4 現代政治についての考察
◆代議制民主主義における大衆
大衆の起源について考える。個人という概念が生まれたのは、14、15世紀のヨーロッパである。人間が共同体の一部にすぎず、個人という意識を持たなかった時代が変わり、自律し、自らの行動と選択に責任を負う個人が誕生した。
近代以後の倫理学や道徳的著作のほとんどは、このような自律的個人を前提としている。
ホッブズにおける人間は個人主義的であり、自らの選択により、滅亡を回避し利益を追求する存在である。
中世を経て、個人主義が政治的な形で具現化されたものが代議制民主主義である。また、個人の権利と義務を保持するために、強力な政府が作られ、司法、立法が定められた。
一方、自律的個人と同時に、もう1つの人間が誕生した。
全ての行為と選択が自分にのしかかる重みに耐えられない者、古い共同体の信念を捨てられないものは、「個人のなりそこない」となった。
かれらは反個人主義を掲げ、集団と共同体に埋没することを選んだ。こうした「なりそこない」が、大衆massの起源である。
かれらは神聖君主や啓蒙君主に判断をゆだね、また強力なリーダーを必要とする。
「反個人」の道徳は自由と自己決定ではなく、平等と団結を掲げる。共通の善、公的な善はそれ自体が価値を持つとされ、自己愛は悪とされる。「反個人」を掲げる大衆は、他の全員が同じ性質であることを要求する。
大衆とは「反個人」の傾向を持ち、自己決定と自由を嫌う。大衆にとって政府とは、個人の利益の均衡を図る存在ではなく、大衆を導く先導者である。
ポピュリズムの政府は、国民投票に依存する。政府は、大衆に変わって決定の責任を負う存在であり、統治技術ではなく大衆の支持のみに基づく。
大衆には願望や意見はなく、ただ脆弱性があるだけである。
大衆の政府は、議会制民主主義を否定し、市民的権利を否定し、社会の権利と反個人性を掲げる。
現代社会を省みると、大衆は勝利してはいない。なぜなら個人主義が普及しているからだ。個人主義の裏側に反個人主義が存在する。幸福に対する大衆の反感は、自己憐憫に変化する傾向がある。
個人性の追求は、政府の任務や、統治方法に関する認識、何が幸福かについての多様な意見と認識を生み出した。これらはヨーロッパ文明に大きな影響を及ぼした。
◆自由の政治経済
シモンという学者の論文の有用性について。
自由の尺度は、個別の制度(法の支配、言論の自由、所有権の絶対)等ではなく、権力の分散の度合いで計られるべきである。権力が無制限に集中する社会には自由がない。
イギリスという国は、なるべく恣意的な権力を行使せず、強い権能を持たず、真に必要な場合にのみその力を行使する政府が良い政府であるということを学んだ。
例えば、法の支配、結社の自由、所有権の絶対、言論の自由は、いずれも権力を分散させる制度である。オークショットの見解では、具体的な自由の中で最も重要なのは所有権と結社である。
生活における逐次的な権力の介入、妨害は、自由を阻むものであり、同時に非効率的な権力の使用である。それは、権力の分散ではなく集中を求める。
権力の集中、無制限の仕様を要求する政治制度として、集団主義とサンディカリズムがあげられる。集団主義は共産主義や国家社会主義、社会主義等を一括したものである。
集団主義は、国家のあらゆる組織や構成員を全体の調和の中に位置づけようとする。その内部では、自由な組織や個人の方向性は異分子である。
戦時体制に類似しているため、平和ではなく戦争を求める。サンディカリズムは、労働者が労働組合によって独占されるため、より危険である。
リバタリアンは、より広範な自由を達成するためにどうするべきか。法の支配を徹底し、権力を分散させなければならない。適切なルールを定め、公平な競争を実現しなければならない。動員されている人間については解除し、自由に経済活動に従事させるべきである。
――つまり、自由の政治経済は、経済ではなく政治、つまり生活の方式と慣習こそが肝要である、という明確な認識を拠り所としている。
[つづく]
Rationalism in Politics and Other Essays
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