副題「悪の凡庸性について」
アイヒマン裁判についての記録。
1963年に出版されたこの本は、欧米やイスラエルのユダヤ人から非難を浴びた。
アイヒマンを悪の権化ではなく、凡庸な、思考停止した愚か者と解釈したこと、そのような凡庸な人物が悪をなすことができるとしたこと、また、ユダヤ人評議会をホロコーストの一機構として批判したことがその原因である。
しかし、ホロコーストを知る上では欠かせない本と考える。
***
1 法廷
法廷の印象について。
アイヒマン裁判は、ベン=グリオン首相によってつくられた見世物裁判である。首相自ら、この裁判は若い者を教育するためにある、と述べた。
裁判は、反ユダヤ主義を弾劾し、ナチ党とアラブ諸国を結び付け、イスラエルの存在を正当化しようとする思惑によって運営された。
当時イスラエルと西ドイツは友好関係にあったが、裁判は西ドイツに対し思わぬ反響を及ぼした。ナチの残党狩りが活発化し、多くのSS高官や、「アイヒマン・コマンド」と呼ばれる幹部らが逮捕された。
一方で、アデナウアー政権はナチの反ユダヤ法案成立に関わったグロプケを庇護した。アレントによれば、ナチに加担した者すべてを追及すれば西ドイツの行政は成り立たない。ほとんどの人間はナチ体制の一部だった。
いわく、かれらは「自由意思」に基づいて非人道行為に加担したわけではない。あくまでヒトラーの命に従ったまでである。
著者はこうした黙認者、傍観者を批判する。
2 被告
アイヒマンは中流階級の生まれだったが、学業がうまくいかず、油会社のセールスマンに落ちぶれた。かれの劣等感はその後の進路を決めた。
自分のキャリアを向上させるため、過去を偽り、ナチ党員となった。その後、親衛隊に入隊するが単調な教練や訓練に嫌気がさした。ちょうどドイツで秘密警察の職員を募集していると聞き、応募したところ採用された。
その後の補職により、ユダヤ人問題に関する部署に配置されたことが、かれの犯罪行為につながった。
アイヒマンはユダヤ人の縁戚のコネで就職しており、個人としては全く反ユダヤ主義を持っていなかった。
かれはたびたび自分の過去を脚色した。
3 ユダヤ人問題の専門家
シオニストについて、アイヒマンは理想主義者であるゆえに尊敬すると回答した。理想主義者は感情に惑わされず行動できるからである。
かれはウィーンにおいてユダヤ人の移住を担当する部署に配属された。ユダヤ人指導者らと親交を深め、煩雑な役所の手続きを簡素化し、ユダヤ人が迅速に移住できるような制度を整えた。かれには組織する能力と交渉する能力があった。
ユダヤ人をマダガスカルに移住させる計画はアイヒマンの発明ではなく、かれの友人のユダヤ人学者によるものである。しかし、かれは自分の発案であるとして自慢した。
著者はアイヒマンを次のように分析する。かれの言葉からは思考が読み取れない。かれには考える能力がなく、すべて陳腐な言葉しか言わない。かれは他人の立場に立って考えることができなかった。
尋問の間も、自分が中佐より上に昇任できなかったことをぼやいていた。
4 第1の解決:追放
ウィーンにおけるユダヤ人移住政策は始めはうまくいった。かれは数百人、数千人のユダヤ人をパレスチナや隣国に移住させたとして自己弁護した。
しかし、戦争が始まると移住は実質的に不可能となった。1941年には、既にアインザッツグルッペが東欧、ロシアにおいて、ユダヤ人の殺害を開始していた。
5 第2の解決:収容
1939年に警察機構がRSHAに統合された。アイヒマンはチェコに異動となり、そこでもユダヤ人移住政策を担当した。しかし移住は不可能になっていた。
ホロコーストには多くの組織、機関が複雑に関連しており、お互いが敵対意識を持っていた。戦犯となった者は、対立する組織の人間や、死んだ人間、逃げた人間に罪をなすりつけた。
アイヒマンと一部のユダヤ人組織指導者は、仏領マダガスカルへのユダヤ人の移住計画を考えていた。しかし現実味は薄かった。一方で、ポーランドのユダヤ人については、アインザッツグルッペによる殺害が行われていた。
この年から、ユダヤ人に対する最終目的、最終的解決がヒトラー、ハイドリヒらの話題にのぼる。
かれの貧しい記憶では、ユダヤ人移住に関する業務はルーチンワークとして完全に忘れられており、覚えているのは高官のパーティーに招待されたこと、上官であるハイドリヒが暗殺されたことだけである。
6 最終的解決:殺人
アイヒマンは、東欧のユダヤ人が虐殺されていることについては気にも留めなかった。しかし、ドイツのユダヤ人が殺されることについては抗議した。いずれにせよ自分の任務を拒否することはなかった。
SSにおいて命令を拒否して銃殺刑にあった例はない。軍法会議から免除されていたからである。
ヒトラー暗殺計画の実行者たちは、ヒトラーが敗戦の原因であり、軍に屈辱を与えた張本人であると考えていた。かれらは、ドイツ・ユダヤ人に対して補償を行うことだけは考えていた。しかし、かれらが協力者として密通していたのはヒムラーとリッベントロップだった。
ナチ体制の間、疑問を持ちつつも抵抗するものはほとんどいなかった。
SSはどのようにして、ユダヤ人殺害という事実と、自己の良心との折り合いをつけたのだろうか。
この点で、ヒムラーは説得に秀でていた。
ヒムラーの言葉……「超人的に非人間的になれ(to be superhumanly inhuman)」、「歴史上もっとも恐ろしい任務を課されている」、「今後2000年はやってこないだろう歴史」。
かれは、イデオロギーではなく、「自分たちは歴史的場面に立ち会っている、歴史の一部になりつつある」という感情に訴えた。また、あくまで命令により残虐行為に加担した、と考えさせることで、かれらが射殺やガス殺人に手を染める手助けをした。
ガス室の起源は安楽死施設である。1939年から1941年にかけて、ヒトラーの発案により、戦傷者や障碍者が安楽死させられた。世論の非難によって施設は東欧に移された。
ユダヤ人絶滅計画は、収容所におけるガス室と、アインザッツグルッペンによって実行された。
7 ヴァンゼー会議またはポンティウス・ピラト
ユダヤ人の協力者について。また、ナチ政権の非人道行為に対して反乱がおきなかったことについて。
イスラエル政府は、裁判において証人にしゃべらせることにより、ユダヤ人が虐殺されたのは組織力不足のためだったと伝えようと意図していた。
かれらによれば、ほとんど反乱らしい反乱がおこらなかったのは、武器がなく、軍事訓練された若者もいなかったからである。
しかし、著者によればそれは間違っている。ユダヤ人は各地域に必ず指導者を持っており、組織化されていた。組織指導者や名士たちは、自分たちの命および財産と引き換えに、ナチと協力し、名簿や情報を提供し、地域のユダヤ人を収容所や東方に送り込んだ。かれらが組織的に同朋を売り渡していなければ、犠牲者は半分以下になっただろう。
「内的亡命」という言葉はこのときにはジョークとなっていた。
弁明者は、かれらは内心では常に反対していた、と告白する。内心が露顕しないように、かれらは必要以上にナチ的でなければならなかったという。
アインザッツグルッペンの構成員として15000人を殺害した人物(Otto Bradfisch)は、自分は内心では常に反対していた、と弁解した。
――おそらく、「真のナチス」としてのアリバイをかれに与えるためには、15000人の死が必要だったのだろう。
[つづく]
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