うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

2020年の読んだ本

 ◆面白かった本(順不同)

 今年も戦史、日本の近代史、サイバー戦関係の本を多めに読みました。ここには載せていませんが、裁判所、検察、えん罪等の司法関係もまとめて読みました。

 また、民俗学や明治以降の日本についても興味があり、本を読み始めました。

 

 『My American Journey』

My American Journey: An Autobiography

My American Journey: An Autobiography

  • 作者:Colin Powell
  • 発売日: 2006/09/15
  • メディア: Audible版
 

 

 『スパイキャッチャー』ピーター・ライト

 

 『サイバー完全兵器』サンガー

 

 

 『Bloodlands』Timothy Snyder

Bloodlands: Europe between Hitler and Stalin

Bloodlands: Europe between Hitler and Stalin

  • 作者:Snyder, Timothy
  • 発売日: 2011/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

 『The Forgotten Soldier』Guy Sajer

 

 

 『Battle Cry of Freedom』James M. McPherson

 

 

 『暗号化』レビー

暗号化 プライバシーを救った反乱者たち
 

 

 

 『The 900 Days: The Siege Of Leningrad』Harrison E. Salisbury

The 900 Days: The Siege Of Leningrad

The 900 Days: The Siege Of Leningrad

 

 

 

 『特攻基地知覧』高木俊朗

特攻基地 知覧 (角川文庫)

特攻基地 知覧 (角川文庫)

  • 作者:高木 俊朗
  • 発売日: 1995/05/23
  • メディア: 文庫
 

 

 

 『Inside the Soviet Army』Suvorov, Viktor

Inside the Soviet Army

Inside the Soviet Army

 

 

 

 『The Sleepwalkers』Christopher Clark (残り100pほど)

The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914

The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914

 

 

 

 『沖縄シュガーローフの戦い』ジェームス・ハラス

 

 

 『絶望の裁判所』瀬木比呂志

絶望の裁判所 (講談社現代新書)

絶望の裁判所 (講談社現代新書)

 

 

 

 『花岡事件の人たち』

花岡事件の人たち ~中国人強制連行の記録

花岡事件の人たち ~中国人強制連行の記録

  • 作者:野添憲治
  • 発売日: 2015/12/18
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

 

 『虜人日記』小松真一

虜人日記 (ちくま学芸文庫)

虜人日記 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:小松 真一
  • 発売日: 2004/11/11
  • メディア: 文庫
 

 

 

 『日本/権力構造の謎』ウォルフレ

 

 

 『Call Sign Chaos: Learning to Lead』James Mattis

Call Sign Chaos: Learning to Lead

Call Sign Chaos: Learning to Lead

 

 

 

 『九月、東京の路上で』

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

  • 作者:加藤 直樹
  • 発売日: 2014/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 『中国戦線従軍記』藤原彰

 

 

 『あゝ野麦峠

あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史 (角川文庫)
 

 

 

 『忘れられた日本人』宮本常一

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 

 

 『カッコウはコンピュータに卵を産む』クリフォード・ストール

 

BC級戦犯の話

 

 『最後の学徒兵』では、海軍予備学生として徴集された大学生が、石垣島の守備隊に配属され、そこで捕虜殺害を命じられた顛末をたどる。

 墜落した米爆撃機の搭乗員3名は夜中に処刑され、海軍の上級司令部に対しては隠蔽された。

 終戦直後、米軍が石垣島に上陸するとの知らせを受け、守備隊の海軍将校たちは即席の十字架を墜落地点に設置した。

 当該大学生は、終戦後数年たってMPに連行され、戦犯裁判で処刑となった。

 

 日本軍の意図的な戦争法規違反、戦争犯罪や、末端切り捨て文化、また米軍による裁判の傾向(報復、誰でもいいから処刑にする)について書かれている。

 

 

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)
 

 

 戦後、フィリピンが連合国から引き継いだ戦犯裁判についての本。犯罪の多くは民間人殺害、捕虜虐待、婦女暴行等である。マニラ戦に巻き込まれて死んだという例よりは、米軍上陸前に日本軍部隊が住民を建物に閉じ込めて焼殺する、一斉射殺する、集落を襲い婦女暴行殺人を行うなどの個別事例が多い。

 フィリピンの日本への敵対心は戦後もしばらく収まらなかった。このため、大統領が戦犯数十名を恩赦したときは、世論の反発もあったという。

 

 

 その他、関連する本も買った。 

ある「BC級戦犯」の手記 (単行本)

ある「BC級戦犯」の手記 (単行本)

 

 

 その他、積読しているものがあるので順次読んでいく。

『Ghost Wars』Steve Coll その3 ――ビンラディンはわしが育てた

 15

 イスラム主義者が政権を掌握したスーダンは、テロ支援国家となっていた。

 ハルツームにおいて、邸宅に住むビンラディンは有力なテロ組織者・テロリストの「フォード財団」として有名になりつつあった。

 ユースフの尋問から、合衆国内の民間航空がテロリストの脅威にさらされていることをCIAは報告した。

 

 

 16

 1747年以降、カンダハルを拠点に王朝を創始したアフマド・シャー・ドゥッラーニーについて。ドゥッラーニー部族連合は現在もパシュトゥン人の有力部族の1つである。

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 タリバンイスラム主義とパシュトゥン民族運動の混合である。

 タリバンは1994年ごろ、カンダハルを中心にしたパシュトゥン部族の運動として始まった。かれらは、自己宣伝を盛んに行い、腐敗した軍閥勢力に対して立ち上がった神学生であることを強調した。

 Haqqannia神学校のDeobandis派の影響について。

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 ハミード・カルザイタリバンを支援していた。

 

 創設者ムハンマド・ムラー・オマルはカンダハル出身のパシュトゥン人で、ソ連侵攻時にはとある軍閥の副司令官として働き、戦闘で右目を失った。

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 ISIは従来のヘクマティヤルに対する支援を打ち切り、1994年からタリバンへの支援を開始した。

 程なくして、サウジアラビアのタルキ王子、情報庁も、パキスタンを通じた資金援助、またタリバン構成員のサウジ神学校での教育を行った。タリバンの強力な宗教警察はサウジ宗教界の薫陶により確立された。

 サウジアラビアは、アフガニスタンに安定したスンニ派イスラム政権が誕生することを期待していた。

 

 アメリカはタリバンについて無関心だった。一方、親欧米派のブットーとの協調を重視するとともに、石油と天然ガスの中継路としてのアフガニスタンの重要性を再確認しつつあった。

 

 

 17

 アメリカの石油会社(Unocal)、クリントン政権、タルキ王子らはそれぞれ、イランやロシアの勢力圏を迂回する、アフガンの天然ガスパイプライン建設に野望を抱いた。

 Unocal社のミラーはタリバンやISI幹部やブットーに働きかけたが、CIAやアメリカ外交官もこの動きに関与していた。

 

 

 18

 ビンラディンは、アメリカ大使館の圧力に屈したスーダン政府によって、追放された。かれはアフガニスタンに向かった。

 CIAはビンラディンをテロ資金源として監視していたものの、アフガンへの動きを捕捉することができなかった。

 CIAは中東にパートナーがおらず、またビンラディンを拘束するための法的根拠も欠けていた。

 1996年9月、タリバンはカーブルに入城した。

 

 

 19

 ビンラディンタリバンに受け入れられ、パキスタンタリバンをアフガンの政府として事実化しようと支援を続けた。

 米国はビンラディンを徹底追跡することができず、またパキスタンタリバン支援も検知することができなかった。

 マスードはCIAとの交渉を続け、反タリバンの姿勢を保持していた。

 

 クリントン二期目は人道的・対イスラム過激派的な意図からインド、パキスタンへの関与が増大したが、アフガンはいまだに主要テーマになっていなかった。

 また、議会がコントロールしやすいジョージ・テネットが長官(前CIA副長官)となった。

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 20

 ジョージ・テネットは議員秘書出身で、外交や軍・情報関係の職に就いたことがなかった。しかし、議会の情報委員会補佐などでCIAの予算・法案作成に深くかかわっていた。

 かれは信頼失墜したCIAと、議会、ホワイトハウスの間で調整を行い、テロやならず者国家、NBC兵器拡散といった新しい脅威を規定し、CIAの必要性を訴えた。

 

 国務省では、オルブライトとヒラリーがタリバンの女性蔑視を非難する一方、ユノーカル社と一部議員らはタリバン幹部を米国に招き将来の経済協力に向けて関係を構築できるか模索していた。

 テネットはビンラディンの危険性についても認識しており、対テロセンターは、ビンラディンの拘束と殺害を実行できないかと検討した。

 

 

  ***

 3 遠い敵

 21

 97年、CIAは本部襲撃犯Kasiをアフガン国境で拘束した。

 対テロセンターは引き続き、アフガン現地工作員を使ってビンラディンを拘束しようとしたがうまくいかなかった。

 この時期、エジプト人テロリスト、ザワヒリビンラディンと合流し、「遠い敵(the distant enemy)」であるアメリカとユダヤ人を、軍・市民区別せず標的にするというファトワを出した。

 

 リチャード・クラーク(Richard Clarke)はホワイトハウスでの対テロ第一人者という特権的な地位を手に入れ、対テロ政策を推し進めた。かれは強圧的な人格で知られ、また各組織を自在に操ったため、一部からは、オリバー・ノースの再来、「危機を煽るタカ派」と攻撃された。

 クラークとCIAはビンラディンの脅威を認識する点では一致していたが、それ以外の点では、互いに不信感を抱いていた。

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 Tarnak農場でのビンラディン襲撃計画は、民間人の被害をおそれるテネットらによって中止となった。

 

 

 22

 GID長官タルキ王子はカンダハルに向かい、タリバン指導者オマルと面会した。かれはサウジアラビア国益のために、タリバンサウジアラビアが協力し、ビンラディンを拘束し訴追すべきだと説得を試みた。しかしタリバンから明確な返答はなかった。

 

 

 23

 98年8月、ナイロビ、タンザニアダルエスサラームで同時自爆テロが発生した。CIAの対テロ部署はまったく検知していなかったが、間もなくビンラディンの組織によるものであることが明らかになった。

 

 クリントンは報復としてアフガンのアルカイダ・ミーティング場と、スーダンの化学プラントを巡航ミサイルで攻撃した。しかしビンラディンは仕留められず、またスーダンは非難声明を発した。

 当時、大統領はルインスキースキャンダルでバッシングされていたため、疑惑そらしのために爆撃をした、とマスメディアから嘲笑された。

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 CIAとクラークらは、パキスタンサウジアラビアの情報機関に対して疑いを抱いており、かれらは信用ならないと考えた。

 ビンラディン暗殺の計画はまだ続いていたが、クリントンホワイトハウス上層部は実行に踏み切らなかった。

 ホワイトハウスでは、ビンラディンを拘束すべきか、殺害すきかをめぐって意見の相違があり、また失敗のリスクも考慮しなければならなかった。

 テネットは、すべてのリソースをビンラディン対策に注ぐと宣言したが、かれが予算をコントロールできる範囲は限られており、最後までビンラディン担当課に十分な補強が行われることはなかった。

 

 

 24

 パキスタンの首相ナワズ・シャリフは、自らの基盤を固めるため、陸軍参謀総長ムシャラフPervez Musharrafを、ISI長官に親族のズィアウッディンZiauddinを任命した。

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 首相職は常に軍に脅かされるため、シャリフはさらにビンラディン対策を通じてアメリカの支援を得ようとした。

 巡航ミサイルによるビンラディン暗殺計画は引き続き計画されていたが、ホワイトハウスは確実性が足りないとして許可を出さなかった。

 

 

 25

 テネットはビンラディンの危険性を認識していたが、ホワイトハウスは比較的無関心だった。

 CIAは、アフガン情勢に直接肩入れすることを避け、代わりに、ウズベキスタンに協力を求めた。

 CIAと対テロセンターは、マスードの対ビンラディン戦軍事援助を開始した。

 しかしCIA以外は、タリバンアルカイダの危険を理解していなかった。

 

 

 26

 9.11実行犯の生い立ちについて。

 モハメド・アタは西洋式の価値観・生活に適応できず、次第に過激なイスラム主義に傾倒した。かれの叔父は世界貿易センター爆破犯であり、アタは叔父の後に続こうと考えた。

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 かれを含む4人の「ハンブルク・グループ」は、飛行機ハイジャックのアイデアを具現化するため、フライトシミュレータで操縦を訓練し、パイロットスクールに通った。

 

パキスタンではクーデターによりナワズ・シャリフが放逐され、陸軍トップのムシャラフが政権を掌握した。かれはカシミール侵攻工作の張本人であり、イスラム過激派の支援者だった。米国はこの転覆にどう対応すればいいか態度を決めかねていた。

 クーデターを経て、ビン・ラディン暗殺を狙っていたパキスタン軍の特殊コマンド部隊は消失した。

 

・CIAは2000年のミレニアムイベントの夜、一睡もできなかった。

・CIAは、マレーシアで捕捉された元アラブ・アフガンを見失った。かれらはビン・ラディンの指揮下にあり、ボスニアでも活動していた。

・CIAとドイツ情報機関はハンブルク・グループの存在に気がつかなかった。

 

 

 27
 CIAはマスードとの協力を模索したが、ビンラディン捕獲・暗殺は困難だった。

 

 

 28

 ムシャラフ政権の新ISI長官マフムードを取り込もうと国務省は長官を南北戦争の戦地ゲティスバーグ(長官の軍事大学での論文テーマ)に招待した。

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 しかしISIはタリバン支援とビン・ラディン黙認を続けた。国内にイスラム主義者・保守派を抱えるパキスタンは、ビンラディンを敵に回すことはできなかった。

 911後の報告書では、CIAはじめとする米情報機関は、外国情報機関に依存しすぎ、有効なヒュミントを入手できなかったとされている。

 

 サウジアラビアも、国としてアメリカを支援しビンラディンを討伐することはできなかった。それは自国民やイスラム界を刺激し、王族の立場を危うくするからである。

 サウジアラビアの銀行や慈善団体はアルカイダタリバンへの支援を行っていた。

 一方で、マスードカルザイら反タリバン連合軍に対してもアメリカは懐疑心を持っていた。マスードは、アヘン生産・密売の元締めとして、欧州や国際機関からは心証が悪かった。また、マスード軍の戦力は限定的であり、単独でのビンラディン捕獲作戦は不可能に近かった。

 

 

 29

 CIAは空軍の支援を受けて、ウズベキスタンから秘密裡にプレデターを飛行させ、ビンラディンの所在情報を入手しようとしていた。

 問題:CIAの予算不足、プレデターにミサイルを搭載する法的根拠、悪天候に対する弱さ

 非対称戦争の特質……一般市民とまぎれこむ小さなターゲット

 

 2000年10月のUSSコール自爆テロを、CIAは予測できなかった。

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 30

 ブッシュ政権には、ブッシュは論外として、中東情勢に経験のある閣僚がいなかった。

 テネットはCIA長官を留任した。政権発足後、再びマフムードISI長官を訪問し、ビンラディン捕縛への支援を要望した。

 ※ マフムードISI長官は、後に911実行犯への援助が明らかになり解任されている。

 

 

 31

 ブッシュ政権におけるアフガニスタンタリバン問題の扱いは小さく、確固たる政策はなかった。2001年に入るとテロ脅威レポートが警告レベルを上げていたが、テロは海外で起こるという予測が大勢だった。

 情報機関は、既に米国内に潜伏したハイジャック犯たちを捕捉することができなかった。

 

 

 32

 同時多発テロ直前、マスードはジャーナリストを装った自爆テロ犯により殺害された。

 

 

 

 

『Ghost Wars』Steve Coll その2 ――ビンラディンはわしが育てた

 6

 マスードは軍人の子であり、比較的裕福な環境で育った。1960年代、特にカブールではイスラム主義と共産主義の運動がさかんだった。マスードら若い将校たちはイスラム主義運動に加入した。

 

 アフガンは19世紀以前まで、スーフィーが主流だったが、19世紀になるとインドから厳格なスンニ派ワッハーブの亜種)が輸入され、ドースト・ムハンマドイスラームを核に植民地戦争を戦った。

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 1960年代には、エジプトのムスリム同胞団から強い影響を受けた学者らが、アフガン各地で活動を行った。

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 マスード、ヘクマティヤール(パシュトゥン人)、ラッバーニー、サヤフらはムスリム同胞団の教義を引継ぎ、過激なイスラム主義運動に没頭したが、やがてお互いに反目した。

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 マスードはアフガン北東のパンジシール渓谷を拠点に、独立勢力としてソ連軍に対し反乱を行った。

 ソ連邦からの唯一の補給経路であるパンジシール近郊のサーラン道路(Salang Highway)において、マスード軍はソ連輸送部隊を度々襲撃した。

 車列の最前列・最後尾を襲撃し包囲する攻撃、アフガン軍の情報提供者や脱走者を活用する攻撃でソ連軍を悩ませたが、資材や武器の不足から1983年に停戦する。

 やがて、ISI(パキスタン情報機関)からの支援を受けたヘクマティヤールが強力な指導者として台頭した。かれは対ソ戦闘力は高いが、苛烈な人物と評価された。

 間もなくマスードも反抗を開始し、英仏のエージェントが資金援助を行った。スペツナズ等の新戦力を用いたソ連に対し苦戦したため、マスードはCIAの支援を求めた。

 

 

 7

 徐々にゲリラ化、テロリズム化していく戦争について。

 1985年、ムジャヒディン支援の主導権はCIAからホワイトハウスの特別グループに移った。

 「カウボーイ」、タカ派の議員たちは、CIAが直接アフガンに介入し、ソ連人を殺害することを欲していた。CIA職員の一部はこれを懸念した。

 ISIへの武器援助……対空ミサイル、狙撃ライフル、暗視ゴーグル、プラスチック爆弾、電子妨害機器が増大し、CIA関与を否定することは困難になりつつあった。

 このことはソ連側にも知れ渡り、公然の秘密となっていた。問題は、ソ連が直接パキスタンアメリカに報復に出るかどうかだった。

 

 パキスタンイスラム原理主義的な派閥のみを支援したため、それ以外のムジャヒディンたちが大挙してワシントンDCを訪れ支援を求めた。

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 パキスタンの支援を受けたゲリラは、自動車爆弾、ブービートラップ、狙撃、毒殺などでカブールのソ連軍、ソ連人を苦しめた。

 アフガン秘密警察のナジブッラーが首相に据えられ、国内外で工作、誘拐と拷問、殺害を行った。

 アフガン人は自爆テロを嫌ったため、ISIのユスフ将軍はアラブ人聖戦士を利用した――かれらには一族の紐帯がなかった。

 

 1985年以降、ISIを経由して、大量の爆薬がCIAやMI6からムジャヒディンに供給された。

 80年代以降、アメリカ人を狙ったテロが続発し、1983年にはベイルート海兵隊兵舎で爆弾テロが起こり241人が死亡した。

 

 ――テロリストは多くの人々が注目し耳を傾けることを望むが、多くの人びとが死ぬわけではない。……テロリズムは劇場だ。

 

 ケイシー長官は対テロ機能の強化を求めた。これを受けてクラリッジはCIA内に「対テロリズムセンター」(Counter Terrorism Center)を設置した。

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 テロリズムは警察の管轄だろうか、それとも軍事的に解決するべきか? つまり、あらかじめ予防的に殺害できるのかそうでないのかという議論は、911まで続く。

 

 米軍の援助する武器・キャンプ・訓練は、テロリストのインフラストラクチャーと化していた。

 

 当初、対テロセンターはアブー・ニダルグループやヨーロッパの左翼過激派を監視対象にした。しかし、ヒズボラには全く浸透することができなかった。

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 CTCではムスリム同胞団関係団体や、アラブ・アフガンの動向は察知していたものの、ほとんど重視されていなかった。

 

 ビン・ラディンペシャワールでジハーディストを組織していると聞いたとき、CIAの冷戦闘士たちの多くは、ビン・ラディンを援助すべきだと感じた。

 

 

 8

 1986年9月、CIAはスティンガーミサイルの供与を開始し、アフガン反乱軍が3機のソ連ヘリを撃墜した。

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 スティンガーは大きな効果をもたらしたが、逆に、テロに流用される恐れもあった。

 

 CIAが資金・兵器の流れを点検した結果、アフガンゲリラとアラブ・アフガン(アラブから来た聖戦士)が衝突していることを知った。

 アラブ人戦士は、ムジャヒディンの墓を非難して偶像崇拝だといって墓を壊してまわり、射殺されることもあった。

 

 当時ペシャワールには東西から慈善団体、ボランティア団体が救援にきていたが、ムスリム同胞団の流れを汲む医療団体もそこにいた。

 外科医アイマン・アル・ザワヒリは1986年にペシャワールに移住し、聖戦の経験・組織について学び始めた。

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 イスラム主義学者アブドゥル・アッザームは教え子ビン・ラディンとともに、聖戦士のリクルートを始めた。かれらはアリゾナ州ツーソンに支所を設置した。

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 ビン・ラディンの国境での支援活動(施設建設)は有名になった。かれはISIの兵站道路建設に対しても支援を行った。

 

 一方、ソ連ではゴルバチョフ新総書記がアフガン撤退を決心していたが、レーガンやCIAは全くこの動きを検知していなかった。

 ISIの支援を受けたイスラム主義者や、過激派たちは、ソ連領内でのテロ・軍事活動を始めた。

 CIAはこうした動きをコントロールできなくなっていた。

 

 

 9

 ロバート・ゲイツや対ソ作戦部は、ソ連のアフガン撤退に対しまだ懐疑的だった。ソ連が撤退すれば、ナジブッラーの共産主義政権はすぐに崩壊するだろう。

 CIAとホワイトハウスは、戦後アフガンを統治するのはイスラム主義的な勢力だと予測した。問題は、反共はいいが反米的傾向をどうするかということだった。

 

 1988年8月、ジア大統領、アクタルISI長官らを乗せた航空機が墜落したが、パキスタンに混乱は起きなかった。

 ソ連はアフガンから撤退した。

 

 

  ***
 2 隻眼の男は王だった

 10

 CIAとパキスタンは、ナジブッラーが勢力を確立しないよう工作した。CIAは、ISIに知られないよう、ヘクマティヤールとマスードを支援した。

 パキスタンではベナジール・ブットーが首相となった。彼女はハーバード大卒の親西欧的だったが、軍やISIに批判的だった。

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 ISIとCIA、GIDはジャララバードでの反乱を支援し、ナジブッラー政権転覆を画策した。CIAはムジャヒディンたちに大量のトヨタ車を買い与えたがジャララバード攻撃は失敗した。

 

 CIAの現地責任者McWilliamsは、アメリカの介入・ISI支援が、逆にアフガンを不安定化させ、イスラム主義的・反米政権を誕生させるのではないかと危惧した。

 サウジアラビアから支援を受けたアラブ・アフガンたちが国境で力を持つようになった。しかし、ヘクマティヤールとマスードの抗争が激しくなるにつれて、ビン・ラディンはヘクマティヤールに、師のアブドゥル・アッザームはマスード側についた。

 

 1989年、アッザームがモスクで車爆弾により殺害されると、ビン・ラディンは聖戦士リクルートオフィスを乗っ取り、アルカイダの拠点とした。

 かれはアフガンを超えて、別の敵を見出そうとしていた。

 

 

 11

 ドイツ統一や冷戦崩壊の兆候を受けて、国務省やCIAでは、これ以上ISIとイスラム過激派を支援するのは国益にそぐわないという見方が強くなった。アメリカは穏健な政権への移行を模索した。

 世俗派のベナジール・ブットーは、ISI・軍を統制できなかった。

 ヘクマティヤールのカブール攻撃は、アメリカ側をさらに警戒させた。同時に、パキスタンの核開発と核拡散(イランとの取引)にアメリカが反発し、協力関係を終わらせることになった。

 

 ISIの育てたゲリラは、1989年からはカシミールでインドに対して闘争を始めた。

 サウジアラビア情報庁の、アラブ・アフガンやビン・ラディンへの資金援助は、CIAやISIを凌ぐようになっていた。

 

 イラククウェート侵攻に際して、ビン・ラディンは米軍のサウジアラビア駐留に反対した。ビン・ラディンはコネを使ってサウジ王族と会談し、米軍ではなく、自らの率いる軍隊を使わせろと主張したが受け入れられなかった。

 さらにサウジ社会を支配していた過激なウラマーたちが王族に対し反抗を表明した。王族は、イスラム主義者たちに譲歩をする一方、ヘクマティヤール、サヤフ、ハッカニーを支援していたビン・ラディンを王国から追放した。

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 1992年、CIAはソ連と歩調を合わせアフガン支援を終結させた。同時期、カーブルではマスード(共産政権のドスタム・ウズベク軍閥を従えていた)とヘクマティヤールの戦闘が行われていた。

 ISIやCIAの一部は、アメリカがアフガンを放棄すれば、アフガンは国際テロリストとアヘン産業の温床になるだろうと指摘した。

 1992年以後、2001年までアフガンに米国の大使館・領事館は存在しなくなる。

 

 

 12
 クリントン就任後に起きたWTC爆破事件、CIA本部銃撃事件は、イスラム過激派に対する警戒を呼び起こした。

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 しかし、CIAの対テロセンターは、ならず者国家によるテロ活動のみを監視しており、手掛かりがつかめなかった。

 CIAは第二の真珠湾攻撃を防ぐために作られたが、ゲシュタポ化を避けるため、国内での活動は厳しく制限されていた。

 FBIは秘密主義が横行し、他省庁や他部署間での情報共有が全くできていなかった。

 

 クリントンは過激派テロリズムを、安全保障ではなく法執行の枠組みで取り締まる方針を示した。

 この時点では、ビン・ラディンは複数のテロリストと接点のある人物に過ぎなかった。

 

 

 13

 アメリカと関係の深いエジプトや、アルジェリアチュニジアでは、ムスリム同胞団系の組織によるテロ活動が拡大していた。

 CIAは、イスラム主義を警戒する一方、腐敗した世俗政権に肩入れしすぎるとイランの二の舞になるとして、どうふるまうべきか迷っていた。

 

 

 14

 CIAのポール・ピラーは、ラムジー・ユースフらによるWTC爆破が、国家の指令に基づかない、無所属の宗教的テロ行為であると察知した。

 モガディシュへの介入失敗もあり、破たん国家や内戦に介入することは米国の利益にならないとして、適度な距離をとる方針が定まった。

 アフガニスタンはこうしてCIAや国務省から放置された。

 [つづく]