うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『職業としての政治』ヴェーバー その1

 ドイツ敗戦と革命の最中である1918年に、ミュンヘンで行われた講演を記録したもの。ミュンヘンはドイツ革命の特に激しかった地域であり、ヴェーバーの講演も、革命勢力の台頭を念頭に置いた内容となっている。

 

 ◆所見
 特に、以下の点については今でも考察に値する。

・政治が無報酬である場合、政治家は政治以外に収入を求めることになる。これは、資産家や地主が担い手になるのではなく、金権政治――政治家になることで、非公式の収入が見込める――につながる。

・名望家たちが持ち回りする形式の政党から、カリスマがあり、弁舌に長けた指導者を頂点とする、集票マシーン巨大政党への変化。人民が投票マシーンとして政治に参加することは、民主主義の一形態である。しかし、国民は思考停止し、指導者の完全な服従者となる必要がある。

・官僚は非政治的であることが望ましいとされる。かれらは行政の作業員として、政治家の方針を忠実に実行することが求められる。

 しかし、かれらが政治的に無責任であるということは、政治の命令であれば、どのような作業も実施できるということである。巨大な無責任官僚機構は、ただ上からの指令に基づいて非人道的な犯罪を行うこともできてしまう。

 

・政治は暴力行使と結びついており、必ず倫理的な問題と衝突する。しかし、だからどれだけ倫理的に問題があろうと構わないということではない。

 ヴェーバーは、政治家は常に政治と倫理との対立に向き合わなければならないと主張している。

 次のような態度は、この対立から逃げているだけである。

 1 目的が正しければどのような手段をとっても構わないし、失敗してもそれは世界が間違っているからである(過激派と、革命家)。

 2 政治は暴力をともなうのだから、賄賂・汚職や不正が蔓延しているのは当然である。これをいちいちあげつらうのは、未熟な証拠である(既得権益の正当化)。

 3 倫理的に正しい手段をとればそれは正しい行為なのだから結果がどうなっても問題ではない。政治家としての倫理は達成される(政治的に無力な聖人君子)。

 

  ***

 政治の本質は権力である。

 政治とは、暴力を独占する国家において、または国家相互間において、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。 

 政治的であるとは、権力の追及・配分に関心があることを示す。政治をおこなうものは権力を求める。

 政治的支配の正当性には3つの型がある。

 

・伝統的支配

・カリスマ的支配

・合法的支配

 

 いずれの型においても、支配機構が継続的に権力を行使するためには2つの条件が必要である。

・行政スタッフ

・暴力機構

 

 ところで、職業政治家には「政治によって生きる」者と「政治のために生きる」者との二種類がある。この2つは対立する要素ではなく、通常、一体化している。

 

 ――要するに私の言いたいのは、政治関係者、つまり指導者とその部下が、金権制的でない方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによってその人に定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要だということである。政治が「名誉職」としておこなわれるということは、政治がいわゆる「自主独立の」人によって、つまり資産家、ことに利子生活者によっておこなわれるということだが、他方、政治が無産者にもできるためには、そこから報酬の得られることが必要である。

 

  ***

 君主が封建領主に対抗し、中央集権化を進める過程で、君主に忠実な、つまり「非政治的な」官吏が必要となった。

 このような官吏は、聖職者、文人、法律家などから採用された。

 生粋の官吏は、政治ではなく行政を、非党派的になすものである。一方、政治家は、自らの責任をかけて政策を決定する必要がある。

 

 ――……政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分ひとりで負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的にきわめてすぐれた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。

 

  ***
 [つづく]

 

職業としての政治 (岩波文庫)

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