわざとらしいといつも思ってきたのです。湧き出た詩が好きです、探し求めた言語は好きではありません。……私は表層の言語や詩は好きではありません、それらは幸福な気晴らしで知性の成功例といった感じで、知性が肛門をよりどころにしているにせよ、そこに魂や心を置いていないからです。……「ジャバウォッキー」は去勢された者の作品、意識をこねまわしてそこから書かれたものを生み出した一種の混血雑種の作品ですが、これに対してボードレールは……書いた物において身を亡ぼしている言語の受刑者の詩が好きです、……狂人はそんなことはできない、苦しみや恐怖に声を震わせて歌います。言語とその法を棄て去ってそれを捩り曲げ、魂のぴりりとする精液や無意識の嘆きを発する声門の性的な肉をむき出しにすることは大変結構だが、叛乱をおこした者、半狂乱の者、はだかの者、子宮の者、また哀れな者、素朴な者、排斥されたことに驚いている者のオルガスムのように……
「アルトー・ル・モモ」は解説によれば口述筆記によってつくられたポエムである。ひたすら、支離滅裂で下品なことばがつづく。
――射精のさいに喘ぎながら
強く揚げ板に置かれた
みんなの
手とケツの間の穴
点でもなく
石でもなく
――肛門と性器の間にある
あの骨の曲がったところに
かれは気をつけて頭を乗せたが
――何がわたしを襲ったのか
わたしもまたそこにわたしの人生を転がして?
わたし、
無、なにもない。
なぜならわたしは、
わかった
わかった
人生とは
そこに卑猥な手を転がすもの。
――よし。
で、それから?
「ピーター・ワトソンの手紙」……これも出版関係の人への手紙とおもわれる。
――繰り返します、生きること、考えること、眠ること、話すこと、食べること、書くことをいままで一度たりともできなかった。
――私は書きましたが、それは、次のことを言うときだけ、自分はいままで何一つしてこなかったし、今も何もできない、何かをしていても実際は何もしていない。私の仕事はこの全てこの無の上に築かれてきたし、今後もそうでしかありえない。
***
ところどころ、ものすごい密度で語句をつめこむが、それが意味不明なので笑えてくる。
――ルイス・キャロルの詩を読んで、その詩は魚、存在、服従、海の“原理”
そして神
盲目的な真理の啓示としての神に関するものだが、私はこのような気持ちになった、
この小詩を、他の数世紀において、考えもし書きもしたのはこの私なのだ、そしていま私はルイス・キャロルの掌中に自分自身の作品を見いだしている、という気持ちになった。
……たとえば、
存在することと服従すること
すなわち
生きることと実在すること。
タラウマラのなかの文。
――かれは自分の棒で空気の中に大きな8の字を書いた。しかしこのときかれが発した叫びは、彼の古い罪悪の暗黒の死の不吉な恐怖の産褥を革命する何かをはらんでいた。
***
――見ようとしない者ほど手におえない盲者はいません、盲者が見てから自分は近視だというとき、この盲者はそのうえくそったれです。
――昨夜ナイトテーブルにパンを置いておいたのですが、マドレーヌ大通りの呪師の女たち男たちがネズミを一匹送ってきたのです、そのネズミはパンに入りこんで穴を空け夜中ずっと内からかじったので。朝になってみると私の本にどれほどのクソが残されていたことでしょう。
――この世紀は<マダム・モルト>という死んだ女の糞便的な詩や、彼女の体内の不幸をもう理解していません、彼女は何世紀も前から、棄てられた自我の屍骸でもある、棄てられた生存の糞便のなかで、自分の死んだ女の柱の深さを、自分の死んだ女の肛門柱の深さを測っているのです、そして……その深淵では、<マダム・モルト>、マダム糞便子宮、マダム肛門の屍骸が糞便地獄(ゲヘナ)ごとに、その糞便アヘンのなかで、自分自身の炉の子宮のなかで、自分の魂の糞便的な運命を、ファマを醸成しているのです。
――この物質の名はウンコ、ウンコは魂の物質であり、そこからたくさんの棺がわたしの前に水たまりをまいたのを目にしたのです……死んだ女の永遠のケツの臭いは、人間から生を拒まれた魂の抑圧されたエネルギー論なのです。
***
わたしには賢い解釈を加える頭がなかったので、言葉の表現術の例としてこの本を読んだ。サドの本も、この本も、わたしの認識では異様なオブジェである。