うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ある男の聖書』高行健

 過去の自分すなわち「彼」のおもいでと、今現在の「おまえ」を交互に並べることで対比させ、自由の象徴として性描写を繰り返しているだけではないかと感じた。

 文革当時は恋愛もまた政治闘争によって制限されていたので、この語り手にとってはそれが抑圧迫害の象徴におもえた。だからこうしたものばかり並べるのであって、もし語り手が邱永漢かなにかならひたすら料理を食ってデブデブ太るという描写だとしてもかまわないだろう。

 よってこの本は、性描写と個人主義的・自由主義的主張を抱き合わせた、文学文学した小説にすぎないのではないかとはじめの100ページほどで判断した。

 ところがこの印象は変わった。

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 本書は自由の証拠として性描写をならべ、その正当性を主張するということをしない。これは作中の語り手がいっていることである。

 ――おまえは純文学のための創作はしないが、闘士でもない。筆を武器にして正義を広めようとは思わない。まして、正義がどこにあるのかも知らないのだから、正義を誰かに託す必要もない。……創作の動機は、こんな人生の存在を示すことにある……ではなぜ、なおも苦難を訴えようとするのだろう? ……おそらく、おまえ自身にとって必要なことなのだ。

 

 フィクションはじめとする創作活動はうそをつくことだがうそと断りを入れているかぎり人畜無害である。

 

 ――おまえは政治のトリックを唾棄したが、同時に文学的な偽りを生み出した。文学は確かに偽りだ。利益を得たいとか、有名になりたいとかいう作者のひそかな動機を覆い隠しているのだから。

 どんな苦難を体験しようと、彼のいう「文学」とはひとりごと、つぶやき、排泄行為である。

 ――政治的ペテンと違って、文学的幻覚は作者と読者の両方が望むものである。政治的ペテンにもてあそばれた者は、受け入れたくないことも受け入れなくてはならない。だが文学は、読む読まないは自由で、強制力はないのだ。

 たとえこうした現世利益が得られなくても、彼をはじめとする書かねばならない人間たちは文章をつくらずにはいられない。人間ひとりの存在も小説もことばも無力だが、わかっていても即自殺ということにはならない。生活せずにはいられない。

 彼はあらゆる「政治的ペテン」、教化、啓蒙を否定するが、たとえば文筆活動が当人にとって必要な行為になるということは認める。

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ある男の聖書

ある男の聖書