うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『本土決戦』土門周平 ――ひのきのぼうや石のオノで米軍を迎え撃つ

 海軍・陸軍・米軍、それぞれの本土決戦の実情を浮き彫りにする。

 戦争指導者たちは、不可能とわかっていながら形ばかりの準備を進めていた。

 

 

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 沖縄陥落前には、米軍を迎え撃とうにも、未然阻止する策がなかった。

・本土決戦作戦:「決号作戦」の基本は、航空特攻だった。

・陸軍は、防衛総司令官大将の下、防衛軍を編成 朝鮮・満州も確保した。

・陸海軍の中央協定……航空基地使用等や共同作戦は、初の試みだった。

国家総動員もかねた海軍の再編成が行われた。

 

 1945.6.5の最高戦争指導会議の様子が面白い。

 六巨頭(首相、陸相海相、陸海総長、外相)は誰一人、本土決戦が可能であるとは考えておらず、実際は終戦に向けて動いていた。

 しかし、会議では表向き戦争継続するものとして合意した。

 

 ――戦争継続一本槍の会議は、真意とは背馳したことを議決したものであった。今更変なことをいうようであるが、その内容について真剣な論議をする気持ちになれなかった(豊田副武軍令部総長

 

 

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  ◆海軍

・決号準備:飛行機1000機が不足

・特攻:海龍 震洋 回天 震海 桜花

甲標的と咬龍

 

 特攻基地は未完成だったので、要員自ら穴を掘り基地警備を行った。

 

・伏龍隊

 搭乗員は海軍予備学生と飛行予科練習生出身者が多数を占めた。

 

 海軍省の地下壕は現在の東西線霞ヶ関駅ホームとなっている。

 

 

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 国民義勇隊は職域ごと、組織ごと編成された。義勇戦闘隊は国民の戦闘要員だった。
 義勇兵は、陸海どちらにも属さない強制民兵組織だった。

 20.6 義勇兵役法

 

 食料と物資欠乏のため、本土決戦は絵に描いた餅だった。

 

 

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 ◆陸軍

 本土防衛力は80万前後、陸軍の要望は150万だった。

 

 ――……急速に動員して、作戦配備につけるため、人員・装備など定数・定員が不十分のまま編成完結とみなすとの軍令も発せられた。

 

・1945年3月、満州から兵力吸い上げ

・第一、第二総軍(東方と西方)に分割

・将校不足

・武器の充足率は銃剣、小火器、重機などすべて50%以下

 

・歩兵部隊のようす……銃を持っていないもの多数、剣ではなく竹べら、教練用の壊れた銃を持ってきた者あり

 

・細く長い日本列島は防御側に不利

・陸軍の編成・典令範は1941.12でも、対ソ想定のままだった。

 


 本土決戦では、後退配備、持久戦は否定され、「水際撃滅、決戦思想」が採用された。

・低練度

大本営は陸海で分かれ、統括者なし

・勤務場所も別

・軍政・軍令・教育の一本化は実現せず

 

 

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 ◆米軍の対日侵攻計画

・太平洋における陸海軍指揮機構変更問題

ニミッツ、キングと、マッカーサー、マーシャルの対立

沖縄戦の段階で、陸海軍がそれぞれ各軍を指揮する案となった

マッカーサー案:本土上陸に全力

ニミッツ案:封じ込めと航空攻撃

 

 

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 ◆ポツダム宣言

 

 ――天皇の地位存続に関する日本側の重臣たちの紛争は、記録に止むべき失言である。

 

 


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 ◆実情

 教官の回想:

 教育半ばで、隊員の半数を中国に派遣補充しようとしたが、全員魚雷攻撃で沈んで死んだ。

 

 1945.7の初年兵教育

・石鎚で殴りかかる個人戦の訓練

・木の棒で襲いかかるトレーニン

・のどかな最終決戦準備

 

本土決戦―幻の防衛作戦と米軍進攻計画 (光人社NF文庫)

本土決戦―幻の防衛作戦と米軍進攻計画 (光人社NF文庫)

 

 

「1917」を見に行った

 ◆1917

 物語は非常に単純だが面白い。


1917 Wayfaring Stranger Scene (Trailer Song)

 

 下の記事は、平和主義者の戦争映画が主流となっている風潮を紹介するものである。

 「1917」、「ダンケルク」では、どちらも敵を倒すことが主眼ではなく、主人公も戦争マシンではない。

 「ハクソー・リッジ」は、銃の所持を拒否し対日本戦に参加した衛生兵を主人公にした実話である。

 

 近年制作される映画のほとんどは反戦をテーマにしている。また、英雄的行為は、より多くの敵を殺すことではなく、敵に対しても共感を抱くことによって達成されることを示そうとしている。

 

www.theguardian.com

 

 

 「1917」の映画中、イギリス人の兵隊に交じってシク教徒(植民地インド軍)や黒人の兵隊が登場する。

 

 イギリスの俳優ローレンス・フォックスが、イギリス人兵に交じっているシク教徒兵士を、「不自然」、「多様性演出を強いられている」等とコメントしたことで批判を浴び、謝罪に追い込まれた事案がニュースになった。

 

www.bbc.com

www.nbcnews.com

 

 第1次世界大戦において100万人以上のインド植民地軍が参加し、約75000人が戦死した。

 この数は、ニュージーランドやオーストラリアを超えている。

 

 ※ ニュージーランド、オーストラリアでは、第1次世界大戦での犠牲や国家確立を記念して、「アンザック・デー」(ANZAC(Australian and New Zealand Army Corps))という祝日が設けられている。

 

 インド人(ヒンドゥー教徒ムスリムシク教徒を含む)部隊は前線にも配備され、またイギリス人との混成部隊で戦う者もいた。

 

 様々な国が戦争に参加し、犠牲を出した歴史を忘れてはいけないと感じた。

 

『日本残酷物語 1』その2 ――飢饉から生まれた人食い女

 

 南部藩において、領内で畑を泥棒する者が次々とらえられ、カマスをかぶせられて川に流された。

 明治・昭和の飢饉……明治2年の飢饉では外国米を輸入した。このときもたらされた南京袋はその後さまざまな用途に用いられた。

 

 農民は、高値の国産米は売り、自分たちは安く味の劣る外国米を食べた。

 生産者である農民は貧しく、かれらはふだん、大根、野草などを混ぜた飯を食べていた。

 米の品種改良について……「亀の尾」、「愛国」、「愛国亀の尾」。

 

 自然の悪霊

 かつて日本各地に原因不明の風土病がいくつも存在し、住民を苦しめた。

 

 日本住血吸虫(山梨県など)……水田や川に生息するミヤイリガイを媒介にしたセルカリアの寄生により、下痢、嘔吐、肺病、血、膿汁、腹の膨脹などの症状が出て死ぬ。

 この寄生虫は石灰散布、溝渠コンクリート化などで撲滅された(現在はほぼ根絶した)。

 

 ツツガムシ病……ダニから感染し、高熱により死ぬ。政府は有毒地を指定するが、大抵肥沃な土地であるため、住民は立ち入って農作業せざるを得ず、結果的に被害がやまなかった。

 

 フィラリア症……アカイエカから感染し、陰嚢肥大化、乳び尿、象皮症などの症状を引き起こす。特に温暖な地……南九州、天海、沖縄、種子島屋久島、トカラ列島などで多い。

 

 離島には固有の風土病……寄生虫やウイルス、細菌が繁殖していることが多かった。

 風土病と異なり、悪疫は爆発的な感染を引き起こし、恐怖を生んだ。

 

 ――むかしはコレラも、赤痢も、チフスも、すべて疫病とよんで1つにしていたように、それぞれの流行病の正体はほとんど暗黒のなかにあった。したがって防疫の方法も皆目立たず、疫病は暗黒のなかで、無力な人びとにむごい力をふるったのである。

 

 悪疫流行時に役所が示す御触書は、効果のない迷信療法から進歩しなかった。

 外国船から持ち込まれたコレラの拡大について。コレラ隔離をめぐって各地で暴動が発生した。

 疫病にかかった屍体の埋葬をめぐって、村どうしで抗争が起こった。

 キツネ憑きや癩病など、迷信や科学の未発達に起因する偏見や追放がおこった。憑き物筋に対する弾圧・処刑は、ときには役人ぐるみで実施された。

 癩病患者は四国に追いやられ、また九州には癩病患者が多く、かれらは村落からも追い出された。

 ミス・リデル・ライトは癩病患者のための救護活動に尽力し、回春病院を建てた。

 

 

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 3章 弱き者の世界

 

 老人と子供

・間引きと堕胎は日本中で広く行われてきた。その原因は貧しく多産な点にある。

 一方、徳川将軍は40人、50人と子供を残すことがざらにあった。

・村において一定数以上子供を産む者は畜生腹と呼ばれた。

・堕胎には毒薬が用いられ、死んだ子供を水子といった。

・新生児のまま死んだ子供には幻子、幻女などの戒名がつけられる。多くの間引きされた子供がそこに含まれる。

・間引きや堕胎ほど残酷ではないが、捨て子や身売りも広く行われた。漁師町は労働力確保のため養子を重用した。

・死に対する穢れの意識があり、役に立たなくなった老人は隔離された。姥捨て山のような風習は事実である。

・身寄りのない老人、子供に先立たれた老人たちは集落から見捨てられるため、首吊り自殺することが多かった。

 

 女の座

・伝統的に女の地位は低く、その人生は服従と沈黙を強いられるものだった。

・女性は結婚前に見聞を広めるため、女中奉公することや、物参りの旅に出ることが推奨された……田植えの手伝いや農家への出稼ぎ、四国遍路など。

・嫁いだ女は肩身の狭い中、野良仕事・家事労働を強いられた。

 また義父への性的奉仕を「粟蒔き」といった(「……三百両も大金出してもらったヨメだ。みなで使わなかったらもったいねえでねえか!」)

・岐阜北西から富山にかけて、白川郷の中央にあたる諸集落があり、ここは大家族の風習を残していた。そこではツマドイ婚が行われ、家長のもとに数十人が同居した。この風習は、徴兵制により若者が外の社会と関わるにつれて、また経済的に立ちいかなくなるにつれて消滅した。

・月経の女は穢れとされ掘立小屋に追い出されるなどの風習があった。

 

 はたらく女たち

 女性は畑仕事だけでなく炭焼き、炭鉱、機織り、海女など様々な労働に従事した。

 

 遊女

 北陸の遊女は、「もとは神おろしや口寄せをしながら田舎わたらいをした熊野巫女のように、ときには家々の祭りにも招かれて神の声のとりつぎをしたものだが、神の祭りをぬきにした酒の座もちをするにいたった」。

 江戸時代、遊女は一般人との結婚を禁じられた。遊女を正妻にしようと関所破りなどの罪を犯した大名の家来たちが死罪に処せられている。

 特に西日本で遊女に対する偏見が強く、体質が通常の人間と違うと考えられていた。

 港町には必ず遊女がいた。

 遊女の主要な顧客に僧侶がいた。大塩平八郎の時代、幕府が取り締まりを行ったときは、僧侶が大阪の街から消滅したという。

 ゴケとは未亡人または独身女性をいうが、この女性たちも日本各地や、北海道などの開拓地で売春を行い生計を立てた。

 

 天草女

 天草は長崎でも貧しい地域であり、島原の乱以降、九州各地から植民が行われ人口密度が急激に高まった。天草出身の女は国外への出稼ぎにいくことが多く、その大半が女郎屋で働かされた。

 明治の始まりとともにシンガポールやフィリピン、中国などアジア各地に日本人が進出したが、そこには必ず女郎屋と遊女が存在した。

 

 本書は海外女衒の元締めである村岡伊平次を紹介している。

 かれは当初、誘拐され国外で売春させられている日本人女性を救出していたが、女たちの処置に困り、別の国の女郎に売り払った。

 やがて村岡は人身売買と女郎屋経営、賭場経営によって蓄財し、前科者やならず者を集めて誘拐団を結成した。誘拐団は日本各地で女をそそのかし港から出向させ、海外拠点の女郎屋で働かせた。

 遊女たちは本国に送金を続けたため、国内にいる親族や隣人にはその実情がわからず、海外で成功したと思われることが多かったという。

 

 かれの女衒事業は国家主義と結びついていた。女を誘拐し海外で働かせることでそこに商業が根付き、日本の経済拠点が確立するからである。

 

 ――「……おれは、諸君が今一度りっぱな日本国民になり、国家をきずきあげる大事業にたずさわり、一人でも多く国家にご奉公する人間になることを願うのである」

 

 ――「……ただしそれがためには、いま一度だけ国法をやぶり、罪をかさねて、そのうえであたらしく生まれ変わる必要がある」

 

 教師になれる、養蚕工場で働ける、雑貨店で働けるとの口実で女を誘拐し、現地の女郎屋で働かせるという慣習は、そもそも日本の貧しい人びとを対象として行われていた。

 

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)

 

 

『日本残酷物語 1』その1 ――飢饉から生まれた人食い女

 古代から近代までの、歴史の奥に埋もれた貧しい人びとの生活を描く。

 

 ――これは流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた人びとの物語である。自然の奇蹟に見放され、体制の幸福にあずかることを知らぬ民衆の生活の記録であり、異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱のさなかでは、生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である。

 

 出典は主に当時の文献からなる。

 

 ◆所感

 1巻「貧しき人びとの群れ」では、貧困に苦しむ農民やその他の人びとに焦点をあてる。

 大多数が貧困や病気、暴力のなかで生きてきた日本人の歴史を、様々なエピソードや記録によって明らかにする。現代からは想像もつかない慣習や価値観を知ることで、歴史を理解する助けにもなる。

 

 『兵士たちの近代史』では、近代化の象徴として、当初、軍隊が民衆から支持された経緯を説明しているが、その背後には本書が語るような悲惨な社会があったと推測できる。

 最後の「天草女」では、現在まで後を引く慰安婦問題に連なる話――貧しい女をそそのかして誘拐し、海外で遊女として働かせる女衒たち――に言及する。

 

 『残酷物語』でえがかれる悲惨な人間の生活――残飯・生ごみを拾って売る、人肉を食べる、子女をだまして売春婦として海外に売り払う――は、近現代でも世界各地で発生している。

 

 

www.youtube.com

 上のドキュメンタリー映像と完全一致する「生ごみ・残飯売り」習慣が、『残酷物語』4巻か5巻に載っている。

 自分たちがどのような時代を経て今に至ったかを知らなければならないと感じた。

 

 

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 1章 追い詰められた人びと

 

 海辺の窮民

 海辺の村々にとって漂流船や沈没船の積荷は生きるために不可欠の物資だった。かれらは海風の神に祈り、通りかかる船が座礁し漂泊するのを願った。

 それどころか、村が沈没船を略奪することも珍しくなかった。漂着した舟は略奪され、船員はときには口封じのため殺された。

 船頭と海辺の村が共謀し、わざと船を沈めて積荷を山分けすることもあった。

 瀬戸内海は海賊の跋扈する海として船乗りから恐れられていた。海賊のほとんどは近隣の貧しい人びとによって構成されていた。海賊は明治中頃まで残存していた。

 ある村では、年貢米を運ぶ江戸幕府(公儀)の船を襲撃し、略奪した。また、調査にきた役人をも殺そうとしたため、軍が派遣され鎮圧された。

 

 山民相奪う

 日本は山がちな地である。戦火や圧政から逃れるために、人びとは山奥に入りこんで暮らさなければならなかった。その生活は過酷であり、旅人は下手をすれば殺された。また住民同士もお互いに殺し合い、略奪しあった。

 しゅう馬の党は、9世紀ごろに坂東に出現した、馬借・運輸業を営む武装強盗集団である。かれらは馬泥棒かつ盗賊だった。

 それ以外にも、山中には多くの盗賊がいた。

 山村の家には、山を背にし、間口を広くとることで侵入者に備えるよう設計されたものが多い。

 

 天竜川の断崖にへばりつく家々は、侵入者がやってくるのを監視する機能を持っていた。

 静岡・愛知・長野の国境である坂部(現在の天龍村)は日本有数の山岳地帯だが、ここに落ち武者や落人がやってきて住み始めた。お互いに「猫の額ほどの」土地をめぐって殺し合い、やがて自衛のための連合を組み始めた。

 やがて坂部も戦国大名の戦争に巻き込まれ、土豪たちも百姓となった。

 

 掠奪に生きる

 強盗武士……戦国大名の中には、完全に強盗だけで生計を立てるもの……近隣の富豪から強奪し勢力を広めるものもいた。

 かれは最後には敵の計略によって追い詰められ滅亡した。

 四国……土佐は貧しい地域であり、山林を盗伐するものは取り締まられた。伊予は主に平地からなるが、さらに貧しく、飢饉のときには土佐の山にやってきて木の伐採などを行った。

 農民は副業として工芸品を作り、町に下りて売って回った。町民が買おうとしない場合には、かれらは付け火をおこなった。

 買わなければ放火されるということで、お互いに生き延びるため便宜を図らなければならなかった。

 

 放火は京都などの古都では慣習となっていた。強盗は逃げるときに放火して時間を稼いだ。

 

 都会の各所には犯罪者が集まった。京都七条の五回裏には盗品が集まった。

 江戸、大坂、京都には乞食や犯罪者があふれ、当局は厳罰……磔、斬罪、火あぶりをもって対応した。しかし、主に貧しさからくる犯罪は後を絶たなかった。

 

 乞食

 日本は貧しい国であり、乞食がいたるところにあふれていた。乞食たちは非人頭などの統制下にあることが多かった。

 乞食のなかには癩病患者(ハンセン病患者)も多かった。

 飛騨はかつて天領であり、百姓たちは救恤米などで生かされていたが、明治維新とともに失業する者が増え、出稼ぎ乞食が激増し、「飛騨乞食」と呼ばれた。

 

 著者(宮本常一)が聴き取りした乞食の話……性に寛容な社会、馬喰に対する蔑視。

 農村では、農業に従事しない人間、異なる職業の人間は異端者として扱われる。

 

 

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 2章 病める大地

 

 飢えの記録

 享保天明天保の飢饉にまつわる話。

 

 ――むかしの飢饉というものは、今日では想像もつかぬほどの、はげしい破壊的な力をふるった。生産力がひくく、飢えと粗食が日常であった時代には、凶作はただちに生死の問題に直面することであった。しかもいつ救済の手がのびるか、まず期待できなかったのである。

 

 こうした大飢饉は全国規模ではなかったが、余裕のある地方からの食糧移送などの政策はあまりとられず、甚大な被害を生じた。

 飢饉になると餓死者が続出し、都市部でも自殺者が毎日出た。飢饉の後には疫病が蔓延した。

 

 天明の飢饉……転がる屍体、家畜や木を食べる。

 

 ――人肉の味をおぼええた犬は、やがて生きている人間までかみ殺すようになった。

 

 とある娘は、実家に行くと家族が餓死しているのを見て悲しんだが、飢えの為に屍体を食べた。味をおぼえた娘は自分の夫や子供を殺して食べた。

 

 ――また倒死人の肉を食い、あちこちの新しい墓を掘り起こし、夜な夜な生きている子供まで追い求めるようになったので、近所のものが相談して、ついに殺すことに決められた。しかし凶年の百姓5、6人がかりでは、女は頑健でとても手に負えない。棒や鎌をもって追い立てたところ山奥へかくれ、今度は焚き木取りの者を殺して食うようになった。そこで狩人にたのんで猟犬で狩りだし、ようやく鉄砲で射殺したという。

 

 人食いが暴れ、また私刑にされた。人肉を食うこともあったが、家畜(犬や馬)を食うこともまたあった。

 

 乞食や非人たちが街路にあふれ、また屍体も積み重なった。

 都市部にも飢えが襲い掛かり、米の値段を釣り上げる米屋に対して暴動が発生した。

 

 天保の飢饉……政府は備荒食を配備したが、それでも飢饉の被害を抑えることはできなかった。

 [つづく]

 

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)