うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『チャーチル』河合秀和 その1

 チャーチルは、最後の反革命帝国主義の政治家だった。かれは第2次世界大戦においてイギリスを勝利に導いたが、一方、かれが理想とした帝国は勝利の過程で解体していった。

 

 ◆メモ

チャーチルは社会改革にも関心を持っており、貧困者の救済や失業対策等、後の福祉国家制度の基盤をつくることにも貢献した。

・かれは政党を2度移り、また政治的見解もよく変わった。対独戦勝利後は、副首相アトリーら労働党を厳しく非難したため、党派的政治家とみられた。

・かれは大英帝国の地位が低下していくのを痛感していた。

・演説がうまく、また、もともと文筆家として名を挙げたこともあり本をよく書いた。

・貧困対策に力を入れる一方、ストライキには強硬に対応した。

 

  ***

 1

 初代モールブラ(マールバラ)公爵ジョン・チャーチル(1650~1722)……ウィンストンの息子ジョンは、軍人となる。かれは生命保険で財をなした後、名誉革命において立役者として活躍した。

 その後、スペイン継承戦争に参加した。

 この時代の政治は、王族・貴族たちの不倫と縁故、裏切りで動いていた。

 チャーチルの父ランドルフチャーチルの活躍と没落……チェンバレンとの関係、保守党における党内民主主義、梅毒と死。

 

 2

 チャーチルは多忙な両親とはあまり顔を合わせることなく成長し、寄宿学校(ハロー校)からサンダースト士官学校へ進んだ。しかし、親、特に父への尊敬は保たれた。

 

 ――当時、よい家柄の子弟に開かれている職業としては、聖職者と法律家と軍人とがあった。しかし、聖職者と法律家には古典語教育が必要であったから、ラテン語のできないウィンストンには軍人になることしか残されていなかった。

 

 ――歩兵将校は従卒の費用だけを自弁すればよいが、騎兵将校は馬の分も負担しなければならなかった。……将校に限らず、「国家のために奉仕する」名誉と義務を負ったイギリスの高級公務員にとって――おそらく1945年の労働党内閣の成立に至るまで――給料はいわば小遣い銭程度のもので、生計はもっぱら自前の資産に頼らねばならなかった。それだけに、自らの信念にしたがって自由に辞任することができたが、逆に恒産のないものはそのような職につくことを望めなかった。

 

 かれは騎兵将校として勤務を始めた。安楽で退屈な生活を送りながら、政治家への野心を抱き続けていた。

 スペインのキューバ戦争を観戦し、記事を投稿し報酬を得てから、軍人として働きつつ文筆業で資金を蓄えるようになった。

 インドでの懲罰作戦に従軍し、『マラカン野戦軍』という手記を出版し報酬を手に入れた。

 かれは、イギリスの前進政策は、限界を超える軍事的・経済的コストにつながるとしてこれを批判した。

 1899年、陸軍を退官して間もなく、新聞紙の特派員としてボーア戦争を取材し、捕虜となった。かれは収容所から脱走し、英雄として帰国した。また、2冊の手記を出版し、ベストセラーとなった。

 ボーア戦争に対しては、自由党のアスキス(元ローズベリー卿)は戦争を支持したが、ロイド=ジョージら自由党急進派は戦争に強く反対した。

 準備資金を得たチャーチルは、政治に参入することを決心した。

 

 3

 1900年、チャーチルは保守党から立候補し下院に当選した。かれは帝国と社会改革を重視した。

 かれは保守党の左派に位置しており、自由党帝国主義者……チェンバレンらと連携した。

 チャーチル自由貿易を基礎とする帝国を提唱し、保守党から自由党に移った。

 1905年、自由党の親ボーア派キャンベル=バナマン内閣において、植民次官に就任した。

 選挙時には、自由貿易を唱えることで、富裕層、穏健な中間階級、急進派の支持を得た。チャーチル自由貿易主義は、単に政治家としての出世の足がかりのためだったという説もある。

 南アフリカにおいては、イギリス人、ボーア人を平等に扱う統治を推進した。

 

 ――しかし同時に見落としてはならないことは、こうして植民地の経営を現地の白人の自治にゆだねることによって、現地の黒人の権利が完全に無視され、今日の悪名高い人種隔離政策への道を開いたことであった。また黒人の権利と並んで、植民地経営のためのいわば下士官、兵士として導入されていたアジア人、特にインド人と中国人の権利も無視されることになった。

 

 あわせて、中国人労働者が収容所に詰め込まれている現状についても解消した。

 

 チャーチルは社会改革に意欲をもっており、自由放任の原理と合わせて、最底辺をいかに救済するかについて考えていた。かれはドイツを視察し、労働交換所(職業安定所)の設立を検討した。後の閣僚再編成時、かれは次のとおり課題を掲げた。

・年少者の職業訓練

・少年搾取の禁止

・除隊兵士への職業訓練

・労働交換所

・労働時間の規制

 

 1908年、心臓まひで倒れたキャンベル=バナマンに代わり、蔵相アスキスが内閣を編成した。チャーチルは商務長官となった。

 

 4

 かれは商務長官として失業対策・雇用やストライキの問題に取り組んだ。

 

 ――社会改革におけるチャーチルの基本原則は、これまたすでに述べたように、「取り残された数百万の人びと」のために最低限の生活と労働の基準を設けることであった。

 

 賃金法や労働交換所の設置によって、後の福祉国家体制の基礎が築かれた。

 当時、ドイツとの対立が深まり、建艦計画が進められていたが、チャーチルとロイド=ジョージはこれに反対した。

 1910年には内相に昇格した。

行刑制度の改革……刑務所、収容所の改善

ストライキ対策……人命を尊重し、いかに法と秩序を維持するか

 

 ――……いかに「人民の代表」であると唱えていても、政治家には権力の行使に直接参画しているという事実によって、具体的に人民を支配するという立場に立たざるを得ない。その時、人民にいかに対処するかについては、二人の間に大きな違いがあった。チャーチルは、労働運動の挑戦に直面させられると、まず態度を硬直させ、一歩も譲ろうとしなかった。……それに対してロイド=ジョージは、挑戦を受けるとまず柔らかく受け入れた。

 

 やがて、かれはイギリス海軍の立ち遅れを訴えた覚書を提出し、海相に就任した。

 「つづく」

 

 

『アメリカ黒人の歴史』本田創造

 合衆国に現在約4000万人いるアフリカ系アメリカ人の歴史について。

 

 「黒人」は、人種・血統的であるとともに、政治的なカテゴリーでもある。血統に1人でも黒人が混じっている場合、その人物は白人ではなく黒人として扱われる。

 

 ◆メモ

 アメリカ人たちの作業場で、Youtubeで警官の使用する銃(口径と制圧力の関係)について検索していたときに、警官が路上で撃たれる動画がずらりと出てきた。ある人物がジョークで「アメリカで警官になると射殺される」とコメントした。すると別の人物は「たぶんアメリカで黒人になるともっと射殺される」と反応した。

 人種差別問題は合衆国を形作る本質の1つだと感じた。

 

 ◆所見

 合衆国における黒人の苦難の歴史をたどる。

 特に、奴隷廃止運動や、差別撤廃運動、公民権運動に重点が置かれている。独立革命での黒人の役割等、重要な歴史的事実を知ることができる。

 著者は独特の思想を持っており、全編が思想に彩られている。著者によれば黒人奴隷制度や黒人差別は、アメリカ資本主義の根幹をなす構造である。

 

 

 ――したがって、こんにちのアメリカ「黒人問題」の本質は、……階級の問題と考えるべきである。

 

 マルクス主義を中心に黒人問題をとらえているため、他の視点から書かれた本についても調べる必要がある。

 著者の文章は所々で講談師のようになり、名言を引用する。

 

 1

 1619年、イギリス植民地であるヴァージニア州ジェームズタウンにに初めて黒人奴隷が輸入された。これは、植民者が自治のための代議院を開設したのと同年である。

 初期の植民者は煙草の栽培を行った。

 奴隷の歴史は古いが、ポルトガルが黒人奴隷貿易を開始して以来、アフリカ、西インド諸島、アメリカという三角貿易が栄えた。特に新大陸とアフリカを結ぶ「中間航路middle passage」が有名である。

 当初、黒人奴隷よりも、白人の年期奉公人(indentured servant)(実態は、賃金奴隷に近い)の方が数が多かったが、雇用期間が決まっているのと、逃亡や抵抗が発生したのを理由に、やがて黒人奴隷を増やすことになった。

 

 2

 1775年、植民地からの独立が達成された。このとき、自由黒人や黒人奴隷たちも独立側に立ち戦った。一方、イギリス側も、黒人に自由を約束し参戦させた。

 しかし「自由と平等と幸福」は黒人、先住民たちには適用されなかった。

 トマス・ジェファソンは、独立宣言において奴隷制の撤廃に言及しようとしたが、かなわなかった。

 北部の商業資本家と南部のプランター寡頭権力とが妥協し、奴隷制は温存された。

 

 ――フランス革命にさきがけて、自由と平等を旗印に掲げて民主主義革命を行い民主共和国になったこの国は、その生誕の過程で、またもや最も非民主主義的な奴隷制度を、憲法によって容認することになった。

 

 1777年以降、奴隷制反対運動が盛んになり、奴隷制を廃止する州が増えた。

 

 3

 南部では綿花、タバコ、米、砂糖等の産業において、プランテーション奴隷制度が導入された。

 奴隷制度の勤務形態……割り当て制度と組制度(ギャング・システム)。

 

 4

 奴隷制度廃止運動について。

・アボリショニスム……クェーカー教徒や建国の父らによる漸進的奴隷解放論から、奴隷制の即時廃止運動への転換。

 ウィリアム・ロイド・ガリソン

 フレデリック・ダグラス

 一部では、黒人をアフリカに帰すという運動も起こったが、主流とはならなかった。解放奴隷がアフリカに建てた国がリベリアである。

 南部の奴隷を、北部やカナダに避難させる「地下鉄道」組織について。

 1850年代、共和党奴隷制度反対党として誕生し、後の共和党となった。

 

 5

 奴隷制廃止論者のリンカンが1860年大統領に当選すると、間もなくサウスカロライナ州をはじめとして連邦からの分離を宣言する州が続いた。

 1861年4月、サムター要塞を南軍が攻撃し南北戦争が始まった。

・1863年1月 奴隷解放令公布

・1863年7月 ゲティスバーグの戦い

・1865年4月 リッチモンド陥落、一週間後、南軍リー将軍がグラント将軍に降伏

 

 6

 南北戦争後、南部の立て直し、「リコンストラクション」が行われた。しかし、殺されたリンカンに代わって大統領となったアンドリュー・ジョンソンは南部出身であり、リンカンとは対照的な政策をとった。

 黒人差別と迫害は逆に増大し、人種主義者によるテロが横行した。

 

 7

 近代黒人解放運動……

・ブッカー・T・ワシントン

・デュボイス

 

 8

 公民権運動について。

 1964年、ジョンソン大統領が成立させた公民権法により、黒人に対する法的な差別は撤廃された。

 しかし、各州における人種差別法は温存され、その後も運動は続いた。

・ジム・クロウ法……公共施設における人種制限

 

 9

 10

 現代にいたるまでの黒人差別の歴史について

 (略)

 

  ***

 黒人解放の歴史は、法によって定められた人種差別をどのように修正していくかという運動の歴史である。人種差別撤廃運動において、最高裁判決がしばしば主題として取り上げられる。

 法自体が間違っている場合、それを撤廃し公正に近づけるには、国民による運動が重要となる。

 

  ***

 主に南部を中心に、州知事以下政治家や市民が一丸となって黒人差別を支持していた。

 民主主義においては、多数が不公正を望めば不公正な社会が実現する。

 

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

 

 

粘土人形制作 ウンゲルン1号 その2

 前回から少し間が空きましたが引き続き呪いの人形制作過程を投稿します。

 

 2 大まかな成型

 針金とアルミホイルを芯材にして、その上に石粉粘土をつけていきました。

 要領がよくわからず水をつけすぎ、また芯材を盛りすぎたのでだいぶ肥大化しました。

 水で柔らかくなったので顔などもうまくつくれませんでした。

 横のスターリンジョージア共和国で買ったおみやげです。

 腕は後付けしているようなのでいったん作った後もぎとりました。

 これを1日放置して乾燥させました。

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 3 髪の毛、衣裳、細かい顔の整形

 前項の土偶の時点でかなりやる気がなくなっていましたが、そのまま放置してもしょうがないので肉付けを行いました。

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 体のバランスは悪いですが髪の毛、ひげ、衣裳(モンゴル民族衣裳)の下半身部分は思ったよりはうまくできました。

 粘土でのやり方はほとんどYoutubeを参考にしています。

 足のバランスが悪く、なかなか自立しません。

 この後、両腕をつけるのに苦労し、左右で大きさの違う不自然な腕が装着されます。

 

 [つづく]

『隷属への道』ハイエク その2

  ***

 経済活動を計画化することは、必然的に人間の全生活の規制と抑圧につながる。

 

 ――……人びとは往々にして、政治的独裁を毛嫌いしつつも経済分野における独裁者を求めるのである。

 

 ハイエクは、市場原理と競争が全てを解決すると考えているわけではない。

 独占や不正、過度の貧困を抑制するために、消極的な規制をかけることはもちろん必要である。

 人類が獲得してきた自由と民主主義は私有財産制によって獲得されたものであり、私有財産制がなくなればどちらも消える。

 

  ***

 全体主義社会主義から生まれた。

 

 ――実際、ドイツやイタリアにおいて、ナチスファシストは多くのものを発明する必要はなかった。生活のあらゆる側面に浸透していくこの新手の政治的教化運動は、すでに両国では社会主義者によって実践されていたのである。すなわち、1つの政党が、「揺り籠から墓場まで」個人のすべての活動を面倒見、すべての考えを指導しようとし、すべての問題を「党の世界観」の問題とすることを欲する、という理念は、社会主義者によって最初に実践されたものなのである。

 

  ***

 所得保障の問題……

 格差を過度に是正し、所得保障を行うということは、その分だれかが不公平に税金を取られ、活動を制限されることを意味する。

 

 ――軍隊的組織が社会の一部分としてのみ存在する時は、その構成員の不自由は絶対的なものとはならない。もし制約に耐えがたくなったら戻っていける自由な領域が依然として存在するからである。だが、もし、かくも多くの社会主義者を魅了してきた理想のごとく、社会全体が単一の巨大工場のように組織された時どのようなことになるかを知りたいならば、古代のスパルタか、それとも、この50年から100年の間その道を進み続け、ついにほとんどその理想を達成した現在のドイツを見ればよい。

 

 上から物事を決める官僚主義が生活の多くを占めた場合、人びとは自由よりも隷属的な地位と保障を選ぶようになるだろう。

 公務員が賞賛され、自由業や起業が見下される社会になるだろう。

 

 ベンジャミン・フランクリンの言葉。

 

 ――ほんのしばらくの安全を手に入れるために、本質的で不可欠な自由を放棄してしまう人びとは、自由も安全も持つ資格がない。

 

  ***

 全体主義は、組織の目的のために道徳を無効化し、また真実を歪める。目的がすべてを正当化するため、必然的に、最悪の人物や集団が支配者になってしまう。教育、科学を含むあらゆる分野が権力によって抑圧される。

 「哲人が中央当局になれば、良い計画経済・計画社会が実現する」というのは夢想であり、権力を掌握するのは手段を選ばない者たちである。

 

 英国や、スイス、オランダが持っていた自由主義的、個人主義的な美徳について。

 

 ――……個人の自主独立性や自立の精神、あるいは個人的なイニシアティヴやそれぞれの地域社会への責任感、様々な問題をうまく解決しうる個人の自発的な活動に対する信頼、隣人に対する不干渉、普通と異なっていたり風変りな人びとに対する寛容、習慣や伝統に対する尊敬、権力や政府当局への健全な猜疑心、などといったところである。

 

  ***

 ハイエクは、戦争の災厄を避けるためには連邦制が必要と考える。諸国家を統合するような権力は、間違いなく自由の消滅をひきおこすだろう。求められるのは、諸国家を規制するが、その主権を制限しないような、とても都合のよい権力機関である。

 このような国際機関が実現するかどうかは大変難しい問題である。

 

  ***

 

 ◆メモ

 ハイエクリバタリアニズム自由至上主義)の思想家に分類されるという。

 経済学分野での業績もあるというのでこちらもいずれ読みたい(勉強が必要だが)。 

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】