うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Nemesis of Power』Sir John Wheeler-bennett その3(3/4) ――ヒトラーに制圧されたドイツ軍

 2 シュライヒャーの時代

 シュライヒャーは政治的陰謀に長けた、狡猾で陰険な人物と描写される。

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 1928年には国防相をグレーナーに据えるなど自らと親しい人物(兵務局長ハンマーシュタイン(Hammerstein)など)で固め、自身は官房局(Ministeramt)長官となり、政党政治に対し介入を始め、政党政治や首相選出を操作し始めた。

 選挙制度の為にワイマール議会では与党が生じず、脆弱で不安定な連立政権が続いた。このため、継続性を持つ官僚たちが国を動かした。

 この年、かれは軍事費を増大させ、海軍の再建に取り組んだ。シュライヒャーはヒンデンブルクへの影響力を使い、ポケット戦艦(Pocket Battleship)(軍備制限をクリアするための小型戦艦)建造を議会に決定させた。

 これは「責任なき権力」(Power without Responsibility)とでもいうべきものだった。

 かれは大統領の権力を頂点とし、国軍が権力の源泉として国を支配するという構想を描いた。これは、ゼークトの非政治的軍隊のテーゼを歪めたものだった。

 

 1930年の中央党(The Center)ブリューニング(Heinrich Bruning)内閣成立はシュライヒャーの工作によった。

 

 一方ヒトラーは1924年の出獄後、党再建に乗り出した。かれは肥大したレーム、ロスバッハ(Rossbach)らのSA(突撃隊)に対抗するためSS(親衛隊)(Schutz Staffel)を設立した。ヒトラーはSAを都市ゲリラ・警備要員として扱っていたが、革命成功のためには国軍を掌握することが不可欠と考えていた。

 ヒトラーは経済界、工業界とのつながりを深めていった。

 一時的な景気回復の影響により、党の国会での議席は12に過ぎなかったが、やがて1929年の恐慌が来ると全土で党員数が増加した。

 

 著者は国家人民党(DNVP, Nationalist Party)を、粗暴で無法策、一切議会政治に貢献してこなかった勢力だと批判する。党首フーゲンベルク(Hugenberg)は1929年のヤング案(Young Plan)(ドイツの賠償額再確定)に反対し、ナチ党のヒトラーや鉄兜団(Stahlhelm)のフランツ・ゼルテ(Franz Seldte)とともにキャンペーンを張った。

 そこにはゼークトやリュトヴィッツといった過去の軍人たち、シャハトもそろっていた。

 

 ナチ党の精神やプロパガンダは軍にも浸透を始めていた。若手将校は12年間昇進できない等、みじめで屈辱的な境遇にあり、解放や栄光を求めていた。これに呼応し、シュライヒャーはナチ党の体制側取り込みを模索した。

 1931年、ヒンデンブルクは再選を果たしたものの(ヒトラーは30パーセント得票)、ブリューニング内閣の維持は困難になっていた。SPD(ドイツ社会民主党)や中央党に頼る姿勢を嫌われ、ヒンデンブルクの信任を失っていたからである。

 シュライヒャーはSA禁止令の責任を自らの師であるグレーナー国防相に押し付け辞任に追い込み、続いてブリューニングも辞職した。

 シュライヒャーは大統領府長官オットー・マイスナー(Otto Meisner)やオスカルと相談し、後任にパーペン(Franz von Papen)を指名した。

 シュライヒャーによる陰謀の結果……軍は政党政治に介入し権力をふるうようになってしまった。また、シュライヒャーはナチ党とのパイプという役割を失い、ブロンベルク(Blomberg)やカイテル(Keitel)などその他の軍人が無断でナチ党と接触を始めるようになった。

 支持基盤のないパーペン内閣……プロイセン・クーデタ(オットー・ブラウンの社民党政権を右派クーデタにより乗っ取った)、1932年7月と11月の総選挙。

 

 1932年7月総選挙、11月総選挙でNSDAPは第一党となり、与党の協力なしには内閣が存続不可能となった。パーペンは憲法停止によるクーデタ、議会停止を提案したが大統領は却下した。

 国防相シュライヒャーは再び裏切りを行い(かれは「仲間を沈める魚雷」と揶揄されていた)、パーペン内閣不信任に回った。

 シュライヒャーはナチス台頭に大きな責任を負っている……総選挙の実施、左派分裂工作、ブリューニング失脚工作など。

 この間、ヒトラーは首相以外で入閣する意図はなく、シュライヒャー、ヒンデンブルクとの交渉は頓挫した。

 

 シュライヒャーは自らが首相になり、ナチ党を分断させることでヒトラーを阻止することができると自信を持っていた。グレゴール・シュトラッサーを懐柔し入閣させる工作は失敗し、裏切られたパーペンはヒトラーと共謀してシュライヒャー内閣を倒壊させようとした。

 ヒトラーヒンデンブルクの息子オスカーに対し、土地をめぐる脱税疑惑で脅迫し、自らの首相就任を了承させた。

 

 1933年1月にヒトラーは首相となった。シュライヒャーと国防相ハンマーシュタイン(Hammerstein)、パーペンらは、ヒトラーを制御できると考えていたが、逆にかれらがコントロールされることになった。

 

 

  ***

 3部 ヒトラーと軍

 1 権力掌握からヒンデンブルクの死まで

 将校らは一部(シュライヒャー派等)をのぞいて、ヒトラー再軍備軍国主義方針に賛成し、かれを支持した。再軍備を支持する者、軍人としての出世や地位向上を歓迎する者、単純に戦争を待望する傭兵精神の持ち主など、内実は様々だった。

 国防相には再軍備支持のヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner Eduard Fritz  von Blomberg)が就任し、陸軍総司令官はフリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)が就任、官房長官に熱心なナチ支持者のライヒェナウ(Walter von Reichenau)、海軍統帥部長官はレーダー(Erich Johann Albert Raeder)が留任した。

 兵務局長だったヴィルヘルム・アダム(Wilhelmsen Adam)は後更迭され、ルートヴィヒ・ベックLudwig August Theodor Beckが指名された。その後ベックは、兵務局から参謀本部への改称後も、参謀総長として再軍備を推進した。

 

 ヒトラーは陸軍高官との密約(ドイッチュラント協定)を行い、ヒトラーヒンデンブルク死後、大統領候補として支持するかわりに、SAを無力化させることを約束した。軍高官の大半はSAに嫌悪感を抱いていた。

 レーム率いるSAは社会不安の原因と化しており、またその腹心ハイネス(Edmund Heines)(レームの同性愛相手)は、全国から美少年を集めてレームの同性愛ハーレムに供給していた。

 レームは自身の計画――自らが国防相となりSAを近衛兵とし、共和国軍と一体化させる――を喧伝していた。

 

 1934年6月、ゲーリング(初代SA指導者)とヒムラー(SS指導者、彼自身もエリート部隊SSの軍事化を構想していた)の計画にヒトラーが許可を出し、「長いナイフの夜」が実行された。

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 様々な証拠から軍高官がこの大量殺人を黙認していたことがわかっている。

 シュライヒャーやブレドーら軍高官の殺害に対し表立って反対したのは、ハンマーシュタインやフォン・マッケンゼン(退役元帥)のみだった。

 

 1934年8月、ヒンデンブルクが死亡した。ヒトラーは「指導者兼首相(Fuhrer und Reichskanzler)」となった。

 

 SSはその後も政治テロやオーストリアにおけるドルフース首相暗殺などを行ったが、国防軍は黙認した。国防軍は、SA粛清の際に自らが手を汚さずに済んだことに安堵し、国内の警察活動を党に委任してしまった。

 

 

 2 ヒンデンブルクの死からフリッチュ危機まで

 1935年3月、ヒトラーヴェルサイユ条約脱退を表明し、再軍備宣言を行った。また賠償金支払いも拒否した。

 かれにとって軍隊は、平和ではなく戦争のために存在しなければならなかった。

 再軍備によって、軍は条約によって規制された「対等」な軍から、より「強力な」軍へと変化した。

 

・共和国軍から国防軍(Wehrmacht)へ

・各軍種の軍服と旗にハーケンクロイツと鷲の紋章

・各軍種名称変更:Heer(陸軍), Kriegsmarine(海軍), Luftwaffe(空軍)

国防省から戦争省(Reichskriegsministerium)へ、兵務局から参謀本部(Generalstab)へ

・徴兵制再開と陸軍大学の復活

 

 再軍備に軍人たちは満足したが、同時に国防軍の政治的な影響力は弱まっていった。若い将兵の間ではナチに対する崇拝と信仰が高まっていた。

 ヒムラーら率いるSS、空軍を指揮するゲーリングが戦争相ブロンベルクを越えて、ヒトラーの直接的な配下となっていた。

 

 ヒトラーは続いて、ロカルノ条約により非武装地帯となっていたドイツ西部=ラインラント(Rhineland)への進駐を計画した。軍は再軍備の未完成を理由に反対したが、ヒトラーは全く考慮しなかった。またブロンベルクや外交官ノイラート(von Neurath)は既にイエスマンと化していた。

 1936年3月のラインラント進駐は成功し、軍は自信を失った。

 

ヒトラーは軍の臆病さを軽蔑し意見を聞き入れなくなった。軍の政治的影響力は歴史上もっとも弱まった。

ヒトラーの政策は、ビスマルク以来の軍の方針――親ロシア・中国、日本・イタリアへの懐疑、英仏との中立、反ポーランド――と対立した。

 

 著者ベネットは、ヒトラーは大ドイツ拡大計画を抱いていたと解釈する。その根拠は、1937年11月の秘密会議(ホスバッハ(Hossbach)覚書に記録された内容)である。

 

 ヒトラーチェコスロヴァキアオーストリア侵攻計画に反対した3人の参加者……ノイラート、ブロンベルク、フリッチュは、その後排除されることになる。

 ブロンベルクのスキャンダル(再婚相手が元売春婦)は、主に将校団によって取り上げられた。もっとも、再婚相手のファイルをゲーリングに引き渡したのは、ブロンベルクの親類にあたるカイテル(Wilhelm Keitel)だった。

 ゲーリングヒムラーはこの機会を利用した。ヒムラーは、ブロンベルクやフリッチュが軍におけるナチ教育導入を阻止したことに恨みを抱いていた。

 さらにフリッチュの同性愛疑惑(SSによる捏造)も持ち上がっていたため、ヒトラーはこれを機会に古い軍人たちを一掃することを考えた。

 ルントシュテット(Rundstedt)、ベックらはヒトラーに抗議するが最終的に妥協し、1938年2月、国防軍総司令部(OKW)の総長にカイテルが、陸軍総司令官にブラウヒッチュ(Brauchitsch)が就任した。この際、ブラウヒッチュは約50人の将官と高級将校を退役させた。

 ノイラートも更迭され、リッベントロップ(Ribbentrop)が外務大臣となった。

 

 ヒトラー国防軍を完全掌握し、軍の政治的影響力は完全に失われた。

 

 ――復讐の女神(Nemesis)の季節が訪れ、いまやかれらは自分たちの過ちによる収穫、まやかしの収穫(Dead Sea Fruit)を刈り取ることになった。

 

 

 1938年3月:オーストリアにおけるクーデタが発生し、ヒトラーは併合をおこなった(アンシュルス)。これに英仏は反対しなかった。

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 なお同性愛疑惑を捏造されたフリッチュはその後軍事法廷で無罪を言い渡され、このときはゲーリングもフリッチュを弁護した。

 [つづく]

 

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

 

 

『The Nemesis of Power』Sir John Wheeler-bennett その2(2/4) ――ヒトラーに制圧されたドイツ軍

 2 ゼークトの時代
 共和国軍(Reichswehr)の創設……共和国の存立基盤であり、政治から超然とし、いかなる党派にも属さない軍。

 フォン・ゼークトは将軍の子として生まれ、陸軍の中で異例の速さで昇任し参謀本部要員となった。第1次大戦では主に東部戦線で活躍した。

 自身は君主制支持者だったが、軍の再建を優先し、冒険的な右翼や王党派とは関わらなかった。

 かれはヴェルサイユ条約の制限の中で、軍が中枢機能と精神を保持し、いつでも拡大できるよう計画を進めた。最重要課題は参謀本部と将校団の保持だった。

 軍の能力保持は、条約に秘密裡に違反する形で行った。

 

・兵務局(Truppenamt)と名前を変え、選抜や試験、教育を外の大学等で行う等の偽装を施し、参謀教育に努めた。

・将校については政治的に穏健な人物を残し、過激な思想の持主、ランツクネヒト(Landsknecht)タイプ――歌舞伎者・傭兵タイプ――は排除した。

・25年という将校勤続制限を迂回するため、有望な将校候補を下士官として採用し教育を行った。

・将来の規模拡大に備え、下士官は将校に、兵は下士官になるよう高度な教育を行った。軍人の子や地方の子弟、非ユダヤ人を優先的に採用し、徴兵制では実現できない高練度の将兵を養成できた。

・ゼークトは、将来戦争は機械力、少数精鋭による機動と攻撃が勝敗を決すると考え、編成や研究開発に反映させた。

・伝統の継承のため、将兵と退役軍人を積極的に交流させ、また帝国軍時代の部隊伝統を保持させた。

 

 兵力としてフライコールを持っていたが、規律が悪く政治的だったため、軍とエーベルトは処置に困り、ルール地方ゼネスト(ルール蜂起)鎮圧に振り向けた。

 同時に、員数外である「黒い国防軍」(Black Reichswehr)としてAK(労働軍団)(Albeits Kommandos)を雇用し、軍服を着せて兵舎に済ませた。これはブーフラッカー少佐(Buchrucker)が指揮をとった。

 

 1923年初頭、クーノ(Cuno)首相は賠償金支払いを拒否する受動的抵抗(Passive Resistance)を行い、仏・ベルギー軍のルール占領を招いた。現地での占領軍による逮捕処刑や、ドイツ・マルクのインフレが深刻化したため、後任のシュトレーゼマン(Stresemann)が抵抗終結を宣言した。

 ゼークトも抵抗には否定的であり、いずれ英仏の不和がヴェルサイユ体制を破綻させると予測していた。

 同時に起こったバイエルンでの右派クーデタに対し、シュトレーゼマンは戒厳令を発令、国防相ゲスラー(Gessler)とゼークトが共和国全権を掌握し行政権を行使した。

 

 バイエルンクーデタ……君主政主義者である州総督グスタフ・フォン・カール(Gustav Ritter von Kahr)、第7軍管区司令官オットー・フォン・ロッソウ(Otto Hermann von Lossow)、警察長官ザイッツァー(Seisser)が分離主義的な政権を確立し、ベルリン進軍をたくらんだ。

 しかしゼークトに説得され日和ったため、かれらと協力していたヒトラールーデンドルフは3人を軟禁し、新たにミュンヘン一揆をおこした。

 ゼークトは国軍の手を汚すことなく、ザイッツァーの警察部隊に一揆を鎮圧させた。

 

 ゼークト、外交官のフォン・マルツァン(Von Martzan)はともに東方主義者であり、ロシアすなわちソ連との一時的な協力が国軍と国力を復活させるだろうと考えていた。

 国内においては左派や共産主義者を弾圧したが、ソ連はドイツにとって、再軍備のための不可欠な同盟国だった。

 

 首相ヨーゼフ・ヴィルト(Joseph Wirth)、外相ラーテナウ(Rathenau)の承認を受け、ゼークトは赤軍に使者を派遣し、ラパッロ条約を締結(1922年)、秘密条項に基づき、ソ連邦内における訓練場の使用、ユンカース工場の建設(これは露見しすぐ閉鎖された)、飛行機・戦車学校での教育、毒ガス訓練等を行った。

 かれにとって宿敵はフランスとポーランドであり、特にポーランドは独ソ双方にとって抹殺すべき対象だった。ポーランドはかれの認識ではフランスの家臣に過ぎなかった。

 引用されているゼークトの外交官に対する回答は、こうした認識を示すとともに、後のヒトラーにもつながる膨張主義を示唆している。

 

 ――「戦争反対」の愚かな叫び声が広くこだましている……平和の必要性は広くドイツ国民の中に存在する。しかし、戦争の是々非々となれば、軍が最もよくわかっており、軍が先導する。結局ドイツ国民は存亡をかけて指導者に随うだろう。……指導者の義務はドイツを戦争から遠ざけることではなく――それは愚かでしかも不可能だ――適切な同盟と軍事力によって戦争に参加することである。

 

 1923年シュトレーゼマン(Stresemann)内閣が成立した。シャハト(Hjalmar Schacht)の貨幣政策によりハイパーインフレが終息した。

 シュトレーゼマンは軍の対ソ交流を黙認していたといわれる。かれはロカルノ条約と国連加盟により西側との関係改善に努めたがゼークトはこれを融和として反対した。

 独ソの国交回復(Rapprochement)よりも重要だったのは、国内産業との連携だった。各部署に経済担当参謀を配置し、クルップ(Krupp)やラインメタルといった軍需企業と再生産計画について調整した。ドイツの兵器産業は、スペインやスウェーデンなど各地に偽装工場を建設し、来るべき再軍備に備えた。

 

 ゼークトの失脚:1925年に大統領エーベルトが死ぬと、大統領選の結果ヒンデンブルクが後任となった。

 ヒンデンブルクにとって、ゼークトは自分の指揮下で活躍を横取りした後輩だった。

 力関係の変化に乗じて、フォン・シュライヒャー(Schleicher)――かれは政治的な機会主義者に過ぎなかった――が、ヒンデンブルクの息子オットーとの親交を利用して力を得た。

 ゼークトはヴィルヘルム2世の孫を演習に無断招待したことで処分され失脚した。

 

 

  ***

 2部 軍とヒトラー

 

 1 求婚、ハネムーンと別離

 ミュンヘン一揆の背景:

 元々バイエルンは、プロイセンとベルリンに対し反抗心が強く、カール、ロッソウはバイエルン独立主義者であり、この点でヒトラールーデンドルフプロイセン人で、バイエルン王族ルプレヒト(Rupprecht)からの評判が悪い)とは信条が異なっていた。

 ヒトラーは、ロッソウ率いる国軍が一揆に加わらなければ国家革命は成功しないと認識していた。しかし結果的に反逆者となり鎮圧された。このことで、国軍掌握が革命達成のための必須条件だと確信するに至った。

 ロッソウは不服従を理由にゼークトから更迭され、バイエルン軍の司令官という反乱者の一人にされてしまった。

 

 ビュルガーブロイケラーに乗り込んだヒトラーらNSDAP党員、ルーデンドルフそして突撃隊(SA, Sturmabteilung)――フランツ・フォン・エップ(Franz Ritter von Epp)やエルンスト・レーム(Ernst Rohm)が所属していた――などを糾合したドイツ闘争連盟(Kampfbund)は行進を開始したが、ルーデンドルフの神通力は失せており射撃鎮圧された。

 

 1924年2月の人民裁判を、ヒトラーは自分の思想宣伝に利用した。裁判官や検事たちは、ビュルガーブロイケラーによく集まっていた右翼たちだった。

 [つづく]

 

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

 

 

『The Nemesis of Power』Sir John Wheeler-bennett その1(1/4) ――ヒトラーに制圧されたドイツ軍

 ドイツ国防軍ヒトラーをあなどり、やがて掌握されていく様子を時系列で詳しく書いた本。

 

 著者であるイギリス人ウィーラー・ベネットは、20年代から30年代までドイツで政治研究を行っていた。

 非常に生まれが良いため(ケント州のアッパーミドル出身)、当時のドイツ貴族階級や政治家たちと実際に交流する機会を得た。「長いナイフの夜」事件で難を逃れ脱出した。

 解説によれば、著者自身にいくつかの偏見があるという。

 

・政治は君主と貴族のためのもので、時には大衆の要望に応じないといけない。

・国連で武装解除業務に関わった経験から、ドイツを不誠実で軍国主義的な存在とみなす。

・ドイツ軍(共和国軍)に対して矛盾した批判を行っている……かれらはワイマール共和国において政治介入した。一方、かれらは政治介入しヒトラーを排除しなかった。

 しかし、解説者の指摘によれば、ドイツ軍は歴史上常に権力に従順であり、反乱を起こしたことがない。

 

 

 ◆所見

 今現在のヒトラーとドイツ軍の対立に関する知識、暗殺計画についての細部のほとんどは、この本が主な出典になっているようだ。

 Wikipediaの記載なども、本書から引き抜いたと思しき箇所が多い。

 ドイツ軍のシステムや運用は非常に優れており、第1次大戦前夜や戦間期には各国が参考にしたという。

 欠点は短期戦にしか対応できないことにあった。

 

 しかし、最大の問題は服従の倫理に従うあまり、気の狂った最高指揮官に対し最後までまともに抵抗できなかったことである。

 たとえ戦闘能力が高くとも、狂ったリーダーに何も言えずついていくばかりでは、結果的に国民を亡ぼすことになる。

 

 同時に、軍隊が逐次政治的判断を行い、自分たちの判断で指導者に抵抗すれば、国は不安定になるだろう。

 

 本書を読んでいくと、国民・兵隊のヒトラー支持が根底にあった場合、どうあがいても破滅は避けられなかったのではないか、という印象を受ける。

 

 

  ***

 1部 軍と帝国

 

 1 スパ(Spa)からカップ(Kapp)まで

 スパとは第1次大戦時ドイツの大本営があった場所のことである。カップは1920年のカップ一揆(Kapp-Putch)を示す。

 

 ドイツ帝国において将校団(The Officer Corps)は特権的地位を保持していた。

 あるフランス人は、「軍隊が国家を持っている」と評した。

 ナポレオン戦争後の1808年から始まるプロイセン軍事改革は、シャルンホルスト(Scharnhorst)とグナイゼナウ(Gneisenau)によって行われ、プロイセン将校団と参謀本部(General Staff)が誕生した。

 

 1810年、クラウゼヴィッツ(Clausewitz)はプロイセン軍事大学(War Academy)を創設した。

 以降、プロイセン国における軍の特権は階級は徐々に上昇していった。

 将校団は貴族からなり、プロイセン国王に忠誠を誓ったため、ドイツにおけるプロイセンの覇権に大きな影響を及ぼした。

 将校団はプロイセン国王すなわちドイツ皇帝の親衛隊(Paladin, praetorian guard)として機能した。非常時にはかれらは超法規的存在となった。また平時には、文民の法律の外にあり、軍法と名誉法廷(Court of Honour)に従った。

 

 1914年の第1次世界大戦勃発時、ドイツ将校団はクラウゼヴィッツによれば「独自の法規、慣習を持つ一種のギルド」であり、騎士団に類似していた。

 当初、ドイツ軍の最高指揮官であるウィルヘルム2世(Wilhelm2)は戦争大臣を無視し直接指揮統制を行った。ところが停滞と失敗が重なり直に力を失った。最後の人事権行使は1914年9月のモルトケ(Von Moltke)参謀総長更迭(後任ファルケンハイン(Falkenhayn))である。

 

 代わって、タンネンベルク(Tannenberg)とマズーリ湖(Masurian Lake)で戦果を上げたヒンデンブルク(Hindenburg)とルーデンドルフ(Ludendorff)が、ドイツにおける半神として浮上した。

 

 1916年、ウィルヘルム2世は各所の不満に屈し、ヒンデンブルクを帝国司令部の参謀総長ルーデンドルフを参謀次長に任命し、最高指揮をとらせた。やがてかれらの権限は国家のあらゆる部門に及んだが、外交や戦略など様々な箇所で失策を繰り返し、最終的に敗戦を招いた。

 

 新宰相マックス・フォン・バーデン(Max von Baden)による連合国との講和の際、皇帝と軍は、君主政の保持と軍の特権保持を画策したが見透かされた。

 

 1918年11月ドイツ革命の勃発により、皇帝は、君主制存続の為に自身が退位するという講和条件を拒否し、亡命した。ルーデンドルフスウェーデンに逃亡した。後にはドイツ軍最高司令官となったヒンデンブルクが残された。

 

 ワイマール共和国は、皇帝逃亡の混乱のなか成立した。

 リープクネヒト(Liebknecht)とルクセンブルク(Luxembourg)のスパルタクス団(Spartakusbund)がソヴィエト成立を宣言したため、穏健派である社会民主党SPDのシャイデマン(Scheidemann)は対抗して共和国成立を宣言し、統治をおこなった(人民委員会(People's Commissaries))。

 社民党エーベルト(Ebert)らは、過激派ボルシェビキが台頭するのを恐れ、1919年1月、スパルタクス団を鎮圧するためにドイツ軍を頼った。

 ルーデンドルフの後任グレーナー(Groener)は、国防相ノスケ(Noske)との協力により、将校団の特権保護のため共和国政府に忠誠を誓った。

 エーベルトスパルタクス団や独立社民党(The Independents)らの反乱を恐れ軍に依存した。エーベルトは、停戦後に残った義勇軍であるフライコール(The Free Corps)の公認を行った。

 1919年2月、ワイマール憲法が成立すると、軍は大統領と議会(Reichstag)によってコントロールされることになったが、同時に中央集権化が進んだ。

 

 連合国の提示した屈辱的な講和(ドイツの開戦責任、戦犯裁判、領土割譲、賠償金、軍の無力化など)をめぐって受入派と拒否派が対立した。戦時プロパガンダにより国民の多数は自分たちが革命と反乱によって敗れたと信じており大規模な抗議デモが発生した(Stab in the back「背後の一突き論」)。

 エーベルトがグレーナー(とその上司ヒンデンブルク)に意見を求めたところ、次のような回答を得た。

 

・講和案拒否は軍事的に不可能であり、連合軍の進駐や領土分割を招くだろう。

・拒否した場合ただちに左派(スパルタクス団、独立社民党)による内乱が起きるだろう。

 

 ヒンデンブルクの受け入れ容認により1919年6月ヴェルサイユ条約が成立した。以後、条約を受けいれた共和国派と右派・軍(軍の主力であるプロイセン将校は徹底抗戦を唱えていた)との対立は決定的となった。

 

 軍隊の10万人への削減が決まった後、元帥とグレーナーは退役し、フォン・ゼークト(Von Seeckt)が共和国軍の担い手となった。

 

 1920年、極右活動家ヴォルフガング・カップ(Kapp)とリュトヴィッツ将軍(Luttwitz)、ルーデンドルフがエアハルト海兵旅団(Ehrhardt Marine Brigade)を動員し一揆をおこしたが(Kapp-Putch)、何も計画しておらず、3日間でベルリンから逃げ出した。

 旅団が給料支払いを要求したところ、カップは銀行から奪えと言ったのでエアハルト大佐(Ehrhardt)は唖然とした。

 このとき兵務局長(Chief of Truppenamt)の地位にあったゼークトは軍による鎮圧を拒否した。エーベルトらはゼネストを呼びかけ事態を収束させたが、以後左派勢力が政治を脅かすようになった。
 

 カップ一揆の失敗は、軍国主義勢力に政権運営の計画が何もないことを露呈した。

 [つづく]

 

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

 

 

 ◆参考

 ゼークトの戦間期ドイツ軍改革については以下の本を参照。

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

 

 

またじとおもえば むらさめのそら

 ◆組織と文明について考える

 有名な組織論の本『学習する組織』で引用されていたバーバラ・タックマンの本。

 なぜ組織は硬直化し失敗するのかを学ぶことができるという。

 

 似た題材でこれもまだ未読なので買った。

 世界史系のベストセラーは日本語訳が高いものが多いと感じた。

Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed: Revised Edition

Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed: Revised Edition

  • 作者:Diamond, Jared
  • 発売日: 2011/01/04
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

 

 『学習する組織』で提示されている5つの原則は、わたしの解釈では以下のとおりである。

 本書には、具体的にこの方策を取れ、この制度を作れ、というような安易な小ネタは載っていない。しかし書かれていることは納得のいくものである。

 自〇隊において、バインダーを投げつけてきた上司、3時間直立不動で罵詈雑言を浴びせてきた上司、メンタルヘルス送りにした数を自慢してきた上司よりも、本書やコリン・パウエルネルソン・マンデラ、シュワルツコフの自伝のほうが参考になり、実際に役に立った。

 

・システム思考――物事の(表面的ではない)根本的な構造を理解する

・メンタル・モデル――既成概念や固定概念が、自身の行動を制限してしまう

・自己修養――学び続ける人間になる、また仲間をそのような人間にする

・共有ビジョン――共通のビジョンを持つチームを形成する

・チーム学習――個人が集まりチームとして相乗効果を発揮させる

 

 

 ◆大国の興亡

 AIの分野で中国はアメリカを抜いており、現在は米中が技術を競い合う状態となっている。

 本書は元マイクロソフト、グーグルに在籍していた有名なコンピュータ科学者の本である。

 

 なお、少し前に米軍指揮所のブリーフィングに通訳(という名目の助っ人)で参加したとき、米軍情報課の人間いわく「超音速技術でも中国は米国に対し優位に立っている」と報告していた。

 2国間の争いは古典的な軍拡競争に近くなってきたのではないかと考える。ただし中国はソ連と異なり、政治的な統制や言論弾圧を除くと、経済システムは日本よりも資本主義的という印象を受ける。

 

 無職戦闘員であっても、職場でどうやれば効率よく情報共有できるのか、他部署と連携できるのかを考えることがある。

 知識管理を勉強しようと本を買った。以下は古典だがこれまで読んでいなかった。

 

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 ◆人びと

 ヘイトスピーチに関する本を読んでいて引用されていたので買った。

 宗教的原理主義やナチズム、民族主義運動、共産主義運動にのめりこんでいく心理を分析した本である。

 日本語訳は、『創造の方法学』で有名な高根正昭氏だが、価格が高騰しているので中古の原書を買った。

The True Believer: Thoughts on the Nature of Mass Movements (Perennial Classics)

The True Believer: Thoughts on the Nature of Mass Movements (Perennial Classics)

  • 作者:Hoffer, Eric
  • 発売日: 2002/09/03
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

 

 ◆ものの考え方を勉強する

 どうすれば物事を考えられるのか、自分の望む自由な状態を手に入れられるのかが課題である。

 

創造の方法学 (講談社現代新書)

創造の方法学 (講談社現代新書)