五・一五事件は1932年に発生した。
五・一五事件をきっかけに台頭した、国民のなかのファシズムと、事件の関与者である愛郷塾の創設者橘孝三郎とを検証する。
厳密には歴史の本ではなく、著者が調査結果をもとに再構成した劇である点に注意する。
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橘孝三郎の生い立ち、活動、五・一五事件への関与までをたどる。
・橘孝三郎は茨城県水戸市で生まれた。一高に入学し、哲学……カント、ベルクソン等に熱中した。やがて、中退し農業に従事する。
・橘の農本主義は、ロバート・オウエンの共同体事業を参考にしたものである。家族や、橘を慕う知人・友人とともに、「兄弟村」をつくり、農村共同体の建築を試みた。
武者小路実篤率いる白樺派も、「新しき村」という共同体建設を行っていたが、武者小路の指揮についていけない者が多くなり破産した。
橘の農本主義が描く農村像も、かれの個人的な世界観を強く反映したものであり、そこに多様性や自由はない。
・昭和恐慌によって農村の貧困が加速し、国民の一部は過激化した。満州事変は国民を熱狂させ、また国内政治を革新する運動が盛んになった。
・橘は農本主義の立場から反マルクス、反マルサスを説き、県の支援も受けて演説活動を行っていた。
やがて、クーデターを企画する下級将校や、井上日昭らと知り合い、かれらに同調していった。
・政治家の中で、森恪、平沼騏一郎等、軍や民間右翼と協力する者が多くなった。
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◆所見
橘孝三郎とかれの門徒たちは、農村を救済し、農村を基盤として日本を復興するという目的を持っていた。
しかし、テロリストや革新派軍人に同調し、最終的に橘自身も、発電所の襲撃を指揮し逮捕された。橘は満州に活路を見出そうと出国していたところを追跡され捕まった。
貧困を解決しようとする人物たちが、テロやクーデターという安易な手段に依存していく様子が描かれている。
満州国にユートピアを見出したのは、橘だけではなかった。多くの知識人や左翼活動家たちが、満州国を基盤に自分たちの思い通りの社会が作れると考えた。
五・一五事件に対して、軍人や国民は同情的だった。憲兵は実行者たちを国士として扱った。
「やったことは悪いが、かれらの思いは正しい、立派だ」という正当化が世論となった。
五・一五事件を境に、政党政治は終わり、さらに軍人や民間右翼、ファシストの政治的な発言力が増大した。
橘孝三郎と愛郷塾は、農業改良運動から、過激な武装集団に変質することによって、地道に改善を続けていくことを放棄したと考える。
「動機が正しければ行為が間違っていてもよい」という思考を、山本七平は『現人神の創作者たち』で批判した。
世間の大多数が、安易な解決手段や暴力を肯定したとき、その動きを止めるのは困難であることを認識しなければならない。また、そのような潮流におもねることも絶対に避けなければならないと感じる。
出所後の橘孝三郎は、天皇主義者、右翼の大物の地位に納まっており、まったく興味をひかれない。
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首謀者たちだけでなく、社会状況や政治の様子についても書かれている。
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メモ
・海軍軍人……1930年のロンドン海軍軍縮条約に不満を持つ勢力
・海軍・陸軍、右翼(大川周明)、農民決死隊(橘孝三郎と愛郷塾生)