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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『反乱』メナヘム・ベギン その2 ――イスラエル建国テロリストの回想録

後半では、イギリス占領軍がイスラエルのテロリストに攻撃され、最終的にイギリスが撤退するまでが回想される。

後のイスラエル首相の多くが本書ではテロリストや民兵部隊の一員として活動している。現在でも、軍国主義的な国家方針は健在である。

 

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ベギンの活躍について、スターリン工作員だとかトルーマン工作員だとかいったような荒唐無稽な記事が多く流れた。

 

ひとつだけはっきりしているのは、わたしがあらゆる形態の全体主義を憎悪し、圧政と全体主義に対する自由の勝利を確信していることである。

 

ベギンは何度も自宅と身分を変えながら、市民として潜伏しつつイルグンの活動を指揮した。

 

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(略)

 

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通常、革命によって政府が転覆されると、革命勢力同士の内戦や抗争が始まる。イスラエル建国に際しこうした問題が発生しなかった理由をベギンは2つ説明する。

 

  • イルグン隊員は、同じ兄弟同士である政敵を憎んではいけないと教育されていた。 
  • イルグンはユダヤの主権確立のために戦ったのであり、権力に関心はなかった。

 

理由が何であれ、主流派のシオニスト指導部が、われわれの反英武力闘争を開始直後から阻止しようとしたのは、事実である。

 

当時のシオニスト指導者はベングリオンだったが、かれとイルグンとの間には意見の相違があった。しかしベギンは、独立が達成された暁にはベングリオン国家主席となることにも反対しなかった。

反英闘争の最中に、ベングリオンの指揮下にあるハガナー(公式の国防軍)は何度もイルグンを脅迫し、活動をやめるよう迫った。しかしイルグンはこの要求をのまなかった。

 

ハガナーがイギリス官憲と協力してイルグン狩りを始めたときも、イルグン側は報復を行わなかった。

 

やがて、この反英闘争に全住民が立ち上がり、昨日の迫害者と被迫害者が肩を並べて戦うようになった。われらの民族とわれらの祖国に対する共通の目的のために。

 

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独立戦争におけるエルサレムの市街戦について。

イルグンはハガナーに編入され、合同でアラブ連合軍と戦った。シュテルン隊は独自の指揮系統でハガナーと共同した。

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独立戦争中もハガナーはイルグンに懐疑的であり、また分派活動を許さなかった。多数の義勇兵と武器弾薬を乗せたイルグンのアルタレナ号は、ハガナーの突撃隊パルマッハ(指揮官イーガル・アロン)の砲撃によって沈没させられ、14名の死者を出した。

こうした攻撃にも関わらず、ユダヤ人勢力は本格的な内戦には至らなかった。

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第2次世界大戦終結後、イギリス総選挙で労働党が勝利すると、ユダヤ人指導部やイギリス協調派は狂喜した。チャーチルとは異なり、労働党のアトリーはシオニズムへの支持を表明していたからである。

ところがアトリーが政権につくと、ユダヤ人嫌いで有名なベビン外相は引き続きイスラエル占領統治を継続した。

イギリスの態度によって幻想から覚めた主流派は、イルグン、シュテルン隊(レヒ)と共同戦線を形成することで合意した。

 

いずれの軍でも規律は大切である。さまざまな敵や反対者に包囲された反体制闘争軍においては、なおさらである。

 

われわれの地下軍には、勲章などしゃれたものはなかった。勇敢なる英雄的行為に対して、隊員が得るのは、義務を果たしたという精神的満足感だけであった。

 

共同作戦によってイギリス軍航空基地の航空機を多数破壊したあと、ユダヤ人兵士たちはアラブ人の村からも英雄として声援を受けた。

これはまだ独立戦争が始まる前のことだった。

 

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英政府との武装闘争が続く中、ユダヤ人指導部の一部は融和政策に傾き、ハガナーを武装解除しようとした。ベギンはこの間も武力活動を継続した。

 

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キング・デーヴィッド・ホテル爆破事件について。

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1946年6月以降、ハガナーは防衛・報復理論に基づいて、英政府の官庁が集中するホテルへの攻撃を許可した。ユダヤ機関が英軍に占領された報復である。

 

もともとハガナーは、英当局の都合から半官的地位を与えられてきた。それに慣れてしまって、油断があった。注意するのを忘れたのである。ユダヤ機関の幹部は、幻想にも等しい「国際的地位」を過信していた。

 

ホテル爆破に伴う民間人の犠牲を避けるため、実行部隊は複数個所に警告の電話を入れた。しかし、避難は行われず、200名超の犠牲者が出た。ベギンの主張に寄れば、警告を握りつぶしたのはイギリス当局だった。

 

「われわれは、ユダヤ人から命令を受けるためにここにいるのではない。われわれがやつらに命令するのだ」……

 

イギリス側があえて大惨事を狙ったかどうかは不明だが、いずれにせよ英軍高官がホテル退避を禁じたのは事実である。

当初、ベングリオンやハガナー、ハアレツ紙は手のひらを返してイルグンに責任をかぶせ非難した。

 

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イギリス軍は、植民地の人間に対し鞭打ち刑を行った。ベギンらユダヤ人にとって、これは自尊心への攻撃だった。

イルグンは、自分たちに鞭打ちを行えば、イギリス人将校も同じ目に合う、と警告をまいた。この警告は、将校とは距離のあるイギリス兵たちからも人気を得た。

 

 ――空挺師団の兵たちは、「6千万のユダヤ人をぶっ殺してやる」などと無記名で殴り書きしていたが、この兵隊は、上官の所属部隊番号や官姓名をはっきりと書いていた。

 

刑務所にいたイルグン所属の少年が鞭打ちを受けたため、イルグンはイスラエル各地で4人の英軍将校、下士官をとらえ鞭打ちし、次は銃殺すると警告した。

占領政府が鞭打ち政策を中止した結果は、国際的に大きく報じられた。

 

英軍将校を鞭打つのは、決して愉快なことではなかった。しかし、正直なところ、誇り高い強大な軍隊の将兵数千人が、エレツ・イスラエルのカフェから一目散に逃げ出したときは、いささか満足感をおぼえた。

 

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イルグンは隊員に死を覚悟させていたが、同時に、かれらを救出するためには犠牲を惜しまなかった。

ユダヤ人テロリストたちは、頻繁にイギリス兵になりすまし、基地に潜入し武器庫を襲撃している。

 

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保守党のチャーチルは、英占領軍の失策を非難した。

 

……チャーチルは、再度英軍のパレスチナ撤収を要求した。戦略目的に全然役立たず、金をくうだけでなく人命も犠牲にしている、駐留は無意味である、とチャーチルは言った。

 

私は、このユダヤ人との争いが気に食わない。私はかれらの暴力手段を憎んでいる。しかし、君たちがこの問題を扱うのなら、少なくとも男らしく振る舞いたまえ。……テロリストの脅威を受けながら、政府は法を施行する勇気がない。

 

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(略)

 

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とらえられたイルグン隊員の一部は絞首刑にされた。またほかの構成員は、空挺部隊の基地に拉致され、兵や軍医からリンチされた。

 

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英軍が4人のイルグン隊員を処刑したため、報復作戦が行われた。隊員の中には、大戦中に英陸軍のコマンド部隊で活躍していた人物もいた。

さらに、アッコーの刑務所襲撃作戦でとらえられた3名も処刑されたため、報復に英軍下士官を拉致し処刑した。

 

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ベギンは地下生活を続けながら、同時に国連の調査委員会3名とも会談した。これを聞いた英国政府が激怒した。

 

「5年間もこの男を探し回りながら、いまだに行方をつかめない。ところが国連委員会の委員長は、いとも容易にこの男と会ったようだ。いったいどういうことであるか」

 

このような憤激のニュースを読んで、私は英情報機関をたいへん気の毒に思った。

 

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小説家のアーサー・ケストラーはシュテルン隊やイルグンの取材を精力的に行っており、ベギンもかれと面会した。ただし、当時、人相を知られてはまずかったため、暗闇の中で会談した。

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アメリカの議員や文学者と会うことで、ベギンは自身に関する誤ったイメージ…「整形している」、「巨体である」等が流布していることを知った。

ハガナー幹部のモシェ・ダヤン(のちの国防軍将官)は、淡々と話すが勇気と胆力のある人物だと感じた。ダヤンも、イルグンに対し尊敬を表明していた。

 

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チャーチルは、無駄な植民地政策と10万兵力のくぎ付けに反対していた。占領軍が戒厳令を発するもイルグンのテロはおさまらず屈辱のまま中止になった。

 

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1948年5月16日、英国占領政府は撤退した。英高等弁務官カニンガム将軍は旗をおろしイスラエルを去った。

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ユダヤ機関は、英国撤退後の平和的な政府樹立に幻想を抱いていた。イルグンの予測では、間違いなくアラブは侵攻を開始し、英国がこれを後方から支えるはずだった。

 

われわれは警告する。……海上封鎖はあと5か月続く。英国は、兵員資材の補充を許さないであろう。ユダヤの血が流され…武器は持ち去られ、……

 

攻撃にまさる有効な防衛はない。鉄壁を称せられたフランスのマジノ線が雄弁に物語っている。

 

ハガナーは政治的な失敗から資金を活用しておらず、アラブ軍との戦争が始まったとき、貧弱な装備しか持たなかった。

 

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…この人たちは、外からの迫害や締め付けを決して容認せず、内部の暴政にも長い間我慢しないのである。かれらはこうと思ったらテコでも動かぬ頑固者であり、その胸には自由の血が流れていた。

 

ユダヤ機関が、国連や英国政府に平和的解決の意思がないことを認識するまでに、イルグンとハガナーとの間で内部抗争があった。

 

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英軍はまだ撤退しておらず、ユダヤ人部隊を一方的に武装解除した。

 

周辺にはアラブの武装集団がおり、まったく無防備の状態になった8名の命運は明らかだった。全員がすぐ殺されてしまったのである。エルサレムその他の地域で同種の事件が何度か起きた。

 

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エジプト、イラク、シリア、レバノン、トランスヨルダンのアラブ連合軍侵攻に対し、イルグン最高司令部は戦略目標を立てた。

 

確保区域:

  • エルサレム
  • ヤッフォ
  • リッダ・ラムレ地区平野部
  • トライアングル

 

イルグンは英軍基地や英軍の補給列車を襲撃し、装甲車、砲弾、機関銃などを調達した。そして、ヤッフォや各都市の英軍部隊、施設に対し砲撃を行った。

 

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イスラエル国は誕生した。これによってのみ、すなわち血と銃によってのみ、それが可能だったのである。

 

われわれは必ず勝利する。しかし、この戦いに勝ったあとも、国家の自由と独立を維持するため、超人的努力を続けねばならないだろう。それにはまず、イスラエルの戦力を増強する必要がある。備えがなければ、自由は保証されず、祖国の存続もおぼつかないであろう……。

 

……英国その他外国軍の兵隊がひとりでも我が国に残っている限り、主権は夢にすぎない。主権の獲得には、戦場だけでなく、国際部隊で戦う覚悟が必要である。

 

わが祖国においては、正義が最高の支配者でなければならない。暴君の出現は許されず、閣僚や政府の役人は国民に奉仕する公僕であり、主人であってはならない。搾取も絶対に許されない。

 

……われわれは、融和によって敵から平和を買うことはできない。買うことのできる平和には一種類しかない。それは、墓場の平和、トレブリンカの平和である。

 

武器がない? 必要なら敵からでも取得できる。戦う部隊がいないと? それなら組織できる。準備がない? しかし、闘争自体が教育と訓練を授けてくれるのだ。徒手空拳であっても、それは人間次第でどうにでもなる。理想のために全身全霊をささげ、身命を賭す覚悟でなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

『反乱』メナヘム・ベギン その1 ――イスラエル建国テロリストの回想録

 

第7代イスラエル首相メナヘム・ベギンレジスタンス回想録。

メナヘム・ベギンはイギリス統治下のイスラエルでテロリストとして活動したが、そのときの記録である。

現在も続く紛争の原点をうかがい知ることができた。

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◆所感と漫談

イギリス占領政府との戦いが細かく記されている。組織の運営や作戦、イギリス側との情報戦などが詳しく書かれている。

イスラエル内部でも、英国との協調を目指すユダヤ機関、ベギンらの武装組織、共産党系の組織等派閥に分かれていたが、うまく独立し政治的な安定を獲得した。民主主義的な政府を設立するという合意は、どのようになされたのだろうか。

ベギンによれば、自らの率いる組織イルグンでは、絶対に同胞を憎悪しない、報復しないという教育を徹底していたという。

イルグンは、活動家ジャボチンスキーが設立した地下組織だが、途中、ハガナーイスラエル国防軍の前身)やユダヤ機関と対立しながらも、反英闘争や独立戦争に大きな貢献を果たした。

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現時点で進行中のハマスイスラエル戦争においても、ハマスは西側諸国の一部でテロ組織の認定を受けている。

しかし、テロリストや反乱勢力が作った国は非常に多い。

現在の日本や米国、アイルランドも(所謂)テロリストや反乱勢力が成立させたものである。

本書ではイギリス側の敗因の1つに、イスラエル勢力をテロリスト風情とみなす認識から脱却できなかった点が挙げられている。

似たような事例がマクニール『愚行の世界史』にも載っていた。

 

敵に対する無知や過小評価、そしておごり高ぶりは、失敗の最大の要因である。

 

イギリスは軍を投入して植民地を制圧しようと考えていた。かれらはアメリカ人を完全にあなどっており、まともな戦力にはならないと過小評価していた。

 

 

1

1941年、ベギンはリトアニア領内でシオニズム運動を行っていた罪で、ソ連の秘密警察であるNKVDに捕えられ、8年の強制労働を科された。移送の途中、独ソ戦が始まった。

ソ連は当初、ユダヤ独立運動を支援したが、やがて革命を妨害する運動として弾圧するようになった。ソ連の秘密警察は、政治犯を外界から孤立させることで自白を促そうとした。

 

2

ベギンにとってマルクス主義は自身のイデオロギー――個人の自由と幸福――とは相いれない。しかし、ソ連が最初期にユダヤ人を支援し、またイスラエルを最も早く国家承認したのは事実である。

 

……個人の自由と社会正義の顕現を、どう調和するかである。個人の自由のためには、国家は個人の生活に干渉してはならない。しかし、正義にもとる不平等は、社会、いいかえれば国家による計算された干渉がなければ、是正されない。

 

社会の病をすべて治す特効薬は、まだ発見されていない。ソ連の人民は、それを探そうとして多大の犠牲を払った。かれらは個人の自由を犠牲にしたのである。

 

ソ連の体制は、文明のない貧しい生活にも適応できることを人民に教えた。

 

人間は生命力の旺盛な動物である。半畜生の状態にあっても、生存意志は確固として残っている。……しかし、ちゃんとした食事の味さえ完全に忘れ、ただただ食物のことばかり考える状況をつくりだす必要があるのだろうか。

 

ベギンが収容されたソ連の収容所には刑事犯と政治犯とがおり、概して刑事犯は、インテリや政治犯を逆恨みしていた。共産党員として働いてきたにもかかわらず粛清により投獄されたユダヤ人たちは、刑事犯たちからユダヤ人差別を受けてがく然となった。

 

フランスの同化ユダヤ人(フランス社会に同化したユダヤ人)だったテオドール・ヘルツェルは、民衆の「くたばれユダヤ人」という合唱を聞いて、シオニズム運動に参加した。

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3

スターリンと亡命ポーランド政権が協定を結んだため、ポーランド人であるベギンは収容所から釈放された。

かれはエレツ・イスラエル(現在のイスラエル)に向かい、以後、独立まで地下組織の構成員として戦った。

 

4

イギリスはパレスチナを手に入れるために、ユダヤ人の保護を名目に掲げた。実際には、無抵抗の少数民族ユダヤ人と現地のアラブ人が紛争しつつ、イギリスがそれを銃剣で保護するという形態が理想だった。

パレスチナを、イギリスの統制下にあるアラブ国家にするためには、戦争勃発にともなう大量のユダヤ人移民は邪魔だった。このためイギリス政府は、ヨーロッパを逃れてきたユダヤ人難民を次々と追い返した。

 

イギリスの統制に対する反発を指導したのは、修正シオニズム主義者のジャボチンスキーだった。

ジャボチンスキーは、武装組織イルグン(正式にはエツェル)の初代指導者である。

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かれら(イギリス人)は、エレツ・イスラエルでもユダヤ人は保護を嘆願する臆病な人間、と考えていた。……ウラジミール・ジャボチンスキーは、若き世代に抵抗することを教え、自ら命を犠牲にして戦う決意であった。

 

1944年、地下組織イルグンはイギリス統治政府に対する宣戦布告を行った。

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5

イルグンの英政府・警察に対する爆弾テロは、アラブ人を驚嘆させた。

イギリスは、アラブ人たちに対しユダヤ人への攻撃をけしかけていたが、それも機能しなくなった。ユダヤ人は、反英テロによって主導権を握ることができた。

アラブ人の中には反英闘争を支援する者もいた。

 

解放闘争の主要武器である爆薬は、やがてわれわれがかなりの量を生産できるようになった。しかしそれまでは、英軍から一部拝借し、大部分のTNT火薬はアラブから購入していた。

 

1947年になるとアラブの正規軍がユダヤ人に攻撃を開始し、ユダヤ人側は各武装組織をイスラエル国防軍に統合した。戦争の際に大きな心理的圧力となったのは、それまでのイルグンらテロ組織の行動である。

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イギリスの植民地統治を分析した結果、ベギンは、かれらが実際の武力よりも威信に頼っている事実を発見した。イルグンは英統治政府の威信を削ぐために様々なテロや誘拐、報復等を行い、イギリス官憲もこれを阻止できなかった。

 

われわれは、敵が道義的に抑制することを期待したり、敵の道義心がそんなに高いとも考えていなかった。

 

イルグン側には計算があった。

イギリス人は文明的なので、ゲリラ制圧のために多量のイギリス人死者が出るのを好まない。また、極小テロ組織による活動は、通常の武力紛争よりも国外メディアの注目を集めることができる。

 

6

イルグンはテロリストと名指しされていたが、ベギンはあくまで地下の軍隊だと考える。司令部は20名ほどで、他の実行部隊は皆平時は市民として生活していた。イルグン幹部は様々なゲリラ作戦を計画し、また自ら現場で指揮した。

インフラ、警察署の爆破や、英軍人に変装しての武器強奪作戦が行われた。

密告によって捕まることが多かったが、特に幹部同士の絆は強く、民主的な軍隊だった。イルグンは自由に脱退することができた。

給与はユダヤ人からの寄付と英軍から奪った金で賄っていた。階級は正式なものでなく、中尉が数千人を指揮することもあった。

 

当初イルグンは以下のとおり編成されていた。

  • 革命軍 予備組織 実態無し
  • 挺身隊 色黒の隊員をアラブ地域に潜入させる
  • 突撃隊 主要作戦
  • 革命宣伝隊 プロパガンダ

 

組織には必ず摩擦が生じ、特に突撃隊と革命宣伝隊との仲は悪かった。しかし、こうした組織運営を通じてイルグン隊員たちは国家運営の基礎を学んでいった。

革命宣伝隊は送信機を使いラジオ放送を行った。イギリス側が逆探知や妨害を試みたため、かれらは頻繁に場所を移動し(5分放送し移動)、またイギリスの送信施設を攻撃した。

イルグンは極力、事実のみを放送するように努めた。そのため、イルグンの発表は正確だという信用性が高まった。

 

7

世界的に名高い英国情報機関はイスラエルでは役に立たなかった。

ユダヤ人には酒や金で買収されるものが少なかった(ユダヤ教徒はあまり酒を飲まない)。

イルグンは秘密保全教育を徹底した。

 

秘密を守るうえで、2つの大きな敵がある。ひとつは好奇心であり、あとひとつが自己顕示欲である。……「たずねるなかれ、話すなかれ」が基本原則である。

 

裏切り者や浸透工作員は少なく、また現地の人びとはイルグンに協力的だった。

英情報機関は、イルグンが犯罪者テロリスト集団であるという固定観念から抜けだせなかった。

 

英当局は……わたしの写真を2枚発見した。ひとつは、かなりよくとれている写真だったが、あとの1枚は街頭のスナップ写真で、わたしの兵隊身分証からひっぱがしたものだった。こちらは実物の私とあまり似ていなかった。

しかし英当局は、2番目の写真を逮捕用の顔写真としてばらまいたのである。なぜであろうか。理由は簡単で、最初の写真は多少なりとも「人間らしい」顔つきをしていた。わたしを撮ったのであるから、どうせ二枚目には映らない。しかし、それはごく当たり前の顔であり、見ていて嫌悪感を覚えるようなものではなかった。

しかし2番目の写真はどうかといえば、ダーウィンの進化論を裏付けるような代物であった。

 

このテロリストの写真はひとつだけ良い点があった。つまり、実物と全然似ていなかったのである。……哀れなのはイギリス人探偵たちである。喉から手が出るほど欲しいはずなのに、私の首にかかった懸賞金を手にすることができなかった。

 

より過激な分派組織であるレヒ(シュテルン隊)は、常に武器を携帯し敵と銃撃戦になったが、イルグンは武器を絶対に携帯せず、作戦時以外は保管庫にしまっていた。

レヒはより過激なテロ組織で、虐殺事件等も引き起こしている。この組織には後の第8・10代首相イツハク・シャミルが指導者として所属していた。

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[つづく]

 

 

 

『Black Flags』Joby Warrick その2 ――イラクのアルカイダがISISに引き継がれるまで

 

 

 

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10

当時USSOCOM司令官だったマクリスタルは、ファルージャザルカウィをとり逃したときのことを覚えていた。特殊部隊による家宅捜索は、イラク人にとって侵略者の闖入でしかなかった。

ザルカウィは、米軍の失敗とイラク人の憎悪を利用することができた。

マクリスタルは、イラク駐留米軍が占領統治に関して何1つ達成していないことを発見した。反政府勢力から押収された文書やPCなどは、空き部屋にただ積み上げられていた。

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11

ザルカウィは、ヨルダンにテロリストを送り情報機関を爆破しようとしたが失敗した。

アブドゥッラー国王は、ワシントンD.C.での夕食会で、イラクの治安と女性の扱いが悪化している(※ フセイン政権は世俗政権だった)と話した。ところがホワイトハウス側から「そのような発言を公の場ですべきでない」と忠告された。

国王は、アメリカが異なる意見を封殺しようとしていることにショックを受けた。

 

12

ザルカウィアメリカ人の青年企業家Nicolas Bergを拉致し、斬首ビデオを公開した。

www.theguardian.com

 

青年はお人好しな性格を利用され、戦闘員に拉致された。ビデオは衝撃を呼び、アブグレイブ刑務所虐待スキャンダルで毀損されていたイラク戦争への支持をさらに低下させた。米軍のイメージはもはやハイテク兵器ではなく、IEDと国旗に包まれた棺桶だった。

ja.wikipedia.org

 

 

ザルカウィは、ビンラディンに並ぶ国際テロリストとなった。

 

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バグダッドの西にあるラマディ(Ramadi)は、後にイスラム国の首都に指定されることになる都市である。米軍は基地内から出ないため、市街は無法地帯となっていた。米軍と接触を試みるものは殺害された。

ja.wikipedia.org

 

ラマディは外国人ジハーディストが支配するようになった。ザルカウィの周囲には、ならず者や犯罪者気質の者が多く流入していた。海外からやってきた青年は多くが自爆テロ要員となった。

無辜のムスリムを殺害する行為、また自爆テロに対して、ザルカウィのかつての師であるMaqdisiや、各国のスンニ派神学者が批判を行った。しかし、シーア派カトリックと異なり、スンニには中央集権的な権威がなく、ザルカウィは都合の良い解釈を採用することができた。

ヨルダン国王が主導した、テロリズム批判声明は、全世界の多数の神学者の支持を得た。一方、ビンラディンザルカウィの功績を認め、かれをエミール(またはアミール、組織の最高指導者)とし、イラクアルカイダに認定した。

 

14

ビンラディンザルカウィは、2005年1月のイラク総選挙を破壊しようとした。アメリカは撤退時期を早めるため、是が非でも期日通りに実施しようとした。

爆弾テロや脅しにより、スンニ派住民がほぼ全員投票をボイコットした。スンニ派の間には、自分たち少数派が不利な扱いを受け、米軍がシーア派に肩入れしているという不満が高まっていた。

ザルカウィのアジトから押収した書類を分析した結果、かれは無学ゆえにコーランを都合よく解釈し、自分こそは古代の聖戦士の再来だと信じていることがわかった。アルカイダの副司令官ザワヒリは、ザルカウィに対し、シーア派の一般市民や人質の処刑は、民衆の支持を失うだけであると批判した。

jp.reuters.com

 

本家を超え、勢いに乗っていたザルカウィアルカイダはもはやフランチャイズではなく、「アルカイダ2.0」だといってよかった。

 

マクリスタルの特殊作戦チームは、Balad空軍基地を拠点に24時間体制での夜間爆撃・襲撃作戦、尋問、情報収集を続けた。マクリスタル自身も夜型シフトで勤務し、イラクアルカイダに息をつく暇を与えなかった。

「瞬きしない眼」と呼ばれたこの作戦は効果を発揮し、アルカイダは資金繰りやリクルートに支障をきたすようになった。

こうした状況のなか、2005年11月9日に、ヨルダン・アンマンでの同時爆破テロが発生した。

ja.wikipedia.org

 

15

サジダ・リシャウィはラマディ出身で、親族をイラク空爆で失い、現地でザルカウィ工作員に雇われ、アンマンに潜入した。彼女はアメリカ人や情報機関を攻撃したいと思っていたが、指示されたテロ現場はヨルダン人の結婚式場だった。

ヨルダン情報機関担当者はリシャウィを尋問したが、彼女はザルカウィと直接会ったこともなく、有益な情報も持っていなかった。

edition.cnn.com

 

スンニ派結婚式の女性や子供を狙ったテロによって、ザルカウィはヨルダンや他のアラブ諸国の支持を失った。またこの事件を機にヨルダンはより積極的な対テロ作戦に乗り出した。

 

2006年2月のサマラにおけるシーア派モスク爆破は、宗派間の戦闘を招き、1300人以上が死んだ。ザルカウィはイメージ回復のため自身のPVを作成しネットに流した。

シーア派民兵は、政府と協力してスンニ派に対し違法な拘留・拷問を行っていたことが判明した。イラクの内戦は本格化し、ブッシュは頭を抱えた。

 

16

ヨルダン情報機関は、アメリカ人が見落としがちな微妙なアクセントや出身地をかぎ分けた。

マクリスタルのチームはヨルダン人と協力し、尋問によりザルカウィの居場所を突き止めた。空爆によりザルカウィは殺害された。

 

※ 閲覧注意(米国防総省公式サイト)

dod.defense.gov

 

3章 ISIS

17

2011年2月、シリアの反政府デモに対し、アサド大統領は容赦のない武力鎮圧を行った。しかし当初、平和的な反政府デモは続けられた。アサド大統領は元々改革を指向していたがデモには非情な弾圧を行った。またかれは短気で有名だった。

ja.wikipedia.org

 

18

抗議と鎮圧の過激化から、アサドの終わりは近いと考えられていた。しかし隣国ヨルダンの国王は、シリア問題は長引くのではないかと考えた。デモの当初、アサドは拘留していたイスラム過激派を釈放した。かれらが反政府デモ勢力に加担したため、「デモは過激派によるテロだ」というアサドの言説が正当化された。

 

イスラム国の成立:

ザルカウィの死後、特殊部隊による夜襲作戦やスンニ派の抵抗によりイラクアルカイダはほぼ壊滅状態となっていた。ザルカウィの後継組織は、バグダディ氏を指導者とし、「イラクイスラム国」と名称を変えたが、かつての勢いはなく、資源、戦闘員、拠点、大義に欠けていた。

シリア内戦の勃発は、衰退していたテロ組織を蘇らせることになった。

ja.wikipedia.org

 

19

バグダディはイスラム国の分派「アル・ヌスラ戦線」をシリアに潜入させ、カリフ国家建設活動を開始させた。シリアは内乱によって無秩序状態に陥っていた。この状況が、イスラム国に勢力拡大の機会を与えた。

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1971年生まれのバグダディは、イスラム法で学位をとり、学者を目指す無口で目立たない男だった。

イラク戦争はかれの人生を変えた。反政府組織に加わった後、2004年に米軍に逮捕され、Camp Buccaに拘留された。収容所には雑多な工作員や容疑者が詰め込まれており、過激派が教化とリクルートを行うのに最適の場所だった。バグダディはこの刑務所を「ジハード大学」だったと回想している。

眼鏡をかけた学者を米軍は危険度無しと判断し、10か月後に釈放した。

 

かれは「イラクアルカイダ」において、アンバル地方のシャリーアイスラム法)を担当する役職についた。ところが組織のナンバー1、2が米軍に殺害されたため、突如バグダディがトップとなった。

かれはイスラム法によってテロ組織の残虐行為を正当化することができた。またムハンマドの子孫であるBu Al-badri部族の生まれであり、「カリフ制国家の成立」という大義に信ぴょう性を付与することができた。

 

20

2012年、アル・ヌスラ戦線がアルカイダの後継としてメディアに登場し、寄付を募った。アサドを敵視する湾岸諸国の富豪や政治家から大量の寄付があり、ジハードテロリストの資金源となった。アブドゥッラー国王は、過激派を支援する行為はやがて自分たちに牙をむいて返ってくると警告した。

ホワイトハウスでは、反政府勢力に武器支援すべきかどうかが協議されたが、オバマらは中東への新たな介入に消極的だった。パネッタ国防長官はこれに不満を持ちその後辞職した。

 

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2013年4月、バグダディはアル・ヌスラ戦線を廃止し、新たに「イラクとレバントのイスラム国the Islamic state of Iraq and al-Sham(ISIS)」への統合を宣言した。

一方、アル・ヌスラ戦線の指導者Abu Mohammad al-Julaniはバグダディの宣言を拒否し、アルカイダの指導者ザワヒリへの忠誠を表明した。

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ISISはイラク自爆テロを繰り返し、また複数の刑務所から元ザルカウィ組織戦闘員を大量に逃がした。かれらがISISに加わり、シリアの北部と東部に侵攻した。シリア東部のラッカRaqqaはISISに支配された。住民は細かいイスラム法違反で罰金をとられ、それが外国人戦闘員の給料となった。

ラッカからの秘密の報告によれば、戦闘員たちはレストランやネットカフェにおいて我が物顔でくつろぎ、薬局でバイアグラを買っていた。シリア反政府地域での人道支援を担当していた人物は、ISISが勢力を拡大していることを実感した。

 

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2014年春、ISISはイラクの都市ファルージャ、ラマディなど5都市を制圧した。イラクではマリキ首相のシーア派政権がスンニ派の弾圧を進めていたため、アンバル地方(イラク西部)のスンニ派部族DulaimがISISと連合し、政府軍を掃討した。

その後、バグダディの出身地サマラや、イラク第二の都市モスルも陥落した。

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2015年、ヨルダン人パイロットの焼殺動画は、元ザルカウィの師Maqdisiを含め多くの神学者や政府から非難された。しかし、ISISに志願する外国人や若者の勢いは収まらなかった。

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テロの温床となる憎悪は、宗教的な教えではなく、刑務所が生み出していた。

 

 

 

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『Black Flags』Joby Warrick その1 ――イラクのアルカイダがISISに引き継がれるまで

ISIS(イスラム国)発祥の経緯をたどる調査の本。

前半はヨルダンの悪党ザルカウィイラクアルカイダを率いてテロを行うまで。後半は、壊滅したイラクアルカイダがシリア内戦を経て再び活性化し、ISISが誕生するまでをたどる。

 

◆所感

  • ヨルダン人のならず者ザルカウィが、ムジャヒディンから国際テロリストに変貌していく軌跡は、『The Looming Tower』などで描かれているビン・ラディンにも通じるものがある。

 

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  • イスラーム社会は、イスラエルとアラブの対立、過激な神学思想と世俗権力の対立、圧政と失業・貧困など、内部に様々な問題を抱えている。
  • ISISは、ザルカウィが率いたイラクアルカイダと、完全に地続きの組織である。停滞していたテロ集団だったイラクアルカイダは、米軍の撤退とシリアの崩壊を機に拡大を開始した。大人しい神学者だったバグダディを狂信者に変えたのは、米軍の侵略と収容所だった。
  • オバマ政権は就任後、シリアへの大使派遣を再開した。これは、アサド大統領の親欧米派・改革派としての行動を期待してのことだった。
  • シリアにおける民主化デモは当初、アラブの春に影響を受けた住民の自発的行動だった。アメリカは動向を見ていたが、アサドが暴力的鎮圧を始まると、オバマが「アサドは退陣すべき」と発言した。しかし具体的な支援は行わず、やがて過激派が反体制派を乗っ取った。
  • シリア情勢の悪化に際しては、アメリカの消極姿勢が際立っている。これは、巷にいわれる「アメリカの介入が泥沼を招いた」という状況とは反対である。
  • エピローグにおいて、レバノン人ジャーナリストRami Khouriは次のように指摘する。

 

アルカイダイスラム国を生んだ過激化の多くはアラブ諸国の牢獄において発生した。……アメリカ軍の航空機とアラブ諸国の監獄は、アルカイダイスラム国が蔓延するうえで致命的な支点だった。

 

  • アルカイダ構成員やムスリム同胞団といったテロ組織構成員の多くは、かつてエジプトなどの世俗政権によって弾圧され拷問を受けた者たちである。また米軍の収容所はバグダディや過激派たちにリクルート活動の場を提供した。

 


序章

2015年のヨルダンパイロット人質事件と、2005年アンマン自爆テロとの結びつきについて。

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イラクアルカイダザルカウィZarqawiはアンマン自爆テロを引き起こした。その10年後、ISISは、当該自爆テロ犯の生き残りサジド・リシャウィAl-Rishawi容疑者の引き渡しを要求した。

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ザルカウィは元々ヨルダン出身の、高校を中退した無法者で、アフガン聖戦に参加後逮捕され、国外追放された。

2003年、突如アメリカがフセイン政権とザルカウィとを結びつけ(実際は、まったくの無関係)、再び有名になった。イラク戦争後、ザルカウィ率いるイラクアルカイダはインターネットを駆使しテロを繰り広げ、アメリカを泥沼に引きずり込んだ。

ザルカウィビンラディンとは異なり、即時イスラム国家の設立を主張していた。かれの率いる集団はシリアに逃れ、ISと名乗った。

2015年になり、「ザルカウィの子供たち」……ISISがヨルダンに牙をむいた。

 

1章 ザルカウィの出現

1

ザルカウィは1990年代、ヨルダン国内のジハード主義・テロリスト組織に属していた。

この組織は貧弱で、とある構成員はポルノ映画館を爆破しようとしたが上映に夢中になり自分の足だけを吹き飛ばした。

ザルカウィは無表情の、粗暴な人間として、組織のトップである導師Maqdisiを補佐した。

ザルカウィは厳格なリーダーとして囚人を統制する一方、母親と姉妹、仲間の病人には極度の親愛を見せた。特に、弱者に対する思いやりが非常に強く、仲間内で邪険に扱われがちな両足のない男(ポルノ映画館の失敗による)を日常的に手助けした。

 

2

1999年、ヨルダン国王フセイン1世が死亡し、軍人だった長男のアブドゥッラー2世が跡を継いだ。

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初代ヨルダン国王タラール1世はイスラエルパレスチナ人に暗殺され、フセイン1世は15回の暗殺危機に見舞われた。父フセイン1世はアラーの幸運に恵まれたのか、私生活でもヘリや戦闘機の操縦など危険なものを好んだ。

ヨルダンのハシーム家は代々メッカを守護してきた。第1次世界大戦ではアラブの反乱を主導したが、イギリスに裏切られ、ハシーム家にはヨルダン川東岸の砂漠……トランスヨルダンのみが与えられた。

建国以来、ジハード主義者やパレスチナゲリラなどの敵対者は、ヨルダン王国を西欧による分割統治の道具とみなし、テロや攻撃を繰り返してきた。

 

アブドゥッラー2世即位にともなう恩赦によって、ザルカウィらは釈放されてしまった。しかしザルカウィは、牢獄に残された仲間の様子を見に戻ってきていた。かれには強烈なリーダーシップがあったと刑務所の医官が回想している。

 

3

ヨルダン当局は当初、アフガンに行った義勇兵たちを反共の闘士、英米との協調者として見守っていた。ところが、かれらは帰ってくると狂信的イスラム主義者になっていた。

ザルカウィもかつては町の不良に過ぎなかったが、1994年に秘密警察が逮捕したときは、狂信者になっていた。

ザルカウィはジハード英雄になりたがっていた一方で、罪の意識にさいなまれていた。

また狂信者になってからも、未婚女性の家を訪問するなど不可解な行動があったため、監視していた秘密警察は、多重人格ではないかと疑った。

 

4

1999年、ザルカウィがヨルダンを一時出国した際、ビンラディンに会いにカンダハルに向かった。

当時FBIから指名手配されていたビンラディンは、代わりに部下のAl-adelを派遣した。

ザルカウィは、アルカイダに参加するにはあまりに頑固で自己主張が強かった。しかしAl-Adelは、レバント地方イスラエル、ヨルダン、パレスチナ)にアルカイダネットワークを構築する上で、ザルカウィが役に立つのではないかと考えた。

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ザルカウィアルカイダから資金援助を受け、アフガニスタン西部、イラン国境近くに軍事訓練キャンプを作った。

911に伴うアメリカの2001年アフガン侵攻では、ザルカウィのキャンプも標的となり、ザルカウィは負傷した。かれらはイランやイラク北部のクルド人地区に逃れた。

かれは現地の組織アンサール・アル・イスラームと協力しつつ、イラクアメリカとの戦場になるだろうと予言した。

https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ME_N-africa/AI.html

 
5

2002年、おそらくザルカウィの指令により、アンマンでアメリカ人外交官が射殺された(ただしザルカウィ本人は否定している)。

イラク侵攻の口実を作るために躍起になっていたチェイニー副大統領らは、フセインアルカイダの結びつきがまだ見つかっていないために、CIAを突き上げていた。

ザルカウィを担当していたCIAの分析官Nada Bakosに対して、指揮系統に反してホワイトハウスから直接電話がかかってきた。

彼女が、ザルカウィアルカイダのメンバーではなく、フセインと連携してもいないと説明すると、相手は次のように言った。

 

だからなんだ? こいつらはみな同じ目標をもっている、だれが気にするものか。

 

フセインの世俗政権と、イスラム主義のアルカイダザルカウィとは本来天敵である。

ブッシュ政権イラク侵攻の理由を探していることは明白であり、そのためにザルカウィフセインが結びついている必要があった。

 

6

イラク北部に潜伏しているザルカウィの居場所を、CIAは完全に捕捉していた。その近くではイラクの情報機関も、ザルカウィとアンサール・アル・イスラームを監視していた。現地の工作員Faddisは爆撃を提案したが、イラク戦争を計画中のホワイトハウスはこれを却下した。

パウエル国務長官は、「イラク侵攻によりテロリストネットワークを根絶する」と国連で演説していた。ザルカウィのアジト爆撃は、この開戦根拠を崩すおそれがあった。

 

ブッシュと会談したヨルダン国王アブドゥッラー2世は、イラク戦争が深刻な混乱を引き起こすだろうと確信した。ブッシュは「わたしは在任中フセインから逃げたチキンだと思われたくない」と発言していた。

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7

フセイン政権がザルカウィをかくまっている、というパウエル国務長官のスピーチは、「クリーヴランド第23代合衆国大統領が、ジェロニモを西部でかくまっている」という言葉と同じくらい現実からかけ離れていた。

ブッシュ政権によるザルカウィ言及は、かれを無名のテロリストからグローバルジハードの英雄に変貌させた。無数の戦闘員が、ザルカウィを追ってアルカイダに加入した。

 

 

2章 イラク

8

Nada Bakosは占領下のバグダッドに派遣され、尋問を担当した。

ホワイトハウスは、存在しない証拠――大量破壊兵器アルカイダフセインの結びつき――を見つけようと躍起になっていた。

捕虜になったイラク情報機関の高官は、パレスチナのゲリラについては支援を自白したが、アルカイダザルカウィは全く関係がなく、むしろ敵対していたと供述した。
 

ヨルダン大使館の爆弾テロを皮切りに、バグダードは爆弾テロ(国連施設に対する)や狙撃、IED攻撃に見舞われ、治安が悪化していった。2003年8月には、ブッシュ政権の誰も予想しなかった程度まで事態が悪化していた。

ヨルダン大使館、国連施設、ナジャフNajafのシーア派モスク爆弾テロは、ザルカウィの組織による犯行だと判明した。フセイン政権が崩壊した後、ザルカウィの組織は突如勃興した。

ザルカウィのテロは、米軍統治に協力するアラブ諸国や国際機関を委縮させ、米軍を孤立させた上で、イラクの内戦を扇動するものだった。

ザルカウィによる犯行というCIAのレポートは政権にとって都合が悪かった。それは、イラク戦争が勝利とは程遠いことを意味した。

 

9

ブッシュ政権「反乱」insurgencyという言葉を使いたがらなかった。これはベトナム戦争を想起させ、またブッシュの勝利宣言を無効化するものだからだ。

攻撃の直前まで、イラクの警備について全く見積もりがされていなかった。

美術館や政府施設・武器庫掠奪に対し無関心・無力な米兵を見て、イラク人たちは疑いと不満を抱くようになった。このような不信の最大の原因は、イラク軍解体・バース党員の追放によるイラク行政・市民社会の機能停止にあった。

大量の軍人や兵士がアルカイダに流れ込んだ。

 

イラクは単なる石油の産地ではなく、古い部族によって構成される領域だった。スンニ派部族は、アメリカがシーア派アフマド・チャラビらをかつぎ、シーア派民兵の攻撃を黙認していることに失望した。占領後1年で米軍は部族からの信頼を失った。

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