うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Bismarck』A.J.P.Taylor

 ほぼ十九世紀をまるまる生きたドイツの宰相ビスマルクの伝記。

 テイラーは『第一次世界大戦』をすでに読んだが、本書のほかにも"Struggle for mastery in Europe"という本がある。学者の論文ではなく、一般向けの歴史書のようだ。

 十九世紀ヨーロッパの流れは各国が絡み合ってややこしいので、この本ではビスマルクへの言及に集中する。

 ビスマルクと皇帝、議会の関係には、明治時代との類似が多く見られる。伊藤博文などがいかに彼を参考にしたかがわかる。

 彼には泣き癖があり、よく泣いてヒステリーをおこした。

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 ビスマルクは北ドイツのユンカーの子に生まれた。彼は田舎の出身であり、またプロシア人だった。彼は南ドイツの人間を一度も同胞とは考えなかったという。インテリだった彼の母は、彼を学者かなにかにしようとおもったが、ビスマルク自身はそれを拒否する。ベルリンの大学では数は少ないが終生の友をつくる。この頃ビスマルクは大陸の流行に乗って、革命思想にかぶれ、プロシア自由主義によって拡大しようと考えていた。彼は歴史と歴史小説を好み、作家はとくにスコット、ゲーテシェイクスピアが気に入っていた。哲学には興味をほとんど抱かなかった。総じて、彼の興味は本よりも人間にあった。

 彼は生涯家族以外を愛さなかった。仕事のうえでは話し合いをほとんどしなかった。いわく「頭の中に議会が存在した」

 フランスの一八四八年革命がおこり、ドイツでも少数が暴動をおこすと、皇帝ヴィルヘルムⅣは心労で寝付けなくなる。官吏だったビスマルクは皇帝の妻に訴え助力を申し出る。やがてプロイセン議会がつくられる。

 ドイツ連邦は領邦国家に分裂した状態であり、プロイセンオーストリアがそれぞれ大国として君臨していた。ヴィルヘルムはオーストリアなしに諸侯を併合することにする(小ドイツ主義lesser-Germany)。

 普墺露は神聖協定を結んでいたが、ロシアとナポレオン三世のフランスが敵対したとき(クリミア戦争か?)、ビスマルクオーストリアは中立を守った。このためプロイセンはフランスから領地を分け与えられた。

 ビスマルクは各国にたいして偏見を極力もたず、純粋に利害関係に基づいた判断をおこなった。やがてオーストリアプロイセンが別の道を歩むことになると、ビスマルクは軍制改革を提唱した。

 ポーランドを巡ってプロイセンオーストリアの関係が険悪となる。フランスとロシアの同盟はつづかなかった。ビスマルク保守主義者だが、伝統やナショナリズムの必要は認めながらもこれにさしたる意義を認めなかった。デンマークの王が死ぬと、ドイツ住民の住むシュレスヴィヒ=ホルスタインを得ようとする。これは機会であり、ビスマルクは「人間は波はつくれない、ただ流れに乗ることができるのみである」と言った。しかし、ビスマルク自身は反対票を投じる議員が増えるだけのこの併合には冷淡だった。彼は普通選挙universal suffrageなど自由主義者をどうやって抑えるかにつねに腐心していた。

 デンマークの領土を得るためプロイセンオーストリアは協調するが、オーストリアプロイセンにたいし、イタリアの領土(ロンバルディほか)を要求した。フランスはメキシコに、ロシアはポーランドに、それぞれ執心していたので、オーストリアプロイセンのいざこざにはだれも介入しなかった。

 ビスマルクは戦争の準備をはじめた。ふつう政治家は自分が高貴な精神のもとに活動していることを装い、結果がついてこない。彼らは戦争を計画するのではなく戦争にひきずりこまれる。ビスマルクはすべての手段が失敗した場合戦争を選ぶことを決めていた。彼は戦争を非効率的として嫌っていた。戦争に限らず、ビスマルクは自らの政策にたいし、道徳による装飾をおこなわなかった。

 プロイセンとイタリアは同盟を組み、イタリアはオーストリアからヴェネツィアを奪還しようとした。戦争の指揮はプロイセン参謀総長モルトケがおこなっていた。ビスマルク自身も戦場に赴いた。

 普墺戦争の勝利によってビスマルクは英雄となった。その後彼はプロイセン地域主義を切捨て、ドイツナショナリズムによるドイツ統一を目指す。オーストリアではなくプロイセンによる北ドイツ統一が、ビスマルクに力を与えることになると彼は考えた。自由主義者は彼と意見を同じくしたが、諸侯やプロイセン王がそれに反対した。

 彼の政治家としての姿勢は外交官に近く、利益調整に長けていた。彼はあらゆる協調関係のなかで主導権を得るようにした。君主制、ドイツナショナリズム保守主義といったいかなる党派にも同化しなかったので、彼は自由に動くことができた。とはいえ、最後には、この無党派性によって失脚する。

 ビスマルク北ドイツ連邦憲法制定にとりかかる。その際フランクフルト憲法と合衆国憲法が参照された。ビスマルク案はのちの帝国憲法と同じ意図に基づいている。

 内政に集中している間、ビスマルクにとって外政はなんの問題もないようにおもえた。フランスとは良好な関係にあり、ロシアとは王家同士の結びつきと、反ポーランドナショナリズムという同盟があった。オーストリアは疲弊してプロイセンの脅威ではなかった。イギリスは大陸にたいして孤立政策をとっていた。ところがルクセンブルクをめぐって、フランスとプロイセンは対立する。ナポレオンもビスマルクも、戦争を望まなかった。実際的な目的のあった普墺戦争と異なり、フランスとプロイセンの戦争はどちらが勝利しても結果は悪くなることが明らかだったからだ。

 この時期、ビスマルクは十九世紀楽観主義をほかの国家と共有していた。英国の政治家は、最終的に完璧な自由主義国家が誕生して、立法府は消えるだろうと考えた。社会主義者は社会主義実現によって政治が消滅するだろうと考えた。ビスマルクは、オーストリアの脅威が消えたことで大陸に恒久平和がおとずれるだろうと考えた。彼らは皆、世界が「見えざる手」によって良い方向に動いていくとする自由放任の世代を生きていた。

 政務についているあいだビスマルクは自分の時間をまったくもたなかったが、普仏戦争前に領地を手に入れ、また製紙工場を経営する。

 普仏戦争のあと、ビスマルクはロシアとオーストリアハンガリーとで三帝同盟を締結する。また国内においては文化闘争kulturkampfがはじまる。ビスマルクはNational liberal, 保守党conservativeと協同し中央党The Centreの排除にとりかかる。中央党はローマカトリックの傘下にあり、法王ピオの指令を受けているとおもわれた。当時のカトリックは確固たる政治勢力だった。ビスマルクは結婚を世俗化し、聖職者を国家資格にするなどしてカトリック勢力の抑制をこころみたが、かえってカトリックポーランド人との対立を深めてしまった。また社会民主党Social Democratとの対立、マルクス主義の牽制のために対宗教政策はのちにやわらげられた。

 タバコ税の制定によって中央集権を推進した。タバコ税は「羽からうろこにかわる」と重宝され、フランスその他でも採用されていた。対外的には、普仏戦争後は英国のグラッドストンと同じ方針を選んだ。つまり対外不干渉である。

 文化闘争につづいて保護関税の制定が仕事となった。ビスマルクディズレーリと同じく、普通選挙によってリベラルを排除しようとした。その後ビスマルクはこれまでにない支配力を得る。彼は息子が政敵と結婚すると全力で息子を役職から追放し、また出張先で死んだ政敵を非難した。

 彼の業績のひとつとしてあげられるのが社会保険制度の制定である。社会保険制度は当時あまりにも先進的だったため、社会民主党からも「共産主義的」と非難された。

 テイラーは、原理原則principleの不在をビスマルクの特質のひとつにあげている。革命的だった若い頃、彼は安定と秩序を欲した。政治家となったのちも外交においてはひたすら安定を求めた。そして、保守主義者でありながら進歩的な社会保険制度を採用したのは、彼に教条的な原理がなかったからである。

 もっとも、社会保険制度の制定はこのときは政治に有利には動かなかった。ロシアとの友好のためにオーストリアと同盟を結び、三帝同盟を締結する、フランスとの戦争を避けるために、イタリアとの同盟を利用する、こうした外交姿勢によって、ビスマルクは国家Reighstagからの支持を失った。伝統的にドイツ国民はロシアを憎悪しており、社会民主党、中央党などの野党勢力は反ロシア感情を共有していた。一方ビスマルクは「政治の秘訣はロシアとの友好を維持すること」というくらいロシアを重視しており、ヴィルヘルム一世もこれに従った。三帝同盟は対イギリスの意味合いが強く、実際、アフリカや太平洋では植民地紛争がはじまりつつあった。

 八〇年代中頃、フランスがドイツに対し「復讐」を唱えはじめ、ポーランドをめぐって独仏露が対立すると、ビスマルクはこの外事危機をたくみに内政に利用する。彼は戦争の危機を叫び、新陸軍法の制定を目指し、議会を解散させる。これに国民は扇動され、保守党と国家自由党が一大連立与党となり、社会民主党および進歩党は惨敗する。また中央党を取り込むために、今度は文化闘争の終結を唱える。

 ヴィルヘルム一世が死んだあと、息子の若きヴィルヘルム二世が皇位を継承し、ビスマルクの言うことを聞くかにおもわれた。ところが皇帝はビスマルクを退け、失脚させた。

 ビスマルクは引退後、退屈だ、飽きた、とぼやきつづけ、現在進行中のことに一切関心をもたなかった。

 彼は世の中から忘れられて、人生が始まっていない学生と、人生の終わった老人だけが彼を訪問した。来訪者にたいしてはいっさいビジョンを示さず、ただ自分の築いたものを保守せよとだけ伝えた。彼は生涯、宮廷のことしか頭になく、議会や民主主義にたいして冷淡だった。とはいえ絶対王政主義者でもなかった。

 ビスマルクは一八九八年に死んだ。

 

Bismarck: The Man and the Statesman (Penguin history)

Bismarck: The Man and the Statesman (Penguin history)