うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『我が朝鮮総連の罪と罰』韓光煕 ――日本における事実上の北朝鮮窓口の歴史

最近、台湾、韓国、北朝鮮、またそれらの地域と日本との関わりについて調べています。

去年台湾に行きましたが、今年は台湾と韓国に旅行にいく予定です。

この本は、だいぶ昔に読んだものです。

 

在日朝鮮人として朝鮮総連に勤務し、後に脱退した人物の回想録。

在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮労働党情報機関における統一戦線部の指揮を受ける団体である。

著者が総連を脱退し内部告発するきっかけとなった朝鮮総連の幹部である許宗萬は、2019年現在、朝鮮総連の議長となっている。

 

参考ニュース

thediplomat.com

www.washingtonpost.com

 

◆所感

  • 1941年に在日2世として生まれた著者が、北朝鮮へのあこがれから朝鮮総連の専従となり活動を始める経緯が描かれる。
  • 朝鮮総連の活動や組織が詳しく書かれている。ただし、秘密活動についてはあくまで著者の視点からの説明であり、自分の担当していないことは書かれていない(拉致、地上げビジネス等)。
  • 韓国人や韓国国内での勧誘活動も行っていた。
  • 朝鮮総連自体は北朝鮮出先機関だが、総連と在日朝鮮人とは、完全な命令ー服従関係にあるわけではない。
  • バブル期以降、在日商工人(パチンコ屋や実業家)からの献金は減っていき、さらに総連による暴力事件や金正日拉致問題謝罪を経て、在日朝鮮人は総連を見放していった。
  • 戦中から戦後にかけて生きた在日朝鮮人の社会を知ることができる。

 

1 帰国事業前夜

著者は1941年に大田区で生まれた。両親はその1年ほど前に慶尚北道からやってきた朝鮮人だった。東京大空襲に見舞われるが、やけどだけで運よく助かり、栃木県国分寺町に移った。

戦争末期、神頼みの日本人にくらべ朝鮮人は冷めており、日本が負けることを確信していた。

 

引っ越しした栃木には都会ほど朝鮮人がおらず、著者は目立った差別はまったく受けなかった。

 

1959年から北朝鮮帰国事業が始まると、著者の周りの友達や家族も続々と帰っていった。著者も帰国を望んだが、「そんなにすぐ国が発展するわけがない」と疑った母の反対で、一家は日本に残ることになった。

著者は代わりに、朝鮮総連の専従職員として精力的に働き始めた。

 

ただただ、組織と同胞の役に立ちたい一心だった。純真といえば純真だが、阿呆といえば阿呆であった。

 

朝鮮総連は、終戦時につくられた在日支援団体とは異なり、北朝鮮政府に完全に従属していた。

朝鮮人のあいだには日本帝国主義への反感が根付いていたので、米帝国主義に立ち向かう金日成は英雄的な扱いだった。

在日朝鮮人の9割は、現在の韓国地域の出身であり、北朝鮮地域についての情報は持っていなかった。また、栃木に住む朝鮮人はほとんどが貧困層であり、帰国事業が始まると皆帰ってしまっていた。

当時、勢力伸長を進めていた韓国系の民団と、朝鮮総連とはお互いに犬猿の仲だった。

 

朝鮮総連における最大の勲章は多くの同胞を帰国させることだったので、著者は貧しい子供たちや若者に目を付けてあれこれと夢のような話を吹き込んだ。

 

しかし……なかなか首をたてに振ろうとしない。それもそのはずだった。そのころには、どうやら祖国の事情は総連の宣伝とはだいぶ違うらしい、などの噂が同胞たちのあいだにだいぶ浸透していた。

 

朝鮮総連の戦法について。

 

これは我々朝鮮総連の悪い癖である。日本の当局と交渉するにあたっては、何かにつけて「民族差別」だの「過去の歴史」だのを持ち出してことさら猛々しく振る舞い、理不尽な要求でものませようとする。

 

かれ自身、北朝鮮が発する「地上の楽園」情報を完全に信じていたわけではなかったが、成績を上げるために自分をだましたという。

 

2 政治部

1962年、著者は朝鮮総連栃木支部の推薦を受けて学習組員となった。これは朝鮮労働党員となることを意味した。労働党員であることは秘密であり、家族にも打ち明けてはいけなかった。

かれは金日成の戦士として働けることに感動した。

jp.reuters.com

 

幹部向けの洗脳教育は狛江市の料亭を改装した中央学院という場所で行われていた。

学院では、自己批判・相互批判、総括といい、お互いに罵倒しあい精神を破壊する洗脳工作が行われた。

 

「言い訳はするな! 教官同志が100回読めといったのであるから、内容を把握することより、まず100回繰り返して読むことが重要なのである」

 

あの若い時代に、あれだけの熱意とあれだけの勢力を傾けて何かまともな学問にでも打ち込んでいれば、軽く博士号くらいとれたのではないかと、本気でそう思う。

しかし、それほどの情熱をかけて我々が学んだのは、北朝鮮の独裁者が自分に都合よくでっち上げた作り話だったのである。今日の人生に役に立っていることなど、ただの1つもない。

 

著者は学習組員として出世し、東京の朝鮮総連青年同盟に異動し政治部員となった。政治部は秘密工作担当であり、(韓国)民団切り崩し等を担当した。

総連副部長の金氏に評価された著者は、政治部とは別の秘密任務……北朝鮮工作船の上陸拠点での受け入れを担当することになった。

 

また韓国からきた留学生や、日本の学校に通っている朝鮮人を勧誘し北朝鮮工作員に仕立て上げた。ある工作員学生は韓国に留学し、韓国人学生を数人取り込んだ。

韓国の反共教育は大変厳しく、マルクスレーニンを読んだ者は刑事罰を受けたので、書店や図書館にこうした著作をこっそり挟み込み釣れるのを待った。

 

そらみろ、答えられないではないか! デモなんぞで現実が変わるものか! 現実を変えることができるのは革命と戦争だけだ! 命を賭して革命する気もないくせに、何が社会主義だ!

 

3 宣伝局

著者は総連の宣伝局に籍を置き、その後商工会に異動になったが、引き続き秘密活動を続けた。

 

学園スパイ浸透事件:

韓国で北朝鮮工作員とおぼしき学生が逮捕されると、著者は韓国のでっち上げだと確信し、総連全体でキャンペーンを展開した。

 

……総連という組織は、すべて上から下への命令系統しかないタテ割り構造でできているからである。

……そして、他人がどんな極秘任務をやっているのかも知らないし、聞くこともしない。

だから私は、まさか自分たちの他にも韓国にオルグ留学生を派遣しているグループが存在するとは、ついぞ知らなかった。

 

1970年代前半は、朝鮮総連の規模がもっとも大きかった時期であり、祝典なども盛大に行われた。現在は規模も縮小し、北朝鮮の現実や朝鮮総連の腐敗も明らかになり、在日の商工人も寄付をしたがらない。

当時、朝鮮総連は、本国の朝鮮労働党3号庁舎の統一戦線部という部署の出先機関だった。そして、在日朝鮮人は本国の北朝鮮人から見下されていた。

 

このように本国と総連は、言葉は悪いが醜女の深情けのようなもので、いつだって在日側の一方的な片思いでしかないのである。

 

日本に来訪するスポーツ団や歌劇団などには必ず労働党の指導員が混じっている。かれらは一様に、筋肉があり、目つきが鋭く寡黙であり、また日本語が流ちょうで日本の事情にも通じているためすぐ見分けがついた。

 

労働党謀略機関の最大目的は対南(韓国)工作である。

 

1976年に朝鮮総連中央本部中央宣伝局に配属された。この時期から、本国を頻繁に訪問するようになった。

平壌は外国人訪問者や在外朝鮮人向けに整備されており、偶然の親切をよそおう猿芝居が必ず用意されていた。

 

1980年に韓国で光州事件が発生したときには、日本人映像作家らを訪問させ虐殺の映像を手に入れ、キャンペーンに利用した。

sp.m.jiji.com

 

4 財政局

1985年頃、著者は総連財政局に異動した。

1980年代中盤以降、在日2世、3世の時代になると現実主義者が増え、総連への献金は目に見えて減っていた。かれらは口では忠誠を誓うが、献金については厳しく、用途や目的にこだわった。

また総連にではなく本国の家族に直接送金する者も多かった。

 

金日成マルスム(教示)を受けて、朝鮮総連は直接経済活動に乗り出すことになった。

著者は総連直営のパチンコチェーン計画をおこした。店長教育のため養成課程を開き、アメリ経営学の講義、パチ屋での実習、釘調整の訓練などに取り組ませた。

当時、在日同胞の少なかった山形に目を付け、郊外型パチンコ店を設置し大当たりした。

パチンコ店店長は当時月給4、50万円だったが、赤字を出した場合は自分で補填しなければならなかった。朝鮮大学校でスカウトした総連職員は、例年15名のうち12、3名がパチンコ店経営に回された。

 

(当時の)パチンコ屋は通常地元の暴力団とつながっているが、朝鮮総連系には寄り付かなかった。チンピラなどがやってきた場合は店長が体を張って追い出した。また警察がロムの点検をしにくるので、その場合も屈強な男たちを呼んでロムいじり発覚を防いだ。

 

大韓航空機爆破事件金賢姫北朝鮮工作員であると報道されると、朝鮮総連は「韓国の謀略だ」と反論した。

www.bbc.com

 

著者は1980年代中盤から、朝鮮総連北朝鮮に疑いを抱き始めたという。朝鮮総連と在日は北朝鮮のために寄付や投資をおこなったが、それに対する見返りはまったくなかった。

 

どれほど投資しても、あの国の経済が立ち直る兆しはいっこうに見えなかった。経済とは現実そのものである。どれほど高い理想を掲げようと、経済がダメだということはあの国の現実がダメだということだ。

祖国の未来は、どう贔屓目に見ても明るくなかった。

 

このままでは共倒れになってしまう……。

 

産業:

在日朝鮮人が好んできた産業は、日本人がやりたがらない業種、現金収入が得られる業種が多かった。

  • パチンコ屋・焼き肉店:ホルモンや上等肉をつけたれで焼く形式は朝鮮式を在日が改良発展させたものである。
  • 消費者金融
  • 産廃:規制強化で現在は縮小している
  • 風俗店
  • 地上げ

 

地権者に税金のかからない裏金を渡すことができるのは裏社会だけだった。このため朝鮮総連は積極的な地上げビジネスを行った。

 

在日朝鮮人の祖国訪問事業は、本国の家族に会いたい在日から金を集めるためにはじめられた。

2、300万円だと喫茶店で1時間程度の面談、本国の家族の家を訪問するには1000万円以上要求された。

 

財政局員は商談や交渉のために高級クラブや料亭を使ったが、やがて日常的に入りびたるようになった。こうした蕩尽は地方にも伝播し、総連全体を腐敗させた。

許宗萬が議長に無断で総連の所有する物件を担保に金を調達したため、内部で問題になり、またAERA紙からもかぎつけられた。

 

著者は財政局を牛耳る責任副議長許宗萬と対立し、最終的に総連を追い出された。

 

朝鮮銀行の破たんにあたり、政府は公的救済をおこなおうとしていた。しかし著者の内部告発がスキャンダルとなったことで税金投入は中止された。

それまで噂にすぎなかった総連から本国への送金疑惑は事実であり、総連は船や工作船などで数百億円の現金を北朝鮮に移送してきたことが明らかになった。

www.huffingtonpost.jp

 

『反乱』メナヘム・ベギン その2 ――イスラエル建国テロリストの回想録

後半では、イギリス占領軍がイスラエルのテロリストに攻撃され、最終的にイギリスが撤退するまでが回想される。

後のイスラエル首相の多くが本書ではテロリストや民兵部隊の一員として活動している。現在でも、軍国主義的な国家方針は健在である。

 

8

ベギンの活躍について、スターリン工作員だとかトルーマン工作員だとかいったような荒唐無稽な記事が多く流れた。

 

ひとつだけはっきりしているのは、わたしがあらゆる形態の全体主義を憎悪し、圧政と全体主義に対する自由の勝利を確信していることである。

 

ベギンは何度も自宅と身分を変えながら、市民として潜伏しつつイルグンの活動を指揮した。

 

9

(略)

 

10

通常、革命によって政府が転覆されると、革命勢力同士の内戦や抗争が始まる。イスラエル建国に際しこうした問題が発生しなかった理由をベギンは2つ説明する。

 

  • イルグン隊員は、同じ兄弟同士である政敵を憎んではいけないと教育されていた。 
  • イルグンはユダヤの主権確立のために戦ったのであり、権力に関心はなかった。

 

理由が何であれ、主流派のシオニスト指導部が、われわれの反英武力闘争を開始直後から阻止しようとしたのは、事実である。

 

当時のシオニスト指導者はベングリオンだったが、かれとイルグンとの間には意見の相違があった。しかしベギンは、独立が達成された暁にはベングリオン国家主席となることにも反対しなかった。

反英闘争の最中に、ベングリオンの指揮下にあるハガナー(公式の国防軍)は何度もイルグンを脅迫し、活動をやめるよう迫った。しかしイルグンはこの要求をのまなかった。

 

ハガナーがイギリス官憲と協力してイルグン狩りを始めたときも、イルグン側は報復を行わなかった。

 

やがて、この反英闘争に全住民が立ち上がり、昨日の迫害者と被迫害者が肩を並べて戦うようになった。われらの民族とわれらの祖国に対する共通の目的のために。

 

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独立戦争におけるエルサレムの市街戦について。

イルグンはハガナーに編入され、合同でアラブ連合軍と戦った。シュテルン隊は独自の指揮系統でハガナーと共同した。

en.wikipedia.org

 

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独立戦争中もハガナーはイルグンに懐疑的であり、また分派活動を許さなかった。多数の義勇兵と武器弾薬を乗せたイルグンのアルタレナ号は、ハガナーの突撃隊パルマッハ(指揮官イーガル・アロン)の砲撃によって沈没させられ、14名の死者を出した。

こうした攻撃にも関わらず、ユダヤ人勢力は本格的な内戦には至らなかった。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

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第2次世界大戦終結後、イギリス総選挙で労働党が勝利すると、ユダヤ人指導部やイギリス協調派は狂喜した。チャーチルとは異なり、労働党のアトリーはシオニズムへの支持を表明していたからである。

ところがアトリーが政権につくと、ユダヤ人嫌いで有名なベビン外相は引き続きイスラエル占領統治を継続した。

イギリスの態度によって幻想から覚めた主流派は、イルグン、シュテルン隊(レヒ)と共同戦線を形成することで合意した。

 

いずれの軍でも規律は大切である。さまざまな敵や反対者に包囲された反体制闘争軍においては、なおさらである。

 

われわれの地下軍には、勲章などしゃれたものはなかった。勇敢なる英雄的行為に対して、隊員が得るのは、義務を果たしたという精神的満足感だけであった。

 

共同作戦によってイギリス軍航空基地の航空機を多数破壊したあと、ユダヤ人兵士たちはアラブ人の村からも英雄として声援を受けた。

これはまだ独立戦争が始まる前のことだった。

 

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英政府との武装闘争が続く中、ユダヤ人指導部の一部は融和政策に傾き、ハガナーを武装解除しようとした。ベギンはこの間も武力活動を継続した。

 

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キング・デーヴィッド・ホテル爆破事件について。

ja.wikipedia.org

 

1946年6月以降、ハガナーは防衛・報復理論に基づいて、英政府の官庁が集中するホテルへの攻撃を許可した。ユダヤ機関が英軍に占領された報復である。

 

もともとハガナーは、英当局の都合から半官的地位を与えられてきた。それに慣れてしまって、油断があった。注意するのを忘れたのである。ユダヤ機関の幹部は、幻想にも等しい「国際的地位」を過信していた。

 

ホテル爆破に伴う民間人の犠牲を避けるため、実行部隊は複数個所に警告の電話を入れた。しかし、避難は行われず、200名超の犠牲者が出た。ベギンの主張に寄れば、警告を握りつぶしたのはイギリス当局だった。

 

「われわれは、ユダヤ人から命令を受けるためにここにいるのではない。われわれがやつらに命令するのだ」……

 

イギリス側があえて大惨事を狙ったかどうかは不明だが、いずれにせよ英軍高官がホテル退避を禁じたのは事実である。

当初、ベングリオンやハガナー、ハアレツ紙は手のひらを返してイルグンに責任をかぶせ非難した。

 

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イギリス軍は、植民地の人間に対し鞭打ち刑を行った。ベギンらユダヤ人にとって、これは自尊心への攻撃だった。

イルグンは、自分たちに鞭打ちを行えば、イギリス人将校も同じ目に合う、と警告をまいた。この警告は、将校とは距離のあるイギリス兵たちからも人気を得た。

 

 ――空挺師団の兵たちは、「6千万のユダヤ人をぶっ殺してやる」などと無記名で殴り書きしていたが、この兵隊は、上官の所属部隊番号や官姓名をはっきりと書いていた。

 

刑務所にいたイルグン所属の少年が鞭打ちを受けたため、イルグンはイスラエル各地で4人の英軍将校、下士官をとらえ鞭打ちし、次は銃殺すると警告した。

占領政府が鞭打ち政策を中止した結果は、国際的に大きく報じられた。

 

英軍将校を鞭打つのは、決して愉快なことではなかった。しかし、正直なところ、誇り高い強大な軍隊の将兵数千人が、エレツ・イスラエルのカフェから一目散に逃げ出したときは、いささか満足感をおぼえた。

 

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イルグンは隊員に死を覚悟させていたが、同時に、かれらを救出するためには犠牲を惜しまなかった。

ユダヤ人テロリストたちは、頻繁にイギリス兵になりすまし、基地に潜入し武器庫を襲撃している。

 

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保守党のチャーチルは、英占領軍の失策を非難した。

 

……チャーチルは、再度英軍のパレスチナ撤収を要求した。戦略目的に全然役立たず、金をくうだけでなく人命も犠牲にしている、駐留は無意味である、とチャーチルは言った。

 

私は、このユダヤ人との争いが気に食わない。私はかれらの暴力手段を憎んでいる。しかし、君たちがこの問題を扱うのなら、少なくとも男らしく振る舞いたまえ。……テロリストの脅威を受けながら、政府は法を施行する勇気がない。

 

19

(略)

 

20

とらえられたイルグン隊員の一部は絞首刑にされた。またほかの構成員は、空挺部隊の基地に拉致され、兵や軍医からリンチされた。

 

21

英軍が4人のイルグン隊員を処刑したため、報復作戦が行われた。隊員の中には、大戦中に英陸軍のコマンド部隊で活躍していた人物もいた。

さらに、アッコーの刑務所襲撃作戦でとらえられた3名も処刑されたため、報復に英軍下士官を拉致し処刑した。

 

22

ベギンは地下生活を続けながら、同時に国連の調査委員会3名とも会談した。これを聞いた英国政府が激怒した。

 

「5年間もこの男を探し回りながら、いまだに行方をつかめない。ところが国連委員会の委員長は、いとも容易にこの男と会ったようだ。いったいどういうことであるか」

 

このような憤激のニュースを読んで、私は英情報機関をたいへん気の毒に思った。

 

23

小説家のアーサー・ケストラーはシュテルン隊やイルグンの取材を精力的に行っており、ベギンもかれと面会した。ただし、当時、人相を知られてはまずかったため、暗闇の中で会談した。

ja.wikipedia.org

 

アメリカの議員や文学者と会うことで、ベギンは自身に関する誤ったイメージ…「整形している」、「巨体である」等が流布していることを知った。

ハガナー幹部のモシェ・ダヤン(のちの国防軍将官)は、淡々と話すが勇気と胆力のある人物だと感じた。ダヤンも、イルグンに対し尊敬を表明していた。

 

24

チャーチルは、無駄な植民地政策と10万兵力のくぎ付けに反対していた。占領軍が戒厳令を発するもイルグンのテロはおさまらず屈辱のまま中止になった。

 

25

1948年5月16日、英国占領政府は撤退した。英高等弁務官カニンガム将軍は旗をおろしイスラエルを去った。

ja.wikipedia.org

 

26

ユダヤ機関は、英国撤退後の平和的な政府樹立に幻想を抱いていた。イルグンの予測では、間違いなくアラブは侵攻を開始し、英国がこれを後方から支えるはずだった。

 

われわれは警告する。……海上封鎖はあと5か月続く。英国は、兵員資材の補充を許さないであろう。ユダヤの血が流され…武器は持ち去られ、……

 

攻撃にまさる有効な防衛はない。鉄壁を称せられたフランスのマジノ線が雄弁に物語っている。

 

ハガナーは政治的な失敗から資金を活用しておらず、アラブ軍との戦争が始まったとき、貧弱な装備しか持たなかった。

 

27

…この人たちは、外からの迫害や締め付けを決して容認せず、内部の暴政にも長い間我慢しないのである。かれらはこうと思ったらテコでも動かぬ頑固者であり、その胸には自由の血が流れていた。

 

ユダヤ機関が、国連や英国政府に平和的解決の意思がないことを認識するまでに、イルグンとハガナーとの間で内部抗争があった。

 

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英軍はまだ撤退しておらず、ユダヤ人部隊を一方的に武装解除した。

 

周辺にはアラブの武装集団がおり、まったく無防備の状態になった8名の命運は明らかだった。全員がすぐ殺されてしまったのである。エルサレムその他の地域で同種の事件が何度か起きた。

 

29

エジプト、イラク、シリア、レバノン、トランスヨルダンのアラブ連合軍侵攻に対し、イルグン最高司令部は戦略目標を立てた。

 

確保区域:

  • エルサレム
  • ヤッフォ
  • リッダ・ラムレ地区平野部
  • トライアングル

 

イルグンは英軍基地や英軍の補給列車を襲撃し、装甲車、砲弾、機関銃などを調達した。そして、ヤッフォや各都市の英軍部隊、施設に対し砲撃を行った。

 

31

イスラエル国は誕生した。これによってのみ、すなわち血と銃によってのみ、それが可能だったのである。

 

われわれは必ず勝利する。しかし、この戦いに勝ったあとも、国家の自由と独立を維持するため、超人的努力を続けねばならないだろう。それにはまず、イスラエルの戦力を増強する必要がある。備えがなければ、自由は保証されず、祖国の存続もおぼつかないであろう……。

 

……英国その他外国軍の兵隊がひとりでも我が国に残っている限り、主権は夢にすぎない。主権の獲得には、戦場だけでなく、国際部隊で戦う覚悟が必要である。

 

わが祖国においては、正義が最高の支配者でなければならない。暴君の出現は許されず、閣僚や政府の役人は国民に奉仕する公僕であり、主人であってはならない。搾取も絶対に許されない。

 

……われわれは、融和によって敵から平和を買うことはできない。買うことのできる平和には一種類しかない。それは、墓場の平和、トレブリンカの平和である。

 

武器がない? 必要なら敵からでも取得できる。戦う部隊がいないと? それなら組織できる。準備がない? しかし、闘争自体が教育と訓練を授けてくれるのだ。徒手空拳であっても、それは人間次第でどうにでもなる。理想のために全身全霊をささげ、身命を賭す覚悟でなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

『反乱』メナヘム・ベギン その1 ――イスラエル建国テロリストの回想録

 

第7代イスラエル首相メナヘム・ベギンレジスタンス回想録。

メナヘム・ベギンはイギリス統治下のイスラエルでテロリストとして活動したが、そのときの記録である。

現在も続く紛争の原点をうかがい知ることができた。

ja.wikipedia.org

 

 

◆所感と漫談

イギリス占領政府との戦いが細かく記されている。組織の運営や作戦、イギリス側との情報戦などが詳しく書かれている。

イスラエル内部でも、英国との協調を目指すユダヤ機関、ベギンらの武装組織、共産党系の組織等派閥に分かれていたが、うまく独立し政治的な安定を獲得した。民主主義的な政府を設立するという合意は、どのようになされたのだろうか。

ベギンによれば、自らの率いる組織イルグンでは、絶対に同胞を憎悪しない、報復しないという教育を徹底していたという。

イルグンは、活動家ジャボチンスキーが設立した地下組織だが、途中、ハガナーイスラエル国防軍の前身)やユダヤ機関と対立しながらも、反英闘争や独立戦争に大きな貢献を果たした。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

現時点で進行中のハマスイスラエル戦争においても、ハマスは西側諸国の一部でテロ組織の認定を受けている。

しかし、テロリストや反乱勢力が作った国は非常に多い。

現在の日本や米国、アイルランドも(所謂)テロリストや反乱勢力が成立させたものである。

本書ではイギリス側の敗因の1つに、イスラエル勢力をテロリスト風情とみなす認識から脱却できなかった点が挙げられている。

似たような事例がマクニール『愚行の世界史』にも載っていた。

 

敵に対する無知や過小評価、そしておごり高ぶりは、失敗の最大の要因である。

 

イギリスは軍を投入して植民地を制圧しようと考えていた。かれらはアメリカ人を完全にあなどっており、まともな戦力にはならないと過小評価していた。

 

 

1

1941年、ベギンはリトアニア領内でシオニズム運動を行っていた罪で、ソ連の秘密警察であるNKVDに捕えられ、8年の強制労働を科された。移送の途中、独ソ戦が始まった。

ソ連は当初、ユダヤ独立運動を支援したが、やがて革命を妨害する運動として弾圧するようになった。ソ連の秘密警察は、政治犯を外界から孤立させることで自白を促そうとした。

 

2

ベギンにとってマルクス主義は自身のイデオロギー――個人の自由と幸福――とは相いれない。しかし、ソ連が最初期にユダヤ人を支援し、またイスラエルを最も早く国家承認したのは事実である。

 

……個人の自由と社会正義の顕現を、どう調和するかである。個人の自由のためには、国家は個人の生活に干渉してはならない。しかし、正義にもとる不平等は、社会、いいかえれば国家による計算された干渉がなければ、是正されない。

 

社会の病をすべて治す特効薬は、まだ発見されていない。ソ連の人民は、それを探そうとして多大の犠牲を払った。かれらは個人の自由を犠牲にしたのである。

 

ソ連の体制は、文明のない貧しい生活にも適応できることを人民に教えた。

 

人間は生命力の旺盛な動物である。半畜生の状態にあっても、生存意志は確固として残っている。……しかし、ちゃんとした食事の味さえ完全に忘れ、ただただ食物のことばかり考える状況をつくりだす必要があるのだろうか。

 

ベギンが収容されたソ連の収容所には刑事犯と政治犯とがおり、概して刑事犯は、インテリや政治犯を逆恨みしていた。共産党員として働いてきたにもかかわらず粛清により投獄されたユダヤ人たちは、刑事犯たちからユダヤ人差別を受けてがく然となった。

 

フランスの同化ユダヤ人(フランス社会に同化したユダヤ人)だったテオドール・ヘルツェルは、民衆の「くたばれユダヤ人」という合唱を聞いて、シオニズム運動に参加した。

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

 

3

スターリンと亡命ポーランド政権が協定を結んだため、ポーランド人であるベギンは収容所から釈放された。

かれはエレツ・イスラエル(現在のイスラエル)に向かい、以後、独立まで地下組織の構成員として戦った。

 

4

イギリスはパレスチナを手に入れるために、ユダヤ人の保護を名目に掲げた。実際には、無抵抗の少数民族ユダヤ人と現地のアラブ人が紛争しつつ、イギリスがそれを銃剣で保護するという形態が理想だった。

パレスチナを、イギリスの統制下にあるアラブ国家にするためには、戦争勃発にともなう大量のユダヤ人移民は邪魔だった。このためイギリス政府は、ヨーロッパを逃れてきたユダヤ人難民を次々と追い返した。

 

イギリスの統制に対する反発を指導したのは、修正シオニズム主義者のジャボチンスキーだった。

ジャボチンスキーは、武装組織イルグン(正式にはエツェル)の初代指導者である。

ja.wikipedia.org

 

かれら(イギリス人)は、エレツ・イスラエルでもユダヤ人は保護を嘆願する臆病な人間、と考えていた。……ウラジミール・ジャボチンスキーは、若き世代に抵抗することを教え、自ら命を犠牲にして戦う決意であった。

 

1944年、地下組織イルグンはイギリス統治政府に対する宣戦布告を行った。

ja.wikipedia.org

 

5

イルグンの英政府・警察に対する爆弾テロは、アラブ人を驚嘆させた。

イギリスは、アラブ人たちに対しユダヤ人への攻撃をけしかけていたが、それも機能しなくなった。ユダヤ人は、反英テロによって主導権を握ることができた。

アラブ人の中には反英闘争を支援する者もいた。

 

解放闘争の主要武器である爆薬は、やがてわれわれがかなりの量を生産できるようになった。しかしそれまでは、英軍から一部拝借し、大部分のTNT火薬はアラブから購入していた。

 

1947年になるとアラブの正規軍がユダヤ人に攻撃を開始し、ユダヤ人側は各武装組織をイスラエル国防軍に統合した。戦争の際に大きな心理的圧力となったのは、それまでのイルグンらテロ組織の行動である。

ja.wikipedia.org

 

 

イギリスの植民地統治を分析した結果、ベギンは、かれらが実際の武力よりも威信に頼っている事実を発見した。イルグンは英統治政府の威信を削ぐために様々なテロや誘拐、報復等を行い、イギリス官憲もこれを阻止できなかった。

 

われわれは、敵が道義的に抑制することを期待したり、敵の道義心がそんなに高いとも考えていなかった。

 

イルグン側には計算があった。

イギリス人は文明的なので、ゲリラ制圧のために多量のイギリス人死者が出るのを好まない。また、極小テロ組織による活動は、通常の武力紛争よりも国外メディアの注目を集めることができる。

 

6

イルグンはテロリストと名指しされていたが、ベギンはあくまで地下の軍隊だと考える。司令部は20名ほどで、他の実行部隊は皆平時は市民として生活していた。イルグン幹部は様々なゲリラ作戦を計画し、また自ら現場で指揮した。

インフラ、警察署の爆破や、英軍人に変装しての武器強奪作戦が行われた。

密告によって捕まることが多かったが、特に幹部同士の絆は強く、民主的な軍隊だった。イルグンは自由に脱退することができた。

給与はユダヤ人からの寄付と英軍から奪った金で賄っていた。階級は正式なものでなく、中尉が数千人を指揮することもあった。

 

当初イルグンは以下のとおり編成されていた。

  • 革命軍 予備組織 実態無し
  • 挺身隊 色黒の隊員をアラブ地域に潜入させる
  • 突撃隊 主要作戦
  • 革命宣伝隊 プロパガンダ

 

組織には必ず摩擦が生じ、特に突撃隊と革命宣伝隊との仲は悪かった。しかし、こうした組織運営を通じてイルグン隊員たちは国家運営の基礎を学んでいった。

革命宣伝隊は送信機を使いラジオ放送を行った。イギリス側が逆探知や妨害を試みたため、かれらは頻繁に場所を移動し(5分放送し移動)、またイギリスの送信施設を攻撃した。

イルグンは極力、事実のみを放送するように努めた。そのため、イルグンの発表は正確だという信用性が高まった。

 

7

世界的に名高い英国情報機関はイスラエルでは役に立たなかった。

ユダヤ人には酒や金で買収されるものが少なかった(ユダヤ教徒はあまり酒を飲まない)。

イルグンは秘密保全教育を徹底した。

 

秘密を守るうえで、2つの大きな敵がある。ひとつは好奇心であり、あとひとつが自己顕示欲である。……「たずねるなかれ、話すなかれ」が基本原則である。

 

裏切り者や浸透工作員は少なく、また現地の人びとはイルグンに協力的だった。

英情報機関は、イルグンが犯罪者テロリスト集団であるという固定観念から抜けだせなかった。

 

英当局は……わたしの写真を2枚発見した。ひとつは、かなりよくとれている写真だったが、あとの1枚は街頭のスナップ写真で、わたしの兵隊身分証からひっぱがしたものだった。こちらは実物の私とあまり似ていなかった。

しかし英当局は、2番目の写真を逮捕用の顔写真としてばらまいたのである。なぜであろうか。理由は簡単で、最初の写真は多少なりとも「人間らしい」顔つきをしていた。わたしを撮ったのであるから、どうせ二枚目には映らない。しかし、それはごく当たり前の顔であり、見ていて嫌悪感を覚えるようなものではなかった。

しかし2番目の写真はどうかといえば、ダーウィンの進化論を裏付けるような代物であった。

 

このテロリストの写真はひとつだけ良い点があった。つまり、実物と全然似ていなかったのである。……哀れなのはイギリス人探偵たちである。喉から手が出るほど欲しいはずなのに、私の首にかかった懸賞金を手にすることができなかった。

 

より過激な分派組織であるレヒ(シュテルン隊)は、常に武器を携帯し敵と銃撃戦になったが、イルグンは武器を絶対に携帯せず、作戦時以外は保管庫にしまっていた。

レヒはより過激なテロ組織で、虐殺事件等も引き起こしている。この組織には後の第8・10代首相イツハク・シャミルが指導者として所属していた。

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[つづく]

 

 

 

『Black Flags』Joby Warrick その2 ――イラクのアルカイダがISISに引き継がれるまで

 

 

 

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10

当時USSOCOM司令官だったマクリスタルは、ファルージャザルカウィをとり逃したときのことを覚えていた。特殊部隊による家宅捜索は、イラク人にとって侵略者の闖入でしかなかった。

ザルカウィは、米軍の失敗とイラク人の憎悪を利用することができた。

マクリスタルは、イラク駐留米軍が占領統治に関して何1つ達成していないことを発見した。反政府勢力から押収された文書やPCなどは、空き部屋にただ積み上げられていた。

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11

ザルカウィは、ヨルダンにテロリストを送り情報機関を爆破しようとしたが失敗した。

アブドゥッラー国王は、ワシントンD.C.での夕食会で、イラクの治安と女性の扱いが悪化している(※ フセイン政権は世俗政権だった)と話した。ところがホワイトハウス側から「そのような発言を公の場ですべきでない」と忠告された。

国王は、アメリカが異なる意見を封殺しようとしていることにショックを受けた。

 

12

ザルカウィアメリカ人の青年企業家Nicolas Bergを拉致し、斬首ビデオを公開した。

www.theguardian.com

 

青年はお人好しな性格を利用され、戦闘員に拉致された。ビデオは衝撃を呼び、アブグレイブ刑務所虐待スキャンダルで毀損されていたイラク戦争への支持をさらに低下させた。米軍のイメージはもはやハイテク兵器ではなく、IEDと国旗に包まれた棺桶だった。

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ザルカウィは、ビンラディンに並ぶ国際テロリストとなった。

 

13

バグダッドの西にあるラマディ(Ramadi)は、後にイスラム国の首都に指定されることになる都市である。米軍は基地内から出ないため、市街は無法地帯となっていた。米軍と接触を試みるものは殺害された。

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ラマディは外国人ジハーディストが支配するようになった。ザルカウィの周囲には、ならず者や犯罪者気質の者が多く流入していた。海外からやってきた青年は多くが自爆テロ要員となった。

無辜のムスリムを殺害する行為、また自爆テロに対して、ザルカウィのかつての師であるMaqdisiや、各国のスンニ派神学者が批判を行った。しかし、シーア派カトリックと異なり、スンニには中央集権的な権威がなく、ザルカウィは都合の良い解釈を採用することができた。

ヨルダン国王が主導した、テロリズム批判声明は、全世界の多数の神学者の支持を得た。一方、ビンラディンザルカウィの功績を認め、かれをエミール(またはアミール、組織の最高指導者)とし、イラクアルカイダに認定した。

 

14

ビンラディンザルカウィは、2005年1月のイラク総選挙を破壊しようとした。アメリカは撤退時期を早めるため、是が非でも期日通りに実施しようとした。

爆弾テロや脅しにより、スンニ派住民がほぼ全員投票をボイコットした。スンニ派の間には、自分たち少数派が不利な扱いを受け、米軍がシーア派に肩入れしているという不満が高まっていた。

ザルカウィのアジトから押収した書類を分析した結果、かれは無学ゆえにコーランを都合よく解釈し、自分こそは古代の聖戦士の再来だと信じていることがわかった。アルカイダの副司令官ザワヒリは、ザルカウィに対し、シーア派の一般市民や人質の処刑は、民衆の支持を失うだけであると批判した。

jp.reuters.com

 

本家を超え、勢いに乗っていたザルカウィアルカイダはもはやフランチャイズではなく、「アルカイダ2.0」だといってよかった。

 

マクリスタルの特殊作戦チームは、Balad空軍基地を拠点に24時間体制での夜間爆撃・襲撃作戦、尋問、情報収集を続けた。マクリスタル自身も夜型シフトで勤務し、イラクアルカイダに息をつく暇を与えなかった。

「瞬きしない眼」と呼ばれたこの作戦は効果を発揮し、アルカイダは資金繰りやリクルートに支障をきたすようになった。

こうした状況のなか、2005年11月9日に、ヨルダン・アンマンでの同時爆破テロが発生した。

ja.wikipedia.org

 

15

サジダ・リシャウィはラマディ出身で、親族をイラク空爆で失い、現地でザルカウィ工作員に雇われ、アンマンに潜入した。彼女はアメリカ人や情報機関を攻撃したいと思っていたが、指示されたテロ現場はヨルダン人の結婚式場だった。

ヨルダン情報機関担当者はリシャウィを尋問したが、彼女はザルカウィと直接会ったこともなく、有益な情報も持っていなかった。

edition.cnn.com

 

スンニ派結婚式の女性や子供を狙ったテロによって、ザルカウィはヨルダンや他のアラブ諸国の支持を失った。またこの事件を機にヨルダンはより積極的な対テロ作戦に乗り出した。

 

2006年2月のサマラにおけるシーア派モスク爆破は、宗派間の戦闘を招き、1300人以上が死んだ。ザルカウィはイメージ回復のため自身のPVを作成しネットに流した。

シーア派民兵は、政府と協力してスンニ派に対し違法な拘留・拷問を行っていたことが判明した。イラクの内戦は本格化し、ブッシュは頭を抱えた。

 

16

ヨルダン情報機関は、アメリカ人が見落としがちな微妙なアクセントや出身地をかぎ分けた。

マクリスタルのチームはヨルダン人と協力し、尋問によりザルカウィの居場所を突き止めた。空爆によりザルカウィは殺害された。

 

※ 閲覧注意(米国防総省公式サイト)

dod.defense.gov

 

3章 ISIS

17

2011年2月、シリアの反政府デモに対し、アサド大統領は容赦のない武力鎮圧を行った。しかし当初、平和的な反政府デモは続けられた。アサド大統領は元々改革を指向していたがデモには非情な弾圧を行った。またかれは短気で有名だった。

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18

抗議と鎮圧の過激化から、アサドの終わりは近いと考えられていた。しかし隣国ヨルダンの国王は、シリア問題は長引くのではないかと考えた。デモの当初、アサドは拘留していたイスラム過激派を釈放した。かれらが反政府デモ勢力に加担したため、「デモは過激派によるテロだ」というアサドの言説が正当化された。

 

イスラム国の成立:

ザルカウィの死後、特殊部隊による夜襲作戦やスンニ派の抵抗によりイラクアルカイダはほぼ壊滅状態となっていた。ザルカウィの後継組織は、バグダディ氏を指導者とし、「イラクイスラム国」と名称を変えたが、かつての勢いはなく、資源、戦闘員、拠点、大義に欠けていた。

シリア内戦の勃発は、衰退していたテロ組織を蘇らせることになった。

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19

バグダディはイスラム国の分派「アル・ヌスラ戦線」をシリアに潜入させ、カリフ国家建設活動を開始させた。シリアは内乱によって無秩序状態に陥っていた。この状況が、イスラム国に勢力拡大の機会を与えた。

ja.wikipedia.org

 

1971年生まれのバグダディは、イスラム法で学位をとり、学者を目指す無口で目立たない男だった。

イラク戦争はかれの人生を変えた。反政府組織に加わった後、2004年に米軍に逮捕され、Camp Buccaに拘留された。収容所には雑多な工作員や容疑者が詰め込まれており、過激派が教化とリクルートを行うのに最適の場所だった。バグダディはこの刑務所を「ジハード大学」だったと回想している。

眼鏡をかけた学者を米軍は危険度無しと判断し、10か月後に釈放した。

 

かれは「イラクアルカイダ」において、アンバル地方のシャリーアイスラム法)を担当する役職についた。ところが組織のナンバー1、2が米軍に殺害されたため、突如バグダディがトップとなった。

かれはイスラム法によってテロ組織の残虐行為を正当化することができた。またムハンマドの子孫であるBu Al-badri部族の生まれであり、「カリフ制国家の成立」という大義に信ぴょう性を付与することができた。

 

20

2012年、アル・ヌスラ戦線がアルカイダの後継としてメディアに登場し、寄付を募った。アサドを敵視する湾岸諸国の富豪や政治家から大量の寄付があり、ジハードテロリストの資金源となった。アブドゥッラー国王は、過激派を支援する行為はやがて自分たちに牙をむいて返ってくると警告した。

ホワイトハウスでは、反政府勢力に武器支援すべきかどうかが協議されたが、オバマらは中東への新たな介入に消極的だった。パネッタ国防長官はこれに不満を持ちその後辞職した。

 

21

2013年4月、バグダディはアル・ヌスラ戦線を廃止し、新たに「イラクとレバントのイスラム国the Islamic state of Iraq and al-Sham(ISIS)」への統合を宣言した。

一方、アル・ヌスラ戦線の指導者Abu Mohammad al-Julaniはバグダディの宣言を拒否し、アルカイダの指導者ザワヒリへの忠誠を表明した。

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ISISはイラク自爆テロを繰り返し、また複数の刑務所から元ザルカウィ組織戦闘員を大量に逃がした。かれらがISISに加わり、シリアの北部と東部に侵攻した。シリア東部のラッカRaqqaはISISに支配された。住民は細かいイスラム法違反で罰金をとられ、それが外国人戦闘員の給料となった。

ラッカからの秘密の報告によれば、戦闘員たちはレストランやネットカフェにおいて我が物顔でくつろぎ、薬局でバイアグラを買っていた。シリア反政府地域での人道支援を担当していた人物は、ISISが勢力を拡大していることを実感した。

 

22

2014年春、ISISはイラクの都市ファルージャ、ラマディなど5都市を制圧した。イラクではマリキ首相のシーア派政権がスンニ派の弾圧を進めていたため、アンバル地方(イラク西部)のスンニ派部族DulaimがISISと連合し、政府軍を掃討した。

その後、バグダディの出身地サマラや、イラク第二の都市モスルも陥落した。

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2015年、ヨルダン人パイロットの焼殺動画は、元ザルカウィの師Maqdisiを含め多くの神学者や政府から非難された。しかし、ISISに志願する外国人や若者の勢いは収まらなかった。

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テロの温床となる憎悪は、宗教的な教えではなく、刑務所が生み出していた。

 

 

 

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