◆モンティチェロからリッチモンドへ
モンティチェロから車で20分ほど走ったところにあるMichie Tavernで昼食をとった。
この食堂は1784年に 開店し、以後所有者が州に変わり、場所を10マイル程度移してからも営業を続けている。
店員は皆18世紀の衣服を身に着けていた。食事は食堂ビュッフェ形式で、野菜や炭水化物をとった後にメイン(鶏肉、牛肉等)を選ぶというものだった。
食器やコップも、古風なものを使っていた。
◆南北戦争博物館
リッチモンドは人口約22万の州都で、市内には古い橋や街並みが多く残っている。南軍の指揮官たちが並ぶモニュメント・アベニューも健在である。
このブログで、近年ロバート・E・リー像が撤去される傾向にあると書いたが、モニュメント・アベニューの像は、戦争記念碑ということで州の許可なしに撤去することが禁じられている。
南北戦争博物館(Amerian Civil War Museum)はジェームズ川沿いに位置しており、わたしが訪問したちょうどその日に、全面リニューアルが完了したということだった。ほぼすべての展示物が、旧館から新館に移されており、セレモニーが行われた形跡があった。
博物館の横には、国立公園事務所があり、パークレンジャーがリッチモンドの歴史地区を紹介してくれた。
そのときのレンジャーが、お経のような喋り方でひたすら説明を行うので、マシンではないかと疑った。
海兵隊の人間がよくこういうお経喋りをするが、このレンジャーも退役海兵隊だったのだろうか……。
上の写真は北軍側で徴兵の際に用いられたくじ引き機械である。
ニューヨークでは1863年、徴兵に不満を持ったアイルランド系移民、労働者階級が暴動を起こし、軍が出動した。
富裕層は300ドルを支払い徴兵を免除できたため、かれらの不満は富裕層と、自分たちの雇用を奪う可能性のある黒人たちに向けられた。
奴隷市場の広告や開催案内は、リッチモンドの博物館だけでなく、南部の様々な資料館で見かける。
上の写真では、各奴隷の特徴(名前、年齢)が記載されているが、別の案内では特徴やスキル(調理、農作業等)も挙げられている。
奴隷が単なる比喩ではなく、本当に所有物・財産として扱われていたことを示す生々しい文物である。
ジェームズ川沿い、博物館のすぐ横に並んでいるTredegar Iron Works(トリディガー鉄工所)は、1836年から20世紀半ばまで稼働した。
南北戦争時には、南軍の使用した砲弾の約半数、また戦艦C.S.Sヴァージニアの装甲などを製造した。
ジェームズ川にかかる橋は複数あり、1836年に作られた列車用の橋は火災で焼けていまは橋脚だけが残っている。
◆エドガー・アラン・ポー記念館
南北戦争博物館を出たあたりから雲行きが怪しくなり、大雨が降りだした。
車に乗って10分ほど通りを進み、エドガー・アラン・ポー記念館(Edgar Allan Poe Musum)を見学した。
ポーの生家をそのまま保存した施設であり、レンガ造りの家と、ひっそりした中庭、そしてポーの胸像を祭った堂から構成される。
わたしが行ったときは結婚式が終わったところで、正装のアメリカ人たちでごったがえしていた。
エドガー・アラン・ポーは1809年にボストンで生まれたが、その直後に父が失踪、母は数年後に病死し、リッチモンドの親類に引き取られそこで育った。
かれは40歳で死んだ。
ポーは高校生の時に創元推理文庫の全集を読んで、特に「アーサー・ゴードン・ピム」や「ハンス・プファアル」などの冒険物語が好きだった。
ヨーロッパからみれば文化のない土地とされ、また敬虔な清教徒の多かった合衆国北部で、このようなフィクションや詩を作成したというのがポーの功績であると考える。このような作者は、時代や社会環境から遊離しているものである。
展示の中に、ポーの敵だった編集者グリズウォルドの肖像画と説明があった。
グリズウォルドは生前から文芸雑誌上でポーと論争し、ポーが死ぬとかれの伝記を書いた。ポーがアルコール中毒者薬物中毒者であり、狂人であるという俗説はかれによって広められた。
かれが貶めようとしたポーが文学において不滅の地位を得た一方、グリズウォルド自身は時がたち忘れられた。
◆ヴァージニア・ホロコースト記念館
続いて市内にあるヴァージニア・ホロコースト記念館(Virginia Holocaust Museum(VHM))を見学した。
設立者はユダヤ教会Temple Beth-Elリッチモンド支部で、当初は教会の教育施設を改修したものだったが、訪問者が増えたのでリッチモンド議会とタバコ会社の支援により全面リニューアルされた。
入館料は無料で、ホロコーストにいたるまでの前史や、強制収容所の様子や生存者の証言、ニュルンベルク裁判再現設備などを見ることができる。
施設の一角には日系人強制収容を説明するコーナーがあった。この出来事はアメリカの歴史における反省点の1つとして様々な場面で取り上げられる。
◆敵を呪い殺す宗教
今読んでいるボンヘッファー自伝のなかにルターに関する言及があった。マルティン・ルターは晩年、反ユダヤ主義的なパンフレットを刊行した。
当該パンフレットはシナゴーグやユダヤ人集落の焼き討ち、強制移住、強制労働などを主張するかなり露骨な内容だった。
長らくヨーロッパ社会の中で忘れられていたが、ナチ党はユダヤ人を攻撃する際にルターのパンフレットを頻繁に取り上げたという。
ルターのくだりを読んでまず強く印象に残ったのはかれの罵詈雑言である。ルターは中公の古本で有名なパンフレットだけ読んだが、イメージしたのはレーニンのような凶暴な活動家である。
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旧約聖書でも、敵や不信心に対する罵り、呪いの言葉は非常に多彩である。敵は非常に悲惨な目にあって死ぬだろうと預言され、またエホバは自分の民に対し、敵を容赦なく殺戮し家畜を奪い町を廃墟にせよと命じる。
20世紀のカトリック作家レオン・ブロワも、敬虔なカトリック作家といいながら内容は8割が罵倒だった。糞尿や汚物に異状に執着する悪口は、かれの信仰からくる正しい攻撃である。
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歴史上用いられてきた攻撃表現、呪詛の言葉について興味があり、いずれ調べていきたい。
下は、今年中に可能なら読む予定の第三帝国の言語を研究したヴィクトル・クレンペラーの本である。