うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『真珠湾収容所の捕虜たち』オーテス・ケーリ ――アメリカの傘の下で

……米軍での考え方はその反対だった。将校が模範を示さないと兵隊は動かないし、将校は兵隊より立派なるがゆえに、将校なんだという考え方が普通だった。

 

 ◆所感

 ドナルド・キーン等の日本研究者(後に日本国籍取得)とも同僚だった元情報将校が書いた本。

  祖父の代から、同志社大学とのかかわりが深い宣教師一家の出身である。

ja.wikipedia.org

 

 かれが担当した日本人捕虜を通じて、戦時中の日本社会・日本軍がどのような価値観を人びとに押し付けていたかを明らかにする。捕虜たちは、「生きて虜囚の辱めを……」の言葉通り、生きる意義を喪失していたが、著者との交流を通して、新生日本でいかに生きるかを考えるようになった。

 

 著者はアメリカでも屈指の名門私立校であるアマースト(アーモスト)大の出身であり、かれが捕虜や日本人を見る視点は、聖職者のものである。

 捕虜たちは軍国主義教育と日本軍の偏狭な価値観に縛られていたが、戦後、大学講師として訪れた日本にもまた、戦前と同じような古い因習が残っていた。

 

 著者は日本に愛着を持ち、日本で生活を立てていると同時に、日本人を見てがっかりする点についても指摘している。

 そのいくつかは現在にもあてはまり、耳の痛いものである。著者の視点はキリスト教と民主主義、自由という信念であり、そうした基盤から日本を見ている。わたしの感想では、ほとんどの指摘はもっともだと感じる。

嫌厭

 あとがきによれば、本書の書かれた終戦後数年を経て、かれは周りの評論家や同業者から嫌厭され、同志社で働きながらも不遇の時代を過ごしたという。

 この人物のように日本社会の残念な点――強いものに巻かれる、思いやりに欠ける、自分の意見をはっきり言えない――を指摘する外国人がいれば、どのような反撃を受けるかが容易に想像できる。

 

 

  ***

 1 戦争

 著者は幼少時、宣教師の父とともに日本に渡り、小樽で14歳まで生活した。小学校の先生は著者に大変気を遣い、日本人の子供たちに溶け込めるよう努めていた。

 真珠湾攻撃が起きたとき、著者はアマースト大学の学生だった。親しみのある日本と戦うのは気が引けたが、日本を再建したいという思いもあり海軍に志願した。

 

 かれは情報将校としてニミッツの海軍司令部に配属され、その後ガダルカナルやアッツ、キスカサイパンなどに派遣され、主に日本人捕虜の尋問を担当した。大抵の捕虜はやはり同じ人間であると感じられたが、中には軍の教育によって醜悪な人間になった者もいた。

 

 捕虜から聞く戦時中の日本の話は、自分が子供時代を過ごした国とは全く異質だった。

 ある捕虜の曹長は、米軍の処罰が緩いのをいいことに、内部では脱走計画を吹聴しつつ捕虜たちのボスとなり、一方米兵に対してはゴマを吸って物品を手に入れた。

 

こうして、柵の支配は確立するし、同時に、愛国の英雄にもなれた。

 

私が憎悪するのは、かれらをこんなふうにしあげた軍国日本の教育であり、戦争強行者の群れだった。今度の戦争の悲劇は、戦場で無駄に流された多くの血潮ばかりではなく、醜悪な盆栽のような人間を大量に鋳出し、われわれの目をそむけさせるような、偽人間の乱舞を演じさせたことだ。

 

 とあるゼロ戦パイロットの捕虜は、誠実な人間には誠実に接し、そうでないものとは戦った。

 

……人格を認めてくれる心の温かいアメリカ兵に対しては、誠心誠意働いた。……かれのこの態度は、日本人に対しても同じだった。利害にさとい日本人、権力にこびる日本人、そして権力をかさに着たがる日本人を、不親切なアメリカ人同様に憎んだ。日本捕虜の大部分を信用しなかったとさえ言っている。戦闘機乗りの昔の気骨と、民主主義の新しい芽とが彼の場合には自然に抱き合っていたのだ。

 

 情報将校の仕事は、捕虜を尋問し所要の情報を得る事である。

 

何よりもまず人間味から入ってゆく。かれら(日本兵)はアメリカ人から見れば、てんでまともな人間として扱われてこなかったのだ。

 

私の考えでは、日本人は抑えられることには馴れている。だから抑えられながら、表面抑えられたと見せて逃げ回る術を心得ている。抑えないで人間扱いすると勝手が違うので、ある意味では陸に上がった河童のように抵抗力を失う。

若い搭乗員の捕虜は平穏な生活に入ると、情緒不安定の荒くれものになることが多かった。

 

ほんとうに、要らんとこまで教育したものだと、当時の日本の指導者に人間的憎悪を覚えた。

 

 日本人には、捕虜になるのは許されないことであるという強烈な固定観念があった。

 収容所では麻雀牌などの工芸品が作られ、米兵がそれをおみやげとして買い求めた。有志を中心に洋書の翻訳が行われ回覧図書になった。また「ハワイ大学」として学のある者が仲間たちに講義などを行った。

 

 とあるリーダー格の捕虜は次のように言った。

 

偉いやつらは、下っ端を犠牲にして生きている。下っ端は仲間の肉をねらっている。戦うためじゃない。ただ生きたいだけの餓鬼道です。同胞の肉を食わないだけでも、捕虜のほうがましです。むしろ解放されたような、すがすがしい気持ちです。

 

 この兵隊によればマーシャル群島ではヤシの実をとろうとした兵隊が将校に射殺され、別の兵隊がこの将校を射殺した。将校だけは指揮を執るためと称してコメを食っていた。

 「本物」の肉という言葉で人肉食が日常になった。

 

この、同胞相食が始まってからは、一人歩きができなくなった。墓地には銃を持った歩哨が立った。屍体を掘り返してくる奴があるからだ。

 

 投降呼びかけは、捕虜の中でも利敵行為として嫌われていた。勇気を出してこの仕事に志願したいものがいた場合、著者は柵内の仲間にばれないようにかれらをこっそりと移送した。

 米軍人に取り入って、特権的な職場で英字新聞を読みつつ、柵内でデマの大戦果を吹聴する者がいた。こうした事態を防止するため有志達が自ら英字新聞を翻訳し壁新聞として掲示した。

 

 学やリーダーシップのある者が必ずリーダーになれるかというとそうではなく、インテリ臭の強すぎる者、他人を見下しがちな者は捕虜のなかで嫌われていた。

 終戦間近まで、著者は捕虜たちとともに投降呼びかけのビラなどを制作していた。原爆投下に対しては著者や、上司のディーン中尉も頭を抱えた。そのうちにポツダム宣言受諾が伝わり戦争は終わった。

 

 

 2 進駐

 オーテス・ケーリは占領軍の民間情報局に配属された。

 日本は秘密保全に甘いところがあり、秘密文書を下士官が電車で運んだまま網棚に放置してしまう例があった。

 かれは海軍の悪名高い将校……黒島亀人や富岡定俊(元軍令部第一部長)にも面会している。

 富岡は、連合艦隊の報告がでたらめだったといった。

 

「発表のでたらめはいいが、作戦計画はどうして立てました」

 

「立てようがない、どうしようもなかった」。こんな調子でよく4年間も戦争をしてきたものだと驚くほかなかった。

 

 日本の様子について。

 

汽車や電車に「進駐軍の命により」と日本語で書いて、日本人に規則を守らせていたが、私はそれを不快に思った。進駐軍を持ち出さなければ、日本人同士の規則が守れず、問題が片付かないということが情けないのである。巷の下らない喧嘩まで、進駐軍が出ないとおさまりがつかないという状態が情けないのだった。

 

 昭和天皇については、従来の現人神と違う立場を打ち出すことでよい影響を及ぼせるのではないかと考えていた。自殺した近衛についても、著者は惜しい人材と評価しているが、周りの日本人もそう考えていたようだ。

 ウェーク島での人肉食について、新聞社などに話した元捕虜は、話を真に受けてもらえなかったという。

 

日本人は、まだ戦争をほんとうには反省していない。実相すらも知らされていない人、知ろうとしない人が多い。

 

 アメリカからは、斎藤隆夫や近衛とともにリベラルと考えられていた尾崎行雄と会い、話をした。尾崎は、軍、天皇、官僚、マスコミの責任を指摘していた。ただし著者は、尾崎が孤高を保ちすぎて日本政治に影響を与えられなかったのではと考える。

 著者は高松宮や、和辻哲郎といった大物とも面会している。大学生でしかない著者に対し、日本のエスタブリッシュメントや学者はこのような対応をしていた。

 憲法草案を作ったのも、志願兵の大学生たちである。これが彼我の教育レベルや人材の差を示しているのではないか。

 

 ホノルルの捕虜収容所に戻ると、一部の日系一世が「勝ち組」となり、日本はアメリカに勝ったのだ、と捕虜にデマをばらまいていた。

 著者はやがて除隊し大学に戻ったが学問に身が入らなかった。周りの日本通たちは皆それぞれ学校や仕事に戻っていった。かれは終戦2年後に宣教師として同志社大学に妻とともに赴任することになる。

 

 3 日本の若い者

 かつての捕虜たちはそれぞれ苦しい生活で精いっぱいだった。かれは、生きる意味を失った捕虜たちとともに、新生日本でどう生きていくか、日本をどうするべきかを日夜収容所で議論していた。そうした元捕虜たちがいま、生活に忙殺され、決して恵まれた環境にはいないのをみると心苦しくなった。

 

 同志社大学で、英語とアメリカ文化を教えることになり、学内で思った考えをいろいろと投稿した。

 先生と生徒の距離が遠く、生徒たちは先生がいなくなると教壇に座ったり黒板に無礼な落書きをした。教授の中には、1回講義録を作成するとそれを何十年も使いまわすものがいた。

 

 非民主主義的な文化はまだ根強く残っていた。

 

他人のことも考えてやるという思いやりの心がうすいのは、好きな日本にいて、私がいつもがっかりすることの1つだ。

 

1人1人が独自の考えをもった人間であることを許さない、といった「戦う日本」のお土産が、まだまだ学園にさえ濃厚に残っている証拠だ。

 

自分の意見を、大勢の前ではっきり言う習慣も、まだまだである。

 

 学生に質問しても、すぐにわかりませんといって貝になるので、さらに質問しても固まったままであることが多かった。

 

学生の一部には、わたしは「配属将校」と呼ばれているらしいが、そのつもりで頭を下げて押し通そうとおもったら、大変なお門違いである。

 

 電車で乗り合わせた学生たちに「制服が好きか」と英語で質問すると、学生たちは、皆で日本語で相談したのち、全員一致で「制服は嫌いです」と答えた。

 

進駐軍として来たころ、日本がはじめての友人ドバリーが、「日本には実に警官が多い。軍人よりも多いかもしれない。ポリス・ステイトだ。しかも、休暇が多いらしく、しょっちゅう街をぶらぶらしている」と驚いて私に話した。……指さしたのを見ると、制服を着た学生だった。

 

 余裕のなさからか、かつて著者が住んでいた日本では考えられないような不作法や、卑劣な人間が増えた。

 軍国主義が表向き払しょくされた一方で、スポーツや科学のニュースではまだ偏狭なナショナリズムが感じられた。

 

ことしの元旦の某一流新聞が、アメリカの学界には60人の日本人が活躍していると思わせるような記事を載せていた。……そのうちの8、9人は、私もあったことのある人だったが、日本には来たこともない二世まで含まれていた。日本式の名のついたアメリカ人を、みんな日本人にしてしまっている。

 

 民主主義の先導者を自称する日本人が、まったく民主的でないことが多々あった。捕虜第一号の酒巻少尉は、収容所で酒巻ドクトリンという厳格な軍人指導を行っていたため、著者の捕虜たちからは嫌われていた。

 米軍と日本人作業者のクリスマス・パーティの際、日本人監督者は、作業服のままの元捕虜を「汚いといって追い返したという。記念撮影の段になると、背広の者を前列に並べたという」。

 

 米軍の威光を傘に威張り散らす者、勝手に忖度して命令を出す者が多くいた。

 

日本の政府や、政治屋のやり口に、こういう手を使う悪質なのがいなければ幸いである。国民大衆を、自分に都合のいい方へ引っ張っていくために、関係筋のお達しでもあるかのように装ったりする向きがあるかもしれない。そういう手に乗らないように気を付けたい。

 

一番がっかりした1つは、日本のキリスト教だった。……日本のキリスト教は、マウシー(内気)な――ちょこなんとした小さな人間を作ったり、行いすました宗教家にしてしまうおそれがある。マイナスもないだろうが、プラスもない。宗教家はもっとぱりぱりとした行動家であってほしい。

 

そして、個人個人は救うが、仕事に社会性がない。

 

西洋にあるような道徳の基準というものが、今の日本にはない。アメリカではクリスチャニティが社会道徳の最低線となっている。だからキリスト教義を知らなければ、アメリカは理解できない。ところで日本の場合は、この基準が、横の共通の線になっていない。柱である。天皇とか、友人とか、家庭とかいった柱が立っている。

 

……「それがアメリカの自由主義なんだ。人間が人間を統制することはできない。人の心を左右するものは神しかないのだ。これは、人間を殺す権利が人間に与えられていないのと同じことだ」

 

 デモクラシーや民主主義ということばは、戦後、心ない人たちによって汚されて、偽善の意味合いを帯びるようになってしまった。