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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Rationalism in Politics and Other Essays』Michael Oakeshott その6

 ◆保守的であること

 保守的であることとは、今あるものに満足し、未来のより良き善を求めず、失われた過去を偶像化しない傾向を指す。保守主義は身近なものを信じる。また、変化と革新を好まず、現状維持をよしとする。例え改善が行われる場合でも、それは漸進的なものでなければならない。

 通常、若者よりも老人のほうがより保守的である。なぜなら、老人は現在与えられているものの恩恵をよく知っているからである。

 あらゆる変化には功罪があり、また、革新は成長に近いほど損失が少ない。

 人間はある目的のために道具を使う。しかし、道具そのものは急激に変化しない。私たちは、今ある道具でしか仕事をすることはできない。道具は徐々に改善されていく。

 政治においても、保守的な態度と、そうでない態度とがある。

 非保守的な人間にとって政治とは、各人が情熱と夢を実現させるために権力を追求し行使する場である。一方、保守的な態度とは、今与えられたものを活用し、各人の選択と幸福追求を認め、急激な変化や神聖な価値を押し付けないことである。

 保守主義者にとって統治とはゲームの審判であり、討論の司会である。かれらは人間の理想に限界があることを認める。よって、特定の思想が神聖であり他のいっさいより優れている、とは考えず、よって、そのような崇高な目的を国民に対し押し付けたり、教え導いたりすることをしない。

 保守的な者にとって統治はあくまで一般規則を適用することである。

 

 ◆政治について語ること

 政治について語るときは、政治固有の用語が問題になる。

 はじめに、国家の要件について定義する。近代国家を成立させているものは、権限による統治、権力の装置、協同の様式である。権限と権力は同一ではない。権限が直ちに権力を保証することはなく、また、権力のみが政治を成り立たせているわけでもない。

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 5 人間の条件

 ◆バベルの塔

 人間が天国への近道を目指すというモチーフは、あらゆる国の神話において見出される。なかでもバベルの塔は最も奥の深いものの1つである。

 個人は自らの意志と選択で道徳を追求することができる。個人の失敗を、社会は受け止め、支えなければならない。しかし、社会が完全を追求することは大きな災厄をもたらす。

 著者は2種類の道徳生活について論考する。1つは、嗜好と習慣に基づく道徳生活、もう1つは理想の道徳を追求する道徳生活である。

 前者においては、個人は反省や思考ではなく、愛情と行動の習慣に基づいて道徳行為を行う。言語を身に着けるように、周囲からの影響によって慣習を身に着けるが、それが道徳的行為となる。そうした道徳行為は習慣の1つとしてなされ、また絶え間なく変化していく。

 後者は、理想の道徳、完全な道徳を追求し、自らの行為を常に考え直し、判断する。かれの道徳行為には常に選択がつきまとう。完全性を求めるためにこうした道徳は融通が利かず、また他のすべてを犠牲にしてしまう。かれは冷酷無比となって自分の完全理想を達成しようとする。

 自分の行為を常に疑い、そこに正当性があるかどうかを考えることは、習慣そのものを崩壊させ、道徳の意識を分裂させる。

 このような硬質な道徳規範が変化するときは、それが崩壊するか、激変することを意味する。個人、組織ともに、理想と完全の道徳を追求することは愚かである。

 通常、慣習としての道徳と、理想としての道徳は混ざり合っている。慣習に重きを置く道徳は、柔軟で融通が利き、また時には自己反省をすることで改善・修正が可能である。

 社会正義を追求しながら、慣習に基づく道徳が欠落した人間がいる。

 西洋の道徳的生活は、古代における慣習的なものから始まった。キリスト教は理念に基づいていたが、その行為は慣習化された。ところが、神学はキリスト教の道徳を抽象化、理念化し、現実と乖離していった。その傾向は、近代以降も継続している。

 西洋においては、観念的な道徳が支配的である。こうした特性を研究し、道徳的な腐敗や自己欺瞞を明らかにすることが重要である。

 

 ◆人間の対話における詩の声

 対話の重要性を論じる。対話は、調査や論争ではなく、議論でもない。対話は実利や勝利を求めるものではない。また、対話は多様性がなければ成り立たない。

 対話をすることで、あらゆる人間的な活動と発話に居場所を与えることができる。対話の中では、真剣さと遊びが混交している。

 科学と実用性は、対話を拒む性質がある。実用主義とは、言い換えれば政治のことである。科学と政治にとって対話は無駄で、あいまいなものに見える。対話を復興させるにあたり、著者は詩の声をもう1度取り上げるべきだと主張する。

 詩の声とは……喜びを生み出すものである。詩的な活動とは、ただ詩的に想像することである。それが経験そのものであり、外部の経験を表現することではない。

 詩は事実か事実でないかを問題にしないが、まず第1にフィクションである。詩とは、それ自身の観想的なイメージから喜びを得ることである。

 古来から、詩には宣託と道化師の2つのイメージがつきまとってきたが、著者の考える詩人はそのどちらにもあてはまらない。

 詩は政治や科学から離れたときに本来の力を持つ。よって、成立当初の経緯や目的が忘れ去られたとき、わたしたちはイメージそのものを受け取ることができる。

 詩は喜びを与える以外の役に立つことはない。その他の一切は、実用的な目的か、科学的な目的が混ざったものである。

 詩は対話を生むことができる。対話においてはすべての声は平等であり、お互いを否定しない。詩はわたしたちを利害や論争から解放する。著者によって、詩は子供時代の夢にたとえられる。詩は、ずる休みのようなものである。

[終わり]

Rationalism in Politics and Other Essays

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