うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『いじめの構造』内藤朝雄 ――閉鎖空間からの脱出

 ◆所見

 いじめの性質やいじめを生む構造を提示するだけでなく、そうした閉鎖集団が社会の基礎部分に蔓延する状況を、中間集団全体主義社会として提示している。

 学校や職場で生じる醜い状況をほぼ正確に分析しており、解決策も説得力のあるものである。

 このような社会で育った人間が市民社会的な理念……自由、公平、公正、人権等を嫌悪・憎悪するようになったとしても不思議ではない。

 

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 本書は、人間の普遍的現象としてのいじめを論じる。考察対象となるのは主に学校である。

 

 1 「自分たちなり」の小社会

 いじめは学校独特の秩序のなかで行われており、子供たちは非常に付和雷同的である。そこでは市民社会の秩序が後退し、学校的な秩序が蔓延する。子供たちの秩序において命や善悪は重要ではない。

 

 

彼らは人権やヒューマニズムを生理的に嫌悪する。それらは、かれらなりの倫理秩序にとって、本当に「悪い」ことだ。

 

 

 子供たちは「残酷で薄情なものでしかない群れに対する」忠誠と紐帯に依存している。

 群れの勢いによる秩序、群生が畏怖の対象・善悪の基準となる型を「群生秩序」と呼ぶ。群生秩序は、普遍性と人間性を重視するいわゆる「市民社会の秩序」とは異質である。

 子供たちの秩序においては上下関係、群れの空気・雰囲気(ノリ)に従うかどうかが善悪の基準となる。群生秩序においては、みんなの関係が第一にあり、個人は二の次である。

 

その場の空気を読んで集団に同調することが唯一の規範である学校共同体では個人の責任などという事態は生じえないのだから、かれらは自分の行いに対して責任をとろうとはしないだろう。

 

 

 2 いじめの秩序のメカニズム

 宿主を操る寄生虫のイメージを用いて、生徒に寄生し行動を操作する「社会」の性質を説明する。

 

 人は不全感(存在していることが落ち着かない)を持つと、錯覚としての全能感(なんでも思い通りになる)を持つようになる。全能感は、必ず一定の体験によって得なければならない。全能感を得る方法は、暴力、暴走、性行為、スポーツ、アルコール、仕事と千差万別である。

 

多くのいじめは、集団のなかのこすっからい利害計算と、他人を思い通りにすることを求めるねばねばした情念に貫かれている。この情念の正体は、他人をコントロールするかたちを用いた、全能気分の執拗な追求である。

 

 他者コントロールによる全能の中にいじめも含まれる。

 コントロールの対象が反抗した場合、加害者は自分の世界を壊された、全能感を壊されたとして激しい怒りにさいなまれる。

 いじめは、全能の自己と、尊厳を踏みにじられ、奴隷となる他者という関係を基盤に成り立つ。この関係には直接暴力から主人奴隷型、玩具かわいがり型まで幅がある。

 被害者はこの関係を維持しながら友達への格上げを願ったり、消極的な反抗に出がちだがこれは危険である。一気に相手との関係を崩すような刑事告発や通報が最も効果的だが、学校はこうした学校権力からの解放を嫌悪する。

 

 

 3 「癒し」としてのいじめ

 いじめられた経験を持つ者、理不尽な暴力に痛めつけられた経験を持つ者は、自分の体験を他人に投影し、被害者を自身の体験の容器として扱う。いじめにおけるこの現象を、投影同一化と呼ぶ。かつてのいじめ被害者は、いじめをすることにより癒しを得る。

 いじめ被害者は自身の体験によって自分が強くなった、タフになったと考えることで全能感を得、癒しを得る。

 また、いじめ加害者のうち正面から攻撃を加えず陰で画策するものは、うまく世渡りをしている自分に全能感を得る。

 いじめ被害者が、うまく立ち回る者へ、そして加害者になることはよくある。

 

つまり、このような生徒たちにとっては、自分が所属し、忠誠をささげ、規範を仰いでいる社会は、人を殺してはいけないとする社会や、法律で人びとを守っている社会ではなく、涙を流しながら「世渡り」することで自分たちが「タフ」になってきた社会である。生徒たちは、学校で集団生活をすることによって、このような集団教育をされてしまう。

 

 このような群生秩序においては、上位者の要求にすなおに答えるような身分の認識が必須となる。それは場の空気にあわせるだけでなく、なりきることであり、なりきる以外に生きるすべがない。

 

 

 4 利害と全能の政治空間

 他者をコントロールしたいという全能感は、通常利害意識と結びつく。

 

市民社会の論理を学校に入れないことが、ハードケースを頻発させている。暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)暴力系のいじめは確実に止まる。

 

 利害と全能が結びついた政治空間では、「一貫した人格状態を保持するのが難しくなる。むしろ、利害に対して昆虫のような反応を示す人格以前の存在に、解離した人格の断片が薄皮のようにはりついているほうが、群生秩序には適応しやすい」。

 閉鎖されたコミュニティは、権力闘争の絶えない、冷酷な政治空間を生みがちである。

 利害図式に基づく権力は、生活環境や構造が変わることで消滅もしくは変化する。

 

 

たとえば内申書制度が廃止されれば、教員は気に入らない生徒の将来を断ち切ることを「やりたくてもできない」。学校に法が入れば、気に食わない人を「殴りたくても殴れない」。学校が閉鎖的でなく、人間関係を選択できる自由度が高ければ、「友達」を「しかと」で震え上がらせることはできない。

 

本当はいっしょにいたくない迫害的な「友達」や「先生」と終日べたべたしながら共同生活を送らなければならないという条件に、さまざまな強制的学校行事が重なる。さらに暴力に対しての司直の手が入らぬ無法状態であるということが、この事例のような集団心理―利害闘争の政治空間がはびこる好条件を提供している。

 

 

 5 学校制度がおよぼす効果

 日本の学校制度は生徒を全人格的に囲い込む学校共同体イデオロギーに基づいており、学年、学級、部活動、学校行事等を通じて絶えず生徒同士の関わり合いを強制する点で、学校は非常に「迫害可能性密度」の高い空間である。

 教員や一部の生徒による暴力支配は、本来なら警察がかれらを逮捕すべき問題である。

 

これが、一部の独裁国家や、武装民兵が支配する地域をのぞく、まともな法治国家のありかたである。

 

……加害生徒グループや暴行教員は、自分たちが強ければ、やりたい放題、何をやっても法によって制限されないという安心感を持つことができる。

 

 また、過剰接触状態を強制する学校では、無視する、悪口を言う等のコミュニケーション操作から逃れることができない。

 

 生徒たちに親密さを強制する様子は感情奴隷といえる。強制的に友達にさせられる、友達を選択する余地のない環境では、子供たちは自分の人格を変えようとする。

 

……しかとや悪口(ぐらいのこと!)で自殺する生徒がいるのは、このような生活空間で生きているからだ。市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が、狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ、集団生活のなかで自分を見失った人には、地獄に突き落とされるような苦しみになる。

 

 これまでに説明したような人間の生態を、政策レベルでコントロールしようとする試みを、生態学的設計主義と呼ぶ。この主義は、良いほうにも悪いほうにも利用可能である。

 

 世界の学校制度には、共同体的に縛り付けるタイプ(英米、日本型)と、自動車教習所型(ドイツ、フランス等)、また地域共同体型(薩摩藩社会主義諸国)等がある。

 

(教習所型学校では)暴れたらあっさり法的に処理され、学校のメンバーシップも、しばしばあっさり停止される。

 

 

 6 あらたな教育制度

 いじめの温床である学校制度を変えるための提言。

 

 短期政策:

・学校の法化(治外法権の廃止、加害者メンバーシップの停止)

 

学校に限らず、個を守るために法が入らず、仲間内の脅しや暴力に対してなすすべがない「泣き寝入り」状態を日常的に体験させることは、市民的な現実感覚を破壊し、群生秩序を骨の髄まで習慣化する教育効果を有する。それに対して、仲間内の勢力関係をとびこえて法によって加害者が処罰されるのを目撃する体験は、中間集団は強い者が弱い者を圧倒する力によって治められるという秩序学習をさせず、普遍的な正義が法によって守られていることを学習させる市民教育として効果がある。

 

・学級制度廃止

 開かれた交友関係の世界では、つまり市民社会では、「しかと」や「無視」といった行為は意味がなくなり、逆に加害者が相手にされなくなる。

 

 長期政策:

 筆者は教育制度を改革するための根本思想として「自由な社会」を想定する。それは構成員に対し特定の生き方や幸福の形を強制しない社会である。自由な社会実現のためには様々な政策が必要であるため、ある程度の規模の政府が必要になる。

 

・閉鎖的な空間を廃し、生活圏の規模と流動性を拡大

・公私を峻別し、客観的・普遍的なルールを通用させる

 

「仲良く」しなければ仕事や勉強にならない社会では、生きていくために「へつらう」、つまり上位者や有力なグループに自分の生のスタイルを引き渡さざるをえない。

 

自由な社会は、他人の自由を侵害する自由を認めず、それを徹底的に阻止する。
このような社会のおいては、子供も大人も自己は確立されておらず、自ら試行錯誤して生き方や絆、共同体を見つけていくことになる。

 

 

 長期政策:

・義務教育を以下の項目に限定する……読み書き、お金の計算、法律と公的機関の利用法

・国の配布するバウチャーを利用し、学習サポート団体を活用し国家試験に備える

・義務教育は大幅削減され、代わって教育を受ける権利を拡大させる→生涯学習・社会教育への重点移動

 

 教育は技能習得系統と生活充実系統に分けられる。教育業務と資格認定業務は峻別される。

 

 

 ※

 他者コントロールが利害と結びつくとき、暴力はエスカレートしがちである。以下の例は、全能支配暴力が利益追求と結びついた例である。

 

魔女狩り(金儲けのよい手段)

・暴行教員は出世しやすい

・非常識なことを言うと出世する軍部

文化大革命

民族浄化は、有力グループによる利益獲得競争の延長だった

 

 

 7 中間集団全体主義

 全体主義国家においては、本来個人に対する防波堤となるべき中間集団が、個人を締め付け、全体主義的支配を支えた。これを著者は中間集団全体主義と定義する。

 

各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に(頭のてっぺんからつま先まで)埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂し、金太郎飴の断面のように社会に偏在している場合に、その社会を中間集団全体主義社会という。

 

 戦時中の隣組や大日本少年団にまつわる体験は、学校のいじめと酷似している。

 

小権力者は社会が変わると別人のように卑屈な人間に生まれ変わった。

 

 企業や学校には全体主義が蔓延しており、国家はこれを規制する政策をとってこなかった。結果、国家全体主義は消滅し、見かけ上は自由主義的な先進国だが、例えば労働者の隷属度は旧ソ連よりも高いのではないか。

 

 トクヴィルの『アメリカの民主主義』には、各自治体が厳格なピューリタン主義に基づいて統治をおこない、個人の自由を圧殺する光景が記録されている。

 

 おわり