うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The twenty years' crisis, 1919-1939』Edward Hallett Carr

 戦間期の説明だけでなく国際政治・国際関係の概説も兼ねている。

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 1 国際政治学

 第一次大戦を経て、戦争と外交がそれぞれ兵隊と外交官だけのものであるという認識はおわり、国際政治の普及・大衆化が要請された。国際政治学は、ほかの諸科学と同様、願望からはじまった。科学はユートピア・願望(理想主義)からはじまり、やがて事実に立脚した実証的な学問へと移行していくのが常だが、政治の場合は物理学や数学とは少し異なる。なぜなら政治学の対象は人間であり、政治学の活動自体が対象に影響を与えるからである。

 現在にいたるまで、理想主義と現実主義との対立はつづくが、真に優れた政治学はこの双方を持ったものであるはずだとカーは考える。

 彼はユートピアニズムとリアリズムという二項対立を中心に国際関係を考える。未来志向と過去志向、知識人と官僚、革新と保守といった対立も、大元は理想主義とリアリズムの対立にあるという。

 2 国際危機

 20世紀前半の国際危機におけるユートピアニズムは、十九世紀の楽観的思想にその起源をたどることができる。ベンサムやその弟子ミルら功利主義者や自由主義者は、知識と大衆を信頼した。知識は人びとを戦争から遠ざけ、また大衆の意見は正しい。これは民主主義の根幹でもあった。ヴェルサイユ体制と国際連盟の立役者、ウィルソンたちはユートピアニズムの体現者だった。

 ラッセルいわく「形而上学者は野蛮人のごとくにことばと事象とのあいだの魔術的なつながりを信じる」そうだが、彼らは、教育された大衆の意見こそが、紛争を根絶してくれると信じたのだった。この楽観主義はまもなく崩れることになる。

 The Manchurian crisis(満州事変)が一九三一年に発生すると、こうした傾向は影を潜める。それでも米国の世論にたいする信頼は強く、「国際世論による糾弾」こそがもっとも有効な武器だという発言が各所で見られた。

 十九世紀の楽観主義は経済学にもあらわれたが、そのもっともたるものが「レッセ・フェール」信仰である。利益をもとめる諸個体が結果的に全体の利益を増進させるという主張は、国際政治の世界にも転用された。しかし、自由市場・自由競争信仰は二十世紀に入っても決して達成されることがなかった。

 レッセ・フェールで得をするのは経済大国であり、彼らのための犠牲になるだろう弱小国が自由貿易をおこなうインセンティヴがそもそも存在しないからである。

 マキャヴェリの「現実肯定」をリアリズムの基準とした場合、ホッブズ、ボダン、スピノザらにつづくリアリズムの子孫として、ヘーゲルマルクスもあげられてしまう。彼らは歴史主義の立場に立ち、「世界史が世界の法廷」であると主張した。

 マルクスが過去の分析からプロレタリアートの勝利を予言したのは、「現実肯定」に基づいている、というのである。カーはヘーゲルマルクス主義もリアリズムの一派と考えている。

 リアリズムからの批判に「思考の相対性」がある。思考は環境によって定められることが多く、また目的のために論理がつくられることもある。「思考は環境に左右される」はマルクスが代表的な主張者である。

 カーは実例として「白人の責務」をあげる。英米に見られる、国益と普遍的善との融合は、アングロサクソン特有の精神機能ではないかという説もある。

 秩序をつくったものが正義を独占する。

 政治とはつねに理想主義とリアリズムの混交である。理想が実体化されようとするとすかさずリアリズムからの批判がおこる。このリアリズムもまた理想主義をはらんでいる。政治は理想主義とリアリズムの輪廻によってなりたつ、とカーは考える。

 

 3 政治、力と道徳

 本章では国際関係における道徳と力の役割を考える。前章で論じられたユートピアニズムとリアリズムとの対立は、政治における道徳と力との対立と一致する。政治は道徳と力、理想と現実の妥協の場であり、どちらかが欠けるということはない。軍事力を唯一の原因とした場合、モーゲンソーのようにEUの成立が説明できないという事態が発生する。道徳と力の双方を関数と考えるべきである。

 国際政治における力は、軍事力と経済力としてあらわれる。軍事力は国力に直結する。軍備の差が国力の差であり、先進国による武装解除軍縮は国際関係における力の存在を示している。軍事大国とは軍備において強国にくらべれば劣っている国のことであり、福祉国家とは十分な軍備をもつので福利厚生に予算をまわす余裕のある国のことである。

 経済力の行使には、アウタルキーや外国市場の支配などがある。アウタルキーブロック経済に対抗するための弱小国の手段としては当然のものだった。また外国市場の支配は戦間期の英米仏や、東・中欧市場を支配したドイツなどの例を見れば明らかである。

 では、経済による力の行使は軍事力の行使よりも道徳的だろうか? カーは一般的にはそうだが、例外もあるという。ブロックによる囲い込みや経済制裁は、ときには空襲よりも深刻なものである。

 第三要素としてあげられているのが世論にたいする力の行使である。代表的なものがプロパガンダである。以上、軍事、経済、プロパガンダという三つの手段の根底にあるのが力である。

 国際関係における道徳は、個人間の道徳とは異なるが、確固として存在する。リアリストは国際関係は力のみで動くというが、国際法や条約の履行を見る限り、多少は道徳が通用する。とはいえ、組織間の道徳と個人間の道徳は異なるから混同してはならない。

 

 4 法と変化

 国際法は国内法と異なり立法機関や執行機関が存在しない。実体は原始社会の慣習法に近い。国際法の拘束力はいかにしてうまれるのだろうか。そもそも、なぜひとは従うのだろうか? 大別すると、法の権威を倫理とするか、力とするかの解釈に分かれる。前者はユートピアンや自然主義者であり、後者は実証主義者や歴史主義者である。

 自然法の祖先は宗教や慣習であり、理性をその子孫とする。国際法は理性を重んじるグロティウス以来、理想主義的な存在である。自然法だから、もしくは倫理的に正しいから法に拘束力が生まれる、という説明は不適当である。

 一方リアリストの見方はホッブズに集約される。「法は力をもつものの武器であり、弱者にたいする指令である」。

 法は政治なしに存在せず、政治は法なしに存在しない。法は政治社会のものである。国内法において、既成秩序への挑戦は立法を通じておこなわれるが、国際法に立法機関は存在しない。よって訴えは政治の範疇においておこなわれる。条約は力の強弱を原動力として交わされる。とはいえ、立法機関の成立には執行力をもつ程度の強大な力が必要なため、非現実的である。

 

 5 結論

 国際政治は政治の場であり、力を原動力として動く。既成秩序への異議申し立ては、力によっておこなわれる。力は武力や経済力、世論などさまざまな形態をとる。

 しかし、とカーは書く、人間にはむきだしの暴力を嫌うという普遍的な傾向がある。よって道徳をいかに用いるかがよく考えられるべきだろう。

 

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 力と道徳、リアリズムとユートピアニズムという対立軸の設定から学ぶべきことは多い。また、国際連盟とその進化たる国際連合、そして国際法の実体を知るのに役立った。

 カーのほかにも国際関係論の古典(モーゲンソーなど)にあたってみる必要があろう。

 

Twenty Years' Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Studyof International Relations

Twenty Years' Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Studyof International Relations