うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『禅と日本文化』鈴木大拙

 禅とはなにか、日本文化にあらわれたる禅を論じる。

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 禅が日本文化に影響を与えていることは複数の研究者によって認められている。まず禅とはなにかを簡潔に示す。禅の思想は大体は大乗仏教と同じである。禅は仏陀の精神たる般若(超越的智慧)と大悲(愛、憐情)を直接見ようとする。禅においては論理と言葉は無明と業であるので、論理を蔑視する。教説によらず禅的方法によって精神を鍛えるのが特質である。

 禅を学ぶのは「夜盗の術を学ぶに似ている」。実践によって学ぶのであり、禅とはなんですかと師匠に質問すれば殴られる。剣の達人に弟子が教えを乞うたところ、雑用ばかりやらされた。不満をうったえると、今度は雑務の最中に棒で襲い掛かられるようになった。師匠の不意打ちにも耐えられるようになったある日、弟子は師匠に不意打ちをしかけてみたが、師匠はしっかり火箸で攻撃をうけとめた。このように、禅の鍛錬法は「真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬ」という特徴をもつ。

 これをあらわすと「不立文字」(ことばにたよるな)である。科学は非体験的、体系的であり系統化する傾向にあるが、禅はその対極である。禅は言葉を貨幣と同等に扱う。言葉は貨幣と同様なにかの代表でしかなく実体ではない。寒さにたいして着物をもたず代金だけをもっていても意味はない。貨幣のような概念だけをもてあそぶのでは実体に到達することができない。

 禅をまとめると以下の通りである……精神に焦点を置く結果、形式を無視する。いかなる種類の形式のなかにも精神の厳存をさぐりあてる。形式の不十分、不完全によって精神がいっそう表れる。形式の完全は人の注意を形式だけに向けてしまう。形式主義、慣例主義conventionalism、儀礼主義ritualismを否定し、精神を裸出させ、その孤絶性aloness、孤独性solitarinessに還る。超絶的孤高、「絶対なるもの」の孤絶がアスセチズム(清貧主義、禁欲主義)の精神であり、必要ならざるものすべて排除する。孤絶とは無執着ということである。孤絶は森羅万象のなかに沈んでいる。

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 禅はほかの宗派と異なり日本文化に広範な影響を与えている。日本絵画においては「不完全そのものが完全の形になる。いうまでもなく、美とはかならずしも形の完全を指していうのではない」。大拙によれば、この不完全に古色・古拙味が加わればさびとなる。「一角」様式と同様に孤絶、非対称性も日本美術の特色である。

 禅は芸術衝動に近く、道徳とは関係がない。禅は無道徳であっても、無芸術ではない。日本美術の美は「多即一、一、即多」という禅の真理の認識に端を発する。

 禅は伝来当初は貴族から反感を買い、北条氏の庇護をうけて鎌倉に居を構えた。禅の神秘思想と俗事からの孤絶を強調する傾向は、武士気質に訴えかけた。禅は武士道ともまた関連がある。

 「多即一、一即多」は汎神論ではない。

 「仏者の常套語でいえば、万物の姿は真如そのままである。真如とはすなわち無である。すなわち、万物は無のなかにある。無よりいでて無にはいるのである」。

 これを汎神論的にとらえたり、分析して認識論の話にもちこもうとしたとき彼は禅の学者でなくなる。

 禅は直観的、体験的事実を素直に認める。知覚や認識の問題には立ち入らない。

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 なぜ禅は戦闘集団たる武士階級と親和したのだろうか。禅は振り返らぬことを教える宗教なので武士を道徳的に支持した。また「禅の修業は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する」。のみならず、禅はあらゆる思想に神話的である。歴史上、革命的思想の鼓舞者であることが多かった。「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は庶民」ということばがある。

 大拙北条時宗を禅のすぐれた体現者と評価している。北条政権から足利氏、皇族へと禅は伝播した。曰く、当時の天才は僧か武人になった。

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 剣道の教えとして、生死の二元論を抜けて剣そのものに意識を集中させるというものがある。勝負においては、命をとられにいくつもりで前進しなければ敵を斬ることはできない。肉を切らせて骨を断ち、骨を切らせて命を断つ、これも禅の教えである。沢庵和尚『不動智神妙録』は禅と剣のかかわりを知るによい資料である。

 和尚の著作や剣道の極意にあらわれる無心とは、「無意識を意識する」の境地に近い。

 

 ――(修行も)その最高の段階に達すれば、仏陀のことも、法(ダルマ)のことも、なにも知らぬ無邪気な子供と同じようになれよう。自己欺瞞からも、偽善からも、自由になる。しかるときは、不動智は、結局、無智であり――両者は二ならず、一である、ということができる。……無智の人は、智力をいまだ目ざまさぬから、素朴のままにある。賢い人は智力のかぎりを尽くしているから、もはや、それに頼らない。両者は睦まじい隣同志である。「生ま知りhalf knowledge」の人にかぎって、頭を分別でいっぱいにする。

 

 究竟理性ultimate reasonと細かい技術、両方が車輪となって剣の道はつくられる。禅は「唯一心」one mindをめざしている。智慧に導かれた人は神または仏となる。心をことばで説明すると我と非我が生じ、カルマにもてあそばれてしまう。

 きこりとさとりの話は、無心の力を示している。きこりの思考をなんでも読んでしまうさとりも、きこりが無心に放った偶然の一撃を読むことはできなかった。

 「生死の争闘にしたがう場合、生死の考に捉えられていては、最後の結果に対する大きな障害物となる」。禅僧における「行脚」は、剣士においては「武者修行」となる。

 生死の境に身を置く人間は、禅的思考に向かう傾向にあるのだろうか。

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 中国思想の真髄は宋学において結実した。宋代の禅僧と儒学者はたがいに交流し、二つを兼ねることも多かった。「禅は事実、仏教によって代表されたインド思想に対して中国的に順応したのであり、これがために禅は唐代に発達して宋代に栄えたように、中国人の心理傾向を反映するものに他ならない」。禅はインド思想より実践的、倫理的である。

 禅は独自の哲学をもたないため、直観する内容にかんしては柔軟であり、儒教的にも神道的にも、西洋哲学的にもなる。

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 茶は「和敬静寂」のことばにあらわれるように禅との関係が深い。また、俳句と禅の関係もほかの本を読めばよい。

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 禅問答の具体例と、沢庵和尚の本を読みたくなった。

 

禅と日本文化 (岩波新書)

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