一九一四年
フランツ・フェルディナンド夫妻が大学生ガブリロ・プリンチプに射殺される前にも数回暗殺未遂がおこなわれていた。セルビアはスラヴの国であり、オーストリア=ハンガリーがセルビアにたいし宣戦布告するとロシアが対抗した。ドイツとオーストリアは兄弟のようなものだった。ドイツ軍はシュリーフェンプランに基づき侵攻した。司令官小モルトケはやがて更迭されファルケンハインが指揮をとった。
ドイツ軍はベルギーに侵入し英軍と仏軍をやぶった。しかしパリ間近のマルヌのたたかいでフランス軍は抵抗し勝利した。
攻撃思想がもてはやされていたのとは裏腹に戦争は圧倒的に防御が有利だった。進軍手段が徒歩行進に限定されていたのに対し、防衛側は鉄道で直ちに補給できたからである。
東部戦線では老将ヒンデンブルクと若いルーデンドルフがロシアと戦った。
イギリスの士気は高かった。ロイド・ジョージは煽動家としてすぐれた手腕をもっていた。キッチナーのポスター"Briton need you"。
一九一五年
これが実用化されたのは一九一七年である。一九一五年イープルの戦いでドイツ軍は毒ガスを使用した。ところが自軍にも被害が出た。シャンパーニュの戦いにおいてフランス軍が三万人の死傷者を出した。トルコ、メソポタミア方面ではイギリスがアラブの族たちを煽動したのだった。
連合国は中東のとりあいをしていたのだがアラブ人には独立を約束していた。これがのちに問題になる。
一九一六年
ヴェルダンの戦いでドイツ軍は大砲撃をおこないフランスに大損害を与えた。この直後にイギリスがソンムに攻め込み例の惨事がおきた。イギリス軍は初めて戦車を投入した。実用化されるのは1917年になってからである。
この頃ドイツの食糧は不足してきた。ロシア将軍のブリシーロフ攻勢によってオーストリアは壊滅的打撃をうけハプスブルクの権威は落ちた。同時にロマノフ家も威信を失った。
ドイツ海軍士官の屍体からみつかった暗号表をたよりにイギリス海軍はドイツ海軍を罠にはめようとした。こうしてユトランド海戦がおこったがあまり功はなかった。
アイルランドでおこった共和派の蜂起はすぐに鎮圧された。
一九一七年
ドイツの首相はベートマン・ホルヴェークだった。ドイツの無制限潜水艦作戦によってアメリカが参戦したものの、はじめは兵器の不足に悩まされ連合国から借り受けなければならなかった。一方連合国は、アメリカから大量の借款を受けた。ロシアでは革命がおこりニコライⅡは退位、はじめはケレンスキーが指揮をとった。やがてトロツキーとレーニンらがやってきて社会主義の建設をはじめた。アラースとエーヌ河のたたかいで英仏は消耗しフランス軍の二ヴェルは失脚した。つぎにやってきたのは防戦論者のペタンである。
ヘイグによる第三次イープル攻勢、通称パシャンデールのたたかいは大失敗となった。ソンムにつぐ死傷者の結果、確保できたのはパシャンデールという廃村ひとつだった。これは泥とドイツとを敵にした愚策だった。それでもヘイグは自分の正しさをうたがわなかった。
ロシアはドイツと休戦協定を結び大戦から退場した。
百万ポンドの爆薬によるドイツ軍の立派な塹壕の破壊。イタリアはオーストリアと闘ったがドイツの援護をうけたオーストリア軍におされカポレットから退却した。ブルガリア、マケドニアをめぐる列強の争奪戦。戦線は長く伸びるとそれだけ薄くなる。砲撃をすれば砲弾溝によって味方の進軍も滞ってしまう。
一九一八年
連合国は優勢になった。ソ連はブレスト=リトフスク条約締結によって、過去に拡大した領土をすべて失った。ウィルソンの講和によりハプスブルク傘下の民族は独立しオーストリア=ハンガリーは空中分解した。ドイツでは革命がおこった。終戦は休戦のかたちをとった。フランスはいくさがおわったことで歓喜した。
日本にとっては山東半島をかすめとっただけの事件だったがヨーロッパはこの戦争で疲弊したのだった。アメリカがこの時点で最強の国家になっていた。
ソ連ではレーニン率いる赤軍が反革命勢力との闘争をはじめた。ドイツは多額の賠償を背負った。この頃ヒトラーはオーストリア人の伍長だった。
大戦はヨーロッパ文明を崩壊させたようにもおもえたが二十五年までにほとんどの国は戦前の生産力を越えた。復興がすすみ若者の数も増えた。
テイラーはこの戦争を「ドイツ問題の処理」と評する。