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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『毒ガス戦と日本軍』吉見義明 その1 ――日本軍はどのように化学兵器を使ったか

 ◆所感
 日本における毒ガス兵器開発の経緯から実際の使用までを包括的に説明する本。おそらくこれ以上に詳しい日本語の一般書はないのではないか。

 毒ガスは第2次大戦時に既に非人道的兵器、国際法違反であるという認識が広まりつつあったが、総力戦のなかで各国は使用の機会をうかがっていた。

 日本は、中国に対しては躊躇なく使用し、自分たちを超える能力を持つ欧米に対しては使用を慎んだ。一方、米国も当初は抑制していたものの、やがて先制使用論が支配的となる。

 毒ガス使用だけでなく人体実験についても言及があり、大変参考になる。

 

 この本は防〇省の法務関係部署で購入されていた。中国の遺棄化学兵器問題に関する業務のためである。

 

 

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 1 第1次世界大戦の衝撃

・第1次大戦において、初めて毒ガス兵器が使用された。日本もこれに倣い、毒ガス研究委員会を設置し、開発を始めた。

・1918年からのシベリア出兵では、パルチザンに対する催涙ガス使用が具申されたものの、国際的信用にかかわるとして却下された。

・毒ガスはその発明以来、常に国際会議において規制の対象となってきた。

 

 ハーグ宣言と条約では、毒ガス弾の使用を禁じる。しかし、「総加入条項」により、批准しない国が1国でもあればこの禁止は適用されない。

 ヴェルサイユ平和条約……毒ガス兵器の禁止。

 ジュネーブ議定書……毒ガス兵器の禁止。日本はアメリカと歩調を合わせるために、この議定書には1975年まで批准しなかった。

 

・1925年の宇垣軍縮により、軍の近代化が行われた。このとき、毒ガス兵器の制式化となった。

 

 毒ガス兵器内訳:

 みどり一号・二号(催涙ガス

 あを一号(ホスゲン、窒息性ガス)

 しろ一号(三塩化砒素、発煙材)

 あか一号(ジフェニールシアンアルシン、嘔吐性)

 きい一号(甲乙丙)、二号(イペリット、ルイサイト、糜爛性)

 ちゃ一号(青酸・シアン化水素、血液中毒性)

 

・当時ドイツが開発していた神経ガスのタブン、サリンは、日本には情報提供されず、存在すら知られていなかった。

忠海兵器製造所……大久野島の毒ガス製造工場

 設備:フランス式イペリット製造装置

    クロロアセトフェノン製造装置

    ルイサイト・青酸製造設備

    ドイツ式イペリット製造装置

    ジフェニールシアンアルシン製造装置

 

・海軍も陸軍に続いて毒ガス研究開発に着手した。主に、法服用兵器、毒ガス防護に重点が置かれた。

・1930年、台湾原住民の反乱である霧社事件に際しては、台湾軍(台湾駐屯軍)は催涙ガス弾が使用され、また青酸投下弾も使用された。台湾は、化学・生物兵器の実験場となった。

 

 

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 2 満州事変と毒ガス問題

満州事変当時、関東軍は毒ガス使用を意見具申したが中央に却下された。一方、海軍は1932年第1次上海事変から、積極的に催涙ガスを使用していた。

 

 ――この時期には、陸軍省は、中国とはともかく、欧米とは国際協調を重視すべきことを強く意識しており、催涙ガスを含む毒ガスを戦闘で使用することは国際法に違反すると明確に認識していた。

 

 当初は、国際的信用の面から毒ガス使用に消極的だったが、1936年の二・二六事件以降は様子が変わった。

 

 ――……日本陸軍の毒ガス使用問題に関する姿勢・判断は、あまりに状況的であったということであろう。満州事変開始直後には、1920年代の国際協調的な立場がまだ維持されていたが、1932年以降の皇道派支配の下でそれからの離脱がはじまる。そして、1936年の二・二六事件後の陸軍統制派支配の下で、国際条約・国際協調から本格的に逸脱していくのである。

 

ジュネーブ一般軍縮会議において、日本は毒ガスの使用禁止を声高に主張していた。その後の日本軍の行動はこの主張と完全に矛盾するものとなった。

・対ソ戦に向けて毒ガス戦の準備が行われた。

 

 1933年:

 陸軍造兵廠火工廠曾根派出所(毒ガス弾の充填)

 陸軍習志野学校設置(毒ガス戦訓練・教育、出張による化学戦教育、運用演習)

 関東軍にて人体実験開始

 

 1934年:

 習志野学校、関東軍等の計画により毒ガス演習開始

二・二六事件では、宮城付近を傷つけないよう催涙ガス使用が検討されたが、その前に全員が投降した。

 

 

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 3 日中戦争の全面化と本格的使用の開始

 1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに近衛内閣は国民政府を膺懲するとして2個師団を派遣し、日中戦争がはじまった。

 陸軍は多数の毒ガス部隊を派遣したが、「その目的は、実験的使用を行い、来るべき本格的な現代戦、つまり対ソ戦のための実戦経験を積むことであった」。

 

・部隊……11月、中支那派遣軍松井石根大将)の下に上海派遣軍、第10軍を編入

・上海攻略に84日間かかり、死傷者が4万人に達したため、日本軍は南京を毒ガス……イペリットで徹底的に攻撃しようと考えていた。これは中央により却下されたが、現地の強引な作戦指導を表すものである。

・野戦化学実験部は、国民政府軍の対毒ガス能力を調査した。

・徐州会戦、安慶作戦、山西省において「あか」と「みどり」が使用され、威力を発揮した。国際問題に発展するのを防ぐため、筒や弾頭は土中に埋められ、また戦闘不能の中国兵はすべて殺害された。

・1938年8月、仮の首都である武漢攻略の際には全面的に催涙ガス、嘔吐ガスを使用した。

 嘔吐ガスと組み合わせることで、発煙筒が敵を委縮させ撤退させる効果を生んだ。

・予備役・後備役からなる師団は、足手まとい扱いされていたという。

 

 ――武漢作戦・広東作戦は、10月末の武漢・広州占領で終了した。しかし、戦争は終わらなかった。戦争終結の見通しを失った近衛内閣は総辞職する。以後、国力の限界から、日本軍は積極的侵攻作戦をやめて、占領地の確保に専念せざるをえなくなる。こうして、日中戦争は、どちらの側がより長く持ちこたえることができるかを競う、無期限の持久戦に突入していった。

 

 

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 4 恒常化する毒ガス戦

 重慶を拠点に国民党は健在だった。また、華北では八路軍が、華中では新四軍が農村地域を支配し共産党による「解放区」を設置した。

 このため華中・華北での抗日パルチザン討伐、警備活動において催涙ガス「みどり」、嘔吐ガス「あか」が利用された。

 南昌攻略のための渡河作戦において、日本軍は大規模なガス筒、ガス弾の使用に踏み切った。困難な作戦や、堅牢な陣地、城を攻略する際に、以降、ガスが使われることになる。

 続く1939年9月のカンショウ会戦の毒ガス使用の模様は日本の報道各社に撮影され、毒ガス使用の有無を巡って、若干の騒動をひきおこした。

 

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 [つづく]

 

毒ガス戦と日本軍

毒ガス戦と日本軍

  • 作者:吉見 義明
  • 発売日: 2004/07/28
  • メディア: 単行本