漢民族と、中国における社会の成り立ちを説明する本。
序章 漢字文化圏の形成
漢民族とは「漢字を識っている人びと、および漢字を識ろうと願っていた人びとの集団」である。このため、公用語が漢文であった日本はじめベトナム、朝鮮では「民族国家成立の文化的努力は、まず日本語、朝鮮語、ベトナム語といった民族語の確立、という形をとったのである」。
漢民族は西北の中央アジアから流入してきた部族、周によって成立したとされる(中原)。中国の少数民族は、世界の語族の大半をカバーする雄大な分布を示している……朝鮮、ツングース・満州、モンゴル、チュルクらアルタイ四派、印欧語族、中国語、チベット・ビルマ諸語、タイ諸語、南アジア諸語、マライ・ポリネシア語族。
さらにこれら多彩な語族は構造的に連続している。長い時間をかけてこれらの言語が融合していき、漢民族が生まれたのだった。
――華夷の思想はこうしてうまれた。何がその華(漢民族)と夷(周囲の未開人)をわけているかといったら、要するに漢字を受けいれ、その背後にあるいわゆる「中国風」の生活をしているかどうか、「中国風」の農耕経済をいとなんでいるかどうかである。
ここには人種の問題はあらわれない。漢民族はすべて同化した民族である。類似する例は「アメリカ市民」であろう。
国務院の調査による一九七〇年代末の少数民族概観……寧夏自治区の回族などイスラム教徒が多い。ペルシア、アラブの民は色目人として定着した。遼寧省の満族。ホジェン族は黒斤などと呼ばれてきたもっとも小数の民族で、人口は八〇〇人。ウイグルは古代から回(糸乞)などとよばれ、チュルク語派チャガタイ語群ウイグル語を話し、ローマ字を用いる。タタール族は韃靼の名で知られるイスラム教徒。カザフ、キルギス、タジク。
オロス族は一八世紀から二〇世紀にかけて移住したロシア人で、その数は減っている。チベット族(蔵族)は吐蕃。最大人口をほこるチワン族=壮族(一二〇九万人)は広西省に自治区をもつ。ミャオ(苗)族は貴州を中心として華南一帯に分布しており、人口は約三九二万、太平天国に呼応しての反乱が有名である。台湾の高砂族は高山族ともいう。
これを見ると、周辺国の人間がたまたま中華の版図にはみだしてしまったような感じをうけるものも少なくない。挿入されている写真はすべて共産スマイルだ。
これらの少数民族が漢民族をかこむ第一次外輪圏だとすれば、さらにその外を囲む民族圏には日本、朝鮮、ベトナムがあった。西欧はユダヤ・キリスト教でつながっていたが、こちらの漢民族は漢字で紐帯を保っていたといえよう。
南北にははっきりした言語差があり、それは川の名称にもあらわれている(黄河と長江)。気候変動で人口の推移を説明しているが、北方およびチベット・ヒマラヤ山塊からは常に人の南下があったという。南のマライ・ポリネシア系人は南に押し出された。
第一章 東アジア大陸における民族
漢字共同体である「漢民族」成立以前の民族を論じる。氾濫のたえない黄河のため、中原の村落はほとんど丘陵につくられた。洛陽盆地では緩やかなため灌漑農業が発達した。
黄河から交易の道がひらく……「洛陽盆地から北へ山西高原をへてモンゴル高原に出る貿易路は、地中海、黒海、バルト海につながっているのである」。
東夷は黄河・淮水下流域の低地人を指し、南蛮は河南省、陜西省、四川省、湖北省、湖南省の山地焼畑農耕民を指し、西戎は陜西省、甘粛省の遊牧民を、北狄は山西高原、内モンゴル、大興安嶺の狩猟民族を指す。
夏王朝は東夷の王朝であり、そのため海洋民族に特徴的な龍の伝説をもっている。これは江蘇省出身の劉邦が、龍神の子であるのと同様である。殷、周、秦には龍とのつながりはない。
殷、周、秦は北狄、つまり東北狩猟民族の出身である。
――中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。
皇帝は市場・商業および都市の税収入を管理したが、この管理の及ぶ城市が「中国」(城市の内部の意)であり、倉庫番がやがて官吏となった。大秦帝国成立までに華中・華南の人びとはみな城市に登録され、中国人となっていた。
文字通信用に漢字を読むことを「雅言」といい、市場で用いられた。雅と夏、価、買、牙(ブローカー)はすべて同音であり、つまり夏人とは商人であった。中国とは商業国家・都市の文明である。
秘密結社とは、都市に移住し兵役夫役を負った農民同士の相互扶助組織としてつくられたものである。結社はやがて黄巾の乱などをおこす。
前漢の人口六〇〇〇万をピークとして、王莽の乱で一五〇〇万に、後漢になると五〇〇〇万まで持ち直すものの、三国時代には三国あわせて四五〇万まで激減していた。このため外縁部に五胡(鮮卑、匈奴、羯、テイ(氏一)、羌)が定着する。それから隋まで、四〇〇年以上分裂がつづく。中国のアルタイ化にともない中国語も変質した。
周辺アジアの言語と異なり、中国語は抽象概念と情感の表現に乏しい言語となった。さらに現在の北京語(普通話)は後金国当時の満蒙漢共通の方言である山東方言である。
中国近代化には日本の語彙や文法、軍隊様式が採用された。少数民族迫害がおこったのは文革の四旧打破のときである。
第二章 ことばと民族
漢字、漢民族ということばの示すとおり、中国史の概念はたいてい漢以降につくられたものである。ところが漢とそれ以前の王朝は決して一枚岩に変わっていったのではない。
北方アルタイ語(蒙古語、満州語)が「生魚」「客人」「文帝」と修飾を前につけるのにたいし、南方少数民族語(タイ、ベトナム系)は「魚生」「人客」「帝乙」と後ろにくる。これをふまえると「中原地方に行われていた言語は、周の侵入によって、第一次の北方化をこうむったことになる」。
日本語で「大きい山」を逆さにしないように、ふつうこの順序は一定している。
曰く、中国語はピジン語に似ている。あるものごとを指す文字の変遷を見ると、北方から何度も変化をこうむっている。このため日本語の「目、口、犬、食う、飲む、走る、行く」を現代中国人が眼にすると、「なんと古くさいものを後生大事に使っていることか」と驚くのである。
漢文語は異民族によって変質しても、またすぐに正統の文法に戻ってきた。しかし口語と乖離し、時代にあわせた変化をまったくしなかったため、他の文化に伝えることが困難なことはおろか、後世の人間さえ間違いをおかすようになった。
――……どんなに貧しくとも、漢字の五十や百をおぼえこむことは、簡単なことである。困難なのは、それが自分たちの話す言語に直結していなくて、いわば現実に存在しない、文語という別の言語体系をあらわすものだからである。
これを幼少時から徹底的に暗記して、前近代中国の知識人は誕生する。当然、意味のわからない断片を百遍読んでも無駄だった。
中国が共通文語をもつのは表意文字だから、というのは理由のひとつになるだろう。しかし漢字は「実に八〇%以上が、発音をあらわす文字である」。「重」はzhongと発音し、「中」と同じである。よって簡体字では錘は「金中」と書かれる。ヘンが意味をもっているといっても、字引で調べないとわからないのがほとんどである。
――漢字は表意文字であるというのは、まったくの神話である。
心理学によると、発音を知っていないと、その漢字を識別するのは困難であるという。漢字にたいして、地方ごとに読み方がある。ソ連にならって解放区延安で開発された「ラテン化新文字」は「新文盲」をうんだ。
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斯波義信という学者は厳密な理論を用いているようだ。
第三章 社会と経済の環境
中国学における社会科学について。マルセル・グラネの農民起源性の研究、アナール学派、マリノフスキーの中国小社会研究。マルク・ブロックの弟子エチアヌ・パラージュは「問題史」を発展させた。
都市形成に関する論文で、基礎知識がないためむずかしい。
中国の社会経済は「高度に細分化した細胞状の構造」であり、ヨコのつながりが強く、統一的構造に欠けていた。西欧や日本で見られた殖産興業、国と都市の対立、法治主義が中国では見られず、逆に国と企業の相互適応、国外での活動が発展したのは、この「細胞状構造」に起源があるとみてよい。資本家的企業が誕生しなかったのも同様である。
中国の都市化を分析するには、近代化や西欧の視点から一方的に判断しないことが肝要である。人が集まり都市が繁栄すると、行政はそこに県を置き、県城に指定されれば城壁や行政機関がもうけられる。しかし専制支配に対抗するため、民衆はつねに幾重もの自衛手段を備えてきた。
ヨコ社会にタテの統合を与えたのが、威信(plestige)の分配たる科挙制度である。行政都市の位置は、なぜか人口と経済規模に連動していない。
「都市は中国人の文化と定住様式を基礎づけていた」。大邑を中心に農村・集落を配置した。
宋代から清代までを後期中華帝国の時代と規定する。特徴は以下のようなものである……商業の拡大、貨幣経済、都市化の進展、都市居住者の出現と文化、国の商業・財政政策の変化、郷紳や商人ら地方勢力の台頭。六村ほどの集まる市場が散在していたとすれば、この市場が統合され、やがては巨大市場に成長する。四川省の場合、成都と重慶という二大都市が並立している。スペイン(マドリーとバルセロナ)やオーストラリア(シドニーとメルボルン)と同様、中国は地方主義が強く統合がルーズなのだ。
第四章 文化の生態環境
細胞状構造をつくる労働の集約は、春秋戦国時代からはじまっていた。中国の文化生態としてあげられるのが、王朝変われど民は変わらずという社会の恒久持続性である。
技術・資源・人口の相関を唱えたマルサスの学派に属するマーク・エルヴィンが主張するのが、「高位均衡のわな」理論である。巨大な組織はそれだけで優位をもつが、技術革新を続けぬかぎり「周辺で改良を重ねる隣国をおさえることができない」。これが内政の絶えざる緊張の原因である。
中国が省単位で分立することがなかったのは、地文的条件もあるがもっとも注目すべきは技術革新である。この革新が実質は洗練にすぎないため、人口増加がピークに至ると平衡を失う。これが「高位均衡のわな」である。斯波は中華後期を「発展なき成長」と表現する。
同族や言語集団の争い(械闘)などのやまない中国は、防壁なしに富を築くことは不可能だ。「万里の長城は国レヴェルの垣根とみてもよい」。中国は河川大国であり、県城の七割は低平地に置かれている。
経済地域は大地域(マクロ・リジョン)に分かれるが、さらにその下に亜地域(サブ・リジョン)をもつ(たとえば、長江中流大地域の湖北、湖南、江西など)。経済人の帰属意識はたいてい亜地域にある。長江下流は浙江、江蘇、安徽――これらを三江という――に分かれ、その外港が寧波、紹興、蘇州(上海)である。
低地・河川流域への移住……「香港の九龍半島に漢人が入植したのは、唐末の黄巣の乱以降であるとみられている」。
以上、中国を「経済社会学、経済人類学」の観点から眺めた論考である。
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第五章 社会結合の特質
中国の世帯は日本ほど密着していない。親戚同士が同じ棟に住むことが多い。また公業といわれる共同財産、共同耕地がつくられ、科挙を受験させる際の教育費などに使われた。また公業自体が家のステータスをあらわしていた。
これら中国社会の研究資料は、多くを日政時代の台湾の調査に拠っているらしい。
械闘は些細な喧嘩からはじまって、宗族と宗族の小戦争に至る。
「械闘は、同類を地域的に集め分節をつくり、かつ相手に対抗するために、同類の分節間で連合してあたるという分節構造の形成を促進した」。
第六章 少数民族の歴史と文化
「少数民族」は国民国家の概念に付随する。中国少数民族を考えるにあたり注意すべきは、そのほとんどが「国境を越えた隣接諸国の内部に〟同胞〝をもって」いることだ。少数民族の頭越しに、勝手に国境がつくられた場合も少なくない。雲南省とビルマの間には常に国境問題があった。
少数民族は、中国においては人種ではなく生活様式の問題である。古来から彼らにはケモノ偏や「虫」という字が使われることが多かったが、それは狩猟を糧とするとか、虫をあやつるとかからきているので、必ずしも蔑視を意味していない。
「ほかの多くの民族が、それぞれの原住地にこだわって、いわば「じり貧」の運命をたどったのにたいして」、山地焼畑民族のヤオ族は大規模な分散移動によって滅亡を回避した。彼らはどこでも「客民」だった。民族学では共生関係(symbiosis)にある民族同士の、保護者側のほうを「主民」と呼ぶ。
ヤオ族の独立心は強く、決して漢化されなかった。成文化された出自や権利をもっており、そのなかで「ヤオ族と漢民族との「社会的・文化的境界」が明確に画定されている」。彼らの結束は漢字によって守られた。
第七章 中国人にとっての中原と辺境
日政時代の台湾人の自伝。
植民地台湾人も徴兵によって戦争に参加した。台湾人学生は東京留学をおこなう。中国人の黄帝信仰を、台湾の客家人ももっていた。民国以後、台湾における反満感情は急速に希薄化したという。老舎は旗人出身だし、国府台湾には烏姓(旗人出身)の空軍総司令官があらわれた。
――「華夷」の別は「文野」(文明と野蛮)の別に過ぎない……
青天白日旗は国民党、台湾、中華民国の旗である。客家は漢民族の支流の一つだが、福建、江西、広東の辺境部に分布している。台湾では少数派だが、大陸では二千万以上を数える。崇正総会は在日客家人の組織である。
台湾系華僑は戦後日本で商売をおこなったが、賎業に従事しなじられることが多かったという。華僑社会では政治的な話はタブーとされることが多い。