うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ロシア秘密警察の歴史』リチャード・ディーコン その2 ――秘密警察は人類最古のシステムの1つ

 9 アゼフの失脚

 オフラナは莫大な資金をつぎ込み対ドイツ諜報活動を行い一定の成果をあげた。しかし同時に、多くの革命主義者がオフラナにまんまと浸透してしまった。

 

 ――とくにボリシェヴィキなどは独自の対情報工作組織を作り上げただけでなく、革命が成功した場合にオフラナを引き継ぐべき影の秘密情報機関のようなものまで組織していた。

 

 スターリン、アゼフ、フェリックス・ジェルジンスキーがオフラナに潜入していた。

 アゼフはペテルブルク・オフラナ長官ゲラシモフの下で、二重スパイとして活躍したが、最終的に失脚した。

 

 

 10 オフラナのスパイ、スターリン

 ロンドンはスパイ天国であり、多くの革命家が生息していた。オフラナは、潜入スパイを使い、革命家たちに銀行強盗や犯罪をそそのかすことで、かれらをロンドンから追い出そうとしていた。イギリスが取り締まりを強化すればかれらの居場所がなくなるからである。

 

 オーストリア秘密警察前長官レドゥルは、ロシアスパイによって少年愛趣味の秘密を握られ、裏切り者となっていたが、自国の秘密警察に正体を突き止められ自殺した。

 レドゥルは多数の友人や同僚をロシアに売り、即刻処刑するよう仕向けたりしていた。

 

 ――……かれはロシアに地図や警察記録、信号法、暗号、軍備や軍需工場の詳細、軍の命令、動員計画などを流していたことがわかった。

 

 最大の情報はセルビア侵攻計画の詳細であり、第1次大戦時にロシアとセルビアを優位に立たせることになった。

 

 しかし、第1次大戦開戦時、ロシアはスパイから得た情報を生かすことができなかった。

 

 ラスプーチンは1905年頃から皇后に取り入った。不道徳行為やその権力のために、秘密警察はかれの身辺を調べた。ラスプーチンはドイツとの和平を主張していた。

 

 

 11 ジェルジンスキーの権力掌握

 1916年、ラスプーチンはユスポフ公爵によって暗殺された。

 このときには既に、陸軍、警察、海軍、オフラナといったあらゆる官僚機構に革命家が浸透していた。

 革命後の1917年、レーニンポーランド人貴族革命家フェリックス・ジェルジンスキーに、秘密情報機関再編の任務を与えた。

 多数のオフラナ幹部やスパイは、脅されて新しい情報機関で働くことになった。

 「反革命サボタージュ取締非常委員会」は、略称「チェーカー」と呼ばれた。

 かれは防諜工作部と秘密工作部を置き、ロシア全土にスパイ網・密告網をつくりあげた。

 

 イギリスは革命政権に対し積極的にスパイを送り込んだため、チェーカーは防戦に立たされた。

 

 ジェルジンスキーは、オフラナ以上の過酷で厳格な取締、抑圧、逮捕と拷問、処刑を行った。

 

 ――明らかに人民の敵で、しかも強情な者には必ず当然かつ適正な手段として肉体的抑圧を加えるべきである。

 

 

 12 トロツキー、GRUを設立

 トロツキー赤軍内にGRU(赤軍参謀本部第4局)を設置した。イギリスの情報機関に強い影響を受けた組織だったが、ジェルジンスキーはこれを不満に思い、多数のチェキストを配置させ、人事権を握った。

 

 チェーカー→GPU(国家政治部)→NKVD傘下のGPU→OGPU(合同国家政治部)

 

 2人の著名な科学者、カピッツァとランダウは、ここではイギリスやデンマークを拠点とし科学技術を入手したスパイとみなされている。

 

 

 13 トラストの罠とサヴィンコフ

 ボリシェヴィキを裏切り反革命側となったサヴィンコフを連れ戻すため、GPUは反革命家互助組織「トラスト」を設立した。これにつられたサヴィンコフはモスクワに連れ戻された。

 かれは、ボリシェヴィキがテロを手段として永続的に使い続けることに反対し、反革命に寝返ったのだった。しかし、かれを追い込んだのは麻薬だった。GPUはかれを麻薬漬けにした。

 さらにトラストは、英国情報部の冷酷なスパイ、シドニー・ライリーをおびきよせ、逮捕し処刑した。

 ところがこの話には付属があり、ライリーはロシアに情報をもたらし、ロシア人が英米の情報機関に潜伏するのを可能にしたというのである。

 

 

 14 メンジンスキー、ヤーゴダとイグナス・レイス

 1926.7、ジェルジンスキーが死亡し、メンジンスキーがGPU長官となった。

 

・フランスへの浸透工作の失敗

コミンテルンは、1930年代初期には、GPU(既にNKVDと改称)の管理下に入った。コミンテルンは素人の、無謀な工作活動ばかりしていた。

 

 ジェルジンスキーはトリリッセルやウンシュリクトといった人物を重用したが、スターリンはバクー共産党組織者のラヴレンチー・ベリヤを使うよう要求した。

 メンジンスキーは変わり者のポーランド人だが、レーニンスターリンに信頼されていた。メンジンスキーは、ヤーゴダに業務を統括させた。

 かれはエジョフの管理していた第2総局特別部……体制の敵を殺害することを任務とする部を特に強化した。

 ヤーゴダは、ロシア人スパイを重視し、現地人を雇うなと通達を出した。

 

 1934年、NKVDがすべての情報活動、防諜活動、警察活動を統括した。

 引き続き白系ロシア人の追跡と処刑が行われた。

 

 

 15 粛清と浸透

 各国の共産党労働組合は、ソ連のスパイ網構築には不適であることが判明した。特にイギリスは防諜体制において優れており、スパイ網構築は困難を極めた。

 カピッツァやランダウといった科学者は、ソ連情報機関に対し情報提供を行った。

 

 ――……イギリス人の一流エージェントを取り込むのにもっとも適した場所はケンブリッジ大学であることを、ロシア人は教えられた。

 

 ワルテル・クリヴィツキー将軍は西ヨーロッパの軍事情報機関の責任者を務めていたが、かれがケンブリッジでの組織作成に携わった。

 ガイ・バージェスやキム・フィルビーはイギリスにおける有名なスパイである。

 

 粛清:1936年、エジョフがNKVDの指揮をとり、スターリンの意志に基づいて粛清を行った。

 かれは国外情報網や国内エージェント、幹部に対する粛清を実施し、古い革命家たちを一掃した。

 

 ――スターリンは国際共産主義者にたいする嫌悪感を募らせており、同時にユダヤ人エージェントにも嫌悪感をあらわにしていた。

 

 ――スターリンのソヴィエトにおいては、秘密警察であれ秘密情報機関であれ、その任務の責任者には単なる従順さではなく、有能さを兼ね備えた従順さが要求された。この要求を満たして行動できるものはほどんどいなかった。

 

 エジョフは電話でも突然笑いだしたりと、正気ではないようだった。

 

 粛清されたエジョフにかわって、グルジア出身のミングレル人ベリヤが長官となった。元々、優秀な国際エージェントだったが、長官になってからは、過酷な粛清を実施した。

 

 ――……地名地番帳、商工業者名簿、参考図書、現地の各省庁の職員名簿、亡命者と移住者のリスト、ガイドブック、地図、港湾施設や飛行場の見取り図、新しい技術に関する出版物・専門書、ロシアあるいはロシア人の生活に関するすべての本など……。

 

 多くの国外工作員が呼び戻され処刑された。同時に、「処刑部隊」が各国に向かい疑いのある者を殺害した。

 

 [つづく]

 

 

『ロシア秘密警察の歴史』リチャード・ディーコン その1 ――秘密警察は人類最古のシステムの1つ

 イヴァン雷帝時代から現代までの、ロシア秘密警察の歴史を通観する。

 特に、モンゴル統治時代の秘密警察システムがその後のロシアに大きく影響したことが示される。

 

 本書はソ連崩壊直前に出版された。

 

 

 ◆メモ

 スパイ活動や組織制度について非常に細かく書かれている。すべてを把握するのは難しい。また、一部の事件や陰謀については真偽の不確かな点があるという。

 情報機関は、対外防衛の要であると同時に、ほぼ必ず国内の治安維持や政敵抹殺に利用されてきた。

 

 スパイ戦争は、ゲリラ戦争や非対称戦争と同じように、暴力や違法行為を伴う戦争の一形態であることを認識する必要がある。それは望むと望まざるとにかかわらず存在し続けるものである。

 スノーデン事件が話題になったのは、盗聴や情報窃取が対外活動ではなく「自国民に向けて」行われていたからである。

 

 情報戦は、通常戦争と同じく、本質的に非道徳的、非人道的な要素を含んでいる。

 この本はソ連崩壊前に書かれたが、他の文献によると、ロシア連邦創世記に情報機関は壊滅の危機に陥ったものの、プーチン政権時代に再び権力を取り戻し、さらに国内の抑圧活動を強めたとのことである。

 

 

  ***

 1 モンゴル人の遺産

 征服者たるモンゴル人は、ロシア人を西方進出のためのスパイとして活用した。

・脱走兵にみせかけた情報収集員

・早馬リレーによる通信網

 

 1492年、イヴァン雷帝がモンゴルを排除してからも、恐怖、密告、諜報、警察支配の制度は残置された。ロシアは、現代においてもなお、秘密情報機関に支配されている国である。

 猜疑心と冷酷さとは、モンゴルから受け継いだロシア人の気質の特徴である。

 

 

 2 イヴァン雷帝とオプリーチニキ

 イヴァン「雷帝」4世は秘密警察「オプリーチニキ」を設置した。これは、「オフラナ」や「チェーカー」の前身にあたる。

 目的……大貴族からの土地の回収、商人の統制のため。

 オプリーチニキは大貴族の処刑・粛清を実施した。

 

 ――実際のところ、イヴァンはスパイ、密告者、拷問者、死刑執行人の全国規模組織としてオプリーチニキを利用したのである。

 

 その後の秘密組織と同じく、任務は明らかにされなかった。

 ノヴゴロドでの恐怖支配について。

 

 ――修道院長や修道士たちは捕らえられ、裁判もなく殴り殺され……特殊な炎や熱した鍋で生身の体を焼き、裸にして狂ったように鞭打つと、犠牲者の骨がむきだしになるほど肉がそぎおとされた。赤く熱した、時には冷たく冷やしたペンチで胸から肋骨が引き出された。また、くぎを手足の骨に打ち込んだり、かぎ針でそれを引き抜くようなことも行われた。

 

 ――総計6万人にのぼる男、女、子供が虐殺され、川という川はその屍体で埋まった。

 

 それでもイヴァン雷帝の被害妄想は収まらなかった。

 その後、ボリス・ゴドゥノフ支配と混乱の後、ロマノフ朝が成立した。

 

 秘密警察組織は名前を変えて存続した。

 

・1645年即位したミハイルの子アレクセイ……秘密事務局(貴族会議ドゥーマの監視)など、主な目的は防諜と国内専制支配の維持にあった。

・1704年、ピョートル大帝は「皇帝特別局」を設置した。しかし、大して機能せず、生前に廃止された。

 

 

 3 スパイ物語

 18世紀には、諜報活動は外交官、または君主当人が担った。ロシアは、諸外国の諜報活動の中心地となった。

 エリザヴェータ皇帝は統率力に欠けていた。女装のスパイ・シュヴァリエ・デオンを始め、英仏のスパイが自国有利の政策をロシアにとらせようと暗闘した。

 エカチェリーナはイギリス側スパイの尽力により親英派になった。

 

 

 4 エカチェリーナの秘密調査局

 エカチェリーナは、愚かで親プロイセン派の夫ピョートルを排除するため、秘密組織の設立に取り組んだ。間もなくピョートルは失脚し、直後不審死した。

 

 ――彼女はピョートル大帝に匹敵するほど有能な支配者となった。

 

 エカチェリーナは「秘密調査局」を設立し、忠実な部下や愛人……グリゴリー・オルロフ、ポチョムキン公爵などを登用した。

 

 その2代後のアレクサンドルは、当時のライバル、ナポレオンにならい新しい秘密警察組織を建設した。

 かれは外国人を活用し、また軍にも情報部を設置させることで、情報収集活動を競合させた。

 ロシアはドイツから継承した暗号運用法を洗練させており、当時ナポレオン軍が使用していた暗号を自力で解読することができた。

 この時代のスパイは、相手の国の君主や高官に取り入り、政策を変えさせようと試みることが多かった。

 

 ――もともとアレクサンドル皇帝は、政府内部に互いに対抗する部局を作ることによって情報機関を改組し、自分の道具にすることを狙ったのだが、最終的にはアレクサンドルの手に負えないほど巨大なものになってしまった。つまりその機関は皇帝自身を調査するほどまでに独立した全能の組織になったのである。

 

 

 5 ニコライ1世と第三局

 続くニコライ1世は、1825年12月のデカブリストの乱以後、自由主義や学問、知識人を厳しく抑圧した。

・皇帝直属の「第三局」と、特別憲兵

・スパイ網の整備

自由主義者や、疑わしい者を社会的に排除し、シベリアに追放

・秘密警察長官……ベンケンドルフ伯爵から、冷酷なオルロフへ(1844年)。

・当時の革命家アレクサンドル・ゲルツェン

 

 第三局は、大した成果を上げられなかった。

 

 続くアレクサンドル2世は、自由主義的な考えを持っており、ニコライ1世とは対極だった。かれは穏健な政策をとり、ニヒリスト、アナキスト、ロシア・ジャコビニスム(過激急進主義者)が台頭した。

 皇帝は第三局を廃止し、内務省国家警察に組み入れた。

 プロイセン人ヴィルヘルム・シュティーベルは、革命家の中に多くスパイをまぎれこませる手法により、反体制派を取り締まった。かれはプロイセン秘密警察長官を務めた後、ロシアに情報提供したといわれる。

 

 

 6 オフラナ

 グラッドストンの女性交際と、ロシアのスパイ売春婦について。

 

 「オフラナ」はアレクサンドル3世の下で徐々に強化されていき、大量のスパイが要注意人物を監視した。かれらは、膨大な、ほとんどは役に立たないような報告書を提出した。

 ニコライ2世の下、モスクワ・オフラナ長官ズバトフはオフラナを再編成し、さらに多数のスパイを革命組織に潜入させた。

 ズバトフは、革命組織がオフラナと同程度の規模で構成され、また活動していることを発見した。

 

 

 7 アゼフと潜入戦術

 

 ――出費がかさんだこと、組織が大きくて管理しにくかったこと、重複する職務があったことなどがオフラナの欠点としてあげられようが、実際、現代のソヴィエト情報活動の特長にも通じるところのあるオフラナの強みは、そのしつこさ、徹底度、次々に目的を変更するようなことをしない一貫性などにあった。

 

 オフラナの潜入工作員アゼフは、社会革命党(SL)の武装組織「戦闘団」に浸透し、リーダーとなった。

 しかし現在では、実は革命側に属しており、内務大臣プレーヴェや大公の暗殺について、計画を秘匿した疑いがもたれている。

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 8 操り師ラチコフスキー

 日露戦争の敗北で、ロシア国内の緊張状態はさらに高まった。1905年、「血の日曜日」事件で、冬宮殿警備隊がデモ隊に発砲し、数百名の死者を出した。

 

 ――……権力側が無意味な勝利を得た日、そして帝政体制の決定的な終末を運命づけた日であった。

 

 ラチコフスキーは、潜入スパイ戦術を極限まで活用した。

 

 対外情報活動について……日本のスパイ活動の規模と能力を高く評価している。著者によれば、極東における日本の諜報活動はロシアを上回っており、多数の日本人、軍人が国内に潜伏し、ロシア人と結婚していた。また、中国人をスパイとして雇うことに長けていた。

 

 ロンドンはスパイ天国だった。

 

 1907年時点で、ヨゼフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ……後のスターリンがオフラナ工作員として働いていた。ある工作員(ライリー)は、かれが革命側の潜入スパイである、と報告したが、無視された。

 スターリンは革命家についての情報をオフラナに提供してたが、ライリーによれば、「詳しく調査すれば、その報告が彼の同志、ボリシェヴィキに関するものではなく、敵対しているメンシェヴィキについての報告であることがわかるはずだ」ということだった。

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南北戦争 ――昔の軍隊のようす

 最近、南北戦争の通史を読んでいる。Amazon.comでは読みやすいと評判である。

 去年訪問した南北戦争関連の遺跡や博物館でも、お土産屋によく並んでいた。

 

Battle Cry of Freedom: The Civil War Era (Oxford History of the United States)

Battle Cry of Freedom: The Civil War Era (Oxford History of the United States)

 

 

 南北戦争明治維新よりも前に行われた戦争であり、軍隊や戦闘の様子も後世とはかけ離れている部分がある。

 

 

 戦争は、北軍にとっては連邦を守るための戦争だった。南軍にとっては、北軍は侵略者だった。

 奴隷制と縁のない貧しい南軍兵士たちは、なぜ戦うのかと聞かれて、「ヤンキー(北部人)がきたから」と答えた。

 

 南部にとって、リンカーンが企む奴隷制廃止は、市民の自由、所有権、州の自治権を奪うに等しかった。

 その自由とは、奴隷を所有する自由だった。

 南部諸州の首都は、分離独立の熱狂に湧いた。その様子は、後の第1次世界大戦勃発時を想起させるものだった。分離独立は、自由のための革命、第二の革命戦争だった。

 

 アメリカ連合国(南部)は、奴隷制を保持する国として「放っておいて」ほしかったが、北部は離脱を許さなかった。

 

 

 

北軍のとある将軍は、南部に進軍するために、セントルイスの本屋で地図を買わなければならなかった。

 

・開戦当初に集まった各地の民兵組織は、この時代には軍事組織というよりは親睦会や交流会に近く、教練よりは飲み会のほうが多い団体も少なくなかった。

 しかしかれらは国の徴集に真っ先に応じた。それぞれが独自の制服を着たため、「制服(Uniform)」の定義に矛盾していた。

 制服の混乱は、戦争初期に友軍射撃の悲劇を生んだ。

 

民兵・志願兵組織の高級将校……大佐や将軍たちは、ただ装備・制服代を工面した裕福な農家や民兵組織の長であることが多かった。こうした素人指揮官は、戦争初期に手ひどくやられてすぐ姿を消した。

 

・一方、勇敢な将校たちは兵の先頭にたって突撃した。

 南北戦争における将軍(General)の死亡率は、兵隊よりも50パーセント以上高いという。偉い階級ほど後方にこもる現代戦とは全く異質である。

 

 

 南部の権益を擁護するため、大統領選においてリンカーンと論争したイリノイ州民主党議員スティーブン・ダグラスの演説は、今の時代ではさすがに通用しない内容である。

 

「黒人に対し白人と平等の権利など与えていいのか」、「黒人が投票し、政治をおこない、白人女と結婚することが実現されてもいいのか」、「黒い共和党は劣等人種の国をつくろうとしている」……

 

 

 

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歴史の勉強 天皇家

 最近、『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか』という本を読み終わった。

 

 著者は共同通信社の記者で、長い間宮内庁記者クラブで取材を担当していた。かれのような担当記者は、昭和天皇ら皇族とも直接会話する機会があるようだ。

 

 皇族にまつわる様々なエピソードが紹介されており、結論としては、この非人間的な制度を最終的に廃止していくべき、というものである。

 

 

 昭和天皇の妻、香淳皇后は、美智子さんを無視するか、意地悪していた。

 

 

 香淳皇后は、美智子皇后を「平民だから」という一点で最初から無視していたということだ。……それが、香淳皇后アイデンティティになっているのだと思う。そして、それをありがたがる日本人が多いから厄介だ。

 

 

 終戦時における日本政府の最重要事項は天皇制の存続だった。

 GHQの意図も、天皇制を利用した日本統治の円滑化にあった。

 東京裁判天皇免責のために日米が協力して作った芝居だった。人間宣言はGHQが作成した天皇無害化政策である。そして日本国憲法は日本の非武装化と米軍による日本前線拠点化のために作られたものである。

 

 伊丹万作のことば……

 

 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。おれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。……いくら何でも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだまされるわけのものではない。


 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心かつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみればすぐにわかることである。
 

 だまされたといって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

 

 

 昭和天皇は戦後も政治や軍に介入する癖が抜けなかった。

 ※ 昭和天皇が政治的に完全な無力・お飾りだったというのは戦後に日米で作られた説である。実際は、具体的な作戦や、軍の中でも最重要事項である高級幹部人事に直接口を出している。

ja.wikipedia.org

 

 

 スケープゴートとなった東条英機は国民から目の敵にされ、その家族親戚は様々な嫌がらせや不利益を被った。

 

 当時僕の中学には、父親が軍人で、戦争協力で有名だった人の子供がいた。……戦争が終わって毎日伏し目がちに学校に来る、そいつの顔を見るのがとてもつらかった。

 

 

明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか

明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか

  • 作者:板垣 恭介
  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2006/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 ◆参考

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

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