小説論・文芸理論というよりは、小説漫談に近い。
彼は学問の名を借りた文学理論を嫌悪しており、これを有害な似非学者とののしる。そこで彼が論じていくのはストーリー、登場人物、プロット、幻想、予言、パターンとリズムである。あえて科学的な手法をとらずに、おそらく気の向くままに小説とはなにかを論じている。
まず「イギリスには大陸ほどの小説家はいない」と断言しているところがおもしろい。また、小説は詩よりも通俗的な文芸というのが一般的な認識だという。
***
小説とは「ある程度の長さをもった散文の物語」だが、「無定形なおそろしいかたまりみたいなしろもの」であり、雑然としている。
あらゆる小説には時間があり、時間にしたがって物語を進行させる。ときに時間をシャッフルすることもあるが、時間が消えることは決してない。
ストーリーとは原始的で野蛮なものであり、サスペンスを用いて読者をひきつける。ストーリーのみが「野蛮人や暴君」をもひきつけることができる。しかしフォースターによればストーリーだけの小説は低級なものである。「それから、どうなるか」がサスペンスであり読者をひきつける。
このストーリーを低俗とするフォースターの考えはおもしろい。プロットが読者に知性と記憶力を要求するのに対し、ストーリーは好奇心しか要求しない。
――好奇心は、人間の能力のなかでいちばん下等なもののひとつです。日常生活でお気づきと思いますが、好奇心の強い詮索好きな人は、たいてい記憶力の悪い人で、たいてい頭もあまり良くありません。
小説における登場人物の特質とは、その内面のみならずすべてを知ることができる点にある。現実と異なり彼ら登場人物はわれわれ読者にすべてを打ち明ける。また、生活における比重が異なる。現実の人間に比べて人間関係に過度に敏感であり、恋愛にも過剰に反応し、食事にたいしては執着がなく、睡眠についてもほとんど語られない。
登場人物には平面的人物と立体的人物がある。
平面的人物は常にひとつの面しか見せず、戯画的であるかわりに記憶に残りやすい。一方、立体的人物は生身の人間と同じように複数の側面をもち、ひとことではその人間性をあらわせない。
小説家はふつうこの二種類の登場人物を使いわけて物語をつくる。
***
プロットとはストーリーより高位に属し、時間の進行のみならず因果関係をも含む。ストーリーが「それから」を促すのに対し、プロットは「なぜ」という疑問を喚起する。
プロットの因果関係を強調するあまり、登場人物の生命力が犠牲にされてしまう例に、ハーディの小説をあげている。
――小説においては、人間の幸不幸のすべてが行為に現れるとは限らないのです。プロット以外の表現手段を求める場合もあるのです。その表現手段をプロットだけに限定してはいけないのです。
プロット、とくに物語の結末形成に執着するあまり小説の活力がなくなってしまうことを教訓としている。
***
幻想と予言の項。幻想は混乱を巻き起こす機能をもち、また予言は物語の後ろに大きなものを予感させる力があるという。ドストエフスキーはその背後にキリスト教を、メルヴィルの『白鯨』は闘争を、『嵐が丘』は情熱をもつという。
パターンはプロットに一定の構成美を与えたものだが、与えすぎるとヘンリー・ジェイムズの小説のように退屈になる。調和を保つためには限られたタイプの人物や舞台しか出せなくなるからだ。小説は美だけでは退屈になってしまう、とフォースターは言う。
リズムとは作者の気まぐれにあわせて出されるリフレインのようなものらしく、『失われたときを求めて』における楽曲をその例にあげている。
- 作者: E.M.フォースター,Edward Morgan Forster,中野康司
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1994/11
- メディア: 単行本
- クリック: 30回
- この商品を含むブログ (15件) を見る