うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『戦争の記憶 ――日本人とドイツ人』イアン・ブルマ その1 ――中東欧の子供に殴られた東ドイツの子供

 ◆メモ

 特に加害者としての記憶とどう向き合っているか、ドイツと日本を比較する本。

 タイトルは、東ドイツの教育をめぐるエピソードとして紹介されていたものである。

 

 東ドイツでは、子供たちは反ファシストの子、ブルジョワ独占資本の権化ヒトラーと戦った、英雄の子だと学校で教育されていた。

 実際にかれらが修学旅行でチェコポーランドに行ってみると、侵略者扱いされ、町の子供に殴られた。

 

 

 著者はオランダ出身のジャーナリストで、長年NYタイムズブックレビューなどで活動していた。

 本業は日本・中国に関する芸術・文化批評だが、イラク戦争を支持したアラブ史学者バーナード・ルイスに対するコメントが印象に残っている。

 

 It is a common phenomenon among Western students of the Orient to fall in love with a civilization. Such love often ends in bitter impatience when reality fails to conform to the ideal. The rage, in this instance, is that of the Western scholar. His beloved civilization is sick. And what would be more heartwarming to an old Orientalist than to see the greatest Western democracy cure the benighted Muslim? It is either that or something less charitable: if a final showdown between the great religions is indeed the inevitable result of a millennial clash, then we had better make sure that we win.

(ブログ作者要約:西洋人のオリエント研究者にとって、その文明と恋に落ちることはよくある現象である。こうした感情は、理想と現実のギャップに直面し、大抵、悲痛な不寛容にいたる。ルイスの例でいえばこの怒りは西洋学者の怒りである。かれが愛した(イスラム)文明は病んでいた。であれば、偉大な西洋民主主義が、迷走するムスリムたちを治療してくれること以上に、年季の入った東洋学者にとって心温まることがあるだろうか? 同時にこれはただの慈善行為でもない。宗教同士の最終決戦が不可欠であるなら、我々はその戦いに勝つべきなのだ)

 

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 著者が強調したかったのはドイツ・日本の両国の共通性であり、民族や文化の相違を超えた部分だったという。ドイツにも、過去の行為に対し、恥を恐れて沈黙を強いる風潮はあり、一方日本にも罪の意識は存在する。

 ドイツ人はこういう民族だ、日本人はこういう民族だ、だからかれらは更生しないのだ、という言説に著者は反論する。

 加害者としての過去と向き合ってきた西ドイツと異なり、東ドイツ、日本はそれを回避してきた。

 日本の戦争認識を一層歪める要因となったのは、東京裁判である。

 

  ***

 敗戦国であるドイツと日本では、戦争の記憶はどのようなものなのか。

 ドイツ占領軍とオランダの複雑な関係……ゲルマン民族に分類されていたオランダ、占領の屈辱について。

 

 ドイツ人たちの記憶とはどのようなものなのか。

 

 ……もちろん、ナチスがその犠牲者より人間的だったというつもりはない。しかし、彼らの方が人間的でなかったと考えることも――たぶん、そのほうが心休まるだろうが――やはり間違いであろう。

 

 ヨーロッパ人戦争捕虜に対してどんなことをしたか日本人はほとんど記憶していない。

 


  ***

 1

 ドイツ

 ドイツのイスラエルに対する感情の変遷、罪悪感からくる遠慮について。

 戦後、ほとんどのドイツ人は親ユダヤ主義者になった。一方、その子供たち、学生運動世代は、イスラエル軍国主義に激しく反発した。

 ヒトラーの評伝を著したヨアヒム・フェストは、ドイツがノーマルな大国に戻るべきと考える立場であり、ヒトラー時代の罪悪感からドイツが湾岸戦争に積極的支援を行わないことを嘆いた。

 ドイツは戦後、日本と同様の反軍・反省的な傾向を持った。

 

 少なくとも二世代のドイツ人は戦争放棄、二度とふたたびドイツ兵を前線に送らないという教育を受けてきた。言いかえれば、ドイツを「スイスを大きくしたような国にする」という教育である。ところが、その一方でかれらはイスラエルの運命に責任を感じ、かつ西側同盟諸国のメンバーとしての自覚を持って、西洋の国家の市民として生きることも教えられた。問題は、はたしてそれが両立するかということだ。もしフセインがほんとうに第二のヒトラーであり、ドイツがユダヤ人を助けられないとしたら、どうすればいいのか?

 

 戦後第一世代には、ナチスとの継続性を連想させるあらゆるものに対する拒否感があった……東ドイツドイツ統一、戦争、野蛮な「アジア」世界(アデナウアーは、ナチはアジアだといった)。

 あるドイツ人は、歴史認識に関して日本と同類扱いされることを嫌がった。

 

 どうか、お願いだから、共通点だけを強調しないでほしい。われわれは日本人とはぜんぜん違う。われわれは日本を強大な国にするのに手を貸すつもりはない。われわれはごく普通の国民、ノーマルな国民なのだ。

 

 

 日本

 著者は湾岸戦争前夜に、防衛庁幹部にインタビューを行った。

 

 日本人はドイツ人に親近感を覚える(規律、几帳面、まじめなど)が、ドイツ人は日本人……アジア的な、集団主義的な人びとと一緒にされることを嫌がる。

 

 日本は19世紀から20世紀にかけてドイツから多くのことを学んだが、それはもはや今の西ドイツのリベラルな気質とは相いれないものなのだ。

 

 日本の平和主義者はすべての戦争を等しく否定する。

 

 ドイツと日本の場合、平和主義は歴史的な罪悪感をやわらげる高潔かつ好都合な方法として機能してきた。あるいは、逆に、罪の意識に耽ることによって、平和主義は国家の罪悪感を美徳に変貌させ、自己満足にひたっている他国とくらべて、ある種の優越感すらもたらす。これはまた歴史的近視眼の原因ともなり得るのである。日本人の思考には、人種、西洋人とアジア人に固執する傾向がある。

 

 亀井静香は典型的な保守政治家として描かれている。

 

 日本人が西ドイツ人にくらべて、自分たちが他国民にもたらした苦しみにさほど注意を払わず、責任転嫁する傾向が強いというのは事実である。そして、リベラルな民主主義は、紙の上ではどうであろうと、日本では西ドイツほど成功していない。

 

 著者の日本評……国家としての主体性がない。無気力であり、政治的な小人。

 敗戦後の、一掃作戦……ドイツはナチズムを排除すればよかったが、日本は伝統的な文化が無作為に禁止された。

 

 戦後、西ドイツは西側に急激に同化していき、自分たちの戦争犯罪やナチの行動を忘れようとした。

 

 

 公職追放とその揺り戻し

 アメリカの指令による非軍国主義化と、反米主義 現在もアメリカの支配下について。
 アメリカのもたらした恩恵と、屈辱感について。

 

 

  ***

 2

 アウシュヴィッツ

 アウシュヴィッツは戦後ドイツ人の精神、ドイツ文化、芸術、創作などのあらゆる領域に影響を与えた。

 ドイツの芸術家たちはアウシュビッツを直接描写することを避けてきたが、その流れを変えたのはハリウッド製テレビドラマ『ホロコースト』だった。

 

 『ホロコースト』はメタファーや暗示が歴史を生かすには不十分だということを証明した。

 

 

 

 アウシュヴィッツをドイツ人の性質にのみ帰すことは自己陶酔につながる。

 

 ……「ドイツ人は崇高な音楽や言語に絶する犯罪をやってのける人種的能力が備わっている」という倒錯した自負となるだろう。

 

 

 ヒロシマ

 原爆に関する様々な解釈について。

ソ連をけん制するための投下

・人種差別に基づくジェノサイド作戦

 

 占領時、アメリカは原爆に関して被害者意識をもたせないよう厳しい検閲を行った。その反動で、原爆は強い反米感情とともに語られるようになった。

 ヒロシマを宗教的な、アウシュヴィッツに似た存在にしようとする試み。

 

 香月泰男のシベリア抑留画は、シベリアにとどまらない広い世界を示す。

 

 広島のある博物館は、施設を平和の拠点として強調するため、侵略の歴史を展示することを拒否した。また、アウシュヴィッツ記念館を広島に建てる計画は、南京事件記念館も併せて建てたいという主張が起こったために流れた。

 

 大久野島の毒ガス工場を、政府は1970年代まで認知しなかった。

 

 日本人が広島の地下に毒ガスを埋めたという事実……その事実は平和記念公園を、そこにある寺院もひっくるめて、もっと歴史的な観点から見直させるものがあった。

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 南京

 南京は、侵略者としての日本を象徴している。一方、南京否定派は学問の世界では相手にされていないが、政治家や一般市民から広い支持を得ている。

 ルース・ベネディクトの「罪の文化・恥の文化」論は一面的であり、日本人も、西洋人と同じように罪の意識を持つ。

 南京の証言者たちについて。

 

  ***
 [つづく]

 

戦争の記憶―日本人とドイツ人

戦争の記憶―日本人とドイツ人

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仏作って魂入れず ――『軍法会議』

 軍法会議は軍隊の規律を維持し軍組織内における犯罪を取り締まるための制度である。

 しかしその運用が適切になされない場合、用をなさないか有害となる。

 自〇隊の法的な位置づけに問題があり、軍法会議が存在しないことが問題視されている。わたしはその説に同意するが、一方、日本軍の軍法会議運用は問題の発生源となっていた。

 

・陸士出身者はほぼ起訴されない

・法務官・法務将校の地位が低く、大半が指揮官・司令官の意向をうかがうだけの存在になっていた。

・そもそも軍法会議を通さない私刑(部下や隷下の憲兵隊を用いた射殺等)が多かった

 

 

 『軍法会議』(1974年)の著者 花園一郎氏は、東大卒業後兵役免除が終わり、当初主計将校として勤務した後、不足していた陸軍の法務官となった。

 南方戦線で職業軍人・キャリア軍人の横暴を目の当たりにし、本書を刊行したという。

 天皇は、自国の軍が本土防衛でなく侵略に加担していることをどう思っているのか、エリートがずさんな運営をしているせいで戦闘に負け国民の命と税金を無駄遣いしていることをどう考えているのか、といった怒りがこもっている。

 

 花園氏はネットでもほとんど情報が載っていないが、終戦後すぐに林野庁農林省)や経済企画庁で勤務したようである。

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 その他メモ抜粋……

 

 著者が大学を卒業し招集されたとき、父親が代議士・徴兵官(聯隊区司令官)と話をつけて、乙種免除にしようと口裏を合わせた。しかし著者は拒否したため、甲種合格となった。

 このような徴兵のがれの工作は意外と多く、特に大阪師団ははなはだしかったようである。国民皆兵は平等のごとくであって、実は裕福な子弟はその気になれば適当に免れていたのが実態である。

 

 招集軍人や下士官兵の敵前逃亡は厳しく罰せられた、あるいは私刑されたが、陸士出身者や将官の類似行為や、窃盗行為は多くが見逃された。

 

 フィリピン方面軍司令官黒田重徳中将は山下泰文中将と交代帰国の際荷物が多すぎて飛行機に積み切れず、お供の副官を別の飛行機に乗せる騒ぎとなった、とフィリピン大使の村田省三の日記にある。黒田中将は、戦犯裁判で、「私はフィリピン方面軍司令官としてフィリピンの防衛準備をしなかったので、米軍の侵攻に役だったと思う」という趣旨を述べたそうで、児玉誉士夫の獄中日記にある。

 

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『ナグ・ハマディ写本』エレーヌ・ペイゲルス その2 ――教会がつぶした初期キリスト教思想

 4 キリスト受難とキリスト教徒迫害

 正統派は、イエスが人間的存在であったこと、歴史的な出来事として磔刑をとらえるなければならないとする。一方、グノーシスでは、イエスは「神の子」でもあるので、かれの内なる神的霊は死ぬことがないとする。

 この強固な正統派の主張も、当時の現実世界と結びついている。

 

 ……信者たちは、彼ら自身の受難と死という差し迫った脅威をもたらす迫害に対して、どのように対応すべきであろうか、ということである。

 

 イエスのいた時代のネロ、その後のアウグストゥストラヤヌス時代を通じて、キリスト教徒は迫害の対象だった。被告がキリスト教徒を名乗った場合それが死刑となった。

 

 この判決は何の役に立つのでしょうか。なぜあなたはこの人を、姦夫でも、姦通者でも、強盗でもなく、まったく何の罪も認められないのに、彼がキリスト教徒という名で呼ばれていると告白したことだけで、処罰したのですか。

 

 多くのキリスト教徒が棄教を拒否し、斬首、火あぶりなどを科された。ローマ帝国の市民はキリスト教徒を追い回し、見世物にし拷問した。

 殉教者(martyrs)の本来の意味は「証人」であり、キリスト教徒を公言し処刑される人びとはキリスト教徒の証人だった。

 正統派は信徒の殉教を奨励した。

 

 さて、ある者ども(グノーシス派)がいうように、……もしキリストの受難がただみせかけだけのことだったとしたら、それでは何のために囚人となり、なにゆえに獣と闘うことを祈り求めるのでしょうか。もしそうだったら、私の死は無駄なのです。

 

 「キリストの人性のみが受難を経験し、その神性は受難を超えた」とするグノーシス派の考えは、殉教者たちを愚弄するものとして映った。

 迫害の時代を経て、各属州のキリスト教徒は互いに連絡をとり、その過程で教義の統一が進んだ。また、殉教においては、大規模な宗派にいるほうが、支配者の不正を訴える点で効果的である。

 

 イエスは霊的存在であるというグノーシス派の見解を拒否して、正統派は、彼も他の人間と同様に、生まれ、家族とともに生活し、飢え、疲れ、食べ、酒を飲み、苦しみ、そして死んだ、と主張した。……ここでもまた正統派の伝承は、身体的経験を人生の中心的事実として暗黙のうちに肯定しているのである。……はるかに多くの人びとが、グノーシス派の「身体不在の霊」という伝承よりは正統派の写実に共感を覚えたことは、何の不思議もないのである。

 

 もっとも、殉教に対する解釈は、正統派、グノーシス派ともに一様ではない。

 

 

  ***

 5 真の教会

 教会の形態についてかれらは非常に異なる見方を持っていた。

 

 グノーシス派は信徒の霊的成熟を重視し、一種、空想的・非現実的な共同体を構想していたが、これは組織に無関心だったというわけではない。かれらは既存の教会すなわち正統派の教会を、明確に否定していた。

 一方、正統派は教会の制度化を進めていた。かれらにとっては位階制がすなわち教会だった。

 

グノーシス……教義・思弁・対話は真理にいたる道

・正統派……教義即真理

 

 正統派は、教義・典礼・聖職位階制を軸として、普遍的な、開かれた教会を目指した。グノーシス主義はこの3要素のいずれにも挑戦した。

 

 

  ***

 6 グノーシス 神認識・自己認識

 『ヨハネによる福音書』は、聖典に入れられているが、グノーシス派の主要な根拠でもあった。

 なお、「I am the way and the truth and the life」はヨハネからの引用である。

 

 正統派とグノーシス派との根本的な争点とはなにかを考える。

 正統派にとって、人間は神とは別であり、人間は罪によって神から引き離されている。そして、信仰によってイエスの宣教を受け入れる者のみが解放を経験する。

 しかしグノーシスでは、人を苦悩に巻き込むのは、罪ではなく無知である。人は自己を探求することで自己認識を得ることで解放を得る。魂(プシュケー)それ自体のなかに、解放あるいは破滅の可能性がある。

 

 あなたがたがあなたがたのなかにあるものを引き出すならば、それが、あなたがたを救うであろう。あなたがたのなかにあるものを引き出さなければ、それは、あなたがたを破滅させるであろう。

 

 『トマスによる福音書』は、神の国の到来を実際の、歴史上の出来事と考える人びとを否定している。グノーシスは、「神の国はあなたがたの只中にあるのだ」とする。人間の解放は暦上の出来事ではなく、内的変容によって起こる。

 グノーシス派の教えは精神療法に似ている。イエスによる指導は必要であるが、それは手段としてであり、成熟すれば人はいかなる外的権威をも必要としない。 

 正統派はイエスの歴史的事実や預言の事実性を重視するが、グノーシスにとっては二義的である。

 

 グノーシスに達した者は、だれでも「もはやキリスト教徒ではなくて、一人のキリスト」になるのである。

 

 霊的修練についての教えはほとんど文書では残されていないが、それは仏教的な秘儀伝授に似ている。

 

 こうしたグノーシス派は組織としては消滅していき、一方、正統派は巨大な組織体系となった。

 

 宗教は、観念なくしては成功しえないけれども、観念だけでは強大にならないからである。同様に重要なことは、人びとを1つの共同関係に同一化して彼らを統合する社会的・政治的構造なのである。

 

 

  ***

 結論

 キリスト教の歴史は勝者である正統派によって書かれたが、グノーシス派の文献を読むことで、我々は、2つの異なる思想が同じ根から生じていることを確認する。

 福音書を読めば、正統派とグノーシスとは、イエスの言葉の解釈をめぐる相違から生じていることがわかる。

 

 正統派はローマの政治的・軍事的組織をモデルとして採用し強固な団体となったが、グノーシスは集団としては消滅した。

 しかし、少数の人びと……ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ウィリアム・ブレイクレンブラントドストエフスキートルストイニーチェらは、イエスの姿に立ち返り、教会制度に反抗した。

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 グノーシス主義を調査研究することは、キリスト教の成り立ちをより深く理解することにつながる。

 おわり

 

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 付属の解説

 本書の欠点……

 グノーシス主義の定義があいまいである。グノーシスの本質は、反宇宙的二元論であり、そこでは「造物主(デミウルゴス)」は負の評価を受けていなければならない。訳者の観点についてはほかの本を読んで調べる必要がある。

 また、キリスト教異端グノーシスだけでなく、より広い範囲(他宗教)も含むグノーシスの概要を知るべきである。

 

 

『ナグ・ハマディ写本』エレーヌ・ペイゲルス その1 ――教会がつぶした初期キリスト教思想

 ナグ・ハマディ文書とは、1945年にエジプトで発見された古代キリスト教グノーシス主義に関する文献である。

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 ナグ・ハマディ文書の内容……大部分はコプト語で書かれたグノーシス主義の文書52編で、著名なものに『トマスによる福音書』、『ピリポによる福音書』、『ヤコブのアポクリュフォン』等。ヘルメス思想の文献、プラトン『国家』の翻訳も含まれる。

 その他の代表的なグノーシス主義文献…『マリアの福音書』、『ユダの福音書

 

  ***

 序章

 1945年12月、上エジプトのアラブ人農夫がナグ・ハマディ近郊でパピルス文書を発見した。

 これらの文書は4世紀、キリスト教がローマを支配するようになった時代に隠匿された、グノーシス主義の文献だった。

 

 グノーシス主義はイエスに関する秘密の伝承を提供しようとするもので、「認識(gnosis)」に重きを置く。かれらによれば、自己を認識することが同時に神を認識することである。

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 グノーシス主義は、当時は自らを異端とは認識していなかった。

・自己認識は神認識であり、自己と神とは同一である。

・イエスは導師に過ぎず、弟子とイエスはやがて対等になる。

・イエスは神の子ではなく、人間と同等である。

 

 ナグ・ハマディ文書は、初期キリスト教に関する定説を覆した。

 初期の段階から、キリスト教は現在では考えられない多様性を持っていた、つまり分裂していたのである。こうした多様な信仰を異端にし排除したのが、2世紀のカトリックである。

 

 文書発見以前の19世紀末から、グノーシス主義研究は盛んだった。グノーシスの定義は非常にあいまいで、学者によって様々だった。

 現在に至るキリスト教の正統とは、一部の文書を選択したものに過ぎない。それは非常に恣意的なものである。

 

 グノーシス主義には、次のような反正統的な思想が散見される。

・苦難、労働、死のすべてが人間の罪に由来するわけではない。

・神は父ならびに母であり、女性的要素も持つ。

・キリストの復活は象徴的に理解されるべきである。

 

 

  ***

 1 キリスト復活に関する論争

 2世紀の正統的教義では、イエスは文字どおり、肉体的に復活したとされている(これを疑ったトマスに対しイエスは自身の体を触らせた)。復活を霊的・象徴的にとらえるグノーシス派などは異端とされた。

 これは政治的理由による。ペテロは「復活の最初の証人」として、キリスト教共同体を創設し、聖職位階制度を確立する権利を得たからである。正統教会すなわちカトリックは、十二使徒のみが権威を授けられたと主張した。

 

 つまり2000年近くも正統的キリスト教徒は、使徒のみが決定的な宗教上の権威を持ち、彼らの唯一の正統的継承者は司祭と司教であり、彼らの叙任は同一の使徒継承にさかのぼるという見解を受容してきた。

 

 ※ 十二使徒……ルカによる定義。ペテロ、ゼベダイの子ヤコブヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブヤコブの子ユダ、熱心党員シモン、イスカリオテのユダ

 

 一方、グノーシスは、カトリック的な肉体復活を否定した。グノーシスはイエスの復活を幻視に近いものと考え、霊的直観が本質に触れたものとして尊重した。心のなかの目でイエスを見るものはだれでも十二使徒と同等の権威を持つとかれらは考えた。また、グノーシス派はキリストが一部の弟子に託した秘密も伝授すると主張した。

 グノーシスは幻視や創造性を重視し、多くの創作的な文献をつくったがそれは正統教義を逸脱したものだった。

 

 

  ***

 2 一神教政策

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 2世紀に登場した信徒マルキオンは、旧約聖書の神と新約聖書の神とがあまりにかけ離れていることに気がつき、神は2人いると主張した。これは明確な異端であり当時の正統派たちによって退けられた。

 グノーシス自体は必ずしも多神教的な思想を持っているわけではない。

 2世紀の代表的なグノーシス主義者ヴァレンティヌスらは、神が唯一であることは肯定した。

 では、なぜ当時の正統派――クレメンスやイグナティウス、エウレナイオス――は、これを異端として厳しく退けたのだろうか。

 

 現代とは異なり、当時は、宗教と政治を明確に区別するという風習はなかった。正統派にとって教会は、神に代わって地上を統治する団体だった。ローマ帝国から反乱者として迫害されたのもこのためである。

 

 神が天国において支配者、主、指揮者、審判者、王として統治しているように、地上においてはその戒律を教会の聖職位階制のメンバーに委任し、彼らが将軍として配下の軍隊を率い、王として「人民」を支配し、審判者として神に代わって指揮を執るのである。

 

 ……なぜなら、教会の位階制度の頂点に立つ司教は、「神の代わりに」統治しているからである。

 

 一方、イエスの授けた秘儀、すなわち真の認識を重んじるヴァレンティノスは、正統派がいう神は、あくまで神のイメージ、「造物主(デミウルゴス)」にのみあてはまる特徴にすぎないとする。造物主とはすなわちイスラエルの神である。

 

 グノーシス主義者が知ることは、創造主が自らの無知から、誤って主権を主張している(「我は神なり、ほかに神なし」)ことである。

 

 グノーシスを達成することで神的力の源泉を認識し、自己を知り、自分の真の父と母を発見する。

 

 グノーシスは、司教と司祭に仕えることを拒否する、心学的な根拠を与えるものにほかならない。いまや入会者は、かれらをデミウルゴスの名において地上を支配する「支配者にして権力者」としてみるのである。

 

 グノーシスを知ることで教会の権威を超越できるというヴァレンティノスらの思想は、権威への不服従を促す危険な思想だった。

 

 グノーシス派の教徒たちは、正統派の許可なく、極めて平等主義的な集会を行っていたという。かれらは聖職者と平信徒、男女の区別という階層秩序を廃した。くじ引きによる役職者の選定は神の意志を反映したものとされた。

 正統派、グノーシス派ともに、政治的動機のために教義を弄していたわけではない。後のルターやパウルティリッヒと同じく、教義と政治は分かちがたく結びついていたのである。

 

 

  ***

 3 父なる神、母なる神

 グノーシス主義における神はしばしば母としての性質を持っていた。神は両性の性質を保有し、あるいは、母は精霊として扱われた。

 イスラエルの神、すなわちデミウルゴスは、母なる「知性」から生じたとする思想も存在した。

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 正統派では神は一切の女性性をはく奪されているが、これには実際的な理由がある。女性としての神を奉じるグノーシスでは、女性もより対等な立場にあった。

 当時の正統派信徒は、グノーシス主義がしばしば「愚かな女性」をひきつけ、また女性に聖職者をさせたり、役割を持たせたりしていることを非難した。

 

 女には、教会で話すことも、教えることも、聖餐を授けることも、男性のいかなる機能に参与しようとすることも許されない。――聖職につこうとする、などということは言うをまたない。

 

 イエスの時代には女性は平等に扱われており、それはローマ社会や小アジア、エジプトでも同様だった。この時代には、女性は比較的自立しており、職業生活にも従事していた。例外として、ユダヤ共同体は女性を従属的地位に押込めていたが、2世紀には正統派がこうした態度を採用した。

 女性の服従化の原因は、ユダヤ人の流入中産階級の信徒増大など諸説あるが未確定である。

 

 1997年、ヨハネ・パウロ二世は、「神は男性であるゆえに」女性が司祭になることはできないと改めて宣言した。

 

  ***

 [つづく]