奈良時代前半から光仁天皇、桓武天皇治世にかけての蝦夷との戦争を淡々と説明する本。
律令国家成立後、九州の隼人と東北の蝦夷は王朝に従わぬ分子として問題視されていた。蝦夷の反乱が始まると朝廷は彼らの「王化」のための政策を実行する。
――「征夷」とは、蝦夷を武力によって制圧することであり、国家が版図を拡大するためにとったもっとも直接的な方法である。しかし征夷はどちらかといえばその副次的な方法であり、城柵の設置と柵戸といわれる移民によって郡を置くことがその基本的な方法であった。
柵と城が徐々に建てられ、蝦夷統治の根拠地となった。
・柵……淳足柵、磐舟柵、玉造柵、新田柵等
・城……多賀城、桃生(ものう)城、雄勝(おがち)城、秋田城、伊治(これはり)城、胆沢城、志波城等
蝦夷地への移民である柵戸は主に坂東(関東地方)から差し出された。
光仁天皇治世の宝亀5年(774)から本格的な征夷の時代が始まった。蝦夷は狩猟を生業とし弓馬の扱いに秀でていた。その戦闘力は朝廷側の文献において「一騎当千」と評されている。
桓武天皇は元応元年(781)即位した。かれはそれまでの天武系皇族ではなく天智系の血をひいていた。桓武天皇の「桓」は武を意味する。桓武の業績は「軍事と造作」すなわち征夷と都の造成だった。
784年、天皇は中国の易姓革命思想に基づき長岡京への遷都を実行しそれに併せて征夷軍を派遣した。しかし征夷は失敗した。また、天皇になる過程で天智系の早良親王を失脚させていたが、この早良親王の祟りが発生したという。桓武の身内は相次いで死亡し、都を洪水が遅い、長岡京に天然痘が蔓延した。
桓武はこうした凶事を受けて平安京への遷都と蝦夷討伐を実行した。
桓武は治世前半の東北戦争ではことごとく敗北しており、無能な指揮官を叱咤し、徴兵を逃れる子弟を処罰した。
坂上田村麻呂は桓武の命を受けて蝦夷の討伐に向かった。蝦夷は阿弖流為を中心に組織的な抵抗を続けていたが数回の戦争の後田村麻呂に降伏した。
805年、徳政相論において藤原緒嗣は軍事と造作を中止すべきと発言した。桓武はこれに従った。
***
桓武の子平城天皇が精神病のため早くに退位すると嵯峨天皇が即位した。なお平城天皇は後に薬子の変を企て流刑になった。
嵯峨天皇は最後の征夷として文室綿麻呂を派遣する一方、各地の城や征夷軍の縮小を行った。東北政策は東北諸国による管理となり、蝦夷は各地に分散移住させられた。
著者によれば、一連の征夷政策により東国は軍事拠点となった。それが後の平将門や平忠常の台頭につながっているという。