うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Diplomacy』Henry Kissinger その3

 ~戦間期から冷戦の始まりまで~

 

 ◆ヒトラーの台頭

 ヒトラーが台頭し、ドイツはヴェルサイユ条約を放棄した。戦勝国は分裂し、国際連盟は、1932年の満州事変で既に明らかになったように、無力だった。

 キッシンジャーは、イタリアのエチオピア侵略を黙認してでも、ドイツ包囲網を築くべきだったと考える。実際はその逆になり、英仏はイタリアに経済制裁を課し、ドイツと妥協した。

 ストレーザ戦線は、英仏イタリアの連帯を目指すものだったが、イギリスがドイツと単独宥和政策(海軍協定)をとったことにより失敗した。

 ヒトラーヴェルサイユ条約を盾にラインラント進駐とオーストリア占領、ズデーテン地方併合を実行した。しかし、倫理規範……民族自決の原則を破ったことで、英仏からの信用を完全に失った。これがヒトラーの破滅の兆候となった。

 ラインラント進駐に対しフランスが進軍していれば、ドイツは即時撤退し、ヒトラーの脅迫外交は終結していただろうと著者は考える。

 ミュンヘン会談は、当初歓迎されたが、ドイツがチェコに進駐すると評価は一変した。

 キッシンジャーの考えでは、ヒトラーの台頭を許したのは理想主義と集団安全保障である。

 キッシンジャーが勢力均衡と現実主義を重視する原点は、ヒトラーにあるのではないかと推測する。

 

民族自決、諸国の平等の原理を固守したため、ドイツのドイツ人居住地域併合と再軍備を許した。

・たとえ国際連盟の理想に反していようと、イタリアと妥協し、ドイツの復活を阻止するべきだった。

 

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 ◆英仏ソの不和、第2次世界大戦

 スターリン共産主義者だが、外交においてはリシュリューと同じく現実主義者だった。

 ナチズムと共産主義の協調はありえない、と考えた民主主義諸国の方が、イデオロギーに基づいた外交を行っていたといえる。

 ミュンヘン会談は、ドイツの東方膨張を容認するように思われた。スターリンは、英仏との同盟に懐疑的だった。ソ連に対しドイツをけしかけて、英仏だけが逃げる可能性があったからである。

 スターリンは自国の安全と領土の奪回を達成するため、独ソ不可侵条約を締結した。

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大衆社会の世紀が、ヒトラースターリンという1人の人物によって振り回されたのは皮肉である。

・フランスはマジノ線にこもったまま何もせず、やがてドイツ軍はマジノ線のないベルギーを通ってフランスを侵略した。

ソ連フィンランド戦争に対して、英仏はフィンランドを支援しようとした。独ソ双方を敵にまわしたという点で、英仏は現実主義を見失っていた。

スターリンヒトラーが合理的に行動すると考えていた。最終目標がロシア侵略であることはわかっていたが、二正面作戦を開始するとは予想できなかった。

ヒトラーソ連侵攻の賭けに出た結果、負けた。

スターリンは外交においては忍耐強く、現実主義的である。一方、ヒトラーは戦争を求めており、辛抱ができない。

ヒトラーには原則があるが戦略がなく、スターリンはその逆である。

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 ◆戦後の外交

 第1次大戦以降、孤立主義的だった合衆国を参戦に導いたルーズベルトに関して、キッシンジャーの評価は大変高い。

 長く孤立主義的だった国民の世論を、ルーズベルトは談話や外交によって徐々に変えていき、対日参戦前夜にはヒトラーを打倒すべきとの意見が多数となっていた。

 ルーズベルトヒトラーが国際秩序の障害になり、またドイツの覇権を許せば米国にも影響が及ぶと考えていた。かれはレンドリース法により英ソ中を支援した。

 米国の参戦を後押ししたのは、枢軸国の強硬な態度だった。

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 米英ソそれぞれの外交政策について。チャーチルは伝統的な勢力均衡を、スターリンは国際共産主義とロシアの拡大政策を主張した。

 ルーズベルトの構想は、ウィルソンの理想主義に続くものである。

・「平和愛好国」米英中ソにより、攻撃的国家日独伊およびフランスを管理するという「4か国警察国家」のアイデアを考案した。

・英仏の植民地主義は廃止する。

 しかしルーズベルトの国際秩序構想とスターリンの「現実政治Realpolitik」は徐々に乖離していき、東欧支配をめぐり意見は分かれた。ルーズベルトスターリンに譲歩した。

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 ◆冷戦の始まり

 ルーズベルトが死ぬと、米英ソの溝は深まっていった。著者はトゥルーマンを高く評価する。かれはルーズベルトを継承したが、スターリンの拡大主義には譲歩しなかった。

 徐々に米ソの相互不信は高まっていった。スターリンは、西側が反発することを予想できなかった。

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 ◆封じ込め政策

 封じこめ政策の開始について。

ジョージ・ケナンは、ソ連と民主主義国との対立は本質的なものであり、封じこめる必要があると主張した。

トゥルーマン・ドクトリンは、イデオロギーの対立を明確化したもので、冷戦を決定的にした。

・米国は現状の勢力圏を保持し、ソ連を封じ込めるため、自由と民主主義を理想とする外交方針をとった。これはウィルソン主義の再来であり、その是非について現在でも論争を招いている。

・軍事力と経済力による影響力の確保……マーシャル・プランとNATO

・米国は西欧諸国との軍事同盟であるNATOを成立させたが、既存の同盟ではなく、原理に基づく集団安全保障だと主張した。

ソ連は東欧各国において共産党や反乱分子を操り傀儡政権を成立させていった。

 

 一方、封じ込め政策に対しての反論には次のようなものがあった。

・軍事力の差がある終戦直後のうちに、ソ連の拡大主義を抑止するべき(チャーチル)。

・原則に基づいて他国を支援することは米国の国益にならず、無用なコストになる(ウォルター・リップマンら現実主義者たち)

・東西は政治思想が異なるが、共存できるはずだ(リベラル派)。

 

 このようにして米国は、戦略ではなく、価値を重んじる理想主義に方向転換した。

 冷戦は、共産諸国の体制変革を目的としていた。自由と独裁との戦い、善と悪との戦いが主眼となった。

 チャーチルは、完璧な理想を求める米国の戦略が失敗すると予測していた。

 英国は歴史上、多くの不完全さと妥協することで事態を解決してきたからである。

 

ジョージ・ケナンの予測……共産主義体制は自壊するだろう。

・リップマンの予測……封じこめ政策により米国は消耗し、国益を見失うだろう。

 

 [つづく]

 

Diplomacy (A Touchstone book)

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