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◆ラインハルト作戦
1941年、ヒムラーはロシア・ユダヤ人と同様、ヨーロッパのユダヤ人も絶滅させるよう指示した。射殺は現場隊員の精神的負担が大きいため、新しい方法として絶滅収容所が考案された。
オディロ・グロボクニクはオーストリア出身の親衛隊員で、当時ポーランド・ルブリン地区の担当者だった。
グロボクニクは命令を受けて管内にベウゼツ、ソビボル、トレブリンカ等の収容所を建設した。
問題は、ユダヤ人の移送に割り当てる人員が不足していることだった。そこで、かれは秩序警察や外国人義勇軍(バルト三国やウクライナ人、反共すなわち反ユダヤ人の勢力)を活用した。
本作戦によりヨーロッパ・ユダヤ人200万人前後が殺害されたという。
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1942年、輸送上の障害が発生し、絶滅サイクルが一時中断した。しかし、作業を滞らせることはできない、とグロボクニクは判断し、第101警察予備大隊に射殺行動を実施させることにした。
トラップ少佐はユダヤ人の住むヨゼフォ村虐殺の命令を下した後、子供のように泣きじゃくっていたという。
しかし森の射殺現場には近寄らず、本部にこもっていた。
10人程は少佐の指示により射殺を拒否し、別の任務につかされた。
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大隊メンバーは精神的にショックを受け、アルコールを大量に摂取した。以後、酒気帯びでの射殺が通常となった。
かれらにとってその日の任務はタブーとなった。多くの者が疲弊したため、その後しばらくは、移送任務が主となった。
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再びロマジー村で1700人を射殺したときには、大隊の様子が変化していたという。
・トラウニキ……赤軍捕虜から登用した外国人志願兵たちが射殺隊の大部分を占めた。警察官たちはかれらに過酷な作業を押し付けた。トラウニキのほとんどは泥酔していた。
・警察官たちは殺人に慣れ、比較的スムーズに虐殺した。
・トラップ少佐が任務拒否の選択肢を与えなかったことで、かえって部下たちの精神は安らいだ。
自分では回避できなかったという正当化ができるからである。
・グナーデ中尉は残虐性を発露し、裸のユダヤ人を棍棒で殴った。別のSS将校は屍体の山に座り込んでユダヤ人を処刑した。
・血の水たまりがひざの高さまで達した。屍体は血の海で浮かんだ。
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やる気に満ちたSS将校が、新婚の妻を移送現場に連れてきてユダヤ人の射殺を披露する。
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大隊の1人をポーランドレジスタンスに殺害されたことを受け、報復として200名を殺害せよとの命令が司令部から下された。
トラップ少佐はポーランド人を殺すのを躊躇した。そのため、80人の、身寄りがなく貧しいポーランド人を処刑した後、近くのゲットーに行き、員数合わせのため120人のユダヤ人を処刑した。
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移送業務は続けられた。
実業家から予備役として召集された将校のブッフマンは、射殺行為をかたくなに拒否した。
結果、かれはハンブルクに送還されたが、軍内で昇進を続けた。トラップ少佐は人事上の不利益がかれに振りかからないよう評定していたようだった。
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・処刑の際にいつも腹痛になる将校は、その後、前線では勇敢に働いた。卑怯者だが、ジェノサイド行為に対しては拒否反応が出たのかもしれない。
・警察慰問団がやってきて、大道芸や音楽で部隊を楽しませる一方、ユダヤ人の試し撃ちをしたいと申し出る。
[つづく]
Ordinary Men: Reserve Police Battalion 11 and the Final Solution in Poland
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