合衆国に現在約4000万人いるアフリカ系アメリカ人の歴史について。
「黒人」は、人種・血統的であるとともに、政治的なカテゴリーでもある。血統に1人でも黒人が混じっている場合、その人物は白人ではなく黒人として扱われる。
◆メモ
アメリカ人たちの作業場で、Youtubeで警官の使用する銃(口径と制圧力の関係)について検索していたときに、警官が路上で撃たれる動画がずらりと出てきた。ある人物がジョークで「アメリカで警官になると射殺される」とコメントした。すると別の人物は「たぶんアメリカで黒人になるともっと射殺される」と反応した。
人種差別問題は合衆国を形作る本質の1つだと感じた。
◆所見
合衆国における黒人の苦難の歴史をたどる。
特に、奴隷廃止運動や、差別撤廃運動、公民権運動に重点が置かれている。独立革命での黒人の役割等、重要な歴史的事実を知ることができる。
著者は独特の思想を持っており、全編が思想に彩られている。著者によれば黒人奴隷制度や黒人差別は、アメリカ資本主義の根幹をなす構造である。
――したがって、こんにちのアメリカ「黒人問題」の本質は、……階級の問題と考えるべきである。
マルクス主義を中心に黒人問題をとらえているため、他の視点から書かれた本についても調べる必要がある。
著者の文章は所々で講談師のようになり、名言を引用する。
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1619年、イギリス植民地であるヴァージニア州ジェームズタウンにに初めて黒人奴隷が輸入された。これは、植民者が自治のための代議院を開設したのと同年である。
初期の植民者は煙草の栽培を行った。
奴隷の歴史は古いが、ポルトガルが黒人奴隷貿易を開始して以来、アフリカ、西インド諸島、アメリカという三角貿易が栄えた。特に新大陸とアフリカを結ぶ「中間航路middle passage」が有名である。
当初、黒人奴隷よりも、白人の年期奉公人(indentured servant)(実態は、賃金奴隷に近い)の方が数が多かったが、雇用期間が決まっているのと、逃亡や抵抗が発生したのを理由に、やがて黒人奴隷を増やすことになった。
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1775年、植民地からの独立が達成された。このとき、自由黒人や黒人奴隷たちも独立側に立ち戦った。一方、イギリス側も、黒人に自由を約束し参戦させた。
しかし「自由と平等と幸福」は黒人、先住民たちには適用されなかった。
トマス・ジェファソンは、独立宣言において奴隷制の撤廃に言及しようとしたが、かなわなかった。
北部の商業資本家と南部のプランター寡頭権力とが妥協し、奴隷制は温存された。
――フランス革命にさきがけて、自由と平等を旗印に掲げて民主主義革命を行い民主共和国になったこの国は、その生誕の過程で、またもや最も非民主主義的な奴隷制度を、憲法によって容認することになった。
1777年以降、奴隷制反対運動が盛んになり、奴隷制を廃止する州が増えた。
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南部では綿花、タバコ、米、砂糖等の産業において、プランテーション奴隷制度が導入された。
奴隷制度の勤務形態……割り当て制度と組制度(ギャング・システム)。
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奴隷制度廃止運動について。
・アボリショニスム……クェーカー教徒や建国の父らによる漸進的奴隷解放論から、奴隷制の即時廃止運動への転換。
ウィリアム・ロイド・ガリソン
フレデリック・ダグラス
一部では、黒人をアフリカに帰すという運動も起こったが、主流とはならなかった。解放奴隷がアフリカに建てた国がリベリアである。
南部の奴隷を、北部やカナダに避難させる「地下鉄道」組織について。
1850年代、共和党は奴隷制度反対党として誕生し、後の共和党となった。
5
奴隷制廃止論者のリンカンが1860年大統領に当選すると、間もなくサウスカロライナ州をはじめとして連邦からの分離を宣言する州が続いた。
1861年4月、サムター要塞を南軍が攻撃し南北戦争が始まった。
・1863年1月 奴隷解放令公布
・1863年7月 ゲティスバーグの戦い
・1865年4月 リッチモンド陥落、一週間後、南軍リー将軍がグラント将軍に降伏
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南北戦争後、南部の立て直し、「リコンストラクション」が行われた。しかし、殺されたリンカンに代わって大統領となったアンドリュー・ジョンソンは南部出身であり、リンカンとは対照的な政策をとった。
黒人差別と迫害は逆に増大し、人種主義者によるテロが横行した。
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近代黒人解放運動……
・ブッカー・T・ワシントン
・デュボイス
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公民権運動について。
1964年、ジョンソン大統領が成立させた公民権法により、黒人に対する法的な差別は撤廃された。
しかし、各州における人種差別法は温存され、その後も運動は続いた。
・ジム・クロウ法……公共施設における人種制限
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現代にいたるまでの黒人差別の歴史について
(略)
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黒人解放の歴史は、法によって定められた人種差別をどのように修正していくかという運動の歴史である。人種差別撤廃運動において、最高裁判決がしばしば主題として取り上げられる。
法自体が間違っている場合、それを撤廃し公正に近づけるには、国民による運動が重要となる。
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主に南部を中心に、州知事以下政治家や市民が一丸となって黒人差別を支持していた。
民主主義においては、多数が不公正を望めば不公正な社会が実現する。