うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『禅』鈴木大拙 ――禅の普及に努めた人物による説明

 

 ◆メモ

 英語版Wikipediaには、鈴木大拙がナチズムとユダヤ人追放政策にある程度の共感を表明していた事実や論争が取り上げられているが、日本語版では丸々省かれている。

 キリスト教聖職者とドイツ安楽死作戦に関する本("By Trust Betrayed")でも、多くのドイツ人・オーストリア人聖職者がナチスに協力したあるいはナチス政策を黙認した事実が指摘されているが、その最大の理由はかれらが聖職者である前にドイツ国家の一員であったためだったからである。

 またこの時代は欧米対東洋という世界観が一般的だったので、多くの日本人学者が自国の発展のために協力しており、その一環として軍事政策も肯定していたようだ。

en.wikipedia.org


 本書は著者の禅に関する英文著作を邦訳したものである。

 言語の差を乗り越えて相互理解に努めることの重要性を説く。

 

 1 禅

 禅は仏教の精神を相伝する一派であり、仏陀の悟りを体験することが神髄である。

 6世紀インドの菩提達摩によっておこり、7世紀中国の慧能によって大成した。

 禅は中国の思想であり、智慧(プラジュニャー)、すなわち最高度の直観を重んじるが、議論や学説、説教を拒否する。

 禅は智慧とともに慈悲(カルナー)からも成り立つ。同胞が智慧の自覚にいたるのを助けるために様々な創造がなされる。

 

 

 2 悟り

 ――仏陀は、徹底した個人大権の主張者であった。かれは弟子たちに、権威や長老者にただ憑依することなく、それぞれの個人的体験を重んぜよと、力をこめて説いた。

 

 完全な悟り、正覚とは何か。「実在とは何か」という問いにたいして、その問いが問うもの自身に回帰することを説く。

 

 ――弟子が「仏性とは、実在とは何か」と問うならば、師は、「お前はだれか」、「おまえはどこからその問いを持ってきたのか」と反問して、答えを迫るであろう。
 われわれが問うのは、人間が問うことのできる存在だからである。畜生には「実在とはなにか」という問い、問いから生ずる苦しみは存在しない。

 

 ――問いを解くとは、それと1つになることである。

 

 問いは知性的だが答えは体験的でなければならない。主客を2つに分かつ状態ではいけない。

 

 ――答えは、いつも問いについてくる。すなわち、問うことが、答えることなのである。

 

 悟りは、論理的理解力、思惟のいとなみの限界の外にある。

 空を得ることが肝要である。

 一切智者とは、すべてを総体性、一体性におけて受け取ることのできるものをいう。

 悟りは仏教におけるあらゆる宗派の基礎となっている。

 

 

 3 禅の意味

 禅は束縛から自由への道を指し示すものである。

 人生は苦である。しかし苦しみは人生と人格を深めるものでもある。

 人は自我中心的である。

 禅においては自己の体験を重視する。

 

 ――わたしはわたし自身で完全であり、かれはかれ自身で完全ではないか。人生はこの生きているままで満ち足りている。

 

 ――……禅はけっして説明せず、ただ指し示す。……つねに具体的で、確実な事実を取り扱う。

 

 ――たしかに禅は、この世でもっとも非合理で、想像を絶するものである。

 

 ――……禅の究極の見地はこうである。われわれは無知のゆえにさまようて、自己の存在に分裂をきたした。そもそものはじめから、有限と無限の葛藤などは必要でなかった。われわれがあがき求めている平和は、つねにそこにあったのである。

 

 われわれは有限であり有限を離れて無限なるものをつかむことはできない。

 

 ただし、禅の平和は、はげしい戦いを戦い抜いてのちに、はじめて得られる。怠惰や放任安逸な心の満足はもっとも嫌悪すべきものである。

 禅は性格改造の修行でもある。

 禅が悟りを得るための方法……座禅法。

 

 

 4 禅と仏教一般との関係

 宗教は常に教祖から離れて発展していく。教祖はやがて神格化され、教えも変化していく。

 

 ――……キリスト教は、イエス個人の教えだけからなっているのではなく、イエスの人格、およびその教説に関するあらゆる教義上、思惟上の解釈からなっている。

 

 同じく、仏陀の説いた教義だけでなく、後世に信者が考えた体系もまた仏教の内である。

 

 仏陀の教えの要点は、四聖諦、十二因縁、八正道、無我、涅槃である。

 禅は、歴史的・教理的な衣をはぎとった、生き生きした仏陀の精神をつかんでいるという確信に基づく。

 

 禅は中国の心性に強く依存している。実際的で、想像的ではない。それは、インド人の思弁性・哲学的傾向とは非常に異なる。

 インドは想像力を駆使するが、中国人は知性・実際性を重視した。

 はじめ中国人は、「悟り」を知性においてしか理解しようとしなかった。菩提達摩が創始し慧能が開化させた禅は、完全に中国的なものだった。

 禅は中国の思考に馴染み、宋代以降発展、普及した。禅は、分析的解釈を禁じ、平凡な事実や言葉遣いを用いて悟りを得ようとした。禅宗は当時の口語、平坦な表現を好んだ。

 悟りと涅槃について……真理への道はいくつもある。インド人の想像力は超自然論を生み、中国人の実際性・具体性は禅を生んだ。

 

 

 5 禅指導の実際的方法

 禅は直観的把握を重視する。また禅はあらゆる宗教と同じく、内に向かって進むエネルギーを必要とする。

 禅は絶対的一を説くが、それは論理を超えている。

 

 禅における物の見方の提示法……

1. 口頭……逆説、反対の超越、矛盾、肯定、反復、叫び

 多くの神秘主義は逆説を好むが、禅における逆説は具体的である。

 禅はその真理を直観的に把握することを重視するため、弁証法的形式で他に伝えることはできない。

 『般若経』より……「論ずべき法(ダルマ)は何もない、これが、法を論ずることである」

 我々は真理のなかに、真理によって生きているのであって、それから離れることはできない。

2. 直接的方法

 提示、指示、打擲など

 

 

 6 実存主義実用主義と禅

 禅は生命そのものである。本章では形而上学、心理学、倫理学、美学、宗教の観点から禅を検討する。

 禅は概念化されてはならず、どこまでも体験的に把握すべきである。

 シューニヤター(空)を体験することを禅は望む。

 禅は如(タタター)、すなわちあるがままに物事を観る精神を重んじる。しかし、それは経験に基づく実用主義実存主義とは異なる。

 

 実存主義はどうか……

 

 ――行く手に広がる可能性の海は恐怖を呼ぶ。可能性は自由を意味する。かぎりない自由は、耐え難い責任を意味する。

 

 一方、禅において有限は無限であり、神と人間は別ではない。

 禅は無為を擁護したことはない。永遠とは日常の経験であって、その経験の外に永遠があるわけではない。

 意識は時間の中にあり、時間の中で働き、それが時間そのものである。意識はクシャナ(刹那)の存在するところである。

 禅のタタター(如)の概念には、芸術や自然の美しさを観る心に似たものがある。

 禅は白昼無為を好むわけではない。また社会のために活動をしてきた。

 

 

 7 愛と力

 力の時代に対して、力を超える愛の重要性を説く。

 

 ――存在するものすべての相依相関の真理に目覚め、たがいに協力するとき、はじめてわれわれは栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。そして、力と征服の考えに死して、一切を抱擁し、一切を許す愛の永遠の創造によみがえろうではないか。愛は、実在をあるがままに正しく見ることから流れ出る。

 

 ――われわれ……は、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行われることの一切に責任がある。

 

禅 (ちくま文庫)

禅 (ちくま文庫)

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 1987/09/01
  • メディア: 文庫
 

 

 ◆参考文献

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

 

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