うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『小説の黄金時代』スカルペッタ

 現代小説12作品についての批評。日本語が難しかったので飛び飛びにしか読んでいない。

 

 サルマン・ラシュディ悪魔の詩』は一神教体制にたいするアイロニーの書である。宗教がほかのすべての言語、テクストを犠牲にしてひとつの言語を確立するのに対し、文学はすべての言語の対決、交流を分析するべきだとラシュディは言った。

 構成はロンド形式が用いられている、という。解釈を拒否する純粋に幻想的なものと、童話のような超自然的なもの、そしてアレゴリーの使い分け。名前の偶然による一致、時と場所の混交、ラブレーに倣った誇張法。

「信仰のないところに涜神のことばはない」。

 単一の「真実」を構成が拒否する。

 彼は異なる文化の融合を肯定したのだったが、ホメイニからファトワーを発令されてしまった。


 フィリップ・ロス『背信の日々』は五部からなる長編だが、それぞれの部は明らかに矛盾している。死んでいたはずのものが生きていて、別のものが死んでいる。主人公ネイサン・ザッカーマンは小説家だが、彼は小説が自由な想像力の生むものである権利を擁護する。小説は現実の鏡などではない、と彼は言う。


 クロード・シモンは戦争のことばかりを書いている。

 完全に描写することを目指すがそれは不可能なのだ。そこには恣意性が存在する。一瞬一瞬がスローモーションになればなるほど、リアリズムに近づいていく。

 彼は動物を用いた比喩をよく使う。彼にとって戦争とは価値判断・基準である前に動物へと戻ることなのだという。母の存在はあらゆることばによって形作られる。

 『アカシア』はそれぞれ半独立した十一の章からなるが、明確な日付が記されておりそこから読者は物語を再構成することができる。これは親子三代にわたる物語であり、父も息子も戦争に巻き込まれる。

プルーストやフォークナーの場合のように、<逸話>は、クロード・シモンにあっては、物語の唯一の関心の的ではない。重要なことは、広く、筋のさまざまな要素を<包む>ものの中に、叙述の余分に突出したものやそこに付け加えられる変化の中にある」

 

 精巧に組み立てられたシモンの小説はしかし単純である。

クロード・シモンの書物にはたくさんの<思想・考え>がある。何よりもまず以下のことにある。論文のようには言い表されない、入念に仕上げられた、抽象的な構築物(人びとはムージルブロッホからとても遠い)、しかし、叙述の単純な跳ね返りの形で、いわば密輸入品に変化するもの」

 戦争が「世界の剥製化・標本化の性質を帯び、そしてとりわけ人間が動物になることを急がせる、そのやり方」を彼は提示する。シモンにとって戦争は、「人間の中の非=人間的なものの部分」を暴くもの、「基本的なもの」を試すものである。人間がそこでゼロからやり直さなければならない試験。

「もっとも動物的な部分に連れ戻される試験」

 ヌーヴォー・ロマン<新小説>とは、当時の戦略からつけられた名前に過ぎない。シモンが自分の技法を用いたのは彼がそれを使いたかったからだ。

 語り手は作中人物であると同時に不明な何かである。決して一人称ではない、「人びとは文章を、まるでそれらが一人称の口で述べられるように聞く」。『アカシア』は、主人公が『歴史』を書き始めるところでおわる。

 その文体はバロックと類似する。

 

 フアン・ゴイティソロ『戦いの後の風景』について。主人公は到底読者の共感を得られないだろう人物である。語り手もまた信用がならない。パリの新しい風景は常に外人によって描かれた。

 

 ダニロ・キシュの『砂時計』はユダヤ人虐殺を書いたものだ。「アウシュビッツの後、詩を書くのは野蛮である」というアドルノのことばに、キシュはどう答えたか。人類の恐怖と卑劣の絶頂を、フィクションの型にはめて無邪気に吸収しようとすることの傲慢さ、無礼さ。シュトラウスの「高鳴りゆく山羊の歌」ともかかわる。

 これはセルビア地方のユダヤ人が遭遇する苦難を描いた物語である。

 「見たところ漠然とした、崇高なことば」、「気高い、心を動かされた文章」、「飾り立てた、因襲的な思考」、それらは「明らかに真の文学の敵である」。

 『砂時計』において直接的な悲劇が現れるのは、「挿入句や従属節……影響・結果・余談・脱線、暗示、間接的な記号体系」によってである。

 

 
 大江の『万延元年のフットボール』評。この物語の調子は「災い」との、そして、「取り返しのつかないもの」との対決である。三島が失われた秩序の理想化に励むとすれば、大江はあらゆる理想化の基盤・根底を崩す傾向がある。

 トーマス・ベルンハルト『絶滅』、これは『消去』のことだろう。

 語り手は人形倒しゲームのように、つぎつぎと対象に呪詛を吐き「消去」させていく。オーストリアは槍玉に挙げられる。ナチスの被害国とされているオーストリアは戦時中、親ナチスナチス党員の国だった。語り手は彼の少年時代がナチスに汚されたと感じる。

「実際は、オーストリアが、大半はナチズムイデオロギーとその残虐な行為と共犯だったのに、この国がナチズムの<犠牲者>だった」ことになっている伝説。

 小説の大半はモノローグである。「虚構の言説」に満ちていて、もっとも映画にできない性質の作品である。

 悪を正面から見るために過剰が必要であるから、国家の欺瞞は誇張される。だが『消去』はたんなる意趣晴らしの小説ではない。

「糾弾される対象が無限に変わり、増加するようにおもわれるから」

「真の作家は任務として決して世界を是認しなかった」

 家族の絆、ドイツ、ドイツ文学、オーストリア、猟師、自動車気違い、旧ナチス、あらゆるものにたいして呪いのことばが投げつけられる。

 ――(今日、いたるところに付きまとう教義、異論のない社会的信条になった)家族愛が、おそらく、すべての体制順応主義の、すべての自発的な隷従の、すべての知的な麻痺の主体的な根源であるということである。

 

 あらゆる風刺、憤激は誇張される。語り手は「官吏の文学」、「事務所の文学」を呪う。


 『生まれざるクリストバル』……フエンテスのこの小説にはヨーロッパにはもうないラブレーから連なる想像力の爆発という樹液をこれ以上ないほど受け継いでいる。

 語りのきっかけ(つまり物語という、点火の場面)は単純である。メキシコでアメリカ発見五百周年記念のため、この日に生まれるクリストバル・コロンが「共和国の鍵」を受け取り、成人したときに摂政になるのだという。

 制作年代の五年後という近い未来を舞台にしてはいるが、そこにヴェルヌのSFを読むときのような予測・予言のたのしみを得るような余地はない。あまりに常軌を逸した予測だからだ。黙示録的な崩壊したメキシコの一大絵巻は、現実との「平行世界」として存在する。

 大きな筋と無数の奇怪な挿話、登場人物。これはスペイン語圏のピカレスクの伝統的な形式である。中心には、まだ生まれていない胎児の状態のクリストバルがいる(もちろん胎児なので何もできない)。

ムージルの有名な表現によれば、物語の中心軸をときにはまさに消滅させるにいたるまで、しまいにはそれを<覆い隠し>さえする――語りの<枝>が伸びている」

 

 文学と芸術の領域において、<前衛>のイデオロギーと芸術の進歩という概念が枯渇した。そして出てきたのは「現代性の中心に極限=作品が存在するという考え」である。だがそこから何らかの流れをつくることはできなかった。モンドリアンの抽象画、ベケット、『フィネガンズ・ウェイク』をより過激にすることは難しい。

小説の黄金時代 (叢書・ウニベルシタス)

小説の黄金時代 (叢書・ウニベルシタス)