うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『細川日記』細川護貞 その1

 近衛文麿の東条内閣倒閣運動に携わった役人の日記。

 第2次近衛内閣の首相秘書官、その後、天皇の弟高松宮の御用掛を務めた。

 息子には陶芸家の細川護熙がいる。

 

 高松宮殿下の令旨を受けた細川は、東条内閣下の様子や世界の情勢について情報収集するため、軍人や政治家等への聞き込みを開始する。

 近衛グループの一員として勤務したため、昭和天皇、近衛や広田弘毅に対する評価が中立でないことを考慮しなければならない。

 

  ***

 ◆所見

 繰り返される東条内閣へのテロに関する言及……途中、近衛らに対する、憲兵の捜査が迫っていると記載される箇所がある。

 しかし、この日記では東條内閣へのテロや暗殺の可能性が度々検討されており、憲兵に見つかれば間違いなく問題になったはずだ。よって、取締りは、著者にまでは届かなかったのではないか。

 

 国体護持について……近衛文麿高松宮に仕えているため、天皇制の維持こそが日本国の生存条件であると考えている。わたしには想像もつかないが、これが当時の日本指導者たちの一般的な認識である。

 著者自身も、「わが国民は英国民と異なり怠惰でずるい、愚かだ」という趣旨の記述を残している。

 

 東条おろしについて……東条英機に皆が不満を抱くが、なかなか失脚させることができず、戦況の悪化を待たなければならなかった。東条は退陣後あれこれと文句は言うが、完全に権力を掌握することができていない。

 

 敗戦についても、だれも貧乏くじをひきたくないがために、方針が定まらない。

 強力な独裁者が暴走したのではなく、監督不行き届き、職務怠慢の指揮官、一部の声の大きい人物らのもと、非合理的で無責任な人間たちが、大失敗を招いたという方が適切である。

 

  ***

 ◇昭和18年

 太平洋戦線の状況が悪化し、またドイツは来年までに敗北するだろうという予想がなされている。東条内閣への不満が各方面から聴こえてくるが、その批判者たちも戦争の行く末については今から見直すと楽観的である。

 

 海軍軍人や、海軍嘱託の学者らの視点。

・米英も苦しんでおり、太平洋で一撃を加えて講和に持ち込むことが可能だろう。

ソ連との友好を保ち、ドイツが破れてからも共同して米英に対処したい。

・日満支だけでは生き残れない。日本は共栄圏を維持しなければ滅びるだろう。

 

 特に印象的なのが軍・政府首脳において、「戦争目的が定まっていない」と繰り返される点である。戦争をしながら「戦争目的を明確にしなければならない」とは異様である。

 この本を読んでいたときはなんとアホな、と思ったが、その後『Obama's Wars』を読んで、オバマ大統領が長期化したアフガン戦争について全く同じ趣旨の発言をしているのを発見した。

 

高木惣吉少将は東条暗殺計画を立案した人物で、その後終戦工作に貢献した。

・酒井鎬次中将……近衛文麿らによる終戦工作に関与した。

 

  ***

 

 ◇昭和19年

 東条内閣を倒すことができない根本的な理由は、天皇が東条を信頼しているからである。著者は、天皇が正しい情報を伝えられていないことを心配する。

 合衆国は戦犯をどのように処罰するのか……たとえ昭和天皇個人が訴追または退位に追いやられても、皇室は守るべきである、と著者は主張する。

 

 テロの可能性は何度も取りざたされる。

 

 ――又テロの問題だが、最近は官吏軍人の中にも、公然テロがあることを云う者もある様だが、それは不謹慎だと思うし、又自由主義的な教育を受けた者にとって、テロが不愉快であることは明瞭なことだ。

 

・計画経済、統制経済への移行が進められるが、全体の資産は減少しつつある。

 ――昨今の世情は実に共産主義的なり。衣食住につきても皆ほとんど悪平等なり。過日の横須賀線の電車の二等を廃したるは兎も角として、三等の腰かけをはづしたるは如何なる意味なりや。之をはづしたりとも他に用途あるべき筈なく、又はづしたるが為、それだけ多く人を収容するを得るものにも非ず。実に不可解なること多し。

 

 「産業奉還」とは経済活動についても天皇の指揮下に組み入れることをいう。

 

 ――今日の世態は誠に奇態なり。すなわち戦争を学びたる軍人は銃後にありて政治経済に従事しおり、政治経済を勉強したる学生が交戦に従事しおる也。……借問す、是が総力戦の姿なりや。

 [つづく]

 

細川日記 上 改版   中公文庫 B 1-35 BIBLIO20世紀

細川日記 上 改版 中公文庫 B 1-35 BIBLIO20世紀

 
細川日記 下 改版 (中公文庫 B 1-36)

細川日記 下 改版 (中公文庫 B 1-36)

 
Obama's Wars (English Edition)

Obama's Wars (English Edition)

 

 

中二階の窓から

 僧侶が鐘を鳴らした。

 緑の草のすきまから、

 虫が飛び出し、藪のなかにいる

 小型の猫が声をだした

 

 かれらは、中二階の窓にひたいを

 押しつけて、頭上をにらみつける。

 

 僧侶たちの、黒い装備がはためき、

 ひげと帽子にはさまれた

 顔から、ぶどうのにおいが放射した。

 

 土を掘り、骨の積層の

 さらに奥までもぐった位置に、

 かれらはぶどう酒の泉をつくる。

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『暗殺国家ロシア』福田ますみ

 報道統制の進むロシアで調査報道を続ける「ノーバヤ・ガゼータ」を追う本。

 この新聞は元々、ソ連機関紙の1つだった「コムソモーリスカヤ・プラウダ」の記者たちが独立して設立したものだった。

 業績不振や権力からの圧力で危機に見舞われたが、現在もゴルバチョフを株主として刊行中である。

 エリツィン時代の守旧派クーデタ発生時に、どちらにも与しない中立的な報道が支持され、部数を伸ばした。

 

 ところが、チェチェン紛争をきっかけに、エリツィンはメディアの報道統制を進めた。

 プーチンはさらにその路線を進め、テレビは政権・治安機関、チェチェンについて批判的な報道を一切することができなくなった。

 活字メディアはまだ厳しく管理されていなかったが、「ノーバヤ・ガゼータ」の記事は権力者たちを怒らせ、ジャーナリストが次々に殺害される事態となった。

 

チェチェン紛争に関して、プーチン、軍、FSBは政府側の残虐行為を隠蔽した。

プーチンに忠実なチェチェン共和国ラムザン・カディロフ政権は、誘拐や拷問・殺人を繰り返し、部下の民兵たちに身代金ビジネスをさせた。カディロフに批判的な記者や活動家、市民が多数殺害された。

・ロシアでは地方の権力者がマフィアであることが多い。また、FSBはマフィアと協力することがある。ローカル・マフィアの汚職や腐敗を暴露した場合、ただちに殺し屋が派遣されることがある。

アンナ・ポリトコフスカヤチェチェンの事実を伝えようと努め、多くの人びとから支持されてきた。

 政治家やマフィア、警察、FSBによる暗殺、犯罪が蔓延しているが、かれらが法で裁かれることはほぼない。

 

  ***

 大部分の人びとにとって恐怖となるのはテロであり、イスラーム過激派である。

 国民の多くはプーチンを支持している。

 

 ――いや、ロシアの大部分のジャーナリストたちにとって、暗殺なんて別世界の話だ。なぜなら、政権にサービスするジャーナリストがほとんどだから。彼らには、高い報酬と安楽で快適な寝床が約束されている。それ以外の、権力批判を恐れない我々のようなほんの一握りの少数派だけが命を狙われているのだ。

 

  ***

 プーチンはメディア経営者や大株主に圧力をかけ、政府系企業や政府にメディアを独占させた。また、敵対する新興財閥を取り締まり、反対言論を封じた。ロシア経済を混乱させていた新興財閥の取り締まりによってプーチンは国民の支持を得た。

 

 ――……国粋主義、排外主義が吹き荒れるロシアで、ネオナチの犯罪を暴き自国の戦争犯罪被害者を助けようとする者は、圧倒的に少数派である。

 

  ***

 テレビジャーナリストだったカーネフは、テレビ業界にいられなくなり、「ノーバヤ・ガゼータ」に在籍している。

 

 ――そもそも、警察官も含めたロシアの公務員、官僚たちの汚職、贈収賄は今に始まったことではない。いわばソ連時代から続く悪弊で、「仕事をスムーズに回すための潤滑油」であり、「必要悪だ」と言い切る者さえいる。

 

 ところが、プーチン時代に入ると、汚職はいうに及ばず、ギャング団顔負けの悪質な犯罪が警察官の間に蔓延するようになる。これは、警察を始めとした治安省庁関係者(シロヴィキ)が、プーチン政権下で強い権限を握るようになったことと密接に関係している。

 旧KGBの諜報員出身であるプーチンは、大統領就任後、政権の中枢を旧KGB関係者で固め、内務省やその管理下の警察官僚、軍人なども優遇した。

 

  ***

 2004年9月に北オセチア自治共和国で発生したベスラン学校占拠事件では、政府による情報統制が行われ、不都合な事実が隠蔽された。

 

・人質の数は300人弱と報道されたが、実際には1200人を超えていた。

・特殊部隊は当初から突入を考えていた可能性が高い。そのため、人質の人数を少なく報道した。

・テロリストの要求を絶対に報道しないよう統制した。

・突入には戦車、燃料気化爆弾(シメーリ)が使われた。人質犠牲者の多くが、特殊部隊の攻撃によって生まれた。後の裁判で、政府側はこうした重火器、広範囲殺傷兵器の使用を認めた。なお、燃料気化爆弾は国際条約で禁じられており、ロシアも批准していた。

・遺族の会に対し、政府は当初、金銭やアパート等を与え懐柔しようとした。態度を変えない遺族に対しては恫喝や嫌がらせを行った。

 

  ***

 ――現在のロシアにおいて、リベラル派は圧倒的に少数である。それは、エリツィン時代、「リベラル派」を自称した政治家たちに国民が煮え湯を飲まされたからだ。自由で平等な社会の実現を約束した彼らが国民にもたらしたものは、混乱と無秩序、そして貧困であった。

 

  ***

 本書は特にロシア社会の暗い部分に注目しているが、なぜロシア国民の多くはは、いまもプーチンを熱烈に支持しているのだろうか。

 考えられる原因として……

・テレビ・インターネットを中心とした報道統制

・諦めと民主主義に対する幻滅

・強いロシア復活のイメージ

 このような社会で、命を危険にさらしながら報道を続ける人間たちは驚異である。

 経済的な独立、資金面での独立が、自由な言論に不可欠であることがわかる。同時にそれを達成するのは非常に困難である。

 

暗殺国家ロシア: 消されたジャーナリストを追う (新潮文庫)

暗殺国家ロシア: 消されたジャーナリストを追う (新潮文庫)

 

 

『チャーチル』河合秀和 その2

 5

 海相チャーチルは4人の海事卿(現役提督)とともに、海軍の組織改革に取り組んだ。参謀本部と海軍大学の設立、航空部隊の整備はこのときの成果である。

 かれは、今度は社会改革費を削り海軍増強費にあてろと主張した。

 仮想敵であるドイツ海軍は海外に植民地を持っていないため、艦隊はヨーロッパ周辺に配置された。

 

 アイルランド国民党が自治法案を要求したことで、アイルランド問題が再び持ち上がった。チャーチルはアルスターの分離案を提示したが支持されなかった。

 

 1914年8月に第1次世界大戦がはじまり、チャーチル海相として指揮をとった。しかし、15年に実施したダーダネルス作戦(ガリポリ上陸作戦)の失敗により、チャーチルは責任をとって辞職した。

 ロイド=ジョージ内閣では、閑職に就きつつ、戦車の重要性を訴えた。しかし、実権を与えられずに辞職した。ガリポリ作戦失敗によるチャーチルへの反感は強く、自由党政治家はかれを内閣に入れようとはしなかった。

 チャーチルは戦車の投入を訴え、成功した。

 

 6

 戦後、チャーチルは空軍相兼陸軍相となった。

 ロシア革命に続く反ソ干渉戦争において、チャーチルは白軍の支援を訴えた。白軍は敗北したが、これを期に、保守党がチャーチルの味方につき、労働党と労働運動が敵に回った。

 1921年には、陸軍相から植民相に移行した。ドイツ海軍を接収し、ドイツの植民地を委任統治領として継承したことで、大英帝国の領地は過去最大となった。しかし、帝国の統合はほころんでいた。

 アイルランド自由国条約により、アイルランドは自治領となり、アルスター(北アイルランド)は分離された。

 

 1924年、かれは反社会主義者、保守派として下院に当選・復帰し、保守党政治家となり、ボールドウィン内閣の蔵相となった。

 かれが実行した金本位制ケインズにより批判され、結果的には失策として考えられている。

 ダーダネルス作戦では専門家の意見を無視して失敗し、通貨制度では専門家の意見を聞き入れて失敗した。

 

 7

 1929年の労働党政権成立以後、チャーチルは10年間官職から離れた。

 

・インドの自治領化には反対した。「インドは統一の国家、民族ではない」とし、イギリスによる統治が不可欠だと考えた。かれはガンジーを批判した。

・かれはドイツの再軍備に反対した。間違いなく、フランスへの復讐を行うからである。平和の維持には、戦勝国の軍備強化が必要であると考えた。

ヒトラー政権への対抗のために、かれは空軍力増強を訴えた。

国際連盟の死……日本の満州事変、イタリアのエチオピア侵攻を黙認した。またスペイン内戦に対応せず、ドイツ軍のラインラント進駐を見過ごす等、その意義を失っていた。

 

・宥和政策……ヒトラー政権への対応:1936年のラインラント進駐、1938年のオーストリア併合。

 当時の国際情勢は、現在とは異なる見方が支配的だった。

 

 ――チェンバレン首相は……戦争を避けるために、またもし戦争が避けられないとしても敵国の数を減らすために、独伊を「宥和」しようとした。……イギリスには独伊日三国を同時に敵に回して戦う準備がなかった。この中でもちろんドイツの脅威がもっとも大きかったが、日本には強大な海軍力がある。そしてもしソ連が英仏側について参戦すれば、日本が独伊側につく惧れがあった。したがってソ連の協力は「助けというよりむしろ迷惑」である。……他方、アメリカには孤立主義が強く、チェンバレンの言うように「この方面からの援助を考察の基礎にするのは慌て者だ」ということになるであろう。

 

 1938年のミュンヘン会談は失敗とわかり、1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、翌月ポーランド侵攻が始まった。

 チェンバレンはなお外交努力を続けようとしたが、チャーチルら議会は宣戦布告を要求した。

 

 8

 ノルウェー作戦の失敗によりチェンバレンが辞職し、1940年、チャーチルがバッキンガム宮殿で組閣の大命を受けた。かれは労働党と左派をも味方につけ、あらゆる階級を含む、人民の戦争を戦おうとした。

 チャーチルは戦争指導に専念した。ドイツ軍の暗号は1941年には解読されており、チャーチルらは敵の動きを認識していた。

 現場の指揮官にはあまり裁量が与えられなかった。

 

・1940年、バトル・オブ・ブリテンにイギリスは勝利した。

・イギリスの力は空軍と海軍にあった。イギリス空軍は、ドイツへの戦略爆撃と無差別爆撃を実行したが、効果は低かった。

・イギリス軍はアフリカ戦線を展開したが失敗した。

チャーチルは、アメリカが参戦すればイギリスは勝てるだろうと考えていた。一方、アメリカの参戦によってイギリスの軍事的・経済的地位は低下した。武器貸与法は、イギリスの輸出国としての地位を終わらせた。

・アメリカの参戦後、舞台はアフリカに移った。モントゴメリーはロンメルのアフリカ軍団を破った。

ルーズベルトはイギリスに対して批判的な態度を持っており、特に帝国主義(インド支配)に反対した。

 連合軍のノルマンディ上陸からドイツ降伏以後、イギリスの地位は急速に低下していった。

 

 9

 1945年7月の総選挙で保守党は惨敗した。理由は諸説あるが、労働党への支持が戦時中増加し続けていたことによるようだ。

 チャーチルは野党の立場から反労働党、反社会主義を煽ったが、その指摘は外れていた。イングランド銀行の国有化、福祉政策、国民医療制度等は、国民の支持を得て実現し、その後も引き継がれた。

 

 かれはヨーロッパ合衆国を提唱したが、イギリス自体はそこから距離を置くべきと考えた。

 1950年、ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体が提案されたとき、労働党政権は交渉参加を拒否し、保守党も同意見だった。

 1951年から1955年まで、かれは再び首相の座についた。しかし、チャーチルの使命は終わり、イギリスも大国としての役割を完全に終えていた。

 チャーチルは1965年に死んだ。