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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ロシア秘密警察の歴史』リチャード・ディーコン その1 ――秘密警察は人類最古のシステムの1つ

 イヴァン雷帝時代から現代までの、ロシア秘密警察の歴史を通観する。

 特に、モンゴル統治時代の秘密警察システムがその後のロシアに大きく影響したことが示される。

 

 本書はソ連崩壊直前に出版された。

 

 

 ◆メモ

 スパイ活動や組織制度について非常に細かく書かれている。すべてを把握するのは難しい。また、一部の事件や陰謀については真偽の不確かな点があるという。

 情報機関は、対外防衛の要であると同時に、ほぼ必ず国内の治安維持や政敵抹殺に利用されてきた。

 

 スパイ戦争は、ゲリラ戦争や非対称戦争と同じように、暴力や違法行為を伴う戦争の一形態であることを認識する必要がある。それは望むと望まざるとにかかわらず存在し続けるものである。

 スノーデン事件が話題になったのは、盗聴や情報窃取が対外活動ではなく「自国民に向けて」行われていたからである。

 

 情報戦は、通常戦争と同じく、本質的に非道徳的、非人道的な要素を含んでいる。

 この本はソ連崩壊前に書かれたが、他の文献によると、ロシア連邦創世記に情報機関は壊滅の危機に陥ったものの、プーチン政権時代に再び権力を取り戻し、さらに国内の抑圧活動を強めたとのことである。

 

 

  ***

 1 モンゴル人の遺産

 征服者たるモンゴル人は、ロシア人を西方進出のためのスパイとして活用した。

・脱走兵にみせかけた情報収集員

・早馬リレーによる通信網

 

 1492年、イヴァン雷帝がモンゴルを排除してからも、恐怖、密告、諜報、警察支配の制度は残置された。ロシアは、現代においてもなお、秘密情報機関に支配されている国である。

 猜疑心と冷酷さとは、モンゴルから受け継いだロシア人の気質の特徴である。

 

 

 2 イヴァン雷帝とオプリーチニキ

 イヴァン「雷帝」4世は秘密警察「オプリーチニキ」を設置した。これは、「オフラナ」や「チェーカー」の前身にあたる。

 目的……大貴族からの土地の回収、商人の統制のため。

 オプリーチニキは大貴族の処刑・粛清を実施した。

 

 ――実際のところ、イヴァンはスパイ、密告者、拷問者、死刑執行人の全国規模組織としてオプリーチニキを利用したのである。

 

 その後の秘密組織と同じく、任務は明らかにされなかった。

 ノヴゴロドでの恐怖支配について。

 

 ――修道院長や修道士たちは捕らえられ、裁判もなく殴り殺され……特殊な炎や熱した鍋で生身の体を焼き、裸にして狂ったように鞭打つと、犠牲者の骨がむきだしになるほど肉がそぎおとされた。赤く熱した、時には冷たく冷やしたペンチで胸から肋骨が引き出された。また、くぎを手足の骨に打ち込んだり、かぎ針でそれを引き抜くようなことも行われた。

 

 ――総計6万人にのぼる男、女、子供が虐殺され、川という川はその屍体で埋まった。

 

 それでもイヴァン雷帝の被害妄想は収まらなかった。

 その後、ボリス・ゴドゥノフ支配と混乱の後、ロマノフ朝が成立した。

 

 秘密警察組織は名前を変えて存続した。

 

・1645年即位したミハイルの子アレクセイ……秘密事務局(貴族会議ドゥーマの監視)など、主な目的は防諜と国内専制支配の維持にあった。

・1704年、ピョートル大帝は「皇帝特別局」を設置した。しかし、大して機能せず、生前に廃止された。

 

 

 3 スパイ物語

 18世紀には、諜報活動は外交官、または君主当人が担った。ロシアは、諸外国の諜報活動の中心地となった。

 エリザヴェータ皇帝は統率力に欠けていた。女装のスパイ・シュヴァリエ・デオンを始め、英仏のスパイが自国有利の政策をロシアにとらせようと暗闘した。

 エカチェリーナはイギリス側スパイの尽力により親英派になった。

 

 

 4 エカチェリーナの秘密調査局

 エカチェリーナは、愚かで親プロイセン派の夫ピョートルを排除するため、秘密組織の設立に取り組んだ。間もなくピョートルは失脚し、直後不審死した。

 

 ――彼女はピョートル大帝に匹敵するほど有能な支配者となった。

 

 エカチェリーナは「秘密調査局」を設立し、忠実な部下や愛人……グリゴリー・オルロフ、ポチョムキン公爵などを登用した。

 

 その2代後のアレクサンドルは、当時のライバル、ナポレオンにならい新しい秘密警察組織を建設した。

 かれは外国人を活用し、また軍にも情報部を設置させることで、情報収集活動を競合させた。

 ロシアはドイツから継承した暗号運用法を洗練させており、当時ナポレオン軍が使用していた暗号を自力で解読することができた。

 この時代のスパイは、相手の国の君主や高官に取り入り、政策を変えさせようと試みることが多かった。

 

 ――もともとアレクサンドル皇帝は、政府内部に互いに対抗する部局を作ることによって情報機関を改組し、自分の道具にすることを狙ったのだが、最終的にはアレクサンドルの手に負えないほど巨大なものになってしまった。つまりその機関は皇帝自身を調査するほどまでに独立した全能の組織になったのである。

 

 

 5 ニコライ1世と第三局

 続くニコライ1世は、1825年12月のデカブリストの乱以後、自由主義や学問、知識人を厳しく抑圧した。

・皇帝直属の「第三局」と、特別憲兵

・スパイ網の整備

自由主義者や、疑わしい者を社会的に排除し、シベリアに追放

・秘密警察長官……ベンケンドルフ伯爵から、冷酷なオルロフへ(1844年)。

・当時の革命家アレクサンドル・ゲルツェン

 

 第三局は、大した成果を上げられなかった。

 

 続くアレクサンドル2世は、自由主義的な考えを持っており、ニコライ1世とは対極だった。かれは穏健な政策をとり、ニヒリスト、アナキスト、ロシア・ジャコビニスム(過激急進主義者)が台頭した。

 皇帝は第三局を廃止し、内務省国家警察に組み入れた。

 プロイセン人ヴィルヘルム・シュティーベルは、革命家の中に多くスパイをまぎれこませる手法により、反体制派を取り締まった。かれはプロイセン秘密警察長官を務めた後、ロシアに情報提供したといわれる。

 

 

 6 オフラナ

 グラッドストンの女性交際と、ロシアのスパイ売春婦について。

 

 「オフラナ」はアレクサンドル3世の下で徐々に強化されていき、大量のスパイが要注意人物を監視した。かれらは、膨大な、ほとんどは役に立たないような報告書を提出した。

 ニコライ2世の下、モスクワ・オフラナ長官ズバトフはオフラナを再編成し、さらに多数のスパイを革命組織に潜入させた。

 ズバトフは、革命組織がオフラナと同程度の規模で構成され、また活動していることを発見した。

 

 

 7 アゼフと潜入戦術

 

 ――出費がかさんだこと、組織が大きくて管理しにくかったこと、重複する職務があったことなどがオフラナの欠点としてあげられようが、実際、現代のソヴィエト情報活動の特長にも通じるところのあるオフラナの強みは、そのしつこさ、徹底度、次々に目的を変更するようなことをしない一貫性などにあった。

 

 オフラナの潜入工作員アゼフは、社会革命党(SL)の武装組織「戦闘団」に浸透し、リーダーとなった。

 しかし現在では、実は革命側に属しており、内務大臣プレーヴェや大公の暗殺について、計画を秘匿した疑いがもたれている。

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 8 操り師ラチコフスキー

 日露戦争の敗北で、ロシア国内の緊張状態はさらに高まった。1905年、「血の日曜日」事件で、冬宮殿警備隊がデモ隊に発砲し、数百名の死者を出した。

 

 ――……権力側が無意味な勝利を得た日、そして帝政体制の決定的な終末を運命づけた日であった。

 

 ラチコフスキーは、潜入スパイ戦術を極限まで活用した。

 

 対外情報活動について……日本のスパイ活動の規模と能力を高く評価している。著者によれば、極東における日本の諜報活動はロシアを上回っており、多数の日本人、軍人が国内に潜伏し、ロシア人と結婚していた。また、中国人をスパイとして雇うことに長けていた。

 

 ロンドンはスパイ天国だった。

 

 1907年時点で、ヨゼフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ……後のスターリンがオフラナ工作員として働いていた。ある工作員(ライリー)は、かれが革命側の潜入スパイである、と報告したが、無視された。

 スターリンは革命家についての情報をオフラナに提供してたが、ライリーによれば、「詳しく調査すれば、その報告が彼の同志、ボリシェヴィキに関するものではなく、敵対しているメンシェヴィキについての報告であることがわかるはずだ」ということだった。

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