うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Reinhold Niebuhr: Major Works on Religion and Politics』その2 ――人が集まると不正が生まれる

2部 道徳的な人間と非道徳的な社会

 

副題は「倫理と政治」である。

1932年、世界恐慌により各国の社会問題が深刻化し、共産主義ファシズムが勃興する時期に書かれた。不正義を生み出していた資本主義・民主主義とともに、共産主義についても、その運動が生まれた意義を認めつつも、先行きに疑念を表明している。

 

ニーバーは、社会や集団が抱える不完全さを指摘し、社会が改善可能と安易に考える社会改革主義者(ジョン・デューイら)を批判する。

社会を構成する本性とは、人間が持つ捕食者(Predator)のような欲・自己中心主義である。

 

中心となる問題は、個人の道徳と集団の道徳との相違・対立である。通常、集団は個人の自我が総合され、道徳的に個人よりも不完全である。

合理的な・道徳的な社会が個人を律することができると考える人びとは、人間の集団行動がその本性に支配されており、決して理性や良心に制御され得ないものだという点を見落としている。

権力集団は必ず弱者を搾取するものであり、それは対抗する権力によってしか阻止できない。

 

物理科学は、無知に基づく因習を克服した後に自由を得た。しかし、社会科学が直面している因習は、特権を維持しようとする支配階級の経済的利益に由来する。

 

理性は常に、社会における特定の利益に従属する。社会問題に関する冷静な分析とは別に、それを達成しようとする強い動機が現実には必要である。社会を動かす原動力は理性ではなく、非理性的な意志や感情である。

 

力の不均衡については、それがなくならない限り正義に基づく解決は不可能である。

どこの白人が、黒人と話し合い、正義に基づく方策を決めようとするだろうか?

黒人の地位に関して、正義に基づき、なおかつ相互に譲歩した解決策が存在するだろうか?

無能な社会科学者たちは、権力者たちに「その振舞いはよくない」と指摘すれば、権力者たちがすぐに行いを改めると考える。

 

(民主主義の皮をかぶった産業界による)専制は耐え難いだろうが、その専制は、単に時代錯誤だという理由で自らの権限を手放しはしないだろう。

 

こうした人びとの希望は、富と権力をもつ者たちがやがて自分たちの所有物にそれほど興味をもたなくなるかもしれない未来に依存している。

個人対個人の関係では、正義と倫理を達成できる。しかし、集団間では、常に政治が倫理に優先する。つまり、権力の強弱に支配される。 

 

最近Disney+でドラゴン桜が配信されていたので久しぶりに見たが、メッセージには通じるところがある。

 

社会のルールってやつはすべて頭のいいやつが作っている それはつまりどういうことか……そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られてるんだ

 

1 人間と社会 共に生きる技術

哺乳類の一員として人間が社会を形成してきた過程を説明し、常に集団同士の対立があったことを指摘する。

ニーバーは、神学者ではあるが、人類が動物から進化したという科学的説明を認めている。

知性や知識の発展によって、人間社会は相互の利益を考慮するようになり、様々な問題を解決してきたが、それでも集団から強制性(Coercion)がなくなることはない。

 

民主主義の手続きには合理性や倫理が含まれているが、それでも強制力を撤廃することはできない。強制力や、力の脅威なしには社会集団の統合は存在しない。

古代においては軍事力が、現代においては経済力が力の源である。力をもつ者は特権を持ち、社会は常に不平等である。特権と不平等は、力や欲を隠すために正当化される。

人間の悲劇は、集団生活に対し個人の理想を適応させられないことにある。友愛を理解する個人が、集団の中に入るとかれらは自己利益だけを考え、権力の命じるままにどんな行為にも加担できてしまう。

 

2 個人における理性的な根拠

人間の知性の発展が不正義を解消する、という考えは18世紀の啓蒙主義に由来する。ところが因習や迷信が打破されても、社会の不正義は消えなかった。個人のレベルであれば、教育や啓蒙は多くの問題を解決してくれるだろう。しかし、政治と倫理のぶつかる集団となると話は別である。

人間は、自意識を持つ被造物に過ぎない。

理性は、道徳の唯一の源ではない。フロイトアドラーユングなどが様々な言葉で定義しているが、人間を動かす原動力は動物としての本性である。これには、自己保存と同時に、共同体を保持する傾向も含まれる。

人間の自己中心主義と他者への想像力の欠如は逃れられない本質である。理性は、社会において自己利益と他者の利益との調和を達成させることができるのだろうか。理性は個人のなかの矛盾を調和させることはできるだろう。理性によって作られる正義の精神は、ある程度まで社会正義の実現を支える力になる。

理性は、支配者たちが掲げてきた嘘や正当化を見破る力を与える。しかし、人間は不誠実を見破られたからといって誠実になるわけではない。特権と力を持つ限り人はそれを維持しようとする。

 

理性のほかに、人間はを志向する感覚をもっている。これは、正しいことをする本能とでもいうべきものである。そしてこの善を行おうとする人間の傾向は、理性と衝動のどちらにも影響される。良心と正義の観念を育てるもう1つの源が宗教である。

理性と宗教を強化していけば人間社会の問題が解決されると考えがちだが、それは人間の自己中心主義の強さを見誤っている。

帝国主義は、自己中心主義を理性が正当化し、強化した例である。生存本能と権力への志向は完全に分離できるものではなく、多くの征服戦争は自衛と安全保障の名の下に行われる。人間の自我は、想像力を働かせ、欲望を際限なく拡大させる。

 

力への意志(Will-to-Power)は、理性を活用する。

 

功利主義を唱えたベンサムは、晩年に人間の自己愛・欲の強さに失望を表明している。

 

自己中心主義は家族、男女、共同体、国家といったあらゆる場面で力を持つ。愛国主義(Patriotism)も、形を変えた自己中心主義の1つである。集団が大きくなればなるほど、内的道徳によってその活動を制限するのは困難になる。

人間の共感が集団を形作り、同時に集団同士の対立を引き起こすのである。

 

3 個人における宗教的な根拠

本章で言及される宗教は、主に一神教の特徴に基づく。

宗教は絶対的な存在を定め、自らの自己中心主義や悪徳と並置し改めさせる機能を持つ。道徳は、個人対個人の関係において最も強く発達する。神が抽象的な概念ではなく、個人の性質を持っているのはこのためである。国家が、指導者の個人崇拝を推し進めるのは、この心理を利用したものである。

古来から宗教は、人間の欲望をよく認識していた。このため、あらゆる宗教、特に仏教とヒンドゥー教において、禁欲主義と生の否定が大きな位置を占めた。禁欲主義は、程度の差こそあれ、すべての宗教に含まれる要素である。

理性が正義を形成するのに対し、宗教(主にキリスト教)は隣人と同胞への絶対的な愛を説く。隣人はみな神の子だからである。

宗教は内省によって自己中心主義や我欲を厳しく批判する。また、現実に対し非妥協的であるため、楽園や理想の世界を創り出す。イザヤの預言では獅子と羊(Lions and Lambs)が仲良く横たわる。

共産主義は、世俗化されているが、理想世界の現出を望むという非常に宗教的な要素を持つ。理想の社会が急に現れるのか、徐々に達成されていくのかは、革命家たちの社会的地位や境遇に依存する。

 

宗教はいつも最後の希望であり、絶望の瀬戸際で生まれる。

 

宗教の絶対性が現実社会に適用されると、様々な対立や問題を引き起こす。

ユダヤ教徒は、イスラエルこそ神の特別な使いだと考えた。スペインによるペルーの征服は、宗教的信念に基づいて行われた。また第1次世界大戦では、各国の知識階級が、自分たちの国こそ文明と文化に対する使命を帯びていると主張した。

愛と慈善に基づく宗教は、個人の倫理や小さなコミュニティのなかでは力を発揮するが、教会組織が巨大化するにつれてその勢いを失っていく。社会集団が正義を達成すること以上に、絶対的な愛の観念を達成することは困難である。

愛と友愛の精神は国家においては愛国主義と自己本位の政策に結びつく。また歴史上、自己中心的に行動しなかった国家、階級は存在しない。

こうして宗教は、諦めや、感傷主義、現実への無関心、現状追認(すべては神の与えた状況である)に結びつきやすい。

しばしばキリスト教は、絶対的愛を宗教的に解釈し、現実の不平等を追認もしくは支持してきた。ルターは、自身の主張を根拠として発生した農民反乱を、秩序を乱し宗教改革に邪魔であるという理由で非難した。

あるいは、単に楽観的な理想を唱えるだけの感傷主義に堕してしまった(アメリカの自由主義神学で特に顕著である)。こうした宗派は主に特権階級や富裕層に指示されており、下層階級からは偽善として非難されている。

 

4 国家の道徳

国家の自己利益中心主義はどこからくるのだろうか?

第1の理由は、外国との心理的・精神的な距離に由来する、共感の乏しさである。通信技術や交流は発展したが、それでも対立は解消されていない。

日本と合衆国の絹製品貿易は、排日移民法の成立に影響しなかった。また第1次世界大戦を戦った合衆国は、同盟国に躊躇することなく債務を取り立てている。

国家のなかにはより協調的で、利他的にものを考える人びとがいるものだがかれらは少数である。

よって、国は精神ではなく権力と情動によって動かされている。国家において道徳的に反論するものは反乱分子とみなされる。自己批判のない集団はより利己的になっていく。

 

市民の知性や教育レベルが向上したとして、後は何が問題だろうか。

国家は、個人が持つ無私の精神を、愛国主義と国家の利己主義に昇華させてしまう。また、特権や力を求める一般市民は、自らの利己主義を国家に投影する。

かれらは特権階級が求める具体的な利益よりは、国家の威信や栄光といった要素に引き付けられる。

国家の道徳はしばしば偽善と自己欺瞞に満ちている。国家がもっとも強く個人を統合させるのは戦時である。第1次世界大戦中には、各国の知識人たちが、自らの理性や信仰心を無意識に捻じ曲げ、国粋主義を擁護した。

かれらにとって「ドイツの戦いは、文明を守るための戦い」、「信仰を守るための戦い」だった。

 

アメリカがキューバ、フィリピン等を獲得するために引き起こした米西戦争正当化の例:

 

この戦争はキューバから悪党、黄熱病、マラリア寄生虫を一掃し、征服される者をより健康的・衛生的にする。アメリカの普遍的価値は衛生(Sanitation)である

当初独立を約束されていたフィリピンは、アメリカの占領下におかれ、アメリカ陸軍の「侵略者ではなく友人としてやってきた」という条約の下、虐殺が行われた(米比戦争)。

 

すべての帝国主義や侵略にはもっともらしい理由付けがなされてきた。

国家の利己主義的な力に対し、力でしか対抗できないとすれば、この暴力の連鎖は止められるだろうか。国家の司法が特権によって歪められている現実を見れば、国家間の共同体(国際連盟等)が正しく機能する見込みはほぼない。

 

5 特権階級の倫理的姿勢

社会的な特権に基づく不平等はあらゆる社会で生まれ、この不平等が階級の分裂と階級内の連帯を形成した。この不平等は現代では主に経済的要因から生まれ、階級は原則として、道徳や理性ではなく、経済的要素に従って行動する。

支配階級の道徳的態度は、自己欺瞞と偽善に満ちている。

国家と同じく支配階級は自分たちの利益を、普遍的・一般的利益と同一視する。特権階級にとって、特権は、自らの価値や能力、任務に見合う報酬である。これまで、世襲は生まれつき高い教育や役職に適しており、一方、貧困層はそうした教育を受けるに値しないと唱えられてきた。

 

1807年、イギリスで教育基本法案が審議にかけられたとき、王立協会会長は「労働階級への教育は、かれらに自立心を植え付け、良き労働者としての適性を奪ってしまう」と反対した。

アメリカ南部の白人議員はより率直に、「わたしは、毎日わたしの靴を磨く黒人が政治参加という崇高な使命に適するとは思わない」と述べた。

 

19世紀の歴史を検証すると、普遍教育よりも普通選挙のほうが達成困難だったことがわかる。後者は特権だけでなく具体的な権力を新たな層に付与するからである。教育は、持たざる者たちの武器であると同時に、支配者のプロパガンダでもあった。

支配階級はまた、道徳的に優れていると自らを規定する。この道徳世界では、富と権力は本人(あるいは親)の徳の結果であり、貧乏や失敗は本人の悪徳の結果である。

 

法や警察力を味方につけた特権階級にとって、社会の調和(Harmony)、秩序(Peace)の維持、平穏(Tranquility)は、反対派鎮圧を正当化する概念である。

 

政府への服従は万人の義務であり、利益である。特にキリスト教徒であれば、それは神の命令でもある。……法の尊重は自由の尊重である、なぜなら自由は法への服従にのみ存在するからである。――Jonathan Boucher

 

支配階級は、国内において過剰に平和や秩序を重んじる一方、国際社会では対立をあおる先鋒となる。ある時は自分たちの利益から、またある時は戦争熱を煽り国内の立場を強化する目的から、かれらは国際社会で対立を進める。

人間の政治活動において利己主義は支配的要素である。あらゆる歴史がそれを立証している。社会の不正義は道徳的説得では解消されない。これが、労働者階級が20世紀初頭にたどりついた結論だった。

 

6 労働者階級の倫理的姿勢

労働者階級が抱くようになったマルクス主義は、人間の道徳を信じない一方、極度に倫理的な理想社会を目指している。

マルクスとその後継者たちとでは主張に違いがあり、レーニンは知識階級が労働者階級を先導しなければならないと考えた。レーニンは、民主主義について、中産階級が権力を維持するための装置に過ぎないと非難した。また国家についても抑圧者の装置であるとして、正統派のマルクス主義者は国家の消滅を目指す。

マルクス主義は、キリスト教とはまた別の、奴隷の反乱道徳である。マルクス主義の欠陥は、幼稚な決定論(歴史は革命に向けて進んでいく)や、道徳の欠如にある。しかし、歴史を人間集団の権力抗争ととらえる点では有意義である。

マルクス主義の復讐心や、既存の秩序を破壊しようとする動きは、深刻な危機を招いている。こうした試みは社会の複雑性の前に屈するだろう。また、国家を完全に破壊することも不可能だろう。

 

7 革命を通じた正義

第1次世界大戦の惨禍と国家の機能不全、そしてロシア革命の成功が、共産主義の支持拡大をもたらした。そこで、著者は暴力革命の是非について検討する。

 

政治は、(倫理的な)目的と、その実現手段が交錯する場所で出現する。そこでは、善なる目的同士が衝突し、人はどれか1つを選ばなければならない。重病患者の命を助けるために、医者は嘘をつくかもしれない。また、母体を犠牲にして胎児を助けることを選ぶかもしれない。価値は常に、その後の結果を考慮して選択される。

このため、あらゆる倫理には、「目的は手段を正当化する」という要素が含まれている。

 

中産階級は、自由や個人、所有権や道徳を重視するが、それがかれらの特権を危うくする場合は、特権の維持を優先し、欲は暴力や強制に基づいて行動する。一方、労働者階級は、集団行動における道徳が幻想であることを知っており、そうした道徳や倫理には無関心である。このため、中産階級と労働者階級との戦いは、偽善と暴力性との戦いとなる。

集団行動に倫理を求める知識階級や宗教家は通常、快適な環境・地位にあり、組織の暴力に晒されていない。労働者階級は常に、集団や社会が行使する非倫理的な抑圧の標的である。

では果たして、暴力革命が正しい社会システムを生む可能性はあるのだろうか? 

本書刊行時の状況を検討するだけでも、時代はマルクスの預言とは異なり、漸進的に労働者の待遇が改善されていく方向に進んでいるように見える。農民は集産主義には反対し、賃金労働者はあまりプロレタリア意識がない。また先進国ドイツでは反共ナショナリズムを基礎としたファシズムが支持を得ている。

また労働者のなかでも、合衆国の熟練工は保守的であり、貧しい非熟練工・単純労働者と対立している。ドイツでは、熟練工は議会制社会主義を支持している。

 

ニーバーは、西ヨーロッパでの革命は困難になったが、絶対不可能ではないと考える。

1932年の予測として、今後大戦争が起これば、東洋が共産主義に、西洋は半社会主義ファシズムやナチズム)に染まるのではないかと唱えている。

マルクス主義者の致命的な問題は平等政府の権力行使をどのように制御するか、まったく考えがない点にある。中央集権の破壊は、同じように強力な中央集権によってしか達成されないだろう。共産主義官僚による暴政は十分起こりえる。

 

8 政治権力を通じた正義

各国の熟練労働者と労働組合は選挙や議会を通じて目的を達成する方針を持つことが多い(暴力革命を主張するマルクス・レーニン主義とは異なる)。支配階級の政治・経済権力に対抗できる労働者の政治・経済権力は限られている。

現状では、議会政治を通じて労働者が支配を獲得するには労働者以外の支持が不可欠である。

教育によって不公平な資本主義社会が変えられると考えるのは誤りである。現状のシステムを維持しているのは、そこから利益を得ている支配階級である。かれらが教育と知性の獲得とによって、所有権を手放し、計画経済社会を選択するとは想像しがたい。

工場労働者と農民との利害対立など、議会制を通じた社会主義実現への道は遠い。

また妥協は容易に機会主義や現状維持に陥る。

原理的な共産主義は狂気をはらむが、それは運動が求心力をもつために必要でもある。

社会主義政治家の大半はナショナリズムにとらえられ、第1次世界大戦で参戦支持にまわった。

 

9 政治における道徳的価値の維持

われわれは不正義と圧政から脱することはできないのだろうか。

モラリストは、巧妙に隠された強制力を見落としがちである。反対派が破壊したがっている平和は、不正の押し付けによって保たれている

 

ニーバーは、平和よりも平等な正義の達成が重要だと考える。高次の正義を達成する場合問題になるのが手段である。際限のない暴力と強制は目的を無効化する。

しかし、暴力と非暴力の境界は曖昧である。ガンディーの非暴力は特定の状況で有効だったが、暴力が正義達成に不可欠な場面もある。一方、アメリカ合衆国の黒人が暴力革命で不正を打破することは現実的に不可能だろう。この場合は非暴力手段が現状を変えるカギとなる。

人間の歴史は自然界の反映である。完全な平和は不可能だが、平和はただ奮闘によってのみ得られる。人間の本性を制御し道徳理念の道具とすることで、より安定した平和を達成できる。

 

10 個人の道徳と社会の道徳

社会の最高道徳は正義、個人のそれは利他主義であるが、両者は簡単には調和しない。

利他主義に基づく自己犠牲を、他人の利益のために強いることは通常困難である。よって集団では通常、利己主義が支配的となる。

人間集団の利己主義は不可避であり、対立する利益によってのみ抑制される

 

11 結論

社会の不正によって個人の満足を得ることはもはやできない。完全な正義を追求するという幻想は狂信を招くため、理性がこれを制御しなければならない。

しかしこの狂気なしに、正義に近づくことはできない。

 

 


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