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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856』Trevor Royle その1 ――ボロボロのイギリス軍

 クリミア戦争は、外交・軍事における多くの惨めな失敗とともに、多くの英雄(ナイチンゲールなど)を生んだ戦争ともいわれる。

 ナポレオン戦争から第1次大戦へと通じる総力戦の原点であり、また東方問題は20世紀の戦争に引き継がれていく。

 

 本書ではクリミア戦争をめぐる各国の政治的な動きや、個々の作戦について細かく知ることができる。現代の戦争と全く異なる部分もあれば、現代と変わらない部分もある。

 

 クリミア戦争に関する書籍は、Trevor Royleによる本書の他、Orlando Figes氏の著作がよく読まれているようだ。

The Crimean War: A History

The Crimean War: A History

 

 

 

 ◆所見

 主にイギリスを中心に書かれている。同様に、他の参戦国についてもわかりやすく説明する。

 戦争はロシアの後進性だけでなくイギリス軍の機能不全も浮き彫りにした。

 クリミア戦争におけるイギリス軍の装備の貧弱さ、練度の低さは際立っている。ナポレオン戦争における勝利から50年もたてば、軍の能力はまったく変わってしまうということがわかる。

 

・各国の市民は、新聞報道にくぎ付けになり、また開戦時には熱狂した。ナポレオン戦争は遠い昔の話になり、人びとは英雄譚や気持ちの良い勝利を熱望していた。

・組織は、末端に責任を押し付ける傾向がある。この戦争では、遠征軍司令官ラグランが生贄となり、大臣らが、政策上の問題である補給の不備をラグラン将軍に責任転嫁した。

・イギリスは戦後処理で優位に立つため、自分たちが軍事的功績をあげるまで停戦に反対した。こうした思考がかえって戦争を長引かせた。

・死者の割合は戦死よりも病死が圧倒的だった。

 

 クリミア戦争をきっかけに生まれた言葉や服装が、今も文化の中に残されている。

・ラグラン(ラグランシャツは、ワーテルローで隻腕となった将軍が着られるようにつくられた)

・カーディガン卿(James Brudenell, 負傷者が着やすいように開発)

バラクラバ(防寒対策の目出し帽)

シン・レッド・ライン(Thin Red Line)……元はイギリス軍騎兵隊の防衛線を指す。

 ・ナイチンゲールの登場

 

  ***

 序章

 1851年の情勢……

・イギリスは植民地帝国の最盛期にあった。

・フランスは1848年の革命以来、社会の不安定に悩まされていた。ナポレオン3世Napoleon 3は大統領となった後、軍の一部とカトリックを基盤にクーデタを決行、国民議会Assemblyを解散した。国民議会はナポレオン3世をよく思わない共和派が多かったためである。

 大統領はシャンガルニエChangarnier将軍を解任し、ド・サン=タルノーde Saint-Arnaud将軍を戦争相に据えた。

・ロシアはニコライ1世Nicholas 1の圧政の下、後進性に苦しんでいた。皇帝はトルコとの戦争やコーカサス戦争により拡大を続けたが、甥のアレクサンドルAlexander(後の2世)は、コーカサスに従軍し、ロシア軍の非効率性と時代錯誤に気が付いていた。

オスマン帝国Ottoman Empireは長らく病人Sick manと称されており、官僚制と専制により衰退を続けていた。トルコの衰退はバルカンのナショナリズムを勃興させ、東方問題Eastern Questionの原因となっていた。

 

 

  ***
 1部

 1 教区委員Churchwardenの口論

 聖地イェルサレムの管理権をめぐる露仏の争いが、クリミア戦争の原因の1つである。

 東西教会の分裂後、ローマ・カトリックギリシア正教は長く抗争を続けた。オスマン帝国ビザンツByzantium, Constantinopleを占領してからは、ロシアが正教会の守護者となった。

 オスマン帝国占領後も、イェルサレムの聖地――ベツレヘム降誕教会Nativity in Bethlehem、聖墳墓教会Church of Holy Sepulchreなど――はキリスト教国によって管理されていた。

 

 

 ロシアとオスマン帝国・英仏は、イェルサレムの聖地管理権をめぐって対立した。

 

 

 2 メンシコフMenshikovの使命

 ニコライ1世はネッセルローデ首相に命じ、コンスタンティノープルに元軍人メンシコフを派遣した。

 1853年3月、メンシコフはトルコ宰相に対し、聖地管理権と正教徒保護の権利を含む高圧的な要求(The Sened請求書)を突きつけた。

 一方、英外相クラレンドン伯爵は、トルコ経験の長い外交官ストラトフォードStratford Canningを派遣し、事態を鎮静化させようと試みた。

 コンスタンティノープルでは、オスマン軍の顧問ヒュー・ローズ大佐Colonel Hugh Roseがトルコの内情を報告していた。

 オスマン帝国は、ニコライ1世の高圧的な要求に対しても、英仏が支援をするだろうと確信し、メンシコフの要求を拒絶した。このことはニコライ1世を激怒させた。

 

 3 深水へ

 1853年5月、ニコライ1世はオスマン帝国に対し、満足のいく回答が来なければ軍を前進させると通告した。

 ニコライはロシア南方軍をワラキアWallachia、モルダヴィアMoldavia公国Principalities(当時、オスマン帝国の保護下にあった)に進駐させることを決定した。

 対抗しイギリスはジェイムズ・ダンダス提督Sir James Whitley Dundasの艦隊をダーダネルス海峡Dardanellesの入り口ベシカ湾Besika Bayに前進させた。

 クラレンドン外相はストラトフォードを通じて、外交的解決を追求しなければならなかった。

 

 4 千と一の覚書

 オーストリア外相ブオル=シャウエンシュタインBuol-Schauensteinの呼びかけにより英仏担当者が集まり、トルコに対し、ロシアの要求をある程度受け入れるべきである、とするウィーン覚書Vienna Noteを作成した。英仏は、トルコに対し覚書を受け入れるよう促した。

 ところが、ロシアも当初は了解したこの覚書を、トルコ側は拒絶した。

 

 5 まやかし戦争Phoney War

 ロシア軍がドナウ沿岸The Danubeに進軍し、トルコ軍もこれに備えた。英仏は外交的解決を模索するがうまくいかず、ロシア、トルコ双方の態度は硬化していった。

 

 6 シノーペSinopeの事件

 ロシア軍は兵の充足率が偏っており、銃は時代遅れのフリントロック式だった。さらにサンクトペテルブルクと、ワルシャワWarsaw司令部のパシュケヴィチ公Prince Paskevich、そしてコーカサスやドナウの前線とのあいだには悪路しかなく、通信がしばしば遅延した。

 緒戦においてコーカサスのロシア軍は勝利をおさめた。しかし、事態を決定的に悪化させたのは1853年11月末のシノーペの戦いである。

 ロシア海軍ナヒーモフ艦隊Nakhimovはオスマン・パシャ提督Admiral Osman Pasha率いる艦隊を黒海のシノーペ湾で壊滅させた。オスマン艦隊はバトゥミBatoumにおいて補給を行おうとしており、正当な軍事目標だったが、英仏の報道では、この戦いは虐殺Massacreと喧伝された。

 

 世論はロシアに対する強硬手段を支持したため、首相はこれに逆らうことができなかった。

 英国では、新聞タイムズThe Timesが政府要人とのパイプを持ち、反露主義、対決姿勢へと世論を煽った。シノーペの海戦の後も、タイムズは好戦的な記事を連発した。

 

 7 戦争へのなだれこみ

 1854年1月にはダンダス艦隊が黒海に進入し、英仏連合艦隊がボスフォラス海峡を通過した。英仏は、ロシア艦隊に対し、セバストポリに留まるよう要求した。

 

 ところが、イギリス軍の状況は陸海ともにひどい有様だった。

 

 英陸軍の状況……ナポレオン戦争以来、人員不足と練度低下に苦しんでいた。充足率が低く、ならず者や落伍者が入隊した。兵隊たちはアルコール中毒に苦しみ、泥酔して呼集に応じることもできない有様だった。

 英陸軍10万人のうち、20000はインドに、32000は他の植民地にいた。本国に45000しかいなかった。またインドには競合する東インド会社軍がいた。

 高官たちはナポレオン戦争の英雄ウェリントン公爵Duke Wellington(1852年死亡)を筆頭に、老人たちが占めていた。

 かれらは近代戦の知識に乏しく、軍制改革を停滞させていた。

 

 フランス陸軍……英軍と類似の情況だが、アルジェリア戦争を通じて、低強度紛争などの近代戦を経験していた。

 一方、英仏からは、汚職と同性愛で腐敗しているとみなされていたオスマン軍だが、精鋭もいた。オマル・パシャOmar Pasha率いるボスニアアルバニアブルガリア軍は高練度の傭兵からなった。

 

 1854年2月27日、クラレンドン外相はネッセルローデ首相に対し最後通牒を送った。

 

 8 われらの美しい守備隊

 ニコライ1世は、最後までアバディーン首相がロシアに対し戦争をおこなうとは考えていなかったようである。

 開戦と同時に、イギリス全土は熱狂と多幸感に包まれた。ナポレオン戦争以来ということで人びとは街頭に出てレッドコートRedcoatsたちを見送った。

 ※ 海軍はブルージャケットBluejacketと呼ばれた。

 

 

 英海軍は久々の戦争だった。

 ネイピア中将Vice Admiralが自分の艦隊を見たときは、惨憺たる気分になったという。

 水兵がまったく足りず、漁師や民間の船乗りをかき集め、またデンマークスウェーデンでも水兵を調達した。

 

 ――戦艦モナークHMS Monarchは最良の臨戦態勢にあった。この船は海に出るべきではなかった。

 ※ これはイギリス人の皮肉である。舟のなかに8人しか動ける水兵がおらず、ほぼ全乗組員が老人だった。

 

 コンスタンティノープルに向かう遠征部隊のなかには、家柄だけで選ばれた無能な指揮官が多数指名されていた。しかし、中にはウィリアム・エアWilliam Eyre、コリン・キャンベルColin Campbell、J.L.ペンネファザーJ.L.Pennefatherなど有能な将校もいた。

 

 [つづく]

 

CRIMEA: The Great Crimean War, 1854-1856

CRIMEA: The Great Crimean War, 1854-1856