うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ルター』(世界の名著)

 教皇派、すなわちローマ・カトリックがキリストの本義からはずれてしまっているとして批判したパンフレットなど、代表的な文章を集めた本。

 

 キリスト者は地上の王国をつくるべきではない、よって教皇のように財産をかき集め、領邦国家と対立するべきではない、とルターは主張する。キリスト者は天上のことがらにかまっているべきであって、世俗の支配はそれぞれの君主に任せるべきである。なぜなら教皇派や、教皇派の使っているローマ法よりも君主とその法律のほうが世俗をよく治めることができるからだ。

 ルターの主張は君主たちに有利であるため、おそらくドイツの諸侯たちにたいする助けになったろうとおもう。

 税金や飢えに耐えかねた農民のおこした反乱(農民戦争)については、君主にたいして正しい統治をおこなうように頼む一方で、叛徒には社会のきまりにしたがうように命じている。

 ルターはキリストの本来の理想に立ち返るべきだということを繰り返し唱えており、彼の世界観においては、大学はほとんど無用のものである。ギリシア哲学をはじめとする古代の学問は、理性、つまり人間の力を重んじる間違ったものである。なぜなら人間ははじめから悪人、罪人なのだから、理性や思考ですべてを解決することはできない。アリストテレスをはじめとする哲学者たちは神に頼るということをしない、だからこんなものを教えるべきではない。弁論術や詩法だけは、キリスト者が説教するために必要だから学べばいい、とルターは言った。

 経済活動について、ルターは農業を重視している。農業はもっとも正しい仕事であり、一方、利殖は悪である。高利貸しや金融は、ただしいものをただしい値段で取引していないので誤りである。

 

「ローマ書講義」や「ガラテア書講義」は、律法、つまりユダヤ教にたいする批判である。世の中には法律やしきたりなど、さまざまな律法がある。しかし、こうした律法にしたがうことはキリストにおいて義となることとは関係がない。

 ルターは社会的なおこないをまったく問題にしない。彼にとって、キリスト者であるために不可欠なのは信仰である。

 律法による罰やむくいをおそれて正しいおこないをすることは、社会的には義であってもキリストにおいては義ではない。義でありたいとおもって、もしくは社会的な利益をもとめて正しいおこないを積むことは、キリストにおいて義とならならない。ただ自分が罪人であること、義でないことを認識し、信仰によって神を内に宿すことのみが、キリストにおいて義となるのである。

 よって、社会的に義とされる聖職者たちのほとんどはただ神になりたい悪魔にだまされているだけであり、また自分の罪や不義も認めていないため、キリストにおいて義ではない。

 律法によって生きれば、神によって死ぬ、同じく、律法によって死ねば、神によって生きる、とパウロは言った。ルターはこのことばを再三繰り返し、キリストにたいする信仰と、神およびキリストによる恩恵が社会的ないっさいの価値を超越していることを強調する。

 

 

 悪魔について……ルターは悪魔の定義を明確に定めている。この世には神以外には悪魔しかいない。キリストにおいて正しいか、正しくないかのどちらかしかなく、どちらでもないということは存在しない。悪魔はうそつきであり、うそをついて人間をだます。悪魔にだまされた人間は間違ったおこないをしたり、間違った考えを抱いたり、最終的には殺人や自殺、発狂といった害を人間におよぼす。

 

 以上、ルターの書いた文章を読んでみると、彼の主張にも政治的な意図や、他の宗派との差別化がふくまれていることがわかった。別に政治的だから悪いというのではなく、そもそも宗教も人びとに影響を及ぼそうとするものだから、特定の立場に立つのは当然である。

 自由と自由意志……ルターのキリストにおいては、自由と自由意志ということばの使い方が独特である。なぜ彼が教皇派に対し反旗をひるがえしたのかといえば、それはキリスト者の自由からである。いわく、自分はキリストを信仰しているので世俗にはびこった教皇派を批判する自由をもっている。

 自由意志はまた別の意味で使われている。人間に自由意志はないと、ルターはエラスムスにたいして答える。すべては神の操縦するものなので人間にあるのは奴隷的意志だけである。自由意志があるかのように感じられるのはそれは人間が正しく信仰していないからである。

 ルターおよびキリスト教について、わからない用語や概念が多かった。まだこれから調べていく必要があることを確認した。

 

世界の名著〈18〉ルター (1969年)

世界の名著〈18〉ルター (1969年)