批評家とその著作の紹介から、関連するテーマについての引用、そして英独の状況の違いへ話を拡大させていく。ここでは、伝統と教養を重んじるイギリスのラジオ放送についてが書かれている。
ドイツの文芸雑誌および翻訳への苦言。古言の引用。作家、小説家、詩人の呼称について。
ちょっとした出来事にもそこから導かれる本がある。ギリシア文学はアラビア文学、たとえば『千一夜物語』に影響を与えているが、研究はほとんどされていない。
――(なぜなら)東洋学者でヘレニズム期、皇帝時代のギリシア語が読める者がほとんどなく、ギリシア研究者でアラビア語の読める者がほとんどいないからである。
アンガジュ論にたいする反論。
式典の話題から「父祖」についての詩行の比較へ。父祖をはずかしめぬこと、重んじることこそ貴族の伝統であり、ローマ人の伝統であった。
ヴェルナー・ボックについて、「遠い南半球の地に、たとえわたくしが一度も出会うことはなかったにしても、世代、教養、精神的帰属といったきずなで結ばれていることを感じる一ドイツ詩人を知りえたことは、わたくしの心を揺り動かす。魂の世界は共感の体系に組織されれているのだ」。
一九五〇年代のドイツ出版業界を嘆く。ドイツ社会を批判するときに常に比較されるのはイギリスである。戦後、ドイツも同じように教養の没落を目にすることになった。
「教養の喪失は個性の喪失を意味し、個性の喪失は人間を組織の一片、その一装置と化し、大衆的吸引の容易なものとしてしまう」。
出版業界の不振→貧弱な図書館→教養の没落→現代文学を鑑定する者の不在→文芸批評の軽視。
クルティウスは文芸批評に重い価値を置く。文芸批評とは本の価値を吟味し正当な評価を下すことである。ところが文芸における美の基準はあいまいである。
「この領域では、その無能ぶりがたちまちにして確実に物笑いとなるほかの領域においてよりもはるかに容易に香具師どもが立ち働いていられるのだ」。
アメリカの試み。
――アメリカでのある見積もりによると、書物生産の八〇パーセントは印刷されるに値しないものだという。だから、この書物の洪水に柵をかけることは社会衛生学上の必要事なのではないか?
フランス人はフランスに関心がありすぎて他国を理解できない。それはフランスから世界史が生まれた例がないことからもわかる。範囲を国家に限った考察では判明しないことがある。デヒーオ『均衡か覇権か』では、国内危機とシーザー主義(膨張主義)がナポレオンを経て国家社会主義労働党に受け継がれたことを示している。これがヨーロッパの権力の進行の歴史である。
古代的、と古代とは似て非なるものだ。古典主義者の啓蒙がなくとも、ホメロスのことばの響きは子供に訴えかけてくる。
「これこそ、古代への「もっとも直接的な」通路であるのではないか?」
カヴァフィスの詩と彼の出身地アレクサンドリア→アレクサンドリアの歴史→ギリシア語→ギリシア文化の基調をなすビザンチン文明→文芸のなかのビザンチン。
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ジャン・パウルはその存命中大いに評価されていたため、今では古びた巨匠として葬られようとしている。ゲオルゲによる夢想の面からの評価はあるが、依然冗長で、ユーモアがくだらない、という定評は覆されていない。しかし彼の本の語り手は読者にたいして親切であり、つねに吾々に語りかけてくる。その点、ジョイスからはじまる読者を挑発する傾向とは対極にある。詩の難しさはある程度その形式からやってくるものだが、小説の難解さは作者の意図にほかならない。フランスで実験がはやっているようだが、彼らは長きにわたる合理的思考に疲れでもしたのだろう。
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WW1以来西洋は自己の文明に疑いを抱き続けているが、それもまたスローガンに堕している。
――十九世紀の浅薄な進歩の楽天主義に、二〇世紀の平板な没落の悲観主義が対立しているかっこうである。きまり文句が別のものに代わっただけだ。
経済の危機を分析するものはあるが、文化の危機を分析するものはドイツにはほとんどいない。一切の判断を失った人間の自己放棄は、ヒトラーによってあわてふためかせられることになった。
一方、文芸の過去、現在、未来すべてにたいして透徹した視点を持ち続けているのがイギリスのTimes Literary Supplementである。この文芸批評紙のすぐれた点は、各分野に対して最良の書評を書けるであろう人物に寄稿を依頼していること、また特定の党派や学派の機関紙にならぬよう中立を心がけていること、すべて匿名で掲載していることである。
――それは「現代文学における最良のものへの案内であり、最悪のものへの警告」なのである。
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正確な意味でのヒューマニズムは古代ギリシア・ローマの研究に重きをおくということである。ヒューマニズムはすでに滅びつつあり、つづいてアメリカとアジアとの出会いがはじまる。
ジッドとの交流について。
ゲーテは最大最良の作家であり、若者でも全集を買うことができるからぜひあまさず読むべきである。無名の作品、たとえば『スイスからの手紙』で彼は人間の裸体の美しさを説いている。ここにあらわれる秘密の箱のモチーフは彼の自伝やほかの作品にも登場する。
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歴史家トレヴェリアン曰く若者は「容易に習得できる教説を追い求め、長い時間をかけてようやく獲得できるような知識や理解を求めないのだ。作家某はもう読む必要はない、あれはもう時代遅れだなどと言ってもらうのがうれしいのである」。
文学を当代の流行にしたがって読み、評価をくだすのは危険である。読むために必要なものは歴史からのアプローチである。ヨーロッパ文芸はその典故の多くを古典古代と聖書においている。ペリシテ人とはパレスティナ人のこと。
クルティウスは古典古代を専門に研究する人間で、神智学にも通じていながら、一方でアメリカ文明を高く評価する。アメリカの文芸批評は特定の流派に偏ったものがあまり見られず、担い手も作家が多数含まれている。大学教育も文芸に力を入れているが、これは『裸者と死者』においてメイラーの批判をうけた。
制度化されたものはやがて機械になっていくという危惧に基づくものである。
(つづく)